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ちょびっとフランス=====シャルル・ド・ゴール航空
☆リスボンの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
リスボン(ポルトガル語ではリシュボーアと発音する)はヨーロッパ大陸最西端の首都。
大西洋に注ぐテージョ川の河口から12km上流の右岸に位置する。
ギリシア神話の英雄オデュッセウスによって築かれたという。
年間を通して温暖で、「7つの丘の都」と呼ばれる起伏が激しい土地である。
5・6月には、薄紫のジャカランダの花が満開になり、町を彩っている。
「ポー君の旅日記」 ☆ ジャカランダの花のリスボン 5 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕 ≪2008紀行文・1≫ 《愛しのポルトガル共和国を追い求め8年。一日二万歩の写真取材紀行》 2年振りで、ポーは旅に出た。6回目のポルトガル写真取材である。 「首都リスボンまで飛行機を乗り継ぎ、よくもまあ20時間余りもかけて行くね」と93歳を過ぎた母に言われる。 ポーは、そのたびに感謝と願いを込めていう。 「帰ってくるまで生きていてね」と。 すると、「死んでも、すぐに帰国出来ないのでしょ」と微笑み、「だから、帰ってくるまで生きてなきゃ〜ね」と母は吐く。 老いた母に言われるのが一番辛いが、必ず、生きて待っていてくれると信じている。 ただ、ポルトガルに行くよと言った時、渋ったのはあのときの1回切りだった。 それは、9月22日にポルトガル初紀行が決まっていたが、アメリカの〈2001年ニューヨーク同時テロ9・11事件〉が あったばかりの11日後であったためだ。 2ヶ月前、航空券はもとより相棒の写真家が撮る100本ものフィルムを旅行バックの中に収め、 ガイドブック〔地球の歩き方・ポルトガル〕を隅から隅まで何度も読み、心はすでにポルトガルに飛んでいた。 正直、9・11事件はショックが大きすぎた。 でも、行けるのは今しかないと思った。相棒と相談し決行。 その時は無謀(むぼう)だったかも知れない。 しかし、その初旅ですっかりポルトガルに魅せられてしまった。 ポルトガル行きを渋った母を悲しませたのはその時だけだ。 翌年から毎年、撮影取材の旅に出る朝は必ず母の手をにぎった。 母の手は小さく柔らかでいつもあたたかかった。慈愛がこもるその感触に留守を託してきた。親不孝なポーである。 ともあれ、なんど行っても、こころ凜凜ポルトガルであった。 だから、ポーをとめないで。 「けいの豆日記ノート」 《旅立ちの朝》 セントレア(中部国際空港)がある伊勢湾上空は厚い雲でおおわれ、ひと雨あってもおかしくない空模様の6月5日(木)の早朝。
旅立ちの朝はいつもあわただしい。大府市に住む相棒の写真家を車で迎えに行き、知多市新舞子駅に舞い戻る。
ポーの家は新舞子駅の裏手、伊勢湾に面した新舞子海岸寄りにあった。
この駅から名鉄の電車に乗れば、10分もかからないでセントレア空港に着く。
その相棒に出発3日前、リスボンから列車に乗って35分ほどの大西洋に面した避暑地カスカイスに住むYさんからメールが届いた。 今回の撮影取材旅は22日間。目的はポルトガルの祝祭日にもなっている二つの祭り、リスボンの聖アントニオ祭・ポルトとブラガの聖ジョアン祭を撮る。 そして、アレンテージョ地方の中心地古都エヴォラとその周辺のスペイン国境近くにある町や村を撮る。 今回の旅の、その3分の2は初めての訪問地であった。 ポルトガル共和国の面積は日本の4分の1ほどで、人口も1050万人程とこぶりのEU加盟国で、 言語はポルトガル語、宗教は90パーセント以上がカトリックである。 今までの旅で60か所を越す市町村を撮影取材してきた。 13か所の世界遺産のうち11か所は訪れたが、ポーにはポルトガルの国全体が世界遺産だと思え旅を続けてきた。 その愛しの地に、旅立つ朝であった。 『あ〜、ユーロに換金するお金を忘れてきた!』
