「ポー君の旅日記」 ☆ 中世祭りのペネラ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・10≫
=== 第三章●コインブラ起点の旅 === 中世祭りのペネラ
《5人旅の始まり》
5月27日(日)、ホテルの前で14時15分、迎えに来てくれた[コインブラ]在住のKIMIKOさんの車に乗った。
車中には仲間の2人がいた。「あっち向け、ホイ!」仲間である。
今日も2日前に彼らの幼稚園に行った朝と同じように、後ろ座席のふたりの安全シートに挟まれ座った。
早速、きた、嬉しいポルトガル語のスコールだ。
5歳児の男の子と2歳児の女の子は、昨日の11時間に及ぶ〈隠れ里・ピオダン〉3人旅の間は、義母の家でお留守番だった。
しかし、今日は近場の町のお祭り見物である。だから、楽しい5人旅になった。
今日の撮影取材旅は、KIMIKOさんが提案してくれた[ぺネラ]という町で毎年行われる「ペネラの祭り」であった。
日本を旅立つ前に調べてみたがヒットせず、出たとこ勝負である。コインブラから40キロメートル南下した丘陵地帯にペネラの町はあった。
ちょっぴり値が張ったが、今でも大切に使っている10年前に名古屋丸善で予約購入した「ポルトガル道路地図」を見ても[ぺネラ]はやや太め字体で書かれていたので、それほど小さな町ではなさそうだった。
50分ほどでペネラの町に入った。
坂道を上った突き当たりの細長い公園で車を止めた。
長い列で駐車されていた一画に、どーぞとばかりに一台分空いていた空間に、KIMIKOさんは車をねじ込んだ。
「けいの豆日記ノート」
昨晩、KIMIKOさんから電話があり、「日曜日にペネラという町で中世祭りがあるので、いっしょに行きませんか?」という話があった。
「予定もあるでしょうから無理にとはいいませんが・・・」と遠慮がちに話してくれた。
もちろん、即、OKしたのである。お祭りと聞いて、行かないはずはないのである。
中世の姿をした人たちのお祭りなんて、はじめてであった。
とても嬉しかった。午後2時すぎにホテルまで、迎えに来てくれるという。なんて、ありがたいのだろうか。
《アクシデント》
白壁の民家に挟まれた石畳の坂道を5人組は登った。15時を過ぎている。
まだ、祭りのメインイベントは始まっていないようだ。人びとは次々に5人組を追い抜いて、何十人も登って行った。
城に上る坂道はだらだらと長い。ベビーカーで押し上げられていく2歳児の女の子は、ニコニコ顔だ。
白壁に貼ってある祭りの赤茶色のポスターを見つけた。
城壁をバックに、鉄の仮面をかぶり右手で剣を振りかざし左手に盾を持つ騎士の、勇ましい姿のイラストだった。
【FEIRA MEDIEVAL CASTELO DE PENELA 26E27MAIO 2012】
《2012年5月26日と27日、ペネラ城の中世祭り》と、ポーにも読めた。
それが、KIMIKOさんが見つけ、案内してくれた「ペネラの祭り」であった。石畳の坂の上に城壁が連なっていた。
巨大さはなかったが、まとまりのよい絵に描いたような美しさはある。きっと、住民に大切に守られてきた憩いの城に違いない。
城に入る城門の前でアクシデント発生。5歳の男の子が『xixi(シシ)・・・』と、はにかみ、つぶやいた。
たぶん、おしっこがしたいとKIMIKOさんに訴えているように、ポーには聞こえた。
その声の響きは、まるで子供におしっこをさせる時、おまじないみたいに「シーシー」と声をかける、母親の声に似ていた。
相棒と親子3人は、上って来た坂道を下って行った。駐車した公園に公衆トイレがあるのかも知れない。ポーは城門の前で待った。
「けいの豆日記ノート」
城壁の入口の横にトイレがあった。
きっと、城に入るとトイレがないので、ここで前もって済ましておくのがベストなんだと思う。
トイレは急には見つからないのである。
2つしかないので、順番にベビーカーを見ていた。
城壁の中は、広いのにトイレがここだけなのは、みんな困らないのだろうか・・・
《観察点描》
10メートルを越す城壁の下に白いテントを張り、衣装をぎっしり吊るした店が並ぶ。
祭りの場所を巡回する露天商だ。石畳の坂道を足早に上ってくる人たちは、どう見ても観光客ではなさそう。
