「ポー君の旅日記」 ☆ 水道橋の水の博物館とバイロ・アルト地区再発見のリスボン23☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2018紀行文・24≫
=== 第4章●リスボン起点の旅 ===
〈24番路面電車〉発見で1路線増えていた現実に顔色愴然(がしょくそうぜん)。
Metro〔ラト〕駅前広場から〔24番〕追跡の、帰国2日前の午後だった
《御茶の子サイサイ》
見事に管理され、人の手が細やかに行き届いた〔宮殿庭園〕には、こころ打たれた。
〔アズレージョ〕も人気のようだったが、本来の〈ポルトガル・アズレージョ〉の色彩模様の素朴さ、奥行きの深さである日本の蒼い草木染めに似た色合いが、野老(ヤロー)は好きだった。
17世紀から増築改築が加えられた、王家からの信頼も厚かった〔フロンテイラ侯爵邸〕を探し当て、10時30分オープンで1時間ほど楽しみ、館の前のバス停から15分乗り、
着いた地下鉄Metroブルーライン〔セッテ・リオス〕駅から4駅目の〔マルケス・デ・ポンバル〕駅でイエローラインに乗り換え、あっと言う間のひと駅、終点の〔ラト〕駅で下車した。
写真家にとっては、至って簡単な〔御茶の子サイサイ〕の地下鉄路線模様かも知れなかったが方向音痴の野老には、ただただ写真家の願望のような〔今日は晴れを願っての青い帽子〕の後を追い、
地下鉄通路であたふた迷子にならぬよう身を引き締め、我が身を守った。
「けいの豆日記ノート」
フロンティア宮殿に行くバスは、動物園前のメトロを出たバス停から乗る。
フロンティア宮殿前のバス停は行きと帰りと両方止まるようになっていた。
動物園前から出たバスはフロンティア宮殿を通り、住宅地や公園をぐるりと廻り、またフロンティア宮殿の前を通って動物園まで戻るのである。
どちらのバスに乗っても動物園前に行くので、帰りは遠回りするバスに乗ることにした。
どの道を通るのか見たかったからである。
モンサント森林公園の中を途中まで行き、Uターンして住宅地に向かっていく。
その住宅地の上に水道橋は見えた。
リスボンの水道橋は、高速バスに乗ったときに遠目で見たことはある。
近くで見たいと思っていたが行き方がわからなかった。
このバスが通るとは、知らなかったので発見である。
《Ratoからの初旅幕開け》
地下鉄だから当然だが〔ポルトガルMetro〕としては、駅舎の位置が深かった。
「7つの丘の街」と呼ばれるほど、首都リスボンは起伏が激しい。
当然、石畳の坂道だらけである。
特に、イエロー路線の始発駅であり終着駅であるMetro〔ラト〕駅は、丘の上に広がる「高い地区」と呼ばれる〔バイロ・アルト地区〕にあるため、谷間にある駅に比べると深い位置にあった。
つまり、ひつこく言うと、Metro〔ラト〕駅プラットホームからは、石段をのぼり、改札口を出ると円形天井通路をひたすら歩き、急なエスカレータに乗って、
更に上の通路を痛くなり出した右脚付け根の持病をちょびっと引きづり歩き、また階段を登って、地上に出る。
光いっぱいの真っ青な空が、迫ってきた。おもわず野老は、両手で目をこする。
ほっとし、恐る恐る目をあける。
そこに広がって見えた光景は、初めて見たMetroラト駅前の、〔ラト広場〕だった。長閑(のどか)な小さな広場であった。
【ここ〔ラト広場〕に首都リスボンの中心地「ロシオ広場」から直接来るには、今朝「フロンテイラ侯爵邸」に行く時、ロシオ広場から〔ロシオ〕駅舎ビルに入り、
Metroブルーライン〔レスタウラドーレス〕駅から乗り込み、6駅目の〔セッテ・リオス〕駅で下車したが、乗ってすぐの2つ目〔マルケス・デ・ポンバル〕駅でイエローラインに乗り換えれば、
ひと駅でMetro〔ラト〕駅に着ける。それが分かっただけで、リスボンのMetroを制覇した気分になる方向音痴の、お調子者野老がいた。