2年前、相棒が雄叫びをあげた、セントレア駅に着いた。
今回は旅の前に、ポーがセントレア構内にある銀行で換金しておいた。
ユーロの高さに愕然とした。手数料込みで1ユーロが178円。
2年前は130円だ。そして、6ヶ月後の12月には1ユーロが110円になった。世界不況が襲った円高である。
相棒の雄叫びが聞こえそうだ。 「けいの豆日記ノート」 《シャルル・ド・ゴール空港》 パリのシャルル・ド・ゴール空港までの12時間余りは快適なエールフランス航空機内であった。 実は、飛行機はJALで好都合だ。それは、目の前の小ぶりのテレビで好きな番組を選択できるからだ。 ポーは映画を見続けた。あの、黒澤監督のリメイク作品〔用心棒〕など6本の映画をフランスまで無料ビールやワインを飲みながら、満喫の空の旅をした。 乗り物に乗ると、すぐ眠ってしまう筈の相棒も、目の前の映像を見続けていた。 映画好きの相棒は、只(ただ、のことをロハというがこの漢字からきている)で見られる映画を堪能だ。 大型スクリーンで映画を見せたいものだといつも思うポーだったが、飛行機の中で見ればいいと言い、劇場に誘っても、もったいない!という。 そのお金を貯めてポルトガルに行こう、であった。それほどケチケチしてポルトガル写真取材紀行を続けてきた。 パリ市街北東30キロメートルにあるシャルル・ド・ゴール空港までは11時間半で着いた。
長くて広い国際空港だ。天井から壁面まで開放的な2階はまさにシースールターミナルである。
晴天なら太陽光線が射る温室みたいな空港だ。 ガラス越しの眼下にプラットホームが見え、電車が出て行った。 未だ見たことのないパリ市街まで25分ほどで行けるらしい。 この空港で4時間ほど待機しないとポルトガルに行けない。 その時間をうまく使えば、パリ市街に行ける。でも、その勇気がなかった。 もし、乗り換え便に遅れたら、ポルトガルでの今まで立てたスケジュールがすべてぶっ飛んでしまう。 それでなくても、2年前は出発変更アナウンスを聞き逃し、5分離陸を遅らせた前科がある。 何度となく変更される出発時間を、今回は耳の穴かっぽじって聞かなければならない。 その前科をこれ以上増やしてはならない身であった。 相棒もいつもなら時間さえあれば手造りの折り鶴が両手のなかで舞っているはずであったが、今回は耳をそばたせていた。 だが、身体は小さいが心根は図太い相棒はベンチで首が折れるほどの熟睡中であった。 だから、ポーの耳は魔術のごとく更にでっかくしておかねばならなかった。 「けいの豆日記ノート」 夜空に向かって満席の機体がシャルル・ド・ゴール空港の滑走路を息せき切って急上昇していった。 フランスは日本との時間差8時間、リスボン行き19時35分発が遅れて20時15分発になる。時間通りにはならない。 遅れて上昇した機体の小窓からフランスの町あかりが見える。あれが、巴里(パリ)の灯か。 その時、機内の明かりが消えた。乗客は観光客ばかりではない。ネクタイ姿が目立つ。 リスボン行きの最終便は、出張族にとってはひと眠りのベッドであった。 映画を10時間も楽しんだ相棒は、飛び立つときはすでに眠りに落ちている。 乗り物に乗ったら必ず眠るいつものパターンだ。 2時間半の飛行時間を持参した文庫本「天使と悪魔」(ダン・ブラウン著)にポーは熱中した。 今回の小説の舞台は、ヴァチカン。 ローマだ。