「ポー君の旅日記」 ☆ 雨上がりのローマ中世時代祭りのブラガ4 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・20≫
=== 第6章●ポルト起点の旅 === 思い出のポルトガル〔国境線〕とバロック建築に囲まれた中世祭りの町〈ブラガ〉であった
《日本的ワイン芋焼酎と胡瓜とメロン》
小雨含みのキリスト教の巡礼地【ボン・ジェジス】の巡礼石段〔575段〕(かつて野老が一段一段数(かぞ)えた)を、
雨で滑る足元に気をつけながらゆっくり下ったのは、5月27日(金)の午後2時30分ごろであった。
バス発車停留所がある広い駐車場に〈ブラガ〉中心地からの乗客をバス停で降ろし、車体をぐるり半円状にハンドルを回転させ我らが待つ前で停まった。
誰も乗っていない大型観光バス(1.65ユーロ)に乗り込んだ頃には、小雨も霧雨になってきた。
フロントガラスの大きなワイパー2基が、まるで両手をぴんと伸ばしゆっくり左右に両腕を振るように見えた。
ほぼ2時間の小雨模様〔ボン・ジェジス〕散策であったが、ポルトガル最北端の【ミーニョ地方】にある宗教の町〈ブラガ〉も年間を通して雨が多かった。
自分で自分を褒(ほ)めることを自称(じしょう)というが、野老(やろう・おいら)は自称〔晴れ男〕と自負していた。
2002年から今回で4度目の〈ブラガ〉巡りであっても雨には難儀した。
土砂降りや風雨や小雨と時々晴れと言う按配(あんばい)で、一日中晴天の日は一度もなかった。
日本の自称〔晴れ男野老〕も〈ブラガ〉に住みつく〔雨野郎〕には毎度のことながら手を焼いている。
しかし地元の〔雨野郎〕は、この地方の大地に素晴らしい恵みをもたらしていた。
雨降りは多いが年間の気温は温暖を保ち、そのため果物や野菜の収穫は一年中豊富である。
その大地は共に隣国スペインから流れ込み大西洋に流れ出るふたつの大河、北側のスペインとの国境線〔ミーニョ川〕と
南下したポルトガルの第二都市〈ポルト〉を流れる〔ドウロ川〕であり、この北と南の間は120km。
その大河に挟まれた広大な大地がポルトガル最北端、雨の多い農産地帯【ミーニョ地方】である。
この大地には幾筋もの大河が流れ、それぞれの沿岸には葡萄畑が連なっている。
その土地ではその地の葡萄が実り、その地の名高いワイン生産を生みだしている。
ちなみにこの地方でしか飲めないというワイン〔ヴィーニョ・ヴェルデ(緑のワイン)〕の産地もあると教えてくれたのは、
明日行く首都〈リスボン〉から高速バスとタクシーで2時間の大草原のド田舎町〈アザルージャ〉に住む〔ドン・ガバチョ画伯〕であった。
画伯はワインより日本の〔芋焼酎〕がよく似合ういなせなお方。
もう少し詳しく言うなら、〔芋焼酎の胡瓜輪切り入り〕の芋焼酎割りが好きなのだ。
もっと言うなら、摩訶不思議な化学反応現象の謎に歓喜しながら、つまり『芋焼酎に浮かぶ胡瓜の輪切りがメロン味に大変身する謎』に
感動しながら飲む〔芋焼酎割り〕が大好物なのだった。
今回の旅も野老の大きな旅行バックに、みやげ品の熊本産と鹿児島産〔芋焼酎〕700mlビン1本とちょっとばかし重いワンパック1升を忍ばせて来た。
ただただ、画伯の喜ぶ顔が楽しみでならない野老である。
「けいの豆日記ノート」
ブラガ訪問は、4度目である。
なぜか、雨模様が多かった。
大雨でなく、晴れ間があったりしても小雨が降ったりしていた。
400mの丘の上に建つボン・ジェズス教会で、青空が見れなかった。
青い空があるのとないのとでは、写真にするとすごく違うのである。
やっぱ、白壁の建物には、青空が似合うと思う。
《国境線のど真ん中》
話が逸(そ)れたが、ポルトガルの最北側にあるスペインとの〔国境線〕は、とても判り易かった。
水量豊富な大河〔ミーニョ川〕が国境線であり、スペインから流れ大西洋に注(そそ)いでいた。
その〔ミーニョ川〕と120kmほど南下した世界的に名高い「ポートワイン」のブドウ原産地であるドウロ渓谷上流から流れ込む〔ドウロ川〕。
