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ポルトガルの世界遺産 |
解 説 |
関連写真・紀行文
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リスボンの ジェロニモス修道院と ベレンの塔
文化遺産(1983年)
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エンリケ王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を称えて建立されたジェロニモス修道院は、
マヌエル様式の最高傑作ともいわれ、ポルトガル黄金期を象徴する建物である。
エンリケ王子が建てた礼拝堂の跡地にマヌエル1世が1502年に着工した。
マヌエル様式を代表するこの壮麗な建物は、海外からもたらされた富によって建てられた。
マヌエル様式の極致であり、ボイタック、カスティーリョなど著名な建築家が参加している。
大航海時代の栄華を反映させた修道院といえる。
ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓及び、エンリケ航海王子の偉業を称え1502年にマヌエル1世によって着工され、
1511年に回廊など大部分が完成したものの、その後、マヌエル1世の死やスペインとポルトガルの同君連合による中断等もあり、最終的な完成には300年ほどかかっている。
その建築資金は最初バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、その後も香辛料貿易による利益によって賄われた。
聖ヒエロニムスにあやかったヒエロニムス会の修道院で、現在につながる本格的な建設はディオゴ・ボイタクが指揮をした1502年以降のことである。ボイタクに建設を命じたのはポルトガル王マヌエル1世で、その目的にはエンリケ航海王子の業績を称揚する意図などが込められていた。
ボイタクが指揮を執ったのは1516年までで、それを引き継いだのはジョアン・デ・カスティーリョである。
カスティーリョは1551年に没したが、その年にジェロニモス修道院の建築は主要部分の完成を見た。
その後も増築などが行われ、19世紀にようやく現存する形に落ち着いた。
レース細工のような繊細な彫刻が美しい南門は、スペイン人建築家ジョアン・デ・カスティーニョによって1518年に造られた。
聖母マリア像を中心に、24人の聖人や高位聖職者の像が造られている。
上部中央にはエンリケ王子の像が置かれ、また楯型壁には聖ジェロニモスの生涯が描かれている。
礼拝堂の入口付近には、この国の二人の英雄の墓がある。
右手は航海者のヴァスコ・ダ・ガマ、左手は詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイス。
以前に王家の霊廟だったのはバターリャ修道院だが、ジェロニモス修道院が出来てからはそちらが王家の霊廟となった。
この結果、マヌエル1世もジェロニモス修道院に葬られている。
著名な人士ではほかにヴァスコ・ダ・ガマ、詩人ルイス・デ・カモンイス、作家フェルナンド・ペッソアらの棺も、この修道院に安置されている。
修道院の回廊の1階は、フランス人建築家ボイタック、2階はその死後に建設を引き継いだジョアン・デ・カスティーニョが手がけた。
完成度の高さからマヌエル様式の最高傑作だといわれる。
上段も下段も天井が高い。
イスラム風のアラベスク建築の影響を感じさせる。
柱などを隙間なく装飾している具象彫刻が圧倒される。
大理石に掘られた彫刻は、鎖、縄の結び目、波、珊瑚、海草、異国の彫刻や植物など。
極めて詳細かつリアルに描かれている。
マヌエル1世に時代に完成した様式がこの回廊にすべて凝縮されている。
修道院のサンタ・マリア教会は、身廊とふたつの側廊から成る三廊式である。
天に向かってそびえる柱は、ヤシの木を模したといわれ、海をモチーフにした模様が刻まれている。
サンタ・マリア教会の西門から入ってすぐの所に、ヴァスコ・ダ・ガマとルイス・デ・カモンイスの棺が安置されている。
ベレンの塔はテージョ河口に浮かぶ要塞である。
16世紀初め、マヌエル1世の命により船の出入りを監視する要塞として建てられた。
正式名は「サン・ヴィセンテの塔」、建造は1515年から1521年にかけてのことで、指揮したのはフランシスコ・デ・アルダであった。
ジェロニモス修道院と同じく、建設を命じたのはマヌエル1世である。
ヴァスコ・ダ・ガマの業績をたたえる目的をこめた灯台だが、テージョ川河口を見張る要塞としての機能も備えていた。
当時のリスボンでは、英国やオランダの海賊に対する備えが必要だったのである。
1755年にリスボンを襲った大地震では多くの建物が被災したが、ジェロニモス修道院とベレンの塔があるベレン地区は難を逃れ、さして損壊を被らなかった。
ただし、その地震で川の流れが変わったことで、ベレンの塔は中洲から川岸へと、位置関係を変えた。
