「ポー君の旅日記」 ☆ ジェロニモス修道院とジャカランダのリスボン12 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・19≫
=== 第六章●リスボン起点の旅 === 乗り放題一日乗車券でぶらり旅のリスボン12
《一日乗車券・地下鉄》
6月5日(火)の朝も快晴だった。宿からジャカランダの花見をしながらポンバル侯爵公園に向かう。
昨日は12時から、今日は8時からの散策だ。同じジャカランダ並木道を歩いたが、陽射しの角度と光線の強さの差でジャカランダ並木の景観雰囲気もまるっきり違って見えた。
ポーは朝のジャカランダの花が気に入った。薄紫色に濃さと深みと柔らかさが感じられた。
『朝のジャカランダっていいね〜え』と、相棒がシャッターを切って振り向いた。やっぱりな、とポーは頷いた。
ファインダーを覗き、ピントを合わせた瞬間、感知したに違いない。
ポンバル公爵公園に出て地下鉄に乗る。自動販売機で一日乗車券カードを相棒が買った。ポーにはそんな技は無理だった。
カードは5ユーロだったが地下鉄、路面電車、バス、ケーブルカー、エレベーターに一日中乗り放題というお得なカードだった。
ケチケチ旅が身に沁みている。さて今日はどれほど活用できるか。なんだか、忙しくなりそう。
だって、5ユーロの元を取らねばと乗りまくるに違いない相棒先導のリスボンぶらり旅。
宿のモーニングタイム中に相棒が言った。『今日のリスボン散策は、乗り物編で行こうよ。テーマがあった方が面白い旅になるかも知れないよ』と。
昨日は、乗り物を使わず全て歩いたリスボン散策であった。
フェリーには乗ったが。テージョ川を歩く技はない。万歩計は、やはり2万歩を越していた。22812歩だった。
ポンバル伯爵広場から地下鉄ブルーラインに乗り、バイシャ/シアード駅でグリーンラインに乗り換え、カイス・ド・ソレ駅で降りた。
何度も来て乗っているのに、方向音痴のポーは相棒について行くだけであった。情けないったら、ありゃしない、ていたらく。
「けいの豆日記ノート」
リスボン滞在も後2日になった。
今回は、マフラ修道院とジェロニモス修道院を 再々再度、見たかった。
ジェロニモス修道院の休刊日は月曜日、マフラ修道院の休刊日は火曜日であったので、休館日にかさならないようにジェロニモス修道院を先に見ることにした。
1日、リスボンにいる場合は、1日乗り放題券を買うことにしている。
いちいち、チケットを購入するのが、面倒なこともあり、4回乗れば元をとれる勘定である。
1日というのは、その日だけという意味でなく、購入した時間から24時間有効であるので、午後に買っても翌日まで使えるので、日本のシステムよりいいと思う。
《リベイラ市場の実況》
20分もかからずで、地下鉄カイス・ド・ソドレ駅に着く。昨日はここまで3時間半ほどかけ歩いてきたのに。
途中、在ポルトガル日本大使館に寄り道などしたが、4路線ある地下鉄を利用すれば便利だ。
地下鉄を上がるとカスカイスに行く列車のカイス・ド・ソドレ駅があり、その目の前に2階建のオレンジ屋根の大きな屋内市場がある。
その中央にドーム状の白い建物がひと際目立つリベイラ市場であった。
市場は朝に限る。中に入った。広い、賑やか、熱気で満ち、売り声がドームにこだまする。久しぶりで朝の市場に来たと実感させてくれた。
1876年以来リスボン市民の台所として愛されてきたというが、常設市場が市民に親しまれている所が少なくなっている実情を各地で目撃してきた。
日本でもそうだが衰退の原因は、大型スーパーマーケットの出現にあった。しかし、リベイラ市場は凛(りん)と生き残っていた。何故か嬉しくなるポーがいた。
では、リポーターを呼んでいますので、市場の様子を実況してもらいましょう。