その下流のポルトガル第二都市〈ポルト〉のワイン製造のワイナリーまで、かつてはラベーロ(帆船)で葡萄原酒を運んだ大河〔ドウロ川〕は、
ポルトの河口6km先の大西洋に流れ込んでいる。
国境線のミーニョ川に接した【ミーニョ地方】の北の端の町〈バレンサ・ド・ミーニョ〉は、ガイド本に載っていなかったが相棒のカメラマンはちゅうちょなく、
2004年4月23日、〈ポルト〉から大西洋沿岸を北上する列車に乗っていた。
知多半島に住む野老は、太平洋は見慣れていたが車窓左越しの大西洋には心が踊った。
波が海岸に激しく打ち寄せ砕ける迫力が間近に見え、点在する家々の間(ま)に間に青い海の乱舞が続けて見え、
トンネルを抜けると目の前に急激に青い海面が車窓一杯に弾(はじ)ける。
もう映画館の最前列で大スクリーンを仰ぎ見ている想いであった。
野老は歓喜して、草臥(くたび)れた。
この勇壮な海の彼方にはアメリカ大陸があり、コロンブスもポルトガルで海洋術を学び大海に夢を馳せた。
ポルトガルの最南岸地の中心地〈ファーロ〉からは、大西洋越しにアフリカ大陸が見えた。
知多半島で見る太平洋と車窓からの大西洋は何かが違う。
考えた野老の結論は、太陽の照量、波の力強さと碧さ、空の深い色合いだと知った。
そう言えば、知多半島の内海(うつみ)海岸の老舗・鰻屋〔三晴楼〕(さんせいろう)の一年中真っ黒なサーファー店主が言っていた。
『ポルトガルは〈ナザレ〉もいいが、〈ヴィアナ・ド・カステロ〉の大西洋の波は最高だよ、
〈リスボン〉から車で1時間の世界中からサーファーが集まる小さな港町〈エリセイラ〉も大好きだね』と。
サーファーが喜ぶ大西洋の波が、これだと知った。
「けいの豆日記ノート」
キリストの巡礼の道で有名な、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラは、ポルトガルの国境から北に100kmのところにある町である。
さすがに少し遠いので、国境からすぐのスペインのトゥイという町に行って見ようと思った。
そのためには、ポルトガルの北の国境の町のバレンサ・ド・ミーニョの町に行く必要があった。
ポルトガルの北の端でもあるし、城壁に囲まれた町らしい。
町の情報はなかったが、行けば何とかなると思っていた。
《国境線の重圧》
〈バレンサ・ド・ミーニョ〉の国境の町は、頑固に幾重もの城壁に囲まれた城塞の町であった。
〔ミーニョ川〕に架かる2階建鉄橋は2階が鉄道で1階が車道と歩道。
柵で守られた狭い歩道を歩き、〔国境線〕の大河を撮影しながらスペインの町〈トゥイ〉に渡る。
20分もかかったが、鉄橋からの景観は息を飲んだ。初めての体験に心が震える。
〔国境線〕のど真ん中の上に立っている実感に感動していた。
それも目に見えたポルトガル最北端の国境線,大河の〔ミーニョ川〕のど真ん中であった。
国境線の両側の二つの国の大地は、肌寒い4月23日の太陽を浴びて輝いていた。
ユーラシア大陸の最西端にある日本の4分の1の大きさのEU国家〔ポルトガル共和国〕は、西側と南側は大西洋に面し、
北側と東側は全長1234kmにおよぶスペインとの〔国境線〕の重圧に耐え忍んでいたが、
ポルトガルの救世主・エンリケ航海王子の指揮の下〈リスボン〉や〈ポルト〉の港を出港したカラベル船が世界の海を制覇した。
それが15世紀からの【ポルトガル大航海時代】である。
その成功でポルトガルはやっと息を吹き返した。
常にスペインに呑み込まれないための国家の生き抜く秘策は、大西洋に船出をし、世界の海に向かう大冒険の活路しかなかったのだった。
〔国境線〕のその歴史的な重みも深みも苦悩も正直、島国生まれ野老には判らない。
しかし、ローマ帝国に続きイスラム帝国に支配され、隣国スペインにも国境を侵略された。
ポルトガル国家は、60年間もスペイン領だった、その苦渋と忍耐の歴史でもあった。
そのことは、文献で野老も知っていた。
【1580年・ポルトガルがスペインに併合される】【1640年・ポルトガルがスペインから再独立した】