でなければ、2つ目〔マルケス・デ・ポンバル〕駅で下車する方法もある。
地下道の階段をのぼると広場に出る。1755年の〔リスボン大震災〕の後、崩壊した首都リスボンを再建した功績を記念した〔ポンバル侯爵広場〕に建つ、
巨大な円柱の頂でライオンを従えたポンバル侯爵像が、再建したリスボンの代表的な道幅90m、高低の長さ1500mの大樹に覆われた大通り〔リベルダーデ通り〕や開けた〔バイシャ地区〕の町並、
首都リスボンの水辺の玄関口〔コメルシオ広場〕や海のように広い〔テージョ川〕を見据えている。その〔ポンバル侯爵広場〕から南西に斜めに下る坂道を800mほど歩けば、
小粋(こいき)な〔ラト広場〕に来れる。】
なだらかな石畳の坂道が視界を広げ、下っている広場だった。
幾重にも折かさなった地下道から出て、まだ太陽光線に慣れない目先30mほどの風景の中を、前と後が黄色で中央が白い車輌に〔Wi-Fiロゴマーク〕が目立つ路面電車が、
下手(しもて)から現れ上手(かみて)に向かってゴトゴト走って来た。
『あッ!』。
車体を見た刹那、間髪を容れず(かんはつをいれず)写真家は声を発し、カメラも鳴り出す。
もう見慣れた路面電車にさえ〔Wi-Fi〕が使えるのだと知らされたステッカーを今さらと思う野老に、『見た!見た?』と問う。
「ステッカー?」『何、見てんのよッ、24番、24!』語尾の強目の声が消える間も無く上手に向かって、写真家は後を追った。
脚の〔モモシリ筋肉〕の痛さを一瞬忘れ、慌てて上手に走り追う野老(78歳)だった。
【2001年9月から始まった〔ポルトガル撮影取材旅〕の発端は、単純無垢(たんじゅんむく)の〈ケチケチ撮影取材旅〉実現を理念で始めた〈個人旅〉だった。
お金さえあれば「ツアー旅」が良いだろう、に決まっている。旅の全てを旅行代理店に任せれば何の心配もなく、どこにでも連れて行ってくれる。
日程も、場所も、交通機関も、泊まり処も、おいしい食事も、トイレも心配なく旅ができる至福のツアー旅が約束されている。
その全てをして下さるのだから当然お金はかかる。
「ケチケチ旅」は、その与えて下さる至福を我がものにするには、当然自らの昼夜惜しみない苦悩の努力あった。
パソコンに齧(かじ)り付き情報集めに終始し、撮影目的地を探し出し、計画日程を作成し、実行しなければならぬ。
当然、飛行機の手配や宿泊先手配も怠りなしだ。
毎度のことながら、現地天候に合わせ自由な行動ができる撮影旅は、現地の人達との触れ合い旅でもある。
千代紙500枚持参で、暇さえあれば〔折り鶴〕を折り貯めストック。
撮影のお礼に、笑顔の手のひらに飛び立つ〔鶴たち〕は毎日20羽としても、ひと旅で300羽。
もう、今まで、ざっと数え3000羽もの〔折り鶴〕たちが、ポルトガルの空を自由に白い羽に黒いエッジの両羽2mを広げ、
日本で見る鶴とほぼそっくりな名物〔コウノトリ〕と飛び廻っているに違いない、と野老は思う。
その努力、執念の下調べで旅の企画が全て終われば、その時点で根(こん)も気も果て、旅を終えた心情になってしまう相棒だった。】
坂道を曲がった先の右手に、石組みの高いアーチが幾つも重なり奥に伸びている〔水道橋〕が目に飛び込む。
『あった!』と、野老は思わず声に出た。写真家が今回の取材旅のひとつに選択した場所だと確信した。
左手建物との間の狭い石畳に、4本の線路が埋め込まれ敷かれていた。
気になるものがあった。それは水道橋のアーチとアーチの間の〔柱壁〕に埋め込まれていた。
タイルの数、横に43枚、縦に18枚の合わせて774枚のタイルで造られた、大き目の古典的草木染め色の〔アズレージョ〕装飾タイル作品である。
中世の人々の生活に欠かせない水物語絵巻だ。土壺に水を汲み込む女性たち、水を求める裸の子供ら、床に流れこぼれた水を手ですくって飲む男たちなど、水道橋がもたらした恵の飲み水。