男も女も子供たちも皆、この町在住の人か近隣の町の人びとのように、ポーには見えた。それは男たちが皆、手ぶらだからだ。
女性たちも肩に掛けた小さなバックだけの軽装である。みんな、1年に1度の《ペネラ城の中世祭り》を楽しみにきた笑顔ばかりだった。
20分が過ぎた。坂下からの、4人の姿は未だなし。ポーは城門を潜って城内で待つことにした。
城壁沿いの狭い石畳には、それぞれ小さな色とりどりのテントの下で露天の商いをしている。
騎士たちが並ぶ、小さなレプリカ人形専門店が何店も目に止まる。
白衣の戦闘衣装の胸に赤い十字のマーク、左手の白い盾にも赤い十字の印。
右手は剣。十字軍の騎士たちか。ここ、ペネラの城を守っていたのは、はたして十字軍だったのか。
帰国後、KIMIKOさんから忙しい時間の中をさいて祭りのことを調べてくれたメールが、相棒に届いた。
そのメールをポーに転送してくれた。それによると・・。
【なんと、ペネラ城は遥か昔のルシタニア時代に建てられた城の、その城跡にローマ人が建てたものらしいです。
その後、12〜13世紀にかけて改築し増築され、今の姿になりました。町としても歴史があり、創設は1137年。
初代のアフォンソ・ヘンリクスの時代です。国で最も古い町の一つだそうです。
その割に歴史的村々のカテゴリーに選ばれていないのはなぜだろう?周辺の景色が近代っぽくなってしまったからでしょうか?】
いまポルトガルには、100を越すカステロ(城・城跡)が残っていると聞く。
その城がある町の起源の中でも、ペネラの町は最古の一つだと知る・・・。
「けいの豆日記ノート」
城壁の中の露天の店の売り手も買い手も中世の服装をしている。
全部が劇の登場人物のようでおもしろい。
売っているものも少しかわっていた。
お酒は、好みの味にミックスしてくれて、陶器の入れ物にいれてくれる。
その陶器の入れ物は、首飾りになっていたりして持ち帰ることができる。
露天の店が続く道を楽器を演奏しながら通るグループもいる。
中世時代の服ってこんなのだったのかと楽しい気分である。
中世の服のデザインをプリントしたTシャツもあったりして、おもしろい。
日本であれば、着物の前の部分をTシャツにプリントしたという感じである。
《ペネラ城を守っていたのは十字軍か》
KIMIKOさんからのありがたい資料を、何度も読んでみた。そして、ポーなりに調べた。
●ペネラ城を守ったのは、露天商が売るレプリカ人形の十字軍なのかを推測・・・。
<イエスの死後、キリスト教はヨーロッパで広がっていった。
オリエント(中東)では、610年にイスラム教が誕生。エルサレムが聖地の一つとされた。
その後、ローマ帝国が力を持ち、ヨーロッパは急速に発展する。
エルサレムを征服するためにヨーロッパは軍隊を派遣。それが十字軍だ。かつて、十字軍は聖なる集団であった。
白地に赤十字マークはキリストの象徴。神のもとに戦う軍隊である。十字軍を構成していたのは、ヨハネ騎士団とテンプル騎士団であった。
ヨハネ騎士団は、怪我や病気の治療をするための医療団で、赤い十字がシンボル。それは今の赤十字(せきじゅうじ)に受け継がれている。
戦闘を受け持っていたのがテンプル騎士団だ。
十字軍の決定的敗退は、1244年。イスラム軍の反撃を受け、エルサレムから撤退。十字軍はオリエントからも地中海からも退く。
十字軍の兵士たちは、ヨーロッパの各地に散って行ったらしい>
●KIMIKOさんの調べからの推測・・・。
<ペネラの町の創設は、1137年とある。初代アフォンソ・ヘンリクス王(=アフォンソ・エンリケス1世)時代だと言う。
彼は[コインブラ]にある〈サンタ・クルス修道院〉を1131年に建立している。ペネラの町は修道院を造ってからか。
とすると、ペネラ城はペネラの町ができる前に建てられたことになる。たしかに、ルシタニア時代(ルシタニアはポルトガルの古称。
ポルトガルとスペイン西部を含む古代ローマの属州ルシタニアに由来)に城は造られ、更にローマ人によって城を再築した歴史があるという。
そして、12〜13世紀に掛けて改築増築したのは、アフォンソ1世だった。しかし、十字軍がヨーロッパ各地に散ったのは1244年。