航海に関する事物をモチーフとした装飾があしらわれたマヌエル様式建築の傑作のひとつで、作家司馬遼太郎はその優雅さをは貴婦人がドレスの裾を広げている姿にたとえ「テージョ川の貴婦人」と評した。
いずれもかつて新大陸に向けて船が出港したリスボンのベレン地区にある。 |
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アルコバサの サンタ・マリア修道院
文化遺産(1989年)
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ポルトガル建国の祖アフォンソ・エンリケスがレコンキスタ(国土復活戦争)に貢献した
シトー修道会に感謝し、1152年に建立。シトー派の精神を反映した質素な修道院内には、
悲恋の主人公をして知られるペドロとイネスの棺が安置されている。
ポルトガルの宗教建築物で最も重要だといわれるサンタ・マリア・デ・アルコバサ修道院は、
ポルトガルを建国したアフォンソ・エンリケス1世がイスラム軍との戦勝に感謝し1178年に建造した、
簡素・簡潔を基本とするシトー派の修道院で、正面の幅が221mもありポルトガル最大の規模。
建築は、ロマネスクからゴシックへの過渡期の様式。
勇敢王といわれたアフォンソ4世の子で、14世紀の国王であったペドロ1世と姫コンスタンサの侍女イネスとの悲恋物語は有名であるが、
この二人の葬られた一対の石棺がマヌエル様式の礼拝堂に安置されている。
この石棺には、繊細で美しい装飾彫刻が施され、ポルトガル・ゴシック芸術の最高傑作といわれている。 |
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バターリャの修道院
文化遺産(1983年)
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正式名は、「勝利の聖母マリア修道院」である。
バターリャ近郊のアルジュバロータ(Aljubarroda)で1385年8月14日、
王位を狙って攻め入ってきたカスティーリャ軍をジョアン1世率いるポルトガル軍が打ち破った。
スペインに対して、ポルトガルの独立を守る、歴史に残る戦いであった。
聖母マリアに感謝を捧げるため、ジョアン1世が修道院の建立に着手したのは、1388年のことである。
アルジュバロータの戦いでカスティーリャ王国を打ち破ったジョアン1世が、
勝利を聖母マリアに感謝して1388年に着工。その後、代々の王に引き継がれた。
ゴシック様式とマヌエル様式が入り混じった、ポルトガル独立を象徴する壮大な修道院だ。 |
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トマールの キリスト修道院
文化遺産(1983年)
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レコンキスタの功績により土地の寄進を受けたテンプル騎士団が12世紀に建立。
14世紀以降はキリスト騎士団に引き継がれ、エンリケ航海王子の団長時代に最盛期を迎えた。
5世紀にわたり増改築がおこなわれたため、さまざまな建築様式が見られる。
12世紀に建設された円堂は、外側から見ると16角形の構造をしており、鐘楼をあわせて持つ。
円堂の内部は、8角形の構造をしており、周歩回廊へとつながるアーチと結ばれている。
前述のように、円堂は、エルサレムのオマール・モスクや聖墳墓教会をモデルとしたロマネスク建築である。
柱頭は、ロマネスク様式の性格を色濃く残しており、植物と動物のモチーフを描写している。
柱頭の様式は、同時代に建設されたコインブラの旧大聖堂の影響を受けている。
円堂内部は、ゴシック様式/マヌエル様式の彫刻と絵画で飾られており、増築は、1499年にマヌエル1世が命じた。
中央部の8角柱と周歩回廊の壁面は、ゴシック様式の天蓋で覆われた聖者と天使の彫像で彩られ、一方で、
キリストの一生涯を描写したゴシック様式の絵画とパネルで周歩回廊の壁と天井は彩られた。 |
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コア渓谷の 先史時代の岩壁画
文化遺産(1998年) |
ドウロ川支流のコア渓谷で発見された、旧石器時代の岩絵群。
おもに動物をモチーフにした壁画が、野外の垂直に切り立った岩に描かれている。
その規模を保存状態のよさから「世界で最も大きな野外博物館」と呼ばれ、現在も発掘調査が続いている。 |
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シントラの 文化的景観
文化遺産(1995年)
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かつてイギリスの詩人バイロンが「エデンの園」と呼んだシントラ。