[ハイ、ハ〜イ、というわけで、こちら常設のリベイラ市場です。
なんたって、海の幸!で名高い、リスボン市民の台所です。
まず、ご覧ください、目ん玉まっ黒、ピカピカ輝くうろこの美しさ。炭火で焼いて、レモンをかけて食べる市民の常食のイワシです。
リスボンに来た方なら一度はレストランで召し上がっていますよね。
で、こちら、真っ赤なタイに、肉厚のヒラメ、それにでっかい干したバカリュウ。日本でもお馴染みの干しタラです。
ポルトガルの人には欠かせない魚の王様なんです。365種類タラ料理があると言われている国民的愛好のタラなんですね。
ポルトガル在住の友人であるドン・ガバチョさんが言いました。レストランで「バカヤロウ!」って言えば、タラ料理が出てくるよ、と。
ちょっとばかり乱暴ですが、正解だったからドン・ガバチョさん、感謝です。で、これ、立派な銀色の太刀魚(たちうお)でしょ。
おっ、日本では見たこともない真っ黒な太刀魚もいるんですね。
さて、こちら、この脂がのった分厚いマグロの切り身。決して日本の青森県大間(おおま)のマグロに引けを取らない身のしまりの美しさ。
ワサビを軽くのせ、醤油にチビッとつけ・・・堪りませんね〜、溶けますね〜え。
えっ、切り身をオリーブオイルで、焼く!う〜ん、それも美味しいかも・・・でも、獲りたてのマグロです、勿体ない気もしますが。
お〜ッ!こちらは、生きのいい鰻がニョロニョロ暴れています。色つや太さも、申し分なし。
でも、鰻重はこちらでは残念ながら食べられません。蒲焼にする技がない、タレがない、食文化がない。
パパバ〜ンと、鰻をぶつ切りし、焼く。ど〜もピンときませんが、ここはポルトガル。朱に交われば朱の調理方?でご勘弁のほど。
でも、鰻大好き人間の私。日本の味である鰻情報を、語らずにはいられません。
蒲焼にする料理方法は、静岡県の浜名湖を境に東と西で大きな違いがあるんです。
鰻を、蒸すか蒸さないか。背開きか、腹開きか。鰻自身は知るよしもありません。
幼少の頃から、蒲焼は関東風で育ちました。鰻を背開きし、頭を落とし2〜3枚切りにし、串刺しし、備長炭で素焼きし、手返しし、蒸す。
そして、命をかけた秘伝のつぎ足しのタレに投入。ここからが勝負。
うちわの強弱で黄金色に焼き、職人技で焼き具合いを吟味。何度焼いても、ぶれない仕事技で、究極の蒲焼を完成させる。
こんな、蒲焼技術を「愛しのポルトガル」に求めてはいけません。ポルトガルの人びとは、日本古来からの伝統技、蒲焼の味を知らないのですから・・・。
名古屋の鰻料理に、ひまつぶし、いや、ひつまぶしというのがあるんですが、ご存じでしょうか。
腹裂きを蒸さずに、頭を付けた1本焼き。タレに潜らせて焼き、細くザクザクザクと切る。
蒸していないから身崩れしない。鰻丼としてもうまいが、鰻茶づけにしてもうまい。あ〜ぁ、鰻丼鰻重が食べたくなった。
でも、鰻貧困国ジャパオンよ、ポルトガルに熱き視線を。決して遅くはない。
アタックするのは、いつ?それは、今でしょ!早いモン勝ちで、天然鰻の宝庫ポルトガルに大集合!この情報、これ、企業秘密だぜ〜え。
あっ!これ、これは何?魚売り場に場違いのサッカーボールほどの網に何百匹と・・・。
この巻き具合いのデザイン模様、じぇ、じぇじぇっ!動いています、アッ飛び出した。目ん玉だ〜。
なんということでしょう、カタツムリではありませんか!これを、煮て、白ワインで食べる至福のいっ時をご経験なさったお方はいらっしゃるでしょうか?
可愛くて、生きがいいでしょ。♪角出せ、槍出せ、頭〜だせ♪えっ、歌うな、お前の唄声で食が失(う)せた。
いや〜、こりゃまた、失礼をば、いたしましたッ!りポーターは、すぎさん、でした。チャゥ(バイバイ)?]