そのありがたさに歓喜する人々のユーモアを交えた、中世の人々の生活水模様であった。
「けいの豆日記ノート」
ロト駅から地上を歩き、水道橋を見つけた。
なんと、その下を路面電車が通っていた。
なぜ、ここに路面電車は通るのだろうか。
疑問に思いつつも、目的地である水の博物館を探した。
水道橋の下や横の公園に行っても水の博物館が見当たらない。
公園のカフェの人に聞いてみたが、よくわからなかった。
多分、聞き方が悪く通じでいなかったのだと思う。
人がたくさん出入りするスポーツ施設の受付で聞いてみた。
教えてくれたが、そこはさっきから何度も行った場所である。
不安げな顔で表に立っていると、受付の人が出てきて、指さしで教えてくれた。
その辺がとても親切だなあと思う。
《24番路面電車》
そこに、石畳の狭い坂道を終点で折り返して来た路面電車が、後ろに赤い展望車付き観光バスや乗用車を引き連れ、薄べったい〔路面停車場〕に止まった。
運転席頭上の行先案内表示には〔L.CAMOES 24〕とあった。
写真家の目の良さと同時に、注意力さ、記憶力さに感動した。
さっき地上に出てすぐに、30m先の坂道空間景色の中を下手端から上手端に走り去って行った路面電車のプレートナンバーをよく読み取ったものよ、と改めて褒めたたえた。
何故なら、首都リスボンの路面電車は今まで18年間の永きに渡り〔5路線〕と記憶し、思い込んでいた。紀行文の中でも何度も、路面電車ナンバーの行き先での出逢いを大切にし、
そこでの喜怒哀楽を書いて来た。
改めて、「5路線」車輌番号を指折り、数えてみた。出てくるのは、まずは28番、それに12番、15番・・・18番・・25番、と8秒はかかってしまう5路線は、
〔24番〕出現で〔6路線〕になっていた。
たとえ、路面電車の下手から上手移動の間に、運転席の上の〔表示プレートナンバー〕が見えたとしても、その数字が今まで見たことのない、無かった数字だと、瞬時に誰が判ったでしょうか。
しかも、〈24番と言う番号を読み取り、しかもそれで1路線増えた〉と、連鎖する咄嗟(とっさ)の判断力は凄い!と野老は、驚き感服したのだった。
【24番】は、アグアス・リヴェレス水道橋が残る〔カモンポリーデ地区〕から〔ラト広場〕を西に横切り、下って行き、〔グロリア線ケーブルカー乗り場〕当たりで南下し、
〔バイロ・アルト地区〕にあるポルトガル最大の詩人カモンイス像が立つ〔カモンイス広場〕まで、およそ3km間におよぶ路線だと後になって知った。
坂道の石畳を下ってきた〔24番路面電車〕の終点である広場は、〔プラゼレス墓地〕前から折り返した〔28番路面電車〕が24番の客を乗せ更に坂道を南下し、
リスボンで最も賑やかな繁華街がある低い土地、ロシオ広場がある〔バイシャ〕地区へと向かう。
疑問が、残った。今、走っている〔24番路面電車〕のレールは、ピカピカの新品の線路(レール)ではない。古びた線路にしか見えない。
今まで〔24番〕は、なかったのか。
それとも、復活したのか。
TVで人気の【相棒】の右京さんじゃないけれど、『細かいことが気になるんですよね。困った、悪い癖ッ』。
「ゴトン」と一つ音を残し、後ろに赤い観光バスを従え〔路面電車24番〕は、坂道を下って行った。
道が狭いため後続自動車は追い越せない。
2階展望車輌を陣取るカラフル衣装の観光客たちは、嬉しそうに我らに手を振ってくれた。
当然、野老も笑顔で手を振って応えた。みんな、楽しければ、それが旅の醍醐味なのだ。
〜〔路面電車24番〕については、その真実判明は帰国翌年の8月7日発行日〜
《ケチケチ旅10回目旅日程は「2018年5月17日(木)〜6月5日(火)」》
◎持参中《地球の歩き方・ポルトガル》2018〜19年版・発行は2018年1月3日。