緑豊かな自然と美しい町並みのため、古くから王侯貴族たちに愛されてきた。
シントラ王宮は、14世紀にジョアン1世によって建てられた夏の離宮。
イスラム教徒が残した建物をディニス王が居城とし、14世紀にはジョアン1世が増改築を行った。
ムデハル、ゴシック、マヌエル、ルネッサンスなどの多彩な建築様式が見られる。
ペーナ宮殿は、マリア2世の王フェルナンド2世が建設した。ドイツから建築家を呼び寄せ1885年に完成した。
イスラム、ゴシック、ルネッサンス、マヌエルなどの各様式の寄せ集めではあるがそれが奇妙な魅力を生んでいる。
ムーアの城跡は、7から8世紀にムーア人によって建設された。
1147年にアフォンソ・エンリケスにより落城され、その後修復されたが、現在は、廃墟のようになっている。
天気が良ければ、城壁の塔からシントラの町と大西洋が望める。
レガレイラ宮殿は、12世紀に建設された王族の別邸を利用して、20世紀前半に、イタリアの建築家ルイージ・マニーニによって改築された宮殿。
レガレイラ宮殿の庭園には、深さ60mほどのらせん階段や洞窟が造られている。
随所に錬金術やテンプル騎士団のシンボルが施されている。
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ポルト歴史地区
文化遺産(1996年)
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リスボンから北へ約300km、ドウロ川の北岸の丘陵地に築かれた、起伏の多い街である。
坂の多さはリスボンにも劣らない。
人口約30万人、商工業の中心地である。
ドウロ川の右岸に広がるポルトは、ポルトガル発祥の地。
旧市街にはクレゴリス教会、カテドラル、ボルサ宮、サン・フランシスコ教会など見どころが多い。
またドウロ川東岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイラには、ポルトワインの酒造が集まっている。
ローマ帝国時代カーレCaleと呼ばれる州であった。
ドウロ川の河口の街が港Portusの役割をもっていたので、ここでは、ポルトゥス・カーレと呼ばれていた。
これがポルトガルの語源である。
ローマ帝国の衰退後、西ゴートの時代を経て、8世紀に支配権はイスラム教徒に移る。
11世紀、そのイスラム教徒から国土を取り戻したフランスの貴族がいた。
彼はその報酬として、ドウロ川とその北のミーニョ川とに挟まれた地域を与えられ、その地名から
ポルトカリア伯爵と呼ばれた。
ポルトガルにフランスからブドウの苗を持ち込んだのも彼である。
ポルトガルの国土は、ポルトカリア伯爵の息子で初代ポルトガル国王となるアフォンソ・エンリケス
の進撃によって、南に広がり、現在の大きさになった。
つまり、名実ともにポルトガル発祥の地がポルトというわけである。
14世紀から15世紀にかけての大航海時代、ポルトで生産された船団は、ポルトガルの海軍の発展に大いなる貢献をした。
1415年に、ジョアン1世の子供であるエンリケ航海王子は、ポルトを出発し、モロッコの地中海に面する港町セウタを攻撃した。
エンリケ航海王子によるセウタ攻略がそれ以後のポルトガルの海外への雄飛への出発点であった。
18世紀から19世紀にかけて、ポルト港から特産ワインがイングランドに盛んに輸出され、英語でポートワイン(ポルト・ワイン)と呼ばれて有名になった。
聖グレゴリウス聖堂、大聖堂、ポルサ宮、聖フランシスコ聖堂などを含む旧市街地は、1996年、「ポルト歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録された。
街を見下ろす丘の上に建つカテドラルは、もとは要塞として12世紀に建てられ、17〜18世紀に改修が加えられた。
北面のバロック様式の外廊は、グレゴリス教会を設計したイタリア人建築家ナソーニによって、18世紀に付け加えられたものである。
内部には、17世紀に造られた銀細工の祭壇がある。
祭壇右側のドアは回廊へと続いている。
回廊の内壁に張られた、18世紀のアズレージョが美しい。
ソアーレス・ドス・レイス国立美術館 (Museu Nacional Soares dos Reis) は、ポルトガル最古の美術館である。
1833年に開館した。かつて宮殿として使われていた建物である。
ソアーレス・ドス・レイスは、19世紀のポルトガルを代表する彫刻家である。
19世紀〜20世紀頃の絵画や彫刻、冬期や現代美術の展示が中心だが、それより古い時代の中国や日本の文物の展示もあり、
日本関連では、17世紀初頭の桃山時代に狩野派の画家が描いた南蛮渡来屏風などが展示されている。
ポルトガル人の使節や黒人の召使と思われる人物などが当時の装束も含めて克明に描かれており、
初めて異文化に触れた画家の新鮮な驚きが伝わってくるようでとても興味深い。
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ギマランイス歴史地区