著者が書いた「ダ・ヴィンチ・コード」は映画にもなっているが、この作品はその前に発表された作品である。 なぜこの旅に持参したか。 それは、寺院や修道院、教会などにいろいろな謎を与え、それが推理の鍵につながり、心をときめかせる。 ポルトガルの旅にも、その発想が旅を楽しくさせてくれるはずだ。旅はまさに、推理であった。 本のページをめくる時、右手の腕時計が目に入った。 ポルトガルに着いたらフランスとの時間差1時間をさらに戻しておかなければと思う。 前回の旅で1時間戻しておかなかったため、翌朝のモーニングタイムに1時間早く行って待たされ相棒に殴られた苦渋がある。 (日本とポルトガルの時間差は、9時間である) 相棒との時間差もある。
のんびり者の相棒と、性急気味のポーとの時間差だ。その差で、平均値が保たれていた。
ふたり旅を円滑にしていく術は、平均値を保つヤジロベイの釣り合いにあった。
年の差もある。毎年の写真展での会場で、何十人かの人々に「お父さんですか?」と、聞かれる。
そのたびに「いいえ、相棒です」と答えると「どういう関係なの?」としつこい。
何せわざわざ会場まで来ていただいたお客様だ。笑顔で接しなければならない。
しかし、最近は平然と笑顔で応える。 「けいの豆日記ノート」 《呪われた旅行バック》 今まで10回以上も接してきたリスボン。でも、まだほんのさわりしか触れていない。 それが悔しいとポーは思い続けている。 観光ガイド本に載っていないリスボンの路地を歩き続けて来たのに満足してはいない。 観光旅行では得られない、一日二万歩の歩け歩け撮影取材旅だ。 それが、相棒とポーのポルトガルふれあい旅紀行だった。 歩かないと、満足する人物写真が撮れない。歩くことで、素敵な出会いが待っている。 触れ合える人物の〈その今〉が撮れるのだ。 それを信じて、ポルトガルの旅を続けてきた。何人の人々との出会いがあったか。 撮影のたびに手渡した相棒の感謝の〈折り鶴〉が相手の手の掌で何羽舞ったことだろうか。 ポルトガルの各地で2000羽はゆうに飛び立っているに違いない。 その地、その場所での〈折り鶴教室〉も何十回も経験してきた。 あの顔この顔の喜びに弾ける顔が、走馬灯だ。 〈折り鶴教室〉の人々にもその後、その時撮った写真を持って会いに行った。 ひと折ひと折の感触を覚えてくれていた人々に、相棒は素直に泣いた。 それが、もう一つのポルトガル写真取材旅の顔であった。 ポーは祈った。 入国審査で審査官にポンとパスポートに入国スタンプを押してもらい、手荷物受取場ゲージクレームに向かっていた。 2年前の悪夢が襲ってきたからだ。 ターンテーブルの周りには自分のバックや荷物がはき出され回転盤に乗って来るのを待つ人々がいた。 2年前、ポルトの空港では30分待ったがターンテーブルにポーの旅行バックは姿を現さなかった。 初めての経験に右往左往した苦渋がポーにはある。だから、祈った。 でも、心優しいポーの祈りは天に届かなかった。 リスボンのターンテーブルでも、30分待つがポーの旅行バックは姿を現さなかった。 まさに、ポーの旅行バックは呪われていた。 ロストバゲージを探し、順番を待つ。今回もロストされた人の列が長い。 30分も待たされカウンターで申し出た。 宿泊ホテルの電話番号を用紙に記入し、セントレア(中部国際空港)でもらった荷物受け渡しの半券を添えた。 右往左往せずに済んだが、バカヤロー!と一言小さな声で呟いていた。 お気の毒ですね、すみませんね、なんていう気持ちが係員からは伝わってこない。 ロストは、日常茶番だぜという〈顔〉であった。ロストされた者は、ご利用客ではなかった。 待っていた列の横を日本人夫婦が通り過ぎた。そして笑顔で言葉をかけてくれた。 不幸な役を仰せつかった仲間意識で会話をした。 