市電の路線〔12番・15番・18番・25番・28番〕。〜5路線〜
◎帰国後《地球の歩き方・ポルトガル》2019〜20年版・発行は2019年8月7日。
市電の路線〔12番・15番・18番・24番・25番・28番〕。〜6路線〜
●《2018〜19年版・地図》リスボン中心地・リスボン旧市街地図に〔市電24〕の表示なし。
●《2019〜20年版・地図》リスボン中心部・リスボン旧市街地図に〔市電24〕の表示あり。
運悪るしであったが、新品の〔ポルトガルガイドブック〕が発行された1月3日の4ヶ月後、目敏(めざと)い写真家が〔一眼力で踏破〕した〈24番〉出現の、
その現場に、偶然居合わせた野老は、幸せ者である。
「けいの豆日記ノート」
水道橋の横を路面電車が通るなんて、見たことがないし、聞いたこともない。
リスボンの路面電車は全線を始発から終点まで、乗り尽くしている。
こんな道を通った記憶がなかった。
なんでなのか・・・と考える間もなく、水道橋の横や下を通る電車を撮らなければと急ぐ。
本数が少ないので、見逃すと次はいつ来るかわからないからである。
《リスボン市民の水の供給源だった水博物館》
水道橋側は、大樹が繁る公園になっていた。
写真家は陽こぼれが美しい公園通路を水道橋際を歩き、「Museu da Agua」(水博物館)と書かれた大きな布地写真ポスターを発見。
そこには、入館時間も書いてあった。
写真家は、平然と鉄扉が開いていたので疑うことなく潜り、黒に白地の「Monumento」(記念建造物)と書かれた矢印看板に従った。
開いた扉の中に、入る。薄暗い広い天井空間の下に、受付があった。
写真家が交渉し、見物できた。貯水されたコバルトブルーの水面が神秘的だった。
かつてリスボンの町に水を供給していた〔アモレイラス貯水池〕の一部が博物館として公開されていた。
今でも池はそのまま室内に残っていた。
1748年に北西部の〔カンポリーデ〕に「アグアス・リヴレス水道橋」が完成すると、水はいったん貯水池に送られ、そこからリスボンの町々に供給されたという。
だが、リスボン大地震の1755年の際にも水道橋は崩壊しない力強さ。
1967年に廃止されるまで供給していたという強者(つわもの)の水道橋であった。
水道橋を歩いて渡るツアーもあるが工事中のため残念。高い博物館の屋上からの景観が一級品であった。
咲き誇るジャカランダの花が、眼下に美しい。
坂下から弧を描くように曲がる石畳の坂道に沿って、何本ものジャカランダの大樹が並び、今が盛りじゃないなら何時なんだ、と思える見事さで蒼紫色の花が咲き乱れていた。
花は桐の花弁と同じような、筒状に細長い花びらで包み咲いている。
この旅で見た一番の大傑作が青空に抱かれ誇らしげであった。
リスボンでも、その年の気候によって開花時期が当然ずれる。
今年のジャカランダは遅咲き模様であったが、青空つづきの天候でいっぺんに開花させたようだ。
通年5月中旬過ぎから6月中旬頃までが見ごろとされている。
目の前のオレンジの屋根瓦が連なる遥か先にテージョ川が見え、その手前に以前行ったことのある〔エストレーラ聖堂〕のネオ・クラシック様式のドームがある白亜の教会が見えた。
「けいの豆日記ノート」
水の博物館の建物も特徴がなく、入り口は博物館らしくなく開館時間の表示が小さく書かれているだけであった。
昼休みだったらしく、入り口の鉄格子も閉まっていた。
これでは、見つけられなかったわけである。
中に入って、正面から見ると、りっぱな建物であった。
公園側は裏側になるので、わからなかった。
入場料を払おうとすると、いらないらしい。
その時は、なんかの記念日で入場料がいらない日なのかと思っていた。
《思い出の胡麻醤油味厚焼き煎餅》
腹が減って飛び込んだ小さなレストランは混んでいた。