《一日乗車券・路面電車》
リベイラ市場前から一日乗車券カードを使って、テージョ川沿いの平地を15番路面電車(市電)に乗って西に向かった。
15分ほどで世界遺産のジェロニモス修道院の前で降りた。10時10分、ジェロニモス修道院の入り口には、人の山ができていた。
相棒の機転で、一角にあった国立考古学博物館を先に見ることにする。入場料は相棒が5ユーロ、ポーは2.5ユーロ。65歳以上は半額だ。
ここには、アレンテージョ地方で発掘された巨石文化遺産後の出土品や青銅器時代の像や古代ローマ時代の彫刻などを展示していた。
今まで、何度もリスボン西部の世界遺産地帯に来ていたが、ここは初めてであった。
時間の余裕は大切である。余裕がなければなかなか立ち寄れない博物館だった。
真っ青な空の下でひと際、目を引くのは、ジェロニモス修道院の南門だ。
1518年建立の南門は、1時間眺めていても飽きないほどの魅力があった。
マヌエル様式で飾られた大理石の豪華な彫刻の門である。聖母マリア像を中心に24人の聖人や聖職者の像が刻まれている。
見上げるたびに首が痛くなるがやめられない。
ポルトガル大航海時代の基盤をつくったエンリケ航海王子は、大きな二枚扉の間の、柱の上にいた。
「けいの豆日記ノート」
ジェロニモス修道院のチケットを購入するつもりであったが、手前にある考古学博物館のチケットを購入してしまった。
やけに空いているなあと思ったし、料金も安くなっているし、間違ったかなと思ったが、ついでに見ることにした。
まあ、見ておいて損はないだろう。
余談だが、映画になった『テルマエロマエ(ローマ時代の建築家が日本の銭湯にタイムスリップする話)』の作者がリスボンに在住していたときに参考の為によく訪れたらしい。
《ポルトガル絶頂期建立のジェロニモス修道院のすごさ》
世界遺産のジェロニモス修道院入場料は、相棒は7ユーロだがポーは3.5ユーロだ。ここも65歳以上は半額だった。
ポルトガルは、高齢者に優しかった。
各地で入場料を払う所は半額料金が多いので、65歳以上の紳士淑女よ、すぐパスポートが見せられるよう、心掛けておくといい。
もたもたするなかれ!日本の高齢者は機敏なのだ!老婆心ながら・・・。
あれっ?なぜ、ばばあの文字なんだろう。老爺心ながら、ではいけないのか。
で、入って、まず驚嘆するのは中庭を囲む回廊だった。回廊は2階建で、1辺が55メートル四方の建造である。
1階はフランス人建築家ボイタックが作り、その死後2階をジョアン・デ・カスティーリョが引き継いだと知る。
1階も2階もアーチ状の天井は高くゆったりとして、柱のデザインも凝った大理石の掘り模様だ。
鎖、波、珊瑚、太い縄の結び目、海藻などが繊細に彫り込まれていた。
マヌエル様式の最高傑作といわれる細やかさ、優美さ、力強さ、品格に満ち満ちた回廊は、中庭側はすべて広いアーチ状で開け、
そこには踊るような具象装飾が石灰岩に綿密な彫刻で施してある。
55メートル×4面で、220メートル。そこを1〜2階で3周ずつ、計1320メートルも見て回ってしまった。飽きないのだ。新しい発見もある。
マヌエル1世の時代に完成した様式美がこの回廊に凝縮されているという。声をかけなければ、相棒はもっと回ったに違いない。映像に、どん欲であった。
そこまで踏み込んで撮ってもいいのか、とハラハラするポーだった。でも、ポーはその姿勢を好んだ。ポーにはできない、根性があった。
2階の回廊から内部に抜け出ると、そこはサンタ・マリア教会の大ドームで覆われた中2階であった。
手摺りから身を乗り出して見た教会はあれ?と思うほどの、細い柱が何本もドームの天井まで延び、その入り組んだ模様が美しい。
天に向かってそびえる柱はヤシの木を模し、天井の模様は海が刻まれているという。
中2階から下を見ると、教会内は人の波である。天窓のステンドグラスから差し込む多彩ないろ明りが神秘的な色合いであった。