「けいの豆日記ノート」
よく写真展で、「ポルトガルとスペインは似ていますか。」と聞かれる。
たしかに、建物は白壁でオレンジの屋根は
似ていると思う。
スペイン語とポルトガル語は似ているらしい。
スペインの田舎がポルトガルという人もいる。
でも、国民性はかなり違うような気がする。
闘牛でいえば、スペインは牛を殺すが、ポルトガルは殺さない。
大航海時代に植民地では、スペインは人々を惨殺してしてきたが、ポルトガルは共存してきた。
国境を広げるために責めたり攻められたりの歴史がある。
昔は隣の国とは仲が悪かったと思う。
平和になった今は、買い物も自由にできるし、ちがうだろうと思うが・・・
《もうひとつの国境線》
4年前の2012年5月30日、ポルトガル国境まで12kmの要塞の町〈エルヴァス〉にいた。
その日の朝刊報道でホテルの受付カウンターは女性たちの歓喜で盛り上がる。
〈エルヴァス〉の世界最大の星型要塞に囲まれた旧市街地と周辺にある要塞、それにアモレイラ水道橋が【世界遺産】に登録されたニュースであった。
そんな目出たい情景をカメラに収めた相棒は、予定通りポルトガルブルーの空が広がるホテル前のバス停で国境越えのバスを待っていた。
『バスで国境を越えればスペインの〈バダホス〉中心地まで30分もかからない。
国境までは10分だよ』と、偶然にも昨日乗ったバスの運転手は2人で片道5.2ユーロの運賃を受け取りながら言った。
〔国境線〕を見ようと運転席の横の最前席に陣取った。
乗客は我らだけだった。相棒が国境に来たら教えて欲しいと頼む。60歳代の運転手は二コリ頷いた。
ポルトガル市民の笑顔は何処に行っても、温かい心が籠(こも)る。野老はそんな笑顔が好きだった。
発車して10分近くに相棒はカメラを構えた。
『アキ!(ここ!)』と言う運転手の発声の前にはすでに相棒のシャッターが鳴っていた。
野老は?アリャリャッ? どこが国境線だか判らなかった。
野老には野老なりの〔国境線〕のイメージがある。
2003年2月、ポルトガル最南端の東側隅っこの町にスペインより物価が安いとフェリーに乗り
10分でやって来る人たちで賑わうポルトガルの町〈ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ〉。
その国境線〔グアディアナ川〕対岸には、スペインの白い壁が壇上に重なり細長く帯のように美しい〈アヤモンテ〉の町が見える。
我らはフェリーでその〔国境線〕を渡った体験はあった。
しかし、「国境を越すにはゲートを潜るとか」「太い白線か黄色線が車道に引かれ、ポリスの前で一旦停止するとか」
「トンネルを越すとそこは国境だったとか」兎に角(とにかく)目立つ何かがあっての〔国境線〕越えが欲しかった。
スペインの町〈バダホス〉バス停で降り、小奇麗な公園のベンチで野老は相棒のカメラマンに遠慮がちに聞く。
「国境線は、撮れたの?」『エッっ!判んなかったんだ〜?』その語尾を引っ張る長さに、ちょっぴり小馬鹿にした物臭にコチンと来た。
相棒は臆(おく)することなく、撮った画像を見せてくれた。
車道の路肩に小さな看板があり、小川より小さな川が流れていた。
川と言うより小さな溝(みぞ)であった。
人を小馬鹿にしたスペインとポルトガルの、その〔国境線〕に野老は激怒した。
「けいの豆日記ノート」
国境の要塞の町のエルヴァスと、スペインの町バダホスは、道路でつながっていた。
バスが出ていることを知って、ぜひ、行って見たいと思った。
バダホスの町の情報はなく、行けばなんとかなるかというのは、甘い考えであった。
終点のバスターミナルまで乗ってしまったので、郊外の住宅地に出てしまった。
地図もなく、どこを歩いていいのかわからず、住宅地の中を少し歩きまわった。
すごく暑かったので、帰りのバスの時間まで冷房の効いたホテルのカフェで休んでいた。
途中の町中で降りればよかったのに、下調べをしなかった報いであった。
《緑のワインの町》