ペネラ城の増改築していたころ十字軍はこの地に流れ着いたのか。また、それまで城を守っていたのは?疑問が残る。推理に無理がありそうだ。
●更に、推測してみた・・・。
<今回旅をした[トマール]の〈キリスト修道院〉のことが、頭の隅に引っかかった。
1147年、リスボン北東の[サンタレン]をイスラム教徒から奪回した功績で、アフォンソ1世から土地を与えられたのが、テンプル騎士団だった。
そして、トマールの丘の上に城塞と聖堂を築き、ポルトガルでの拠点とする。テンプル騎士団は戦闘能力に優れていたが、石造建設の石工(いしく)集団でもあった。
その後、テンポル騎士団の業績に危機を感じたフランス国王フィリップにより、1307年フランス国内のテンプル騎士は逮捕され処刑される。
そして、1312年ヨーロッパの国々のテンプル騎士団はすべて解除された。
しかし、テンプル騎士団が禁止されると、ディニス1世が創設したキリスト騎士団を引き継ぎ、ポルトガルの大航海時代を築き上げたエンリケ航海王子をはじめ、ポルトガル王室から代々団長として〈キリスト修道院〉に迎えた。
12世紀から16世紀まで5世紀に渡りキリスト修道院は増改築されていった。
この事実から推測すると、1312年以後はテンプル騎士団(十字軍の一団)がポルトガルでキリスト騎士団と名を変えたが、テンプル騎士団としてポルトガルで活躍したのは1147年からだったと言ってもいい。
ペネラの町が創設されたのは、その10年前の1137年だ。
しかし、ペネラ城の増改築は12〜13世紀にアフォンソ1世が関与したのだから、当然テンプル騎士団の石工技術を生かし増改築に参加した可能性は高いと考えられる>
===ということから、ペネラ城の露天商が売るレプリカたちは、十字軍の赤十字を背負ったテンプル騎士団だと言えまいか。
でも、ポーの推理には弱点がありそうだ。でも、推理は楽しかった・・・。
《ポーも、xixi》
少年の眼が輝いていた。
視線の先には、中世の騎士が振り上げて戦う剣であり盾一式だ。
その目線が、隣りに立つ肩幅がっちりの男に向けられる。少年の眼が、哀願を帯びる。間があって、男が頷く。
少年の顔が喜びに弾けた。ポーは、見た、ミタ。ポーが小学5年生の時、浅草の縁日で父にねだったポーの眼であり喜びであった。
朝顔市なんて初めてであったが、なぜか青い可憐な花びらのイラストに魅せられた。
絞り鉢巻きをしたおじさんが、西洋朝顔・ヘブンリーブルーと言ってさ、日没後10時間後、朝の4時ごろ咲く朝顔だよ、と教えてくれた。
「おまえは、変わったやつだな〜ぁ。絵日記を書くなら、朝起きたら咲いている朝顔を買えばいいのに」と言った父の顔を今でも忘れられない。
その父も、20年前に天に昇った。
木製の剣を売る店先で、感無量にひたっていたが、xixiが襲ってきた。
露天商の親父に「Casa de Banho(カーザ ドゥ バーニョ)」と聞く。
ポルトガル語に弱かったが、大切な言葉は瞬時に出る。
店主は喋る。聞く力がなくても、アクションで認知する力は、ある。〈旅の力〉は、養われていた。
この先の事務所にあると。事務所のエスクリトリオ?がひっかかった。
城内の先に急ぐ時、笛と太鼓の中世衣装の一団が城門に向かって降りてきた。城門から抜けて街中を一巡する音楽隊であろう。
きっと、この町の住民編成の、楽団の若者たちに違いない。
衣装を着こなした村人姿の若くて美人揃いの女性群が、笑顔を振りまき行進してきた。腰を曲げ、杖をついた老婆も来た。
顔は老婆メイクした美女だ。みな楽しそうに吹き、叩き、笑顔の行進である。
ポーは、城門に消えていく40人ほどの行列を見送り、事務所のトイレに向かう。xixiと、声を出してみようと、急いだ。
「けいの豆日記ノート」
剣と盾を売る店をのぞいてみた。
盾の形に切り抜いた板は、1枚ずつ手描きの模様が描かれていた。
いかにも中世風のデザインである。
好きな盾を選ぶと、子供の名前をその場でデザイン的に書いてくれる。
盾の裏には、手で持ちやすいように持ち手を付けてくれる。
はじめから、持ち手を付けると運ぶ時にかさばるので、注文があってから付けるのだろうと思う。
《隈取(くまど)り化粧》
事務所の近くの教会に入る。200人は楽に入れる小奇麗な教会であった。金色に飾られた祭壇も半円の天井画も素朴だが温かさがある。