エンリケ航海王子が始めた、ポルトガル大航海時代への夢の実現を継承して行ったのは、アフォンソ5世、ジョアン2世、マヌエル1世ら王室の後継者たちである。
エンリケ航海王子の大航海達成の夢以来70年間、その後半のポルトガルは半世紀のうちにブラジルからインドなど各地に手を広げ、海洋大国を築きあげたのだった。
そして、その大航海時代の華やかな舞台を実現して行った英雄がヴァスコ・ダ・ガマである。
その功績により、海外から得た巨額な富でマヌエル1世は1502年に着工し、引き継がれ、およそ1世紀をかけ完成させた。
そのエンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業をたたえた記念の建物が、世界遺産になったジェロニモス修道院であった。
ここを見ずに、ポルトガル大航海時代は語れないと感じた。
「けいの豆日記ノート」
ジェロニモス修道院は、はじめてポルトガルに訪れた時に見ている。
その後、何度も訪れているが、フィルム時代であった。
デジタル1眼カメラに変えてから、内部を撮っていなかった。
フィルム時代は、枚数に制限があり、たくさん撮ることができなかった。
なので、今回、しっかりと写してこようと思ったのである。
青空にも恵まれて、絶好の撮影日和である。
《緑豊かな公園のジャカランダの花》
2時間ほど堪能し、別世界を夢遊できた喜びを引きずって外に出た。
真っ白い大理石のジェロニモス修道院の建物に太陽光線が反射し、その眩しさで現実に戻された。
目の前に広々とした樹木の中に、ジャカランダの花が点在して見えた。
道路を横切って公園に入ると、子供たちがジャカランダの花の重さで垂れさかる樹の下で、ピョンピョン跳(は)ねる姿に、相棒のシャッター音が響いた。
リスボンの子供たちも日本の子供たちも、ジャカランダと桜の違いはあれど、花を愛(め)でる姿は同じなのだと強く思い嬉しかった。
その公園の中にカンボジアの黄金の小振りな建物があった。場違いであったが、子供たちには人気がある。
相棒も気に入ったようで、角度を変えて子どもたちの笑顔を撮っていた。
家族で楽しめる大樹が繁る公園から、世界遺産であるテージョ川岸に建つ発見のモニュメントが見え、ジャカランダの花越しにベレンの塔が見え、振り返ればジェロニモス修道院が輝いて見えた。
12時半。腹が減った。公園内にマクドナルドがあった。
トイレを借りた後、チーズバーガー(1.00)、チキンバーガー(1.25)ポテト大(1.8)、コーラ大(1.8)、ファンタ大(1.8)計7・65ユーロ。
久し振りのマック食。ポルトガル各地を歩いてきたが、マクドナルドはその地の一等地に鎮座していた。
「けいの豆日記ノート」
晴天に恵まれた休館日開けの火曜日は、社会見学の子供たちのオンパレードであった。
満開のジャカランダだけでもうれしいのに、子供たちがたくさんいる。
ワクワク状態である。
暑い日だったので、公園の売店には、アイスを買う子供たちの行列ができていた。
この公園には以前、日本から送られた桜の木を100本植えたという。
でも、残念ながら枯れたらしい。
気候が違うせいなのか、管理方法なのかわからないが、ロサンゼルスのような桜並木ができる日がくるといいな。
マクドナルドで、日本でいう100円バーガーを食べてみた。
1ユーロなので、日本より高くなるが、しかたない。
飲み物を小にすればよかったのに、暑かったので、大にしてしまった。
多かったかなと思ったが、もったいない精神で無理やり全部飲んでしまった。
バーガー代より飲み物代のほうが高つくことになってしまった。
トイレの入口に暗証番号をいれる番号がついていた。
レジで番号を聞いて入るらしい。
トイレだけ借りる人も多いので、予防策なのかもしれない。