北の国境線の大河〔ミーニョ川〕沿いに開けた城塞の町〈バレンサ・ド・ミーニョ〉から40km南西下に大西洋に流れ込む大河〔リマ川〕がある。
雨の多いこの河口に開けた「リマの女王」と呼ばれる町〈ヴィアナ・ド・カステロ〉。
リマ川河口の豊潤な大地で育てられた葡萄から軽い発泡性のある〔緑のワインのヴィーニョ・ヴェルデ〕が誕生。
あの〔ドン・ガバチョ画伯〕が教えてくれた、この地でしか飲めないワインであった。
2004年4月22日、我らはこの町の北にある標高349mの〔サンタ・ルジア山〕に登った。
ケーブルカーを利用すれば、頂上の〔サンタ・ルジア教会〕まで6分(往復3ユーロ)ほど簡単に行けた。
しかし、我らは壊れかけた階段673段(数え魔・野老)を登った。
相棒は撮影しながらの25分間ほど、野老は40分近く休み休みで登った。
頂上からの展望は、あっぱれ!であったが、こてんコテンに疲れた。
しかも、〔幻の緑のワイン〕は飲むチャンスがなかったことを、12年たった今でも鮮明に記憶に残っている。
疲れ切ったことと、飲みたかったワインが飲めなかったことは忘れ切ることはできないのだ。
「けいの豆日記ノート」
サンタ・ルジア山のケーブルカーはシーズンオフのためか、工事中のためか、動いていなかったとの記憶がある。
階段と山道を歩くことにした。
歩いている人は、ほとんどいなかった。
みんな、車で頂上まで行くのだろうなと思いながらも、ひたすら登った。
せっかくここまで来たのだから、頂上まで登って町の俯瞰を見てみたかった。
以前にも同じようなことがあり、ナザレの丘の上まで行くのに、ケーブルカーが工事中で崖の山道を歩いた記憶がある。
《雨上がりの青空》
〈ブラガ〉の中心地である〔レプブリカ広場〕の大きな噴水は、雨の日は停まっていた。
当然である。雨が降る中の噴水は見る人々に爽快感を与えない。
でも、大きく高く吹き上げる噴水が見られないのは物足りない気にさせる。
8年前の2008年6月に見た時の噴水は、偶然に雨雲が割れた青空に向かって高く吹きあげる壮大な景観は勇壮だった。
時計の文字盤の上を、せわしく秒を刻む赤色や白色の〔秒針〕のように風向(かざむ)きが変化する。
そのため、風下(かざしも)の人びとは暴風雨にあったような歓声を上げる。
それはそれで、ここの噴水は一つの名物になっていた。
今日は、ほんの少しばかりの雨上がりの青空が、鏡のような噴水池に写り込んでいた。
相棒のカメラマンは、その広い美しい青い大空と周りのバロック建築群が写り込む一服の絵画のような光景を角度を変え、楽し気(げ)にカメラに収める。
その写り込んだ噴水広場の西側にあるルネッサンス時代の一寸ばかり粋な建物〔アルカーダ〕のカフェレストランでひと休みした。
相棒はシーチキン入りサラダと7ナップ(6.5ユーロ)、野老はサグレス生ビール1杯(1.2ユーロ)だった。
〔アルカーダ〕は、1715年に改築され、聖母に捧げる古典的な大きなチャペルが建てられていた。
300年ほど前に改築された古い建物だったが、市民にも観光客にも人気の憩いの場のようで、お隣のテーブル席のお嬢さんはひとりで午後のデザート満喫中だ。
何時でも撮影できるように首にかけたカメラは離さない相棒だが、食事中はカメラをテーブルの左手に置く。
そのカメラをそっと左手に握り、レンズを下向けにして相棒は静かに語りかける。
『ポル ファヴォール!』(すみません)と、小さな声で呼びかけ、『ソウ ジャポネーザ』(私は日本人です)と笑み、
ここで初めてカメラのレンズをちらっと見せ、『ポッソ ティラール ウマ フォト?』(写真を撮ってもいいですか?)と、相棒劇場がすんなり始まる。
にっこり微笑み『Sim(はい)』と愛想(あいそ)が良いお嬢さんである。生まれながらの気立ての良さが弾けていた。
シャターの音が2度鳴った。当然、撮影のお礼に千代紙の〔折鶴〕がお嬢さんの掌(てにひら)に舞った。
その折鶴と微笑みに、もう1度シャッターが鳴った。
「けいの豆日記ノート」
ボン・ジェズスからのバスを降りるころには、雨足が強くなってきた。