ランチメニューの〔腸詰ハンバーグ〕のような料理には卵焼きにブロッコリー、ポテトサラダ、一人前8.5ユーロ。
サグレス生ビール1.2ユーロ。水1.0ユーロ。計10.7ユーロ(1391円)。
6月2日土曜日、14時20分だった。
昼食は14時を過ぎると、レストランでは食べられなくなる所が多い。
それに、コンビニがない。
そんな時は、毎度のこと持参の常備食(胡麻醤油味厚焼き煎餅)をカリカリ食べ歩き、焼き醤油と胡麻の香りを撒き散らし代理昼食にしていた。
しかし、ある年ある日、我らが通り過ごすと歩行者に異変を感じた。
匂いだった。煎餅の香りは異国の香り。
列車の中で食べた時は、対面に座った老夫婦が香りに驚き「いかがですか?」と相棒がすすめる。
で、この話をすると長くなるので打ち切りますが、結果は喜こんでいただけたのだった。
『24番の線路に沿って下って行こう』の発案は天使の声。
下り坂大賛同の野老だ。午後の旅は石畳の下り坂で始まった。
野老にとっては天国だった。脚が痛くなり歩けなくなったら、それは野老の旅の御法度だ。
「けいの豆日記ノート」
はじめから、バイロ・アルトのサン・ロケ教会方面に行く予定であったし、ついでに路面電車がどこまで行くのか知りたかった。
路面電車の線路に沿って歩けば、路面電車の写真もたくさん撮れるものである。
《プリンシペ・レアル公園と秘密基地?》
24番〔路面電車〕が狭い街なかの石畳坂道を下って行く。
24番が上って行く。24番上下路線の線路が輝いて見える。
24番は新設なのか、復活なのか。理由があっての終点の〔カモンイス広場〕までのおよそ3kmは24番の独擅場だった。
のびのび、ゆったり、せこせこせず、狭い石畳坂道を楽しんでいるように感じられた24番だった。
そんな24番路面電車の下りを追って、写真家の撮影取材に心躍らせた野老である。
土曜日の昼下り。こじんまりとした公園は樹木で覆われ陽射しが暖い6月2日。
この公園の地下には19世紀の貯水槽と水路があるらしい。
さっき見た〔水の博物館〕で見学できると聞き来てみたのだ。
芝生に座る家族連れや若者、年寄りたちが語り合う風景は心地良い。
ちょっと待たされたが公園中央噴水そばの地下に降りる石段で待機中の我らを一緒にいた若い黒人警備員が「オープン」だと、教えてくれた。
その笑顔の歯が白かった。
石段を降りると係員が地下水路は工事中で歩けないので入場は無料だという。
石柱が何本も狭い水路に立っている。
本来ならひんやりした水路を30分ほど見学歩行し、重い鉄の扉を開け地上に出ると、そこは〔サン・ぺドロ・デ・アルカンタラ展望台〕だと、よだれが出るほどの話を聞いて悔しく、
涙を堪えて出て来た公園下の秘密基地?だった。
公園を出た。
ゆるやかな坂道〔ドン・ぺドロ5世通り〕にオーガニック野菜マーケットが、道路沿いに並んでいた。
意外と観光客が多く、オーガニック料理を作る露店には列ができていた。
「けいの豆日記ノート」
プウリンシペ・レアル広場では、露店市場の開催中であった。
大きないろいろなチーズが並ぶ店が多かった。
広場の中程に貯水槽の入り口があったが、ここも閉まっていた。
「30分待て」の看板があった。
いつから30分なのかわからないと意味がないなあと思いつつ、目の前のベンチで待っていた。
ここも入場無料であった。
貯水槽だけはすぐに見終わってしまう。
地下道を歩くツアーの入り口はあったが、閉まっていた。
地下道を歩けないので、無料だったのだろう。
ヘルメットだけが積んであり、歩けなくて残念であった。
《ぼんさい》
ジャカランダの花の下を、〔24番〕がくだっていく。
その先に、見覚えのある狭い路地。
目敏(めざと)い写真家は、野老に珍しく目配せを送ってきた。
〔お店〕は、あの時のままだった。緑色の鉄扉の上部に白ペンキで〔BONSAI〕と書かれ、扉の両サイドには墨で「日本料理」と「ぼんさい」と縦書きで書かれた木の看板が吊るされている。