《白亜の教会、エストレーラ聖堂》
一日乗車券を最大限利用しなければと先を急ぐ。東に向かって3両編成の15番新車路面電車は走る。
そして、テージョ川岸のコメルシオ広場で降り、少しばかり北に向かって歩きバイシャ地区から一両車28番チンチン路面電車に乗り換えた。
いつもだと、ロシオ広場があるバイシャ地区の東にあるアルファマ地区一帯に歩いて行く。
そこには1755年のリスボン大地震を逃れたリスボンで最も古い街並みが残っているからだった。
狭い路地を、家すれすれにゆっくり走る路面電車は、見ても乗っても迫力満点だ。まるで遊園地のよう。
ロシオ広場から路面電車を追いかけ、一日中歩きまわる楽しい場所だった。狭い路地路地は洗濯物であふれ、住民の声が響いてくる。
夕方にはイワシを焼く煙が襲う。じいさんばあさん子ども達の日常の声が響く。その温かさいっぱいの雰囲気が、相棒の大好きな世界であった。
さて、乗りかえた28番路面電車は再び西に向かった。
15番線の北側を走る坂の多いバイロ・アルト地区を、コトコト車体を軋(きし)ませてゆっくり走る。
5分の4はキョロキョロ視線が忙しい観光客である。急な坂道を路面電車は息急(いきせ)き切って登って行くと白い洒落たドームの建物が見えて来た。
相棒は降りる合図のひもを引っ張り、『降りるよ』とささやく。白いドームが印象的なエストレーラ聖堂前で降り、初めて入ってみた。
丸いドームの眩(まぶ)しい半円天井を見上げる。そこには、まるで宇宙空間を思わせ天に吸い込まれるような模様の繊細な造作があった。
そのすぐ下に明りとりの窓が円周上に並び、外部の光を吸い込み聖堂内部を柔らかく包みこんでいた。堂内天井は高くごてごてした飾りがないシンプルな幾何学模様である。
壁は大理石の色合い、輝き、肌触りを十分に生かした青味というか薄い緑というか不思議な色合いの大理石が、一枚板のように天井まで張り込んであった。
大理石の清々しさが強調されていた。床も大理石をふんだんに使っている。灰色、黄色、桃色などが平板状に組み込んだ石畳模様風に描かれている。
建物全体が大理石産地国ポルトガルこその贅沢さである。
女王マリア1世が待望の王子誕生を神に感謝して1779年に建設を開始し1790年完成のネオ・クラシック様式の聖堂であった。
ジェロニモス修道院を見た後では、どんな建物も勝てない。目が養われた後であったが、エストレーラ聖堂を見くびってはいけない。入場料は、無料だった。
「けいの豆日記ノート」
いつも、最終日に1日乗車券を買って路面電車を乗り回すのだが、なぜかエストレーラ聖堂を通り越していた。
あっと思うと通り過していて、結局、終点までいってしまっていた。
今回は、下車してちゃんと見ようと思った。
教会の内部は、ほとんどが無料である。
カテドラルなどで、回廊とか、博物館があるところは、料金がいるが、普通の教会は基本無料である。
教会の内部は、博物館なみにすばらしくみごたえがあるところが多い。
何度もきているリスボンだが見ていない教会は多い。
これから、どんどん見るようにしようと思う。
《首都リスボンの国会議事堂》
聖堂を出た目の前の路面電車停留場で『終点まで行ってみよう』と相棒。再び28番線に乗った。
ガラガラだ。急な坂道を登る。ジャカランダの花が見えて来た。
終点の大きなブラゼレス墓地のジャカランダであった。折り返しは10分後。花屋の露天店が目に着く。
森林公園のように大きな墓地が目の前に開けた。花屋さんが多いのも納得である。花屋には天敵の陽射しが強い。
どの店も日除けの白いテントで覆(おお)われていた。
『ここに来る前に車窓から見えたジャカランダを見よう!』と、10分前に乗って来た折り返し28番線に乗る。
この地帯は急な坂道の多い地形である。ひと坂下るとジャカランダの花が見えた。
降りる合図のひもを相棒が慣れた手さばきで引っ張り、降りた。