雨宿りとトイレ休憩をかねて、遅いランチにすることにした。
広場のオープンカフェは、雨が降るとびしょびしょである。
でもパラソルのあるオープンカフェでは、人が座っている。
雨でも店内より、外のほうが好きなのである。
国民性なのだろうか。
私は、もちろん、店の奥のほうの席に座った。
《聖母マリア信仰のポルトガル》
〈ブラガ〉の町は宗教色が濃いが、バロック美の建築色も濃い。町中には幾つものバロック建築があり、トゥリズモ(観光案内所)では、
〔ブラガのバロック散歩道〕の日本語版の地図と各建物の写真と案内説明文を只(ただ)でくれる。
他の町ではほとんど日本語版はない。
この町には日本人が沢山訪れているに違いない。
町の中心〔レプブリカ広場〕周辺には、〔旧大司教館〕〔コインブラス礼拝堂〕〔ビスカイニョス博物館〕〔市庁舎〕や〔カテドラル〕がぎっしり詰まり、
その路地から路地へ現在も進行している午前中に始まっている〔ローマ中世祭り〕のギターラや小太鼓、笛などの音色に混ざり子供たちの明るい笑い声が伝わって来る。
祈りの町〈ブラガ〉の中心でもある〔カテドラル・大聖堂〕前の広場は、祭りの要(かなめ)的広場で、沢山の子供たちと父兄や市民が
それぞれローマ時代衣装姿で祭りを盛りあげている。
供たちに我が町〈ブラガ〉の歴史を教える〔祭り〕にも思える。
二千年の歴史を持つこの町を見守って来たのは、ポルトガルの『聖母マリア』への信仰の源である〔カテドラル〕ではなかろうか。
バロック様式のたたずまいが以前の建築様式を圧倒した。
その作業は、大司教ロドリゴ・ダ・モウラ・テレス[1704年〜1728年]庇護下(ひごか)に始まった建設は、18世紀の終わりまで続いた記録がある。
〈ブラガ〉は巡礼地を控えた宗教の町だけに市民も(国も)守り続けている〔祭り〕が多い。
「けいの豆日記ノート」
トリズモの案内係の女性に折鶴をあげると、日本語版の「ブラガのバロック散歩道」という教会、建物、施設などの説明文付きの地図をくれた。
今まで、ポルトガル語版、英語版、フランス語版、スペイン版などは、置いてあるところはあるが、日本語版があるところはなかった。
リスボンやポルトやコインブラにもなかった。
なのに、ブラガにあるとは、なんとうれしいことでしょう。
いつも教会や建物の名前や説明が読めず、わからないままである。
そんなに日本人がたくさん訪れるのかとも思ったが、きっと、ここに住んでいる日本人がイベントなどにかかわって、日本語版を作ってくれたのだと思う。
これは、かってに思ったことなので、ほんとうのことはわからないが・・・
《ピコピコハンマー》
例えが、毎年6月中旬から下旬に〈ブラガ〉の町全域で開かれる【サン・ジョアン祭】は圧巻。
ミーニョ地方の人びとは聖ジョアンに絶大な信仰心を抱いている祭りである。
我らは、2008年6月23日に〈ポルト〉の〔サン・ベント駅〕から早朝の列車で1時間20分ほどで〈ブラガ〉に入り、
6時間ほど市民が地区ごとに踊る民族衣装の艶やかさのサン・ジョアン祭りを満喫し、16時50分の満員に膨れ上がった列車で日帰りで〈ポルト〉に帰る。
今夜は〔ジョアン祭の前夜祭〕だ。この日は窓に洗濯物を干せない。
なにせ〈ポルト〉の町はレストランは日々だが、今夜は市民の家の前は名物〔イワシの炭火塩焼き〕で町中が鰯を焼く煙で支配される。
洗濯物は、魚臭くて二度と着れない。干し物、ご法度である。
〈ブラガ〉で歩き回り、坂の多い〈ポルト〉で見知らぬ人びとの頭を、空気が入ったビニール製〔ピコピコハンマー〕で何十人もの頭を『ピコッ!』と打ち鳴らし、
『ピコッ!ピコッ!』と打ち頂(いただ)く。
その度に顔を見合わせ、声を出して笑う。
野老(やろー)も叩かれ振り向くと、『アラッ!』驚き『ジャポネシュ?』親指を立ててグイッ、と突き出すとすてきな笑顔が返って来る。
止(や)められぬ、止(と)められぬ、楽しさである。
もっと止められないのが、紙コップで高級なポルト産〔ポートワイン〕をゴチになる。
鰯に掛けられた塩は、ポルトガル最南端の〈ファーロ〉で作っている〔天然塩田産〕。