神奈川県からのツアーで、仲間もロストされたとほほ笑んだ。こころ広い夫婦であった。 ポーみたいな暴言は決して吐かないだろうと思う。 だが、この呪われた旅行バックがとんでもない出会いを運んできた。 6ヶ月後の12月、『愛しのポルトガル写真展part15』の会場にわざわざ神奈川県から 名古屋市栄まで見に来てくれたのだ。 深夜のリスボン空港ロストバゲージでの、ほんの5分ほどの出会いだったのに。 相棒とポーは嬉しさで、比嘉さん夫婦の手を握りしめていた。 ポルトガルの旅をしていたからこその、天が与えてくれたご褒美である。 だから、ポーをとめないで。 「けいの豆日記ノート」 《深夜のタクシー》 飛行機を降りてから長い通路を歩き、トイレで用を足し、荷物が出てこなかったターンテーブルで30分、
ロストバゲーンで40分ほど待ち時間があり登録を済ませ、タクシー待ちもあって空港を出るまで2時間も費やしていた。
6回目の、愛しのポルトガルにやっとこ着いたポーは空港建物を出て深夜のリスボンの空気を吸い込んだ。
夏の始まりだというのに冷たい空気に戦慄(わなな)いた。
リスボンのタクシーは〈スピード狂〉として知られている。深夜のタクシーは特に暴走気味であった。
のんびり車窓の風景を楽しむ余裕はない。車中のどこかにしっかとつかまっていなければ不安だ。
ポーは思わず、叫ぶ。 「けいの豆日記ノート」 相棒がインターネットで探しだし予約しておいた宿、【レジデンシャル・モザンビーケ】には
空港からタクシーで20分ほど、深夜の1時半に着いた。
3泊するリスボンのホテルは、淋しげな明かりに照らされて待っていた。
石畳がくだる坂の歩道に、右に段差幅が広がる石段を5段登って、ガラス戸の入り口にあるブザーを相棒が鳴らした。
狭いカウンターから黒人の青年が顔をあげるのが見えた。寝ていたのかも知れない。
カチャ!鍵が開く。安宿はいつものことだが、ポーの背には不安が走る。
「けいの豆日記ノート」 《リスボンの朝》 翌朝6月6日(金)、腹が減ってポーは目が覚めた。
昨夜は、愛知県の新舞子の自宅で目覚めてから30時間以上もリスボンの宿に着くまで一睡もせず、
呪われた旅行バックがロストされたために着替えもなく、風呂も入らず、
底冷えのする部屋で着のみ着のままベッドに倒れ込み眠った。
目覚めは、腹が鳴っての目覚まし時計だった。右手の腕時計は6時半。窓の外はまだ薄暗い。
目が覚めたら二度寝が出来ないポーは8時のモーニングタイムまで、今回の旅に持参した文庫本
「天使と悪魔」(ダン・ブラウン著)の続きを読もうかとベッドから着のみ着のままの姿で起きあがった。 宿の外に出た。明け方の空気は冷えていた。もこもこ姿の相棒は温かそうだが、ポーには着替えがない。 もう街は、起きていた。 朝の散策でポーは身体を温めた。坂を下った分だけ上って来なければならないからだ。リスボンは坂だらけの町である。 撮影をするというより2年振りの歩きにくい石畳ばかりの首都リスボン足慣らしの1時間であった。 ほとんどの宿で無料モーニングが食べられる。宿賃の中に含まれているシステムだ。 高級ホテルでは高級ホテル並みに豪華だが、安宿はいたって簡素だ。パンにコーヒー、牛乳、ジュース、旨くないハムにチーズ。 オレンジなどの果物が出る宿もたまにある。その時はなぜか得をした気持ちにさせる。 ポーはパン2個とオレンジジュース2杯、チーズ3枚で腹を満たした。相棒はポーの倍は食べた。 しかも、持参した空ペットボトルにオレンジジュースをなみなみと・・・。 せこいがケチケチ旅の知恵。神様お許しを、アーメン! だから、相棒もとめないで。 「けいの豆日記ノート」 《ジャカランダの花》 青空から朝日が射す石畳を下っていた。
ガガガッと、賑やかに自動車のタイヤが石畳の数だけ拾った音を響かせ上って来る。