その、ジャカランダの花のトンネルを抜けると、ひと際高い位置に国会議事堂が現れた。
まさかの、拾いものに出会った。制服制帽で銃剣を握りしめ立つ凛(りん)とした守衛さんに、国会議事堂見学を交渉した。
当然「ナオン!」と断られた。アポを取らなければ入れないことは判っていたが、ひょっとするかもしれない一分(いちぶ)の望みを託したが・・・。
今度来た時は、在日本ポルトガル大使館に嘆願書を早めに送らねばと、ポーは思った。
なにせ、その日その日をばったりばったりの旅だ。
でも、入ってみたかった。
高台にある国会議事堂の玄関前に広がるなだらかな斜面の素敵な石階段に座り、眺めた。バイロ・アルト地区の町の景観と空の青さが一望できた。
そしてまた、28番路面電車に乗り中心地バイシャ地区に戻る途中で、急に相棒が叫ぶ。『降りるよ!』と、ひもを引っ張った。
5ユーロ(650円)の一日乗車券をいかに使うか、ケチケチ精神旺盛な相棒の脳味噌は敏感だった。ケーブルカーのビッカ線に乗るためだった。
「けいの豆日記ノート」
この路線の路面電車は、何度も乗っているが、国会議事堂で降りたことはなかった。
赤い観光ツアー用の路面電車に乗っている人たちが国会議事堂前になると、いっせいに窓からのり出してカメラで写す姿は、外から見るとおもしろい。
観光ツアー用の赤い路面電車には、乗ったことがないが、きっと車内で、「右に見えますのは国会議事堂です。」のアナウンスがあるのかもしれない。
いつもは、降りない場所で降りたのは、国会議事堂の向かいの水色の建物の前にジャカランダの並木道が見えたからである。
どうもジャカランダの花が咲いていると撮らずにはいられない。
ジャカランダの追っかけのようである。
《一日乗車券・ケーブルカー》
7つの丘の街と言われる首都リスボン。坂道だらけで、それも歩きにくい石畳の急坂だ。
ポーは、何時も登山靴で旅を続けて来た。
疲れないし最適である。どれほど石畳が凸凹(でこぼこ)しているか、自動車が坂道を上ってくる音を聞けば判る。
ド、ドドドーッ!ガ、ガガガーッ!と、石畳にタイヤが噛む音で、坂道は賑やかである。タイヤの減りも早いだろうな、と懸念(けねん)していたポーだった。
で、リスボンには便利で高齢者を守るケーブルカーが3か所あるが、グロリア線とラヴラ線はリベルダーデ通りの左右にあり、
バイロ・アルト地区の上部を走る路面電車28番と下部を走る路面電車15番の高低差を結ぶビッカ線は、市民の日常生活に役だっていた。
20分ほどかかる距離を数分で上下できた。ビッカ線の上からは、テージョ川の青い流れが線路の向こうに両脇の建物に挟まれ、観えた。降りたらリベイラ市場がすぐそばにある。
路面電車15番でバイシャ地区に戻るのかな、と思った時、28番線に再度戻ろうと相棒。
降りた時、撮りたいものが、気になったカットがあったに違いない。
18時を5分ほど過ぎていたが、まだまだ太陽は元気な時間帯であった。
また、ビッカ線に乗った。テージョ川が登るに従って広々と広がってきた。
相棒が登る途中でシャッターを切った。おばあさんと5歳ぐらいの女の子が野菜を並んで千切っていた。
今夜の野菜スープの仕込みをしていたのだ。
あッ、これが撮りたかったのかと、ポーは理解した。上にあがって、再び28番路面電車に乗って、急坂をゆっくりくだってリスボンの中心地バイシャ地区に戻った。
「けいの豆日記ノート」
ケーブルカーに乗ってすぐに乗りなおすことは、1日乗車券があるからこそできるのである。
チケットを現金で乗り物の入り口で購入するとすごく割高になるのである。
乗り放題がいいなと思うことは、やっぱ、途中下車していっぱい乗れることである。
しかし、ガタゴト揺られていると、つい睡魔がおそってきて、外の景色を見ずに終点まで来てしまうこともよくあるのである。
なんのために乗ったのか・・・?