野老は歳でもあるまいし、涙腺が急速に緩(ゆる)めになっていた。久し振りと懐かしさで、涙が出そうになる。
2004年の4回目の撮影取材旅で、《愛しのポルトガル写真集 2002年・ポー君のポルトガル旅日記》118頁の写真集を、お店に寄贈した。
2度ほど今までお会いしている店主の横地さんから、天丼とかつ丼をご馳走になったのを思い出す。
扉のノブを回したが開かなかった。無理もない16時を過ぎていた。扉の横にポルトガル語と日本語で書いた案内が貼ってあった。
【ランチ/火〜金12:30〜14:30 土13:00〜15:30 定休日/月、日曜日】
「けいの豆日記ノート」
貯水槽の地下道が歩けなかったおかげで、地上の風景を見ることができる。
よかったと思うことにしよう。
ポルトガルに行きだした頃は、旅の最終日にはこのボンサイに行って、カツ丼と海鮮丼を食べていた。
ポルトガルで食べる日本料理は高かったが、おいしかった。
横地さんは、若かりし頃、日本の水泳の代表選手でもあり、その後ポルトガルで水泳を教えているすごい人である。
旅が好きな人なので、店に行ってもほとんど居ないことが多い。
日本に来たときにわざわざ「愛しのポルトガル写真展」を見に来てくれたことがある。
《ドン・ペドロ5世通りは、24番の花道》
16時30分、〔ぼんさい〕からドン・ペドロ5世通りに戻ると笑顔の女性を車体前面に貼り込んだ〔L.CAMOES 24〕路面電車が、坂道から飛び出してきた生きの良さには、惚れ惚れだ。
余程、行きも帰りも〔ドン・ペドロ5世通り〕を闊歩気味に走るのを生き甲斐にしているように思えた。
このドン・ペドロ5世通りは下り坂なので、野老にはもってこいだった。
〔サン・べドロ・デ・アルカンタラ修道院〕の祭壇とアズレージョに魅入り、その敷地に作られた公園の中に《サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台》がある。
正面に目の高さに〔サン・ジョルジェ城〕、白壁にオレンジの屋根をかぶった旧市街地が眼下にパノラマ展望できる。
しかし、展望手摺工事中であり、24番路線を下った〔レスタウラドーレス広場〕と〔バイロ・アルト地区〕を結ぶ年間利用客30万人と人気の〔グロリアのケーブルカー〕も工事中。
〔ミゼリコルディア通り〕に変わる当たりに〔サン・ロケ教会〕があった。
1584年、苦難の航海の末にリスボンにたどり着いた日本の〔天正遣欧少年使節〕(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)が、1ヶ月ほど滞在したイエズス会の教会である。
当然、1755年のリスボン大地震で破壊されたが、後再建された。
ミゼリコルディア通りから19時30分、〔24番路面電車〕に乗ってみた。
「けいの豆日記ノート」
アルカンタラ修道院は、横を通りながら、見落としていた修道院である。
博物館でもある修道院は5時の閉館時間前だったため見られなかったが、礼拝堂は見ることができた。
アズレージョ(装飾タイル)の美しい礼拝堂であった。
今まで、どうして素通りしてしまったのか、不思議なくらいである。
アルカンタラ展望台は、半分が工事中であった。
その横のケーブルカーも工事中で止まっていた。
この坂道を歩いて登るのはかなりたいへんである。
《カモンイス広場からコメルシオ広場へ》
300mほど乗ったら終点の〔カモンイス広場〕だった。
〔24番〕追っかけの旅は、ポルトガル最大の詩人ルイス・デ・カモンイス(1525年〜1580年)を記念した広場中央に、立派な銅像として立っていた。
彼の叙事詩『ウズ・ルジアーダス』は、ポルトガル大航海時代のポルトガル人の偉業を歌い上げていた。