だから炭火焼き立て鰯は日本で食べるより美味い。歩き廻ってクタクタ。
宿に帰ったら窓から打ち上がる花火が〔ドウロ川〕の夜空を染めていた。
「けいの豆日記ノート」
祭りだけは、この日に行かないと見ることができない。
6月13日のリスボンのサン・アントニオ祭と6月24日のポルトのサン・ジョアン祭を見るためにポルトガルを訪れた年であった。
サン・ジョアン祭は、ポルトだけでなく、ブラガを中心とするミーニョ地方でも開催されている。
ブラガのサン・ジョアン祭は、ポルトよりイベントの期間が長く、24日前の1週間は、なにがしらのイベントが行われている。
この期間は、町中がライトアップされていたりするので、夜もきれいである。
この時期はブラガのホテルはどこも満員であるという。
《天使の贈り物》
今日も町中のローマ中世祭りを楽しみ、〈ブラガ〉郊外にある海抜400mの丘の上[ボン・ジェズス]の聖地に雨のためケーブルカーで登り、ブラガの町の大俯瞰見る。
そして、『五感と三徳の石段』を、聖地に一歩一歩お祈りしながら登って行く石段を、足元に気を付けながらくだった。
そして、〈ポルト〉行き、18時34分〈ブラガ〉発の列車に乗る。今日も目一杯歩き回った一日であった。
宿に着いたらカウンターの女性から相棒に白いノート大の封筒が渡された。
中に入っていたのは、野老の忘れもの[取材資料ノート]だった。
5月24日(火)ポルトガルで最も高い標高1056mの山あいにある町〈グアルダ〉の宿[レシデンシャルフィりべ]が郵便局から11時16分に発送してくれている。
バスが出発する10分前にバスターミナルに着き、相棒は切符を買いに走り、野老は[靴修理のおじさんの店]を覗き込み、
高速バス運転手に出発を告げられ、慌てて間(かん)、髪(はつ)を容(い)れず、二人はバスに乗り込む。
その時、店のカウンターに置き忘れたノートの運命のことは野老は知る由(よし)もなかった。
我らは9時40分発の高速バスに乗って〈ポルト〉に着いたのが12時25分。
9時40分から1時間36分後の11時16分にはノートは郵便局から発送されていた。
ノート発見は靴屋の親父。発送者はホテルの女性。
野老達が出発して間もなくの二人の優しい連携があったのだ。
「けいの豆日記ノート」
取材ノートは日本語ばかりで、ポルトガル語などは、書いていない。
予定表も日本語ばかりである。
ホテル名だけが、ローマ字表記であった。
住所もなく、電話番号だけの記載であったのに、よく届いたものだと思う。
きっと、ポルトのホテルに電話をしてくれたか、または、ホテル住所録で探して、住所を確認して送ってくれたのではないか。
ぎっしりと書かれたノートは、大事なものだと思い、送ってくれたのだろう。
後1日遅ければ、ポルトを離れていて受け取ることはできなかっただろう。
グアルダのホテルの受付担当の女性の思いやりや親切さを考えると、いまだに涙が出てくる・・・折鶴の恩返しかもしれないと思った。
我がノートに張り付けた相棒作成の行動一覧表を見て、宿の女性が間に合う範疇(はんちゅう)を見込んで、ここ〈ポルト〉の宿[ホテルジラソル]に送ってくれたのだ。
それも、ドンぴしゃりの移動日の前夜にである。
国内でも4日間もかかる。日本からポルトガルへの郵便物は20日以上かかった経験がある。
でもでも、感謝感謝だ!
この感謝の気持ちは、明日行く〈アザルージャ〉のド田舎に住む[ドン・ガバチョ画伯]家(ち)から電話してもらうことにした。
喋れないって、辛い。情けない。まことにありがたい、天使の贈り物であった。
●漢字に(・・・)と読みを入れていますが、読者の中に小・中学生の孫娘達がいますので、ご了承ください。野老●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2018年3月に掲載いたしました。
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