《一日乗車券・エレベーター》
5ユーロ一の一日乗車券カード利用に燃える相棒が、最後に選択したのがバイシャ地区にあるサンタ・ジュスタのエレベーターであった。
2001年から始まった『愛しのポルトガル写真・紀行文』旅は、2001年9月22日に初めてポルトガルに行ったのが12年に及ぶ切っ掛けである。
それは、9・11アメリカニューヨーク同時テロ事件発生の11日後であった。今回で7回目のおよそ80市町村をめぐるポルトガル旅となっていた。
世情は変化してきたが我ら旅人は、平平凡凡のふたり旅をぶらぶらとケチケチ旅を続けていた。
同行したいという方々も毎年12月に愛知県の中心地、名古屋市栄にある名古屋市民ギャラリーで、2001年12月から毎年『愛しのポルトガル個展写真展』を開催させてもらってきた。
その会場で、ぜひ同行したい!と語りかけていただく。
でも、旅の内情を話すとパスという方ばかり。
せっかく20時間もかけてポルトガルまで行って、うまい料理も食べず、スーパーマーケットの量り売りで買い、
日本から持参のキューピーマヨネーズ1本をケチケチ絞り出したサラダで毎夕20日間も・・・あんたらに脱帽だと辞退の返事あり。
すみません。それが、我らが今までしてきた旅なのだ。
ポルトガルの美味しいものを食べるために来た旅では、初っ端(しょっぱな)からないのだった。
で、ロシオ広場から幾筋も放射状に路地が伸びている、その南側にある路地の奥に高さ45メートルの巨大な鉄塔がある。
サンタ・ジュスタのエレベーターだ。
一日乗車券を見せ、乗る。内部は木製で仕上げたレトロな雰囲気で広い。木製の長椅子もある。
外部が見える格子状の鉄扉がガラガラ閉まると、ゆっくりと昇る。上昇するに従いに観光客から唸(うな)る歓喜の声が漏(も)れる。
リスボンの景観が眼下に展開していくからだった。
がっちゃん!の音で止まる。扉が開く。
そこには、坂の上のバイロ・アルト地区に通じる連絡橋があった。でも、螺旋(らせん)階段を上って展望台に行くには1.5ユーロ、200円程の料金が必要だった。
今まで3回ほど利用したが・・・これは、なかった。
料金を払って、『そんな〜ぁ!』と相棒は吐き、螺旋階段を登り展望台に。
『あれっ、ない!』オレンジ丸ごと絞ったジュースを作ってくれた店は、きれいになくなっていた。ただの殺風景な展望台になっていた。
だが、ここからの展望景観は相変わらず、絶品であった。
「けいの豆日記ノート」
展望台には、カフェがあったのに、なくなっていた。
いつもお客がいたような気がするので、経営難ではなさそうだが、見晴らしがいい分、風が強いので、安全のため撤去されたのかもしれない。
1杯6ユーロもする生絞りオレンジジュースは、おいしかった。
高いので、最初で最後のオレンジジュースのつもりで飲んだ覚えがある。
東を見ると、サン・ジョルジェ城がオレンジ屋根と白壁の向こうの丘の上に見え、眼下にバイシャ地区の繁華街が模型のように整然と迫ってくる。
北側眼下のロシオ広場は正方形の広場だと知る。その向こうに緑の帯が伸びる。
リベルダーデ通りだ。西側眼下のカルモ教会は手で触れられるほど。
1389年建造の教会で当時はリスボン最大といわれたが、1755年の大地震で崩壊。天井がない姿が痛々しいが、現存されている。
そして、南面はオレンジの屋根白い壁の景観の向こうは海のように広いテージョ川が流れ行き来する船も見える。
19時30分、やや斜めになりだした太陽光線でリスボンの街に立体感を映し出していた。
2日後の朝、リスボンの飛行場から20時間ほどで中部国際空港(セントレア)か・・・。
一瞬、町全体が薄紫色に見えた。ジャカランダの花の色だった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回は、いよいよ2012年版最終回です・・・・・・・今回分は2013年12月に掲載いたしました。
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