ペネラの人びとが城の中にある教会を、大切にしてきた温かさが伝わってくる。
町のてっぺんにある教会は、ペネラ住民の心の癒し空間なのだろう。祭りの賑やかさが遮断された教会内部であった。
教会を出たところで、ばったり。KIMIKOさんに出会う。
5歳児君の顔に驚く。手に剣と楯を握りしめ、歌舞伎の隈取り化粧のような顔が見得(みえ)を切る。
ヨッ!コインブラ!と、大奥から声をかけた、ポーがいた。5歳児君は、テンプル騎士であった。
まさか、ここで、隈取り化粧の顔を見られるとは思わなかった。
隈取りは、筋肉や血管の隆起を誇張して、性格を表現。紅は正義である。隈取り化粧は、歌舞伎だけの世界ではなかった。
メイクして剣と楯で10ユーロはするのかなと、ふと思った。
「けいの豆日記ノート」
広場の端っこで顔を描いているところを見つけた。
イラストブックにイラストの写真が貼ってあり、好きなデザインを選べるのだという。
KIMIKOさんの子供の前には、チョウのデザインを描いている少女がいた。
顔のペイントは水性塗料なので、洗えば落ちるという。
子供の誕生会などでもペイントアーティストを呼んで全員に描いてもらうこともあるという。
値段を聞いてびっくりした。ひとり描くのに30分くらいかかるのに、たった1ユーロだという。
ちなみに剣と盾は7ユーロずつするらしい。
《ペネラ劇場》
露天商の前で買い物をしていた人混みが、女性アナウンスのひと声で城内のてっぺんに移動していた。
今日の祭りの最終章が始まるようだ。KIMIKOさん親子とポーも、後を追った。
相棒の姿はなかった。城壁に囲まれたてっぺんは、青空劇場であった。
観客席は段々状に組み込まれた木製の長椅子が連なり、すでに観衆でいっぱいだった。
ステージも板張りである。
白ピンク青オレンジ緑に赤色が、黒地に華やかな帯色で染まり、パラソル見たいなスカート重ねを腰に付けた男が回転しながら登場。
観衆の拍手の波が広がると舞台中央で音楽に合わせ踊りだした。
美しい独楽のようだ。相棒を探す。いた。最前列に陣取り、撮っていた。
「けいの豆日記ノート」
今回の祭りの最大のイベントのイザベル王女物語である。
観客席は、段々になっていたので、上からでも十分に見えると思ったのだが、やはり1番前で座ることにした。
少しでも演者に近いほうがいいにちがいない。
祭りなどのイベントは1番前に陣取ることが大事である。
衣装や役者の演技は大したもので、祭りのイベントとは思えないほどであった。
この祭りのために普段から練習していたにちがいない。
大きなスカートを重ねてグルグル回る踊りは、エジプトのスーフィーダンスであることが後日わかった。
踊りを囲むのは、先ほど行進していた40人ほどの中世衣装を着た人たちであった。
今回の演目は「サンタ・イザベル王妃物語」だという。
サンタ・イザベル王妃には、2回お会いしている。
一回目は[コインブラ]にある〈旧サンタ・クララ修道院〉前に立つ、モンデゴ川とコインブラ大学の丘を見つめるサンタ・イザベル王妃像であり、2回目は[エストレモス]であった。
丘の上にあるカステロの中にある〈サンタ・イザベル王妃礼拝堂〉前の広場に立つサンタ・イザベル王妃像である。
伝説によると、王妃は城からパンや金貨を持ちだし、貧しい人々に与えていた。
ある日、王に見とがめられた王妃イザベルが金貨やパンが入っている包みを開けると、バラの花に変わっていたという。
白い大理石のサンタ・イザベル王妃像は、真っ青な青空を背景に降ろした両手の中に沢山のバラを握り締めていた。
1625年、サンタ・イザベル王妃はコインブラの守護聖女として認知される。
KIMIKOさん親子は座席の最上階で、立って見ていた。城壁に囲まれた青空劇場の背景には、高速道路が見える。
でも、ペネラの住民は自分たちの城を守り、年に1度の中世祭りを盛り上げ楽しんでいる。この日は皆んなで、中世に生きていたのだった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2013年4月に掲載いたしました。
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