文化遺産(2001年)
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ブルゴーニュ王朝を開いた初代ポルトガル国王、アフォンソ・エンリケスの生まれた故郷で、
ポルトガル建国の地として知られる。アフォンソ王が生まれた城、ブラガンサ侯爵館など見どころも多く、
町並みは中世のたたずまいを色濃く残している。
町の入口の壁には 「ここにポルトガル誕生す Aqui Nasceu Portugal」 と書かれており、アフォンソ1世が生まれた城などゆかりの史跡も多い。
旧市街の家並みは時代に取り残され、それゆえに歴史の重みを感じさせる。
ギマランイス城は、第3代ポルトゥカーレ伯ヘルメネギルド・ゴンサレスの寡婦として政務を引き継いでいた夫人ムマドナ・ディアスは、
950年と951年に受けた天啓に従ってこの地に修道院を設立したが、ヴァイキングの襲撃から町と施設を護るべく、959年にギマランイス城を築いた。
1109年にはポルトガルに栄光をもたらすアフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)がこの城で生まれている。28mの高さの塔を持つ。
ブラガンサ公爵館は、アヴィス朝を創始したジョアン1世の息子で、初代ブラガンサ侯爵となったドン・アフォンソによって15世紀初めに建てられた。
レンガの煙突や宴会場の天井などにフランス・ブルゴーニュ地方の影響が感じられる。
16世紀にブラガンサ侯爵家がヴィラ・ヴィソーザに移ってからは廃墟となっていた。
現在はきれいに改修され、政府の公館として国賓などの接待場にも使われている。
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エヴォラ歴史地区
文化遺産(1986年)
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アレンテージョ地方の古都エヴォラは、ローマ人によって築かれ、西ゴート族、
イスラムの支配を経て、レコンキスタ以降は学芸の中心地として栄えた。ローマ時代の城壁や神殿をはじめ、
各時代をしのばせる建造物が残り、町全体が博物館のようだ。
エヴォラは城壁で囲まれた空間すべてが、ひっくるめて世界遺産になった。
それは、先史時代、ケルト、ローマ、中世、近世の各時代の文化遺産が、
町を取り巻く城壁内に凝縮されているからである。
エヴォラ大聖堂は、主に1280年から1340年の間に建てられた。
12世紀にロマネスク様式で建てられたリスボン大聖堂の平面図に細部に従って設計された。
リスボン大聖堂のように、エヴォラ大聖堂の建築家たちは、交差廊、2つの側廊より高い場所にある出入り口、トリフォリウム、
3つの礼拝堂付属のアプス といったものを、十字架型の教会に設計した。
交差廊のてっぺん部分は、ペンデンティヴと8角形のランタンのあるドーム上にある。交差廊は、2つのゴシック様式のバラ窓で照らされている。
広い本堂は、トンネル状ヴォールトがポイントである。内装は、白いモルタルを高い壁と柱、ヴォールトに塗りアクセントをつけた。
サン・フランシスコ教会の17世紀に建てられた礼拝堂は壁がすべてが人骨で造られている。
16世紀に建てられたもので、エヴォラにあった42の修道会墓地から集めた約5000体もの人骨が壁・柱などの至る所に装飾的に埋め込まれている。
修道士の瞑想のために設けられた礼拝堂である。
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アソーレス諸島の アングラ・ド・エロイズモ
文化遺産(1983年) |
アングラ・ド・エロイズモは、大西洋に浮かぶテルセイラ島の南部に位置し、
ポルトガル本土と新大陸を結ぶ中継地として発展した港湾都市。1980年の大地震で被害を受けたが、
その後の修復作業により現在はかつての町並みに復興されている。 |
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ドウロ川上流 ブドウ栽培地区
文化遺産(2001年)
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ドウロ川上流一帯は、ポルトガルが世界に誇るポルトワインの産地。
山の斜面にはブドウの段々畑が広がっている。また、季節によって表情を変える豊かな景観だけでなく、
伝統的なワインの製造方法も世界遺産として登録されている。
ポルトガル政府は同国北部を流れるドウロ川上流(アルト・ドウロ地区)をポートワインの法定区域と定め、
この地区で栽培された葡萄を原料とした酒精強化ワイン(vinho fortificado)のみにポートワインの商標を認めている。
ポートワインのその品質も政府機関で厳しく管理されている。
EU諸国ではこの呼称は厳格に守られているが、アメリカ、オーストラリアなどでは同種の自国産酒精強化ワインをポートワインと呼ぶこともある。