広場の黒と白の敷石は、その叙事詩をテーマに描いてあるらしい。写真家のカメラが鳴りっぱなしだ。
広場をひと回りして24番路面電車は石畳の坂道を我らに別れを惜しむように登っていった。
チャゥ!またね、バイバイ!と野老は手を振り続けた。
背中の哀愁の演技に定評がある我が背越しに、エンドタイトルが浮かび上がる光景であった。
「けいの豆日記ノート」
カモンイス広場でコメルシオ広場方面の28番の路面電車を待つがぜんぜん来る様子がない。
なので、ちょうど止まっていた24番の路面電車に乗ってみることにした。
こういうときは、24時間乗り放題の1日乗車券は便利である。
人気の28番の満員の電車とちがって、空いていた。
さっき見た水道橋の先はどこにいくのか知りたかった。
水道橋を過ぎると、静かな住宅街を通っていく。
(後から知ったが、大きな病院の横を走っていた)
終着のロータリーで一端降りて、また乗ってカモンイス広場まで戻った。
この広場とカルモ通りを結ぶおだやかな勾配の〔ガレット通り〕は、〔シアード地区〕のセレブストリート呼ばれ、洒脱なカフェ「ブラジレイラ」の店先ベンチには、
脚を組んだ常連客だった詩人フェルナンド・ペソアの銅像が人気だ。
隣に並んで記念写真が撮れるように椅子がある。観光客の聖地だそうだ。
目先のカモンイス広場に戻り、西から来て東に行くリスボンの路面電車で一番人気の〔28番〕に乗って〔バイシャ地区〕に行こうと待ったが、来ないので20時30分バスに乗る。
バイシャ地区の〔コメルシオ広場〕近くで、そのバスは止まり動かない。
車窓をマラソン選手一群が、コメルシオ広場に向かって走って行く。
写真家は運転手に『降ろして〜』と叫ぶ。運転手は笑顔で開けてくれた。
真っ先に降りた写真家は、軍団の後を追う。
勿論、野老だって降りて後を追う。自分で言うのも何だが、78歳とは思えぬ反応の速さ、身の軽さだった。
「けいの豆日記ノート」
カモンイス広場で路面電車を待つがぜんぜん来る様子がない。
バスが来たので、来ない電車を待つよりいいかと思い乗ってみた。
コメルシオ広場近くになり、バスの外を見ると、前の方に大勢の人たちが見えた。
マラソン大会をしていたのだ。
道路は通行止めになっているのだ。
路面電車が来ないわけがやっとわかった。
ロシオ広場からの出発で走り出したばかりなので、みんなの元気がいい。
あっという間に団体が通り過ぎた。
コメルシオ広場に抜ける〔勝利のアーチ〕をくぐる。広場は人の波だった。
広場中央あたりに白いシートで作りあげた大きなコンサート会場では50人ほどのクラッシック演奏が始まっていた。
途轍もなくでかい2台のスピーカーが、21時過ぎの夕焼けが残る大空に向かって、大音響が貫いていた。
帰国2日前の我らを送るコンサートだと思うことにした。
今日は、Metro〔ラト〕駅から地上に出て、初めての〔ラト広場〕で下手から上手に走り抜けて行く〔路面電車24番〕との遭遇。
写真家の目敏(めざと)い〔新ナンバー24番〕発見と、路面電車〔1路線増〕の〔6路線〕を瞬時に察知した写真家に感服した野老であった。
[追伸。「地球の歩き方aruco37ポルトガル」2020年1月29日発行の「旅好き女子のためのプチぼうけん応援ガイド」で知ったのだが、
その〔P63〕に、【〈24番〉2018年に23年ぶりに復活した路線。
カモンイス広場からプリンシベ・レアル、ラト広場を通り、カンポリーデが終点】とある。]
●漢字に(・・・)と読みを容れていますが、読者の中に小・中学性の孫娘達がいますので了承ください。(野老)●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
今回分は2020年7月に掲載いたしました。
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