ガイド本の地図を見ていた相棒が朝の散策より一筋山の手の道を選んだ。
リスボンを代表するメインストリート〈リベルダーデ通り〉に行き、その通りにある〈在ポルトガル日本大使館〉で挨拶しておきたい人がいた。
ポーはリュックを背負いメモ帳を手に、相棒は肩にカメラバックを掛け、ニコン一眼レフカメラを首から提げて坂道を下っていた。
道幅も広く店も多く宿の前の坂道とは雰囲気が違う。ホテルの建物も朝日を浴びて華やかに見える。 青くて広い空が目の前に広がった。 その広い空間に、大理石の白くて高い塔が天を突き、その上にライオンを従えた人物像があり、 その眼下には木々に覆われたリベルダーデ通りが広がっている。 その像〈ポンバル侯爵像〉が朝日を浴びて浮き上がっていた。 ポンバル侯爵はポルトガルを代表する政治家である。 彼がいなかったら今日のリスボンはなかったかも知れないとさえいわれている。 1755年のリスボン大地震はポルトガルの生死に等しかった。 リスボン再建など多くの分野で近代ポルトガルの基礎を築いた人物がポンバル侯爵であった。 その銅像がテージョ川まで広がるリスボンの町を見下ろしていた。 ポンバル侯爵像の周りはロータリー広場になっており、観光バスや自動車が忙しく行き交っている。 『ポー、あの花は、ジャカランダじゃないかな?!』
広場の反対側に桜が咲いているような色合いの並木が見えた。
相棒が探し求めていた6月には咲くジャカランダの花かも知れない。
今までにポルトガルに来た季節は、1月2月4月5月9月10月11月と比較的航空料金や宿泊代が安い時期が多く、
6月からの夏季は初めてである。そのため、ジャカランダの花には縁遠かった。 その長い地下道を相棒の勘で進む。
通勤者群とすれ違うが先を急ぐ慌ただしさがない。
腕時計を見る。
10時。長閑(のどか)な歩調だ。地上に出る階段を上がる。
相棒が何度も夢に見たというジャカランダの花が満開で迫ってきた。
青空の中で咲き乱れるジャカランダの花は、遠目だと桜のように見える。
しかし、近くで見ると紫色だ。花びらは筒状で芯が白い。葉はシダのよう。
聞きかじりだがジャカランダのことを南米ではキリモドキ(桐擬き)、ハワイでは紫の桜と日本から移民した人々は呼んでいるという。
確かに花びらの形状は桐の花に似ていた。 「けいの豆日記ノート」 《在ポルトガル日本大使館》 在ポルトガル日本大使館はリベルダーデ通りの坂道を下る途中のビル5階にある。
ビルの受け付けカウンターでパスポートを提出し行き先を告げ、エレベーターを降りると大使館の事務所に
中に入る前にボディ―チェックがあり、カメラは一時没収され荷物は感知器に通される。
その役目を終えるとおじさんが二カッと笑み、お元気でしたかと聞いてきた。
7年前はじめて会ったときは9・11ニューヨーク同時テロ事件があった翌年だったので顔つきが厳しかった。
背の高い青年が笑顔で近寄って来た。 *「地球の歩き方」参照*
終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 次回をお楽しみに・・・・・・・2009年8月掲載 |
掲載済み関連写真 === ≪ポルトガル写真集≫ リスボン1〜4
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☆ リスボンシリーズです ☆
リスボン1
・リスボン2
・リスボン3
・リスボン4
・リスボン5
・リスボン6
・リスボン7
・リスボン8
・リスボン9
・リスボン10
・リスボン11
・リスボン12
・リスボン13
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