日本でもかつては、ポートワインを名乗る甘味果実酒が多かったが、現在は赤玉ポートワインが赤玉スイートワインとなったように商品名を改めている。 |
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マデイラ島の 月桂樹林
自然遺産(1999年) |
大西洋上に位置するマデイラ島には、温室から亜熱帯まで多様な植生が見られる。
なかでも特に貴重なのが、太古の姿をとどめる月桂樹林。ヨーロッパ大陸では氷河期に消え去ってしまった
原始の森が、温暖な気候に守られて生き残っている。
ローマ時代すでにその存在は知られていたが、1419年エンリケ航海王子の命をうけた
探検家ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコによって再発見され、ポルトガル領となった。
当時、島は深い森林に覆われていたことから、マデイラ(木)と名づけられた。
その後、新大陸との重要な中継地として発展。
砂糖の買い付けにやってきたコロンブスは、ポルト・サント島の領主の娘と結婚し、フンシャルで航海論を学んだ。
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ピコ島のブドウ園 文化の景観
文化遺産(2004年) |
ピコ島はアソーレス諸島で2番目に大きな島。
この地では15世紀に人々が移り住んで以来、ブドウの生産が始まった。
大西洋から吹き付ける潮風からブドウを守るために、畑は小さな石を積んだ細長い壁に囲まれ、
独特な景観を造り出している。 |
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エルヴァスの 守備隊駐屯都市と要塞
文化遺産 (2012年 6月30日)
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3012年6月30日、エルヴァスにある世界最大の星型要塞がユネスコ文化遺産に登録された。
13世紀から作られたエルヴァスの要塞は8〜10kmの城壁と300ヘクタールの広さを持ち、星型要塞としては世界最大である。
17世紀に造られたサンタ・ルジーア要塞と18世紀に造られたグラーサ要塞、19世紀に造られた3つの小堡、
中世の3つの稜堡と17世紀の稜堡のほか、アモエイラ水道橋も世界遺産として認められた。
アモエイラ水道橋は、全長約7kmあり、イベリア半島では最長である。 |
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コインブラの コインブラ大学
文化遺産 (2013年 6月23日)
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2013年6月23日、コインブラにあるコインブラ大学がユネスコ文化遺産に登録された。
政治のリスボン、商業のポルトに次ぐポルトガル第3の都市コインブラは文化の中心である。
丘の上の大学を中心に広がる人口10万人ほどの小さなまちだが、ポルトガルの歴史のなかで果たした役割は大きい。
多くの政治家や文化人たちを世に送ったコインブラ大学は1290年にディニス王によって創設された。
最初はリスボンにおかれていたが、その後コインブラに映ったりリスボンに戻ったりしながら、1537年コインブラに落ちついた。
ヨーロッパでもパリ、ボローニャ、サラマンカに並ぶ古い大学で、1911年にリスボン大学が建立されるまでは国内一の学術の中心地であった。
学生は黒いマントに身を包み町中を闊歩し、そのマントの裾に切れ目が多いほどもてる証だったという。
11世紀にレコンキスタを展開したフェルナンド1世によってイスラム勢力から奪還された後、この地にポルトガル王朝の首都が置かれた。
13世紀に首都がリスボンに遷都されるまで、コインブラはポルトガル王国の首都であり続けた。
王朝が遷都するまでここで使われていた王宮などを中心に、13世紀末にポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立され、以後、大学町として発展を遂げてきた。
現在でも、コインブラには、丘の上に建つ旧大学の校舎をはじめとして、当時からの建築物が数多く残されている。
コインブラの旧大聖堂(Se Velha de Coimbra)は、ポルトガルのコインブラにある、同国で最も重要なロマネスク様式の建築物の一つ。
1139年のオーリッケの戦い後、ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王アフォンソ1世として即位し、
首都と定めたコインブラに建設された大聖堂である。
初代コインブラ伯でモサラベ(アラブ領に住んでいたキリスト教徒)でもあったシスナンド・ダヴィデスはこの大聖堂に葬られた。 |
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