「ポー君の旅日記」 ☆ ジャカランダの花咲く首都リスボン11とカシーリャス2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・18≫
=== 第六章●リスボン起点の旅 === リスボン11とカシーリャス2
《エヴォラ駅舎での出来事》
なだらかな石畳の坂道を宿から南に、旅行バック2個を転がした。朝8時20分、6月4日(月)の青空の下を鉄道のエヴォラ駅に向かった。
『重いバック、大変だけれど、先に行って切符を買っているからね』と、相棒は先を急いだ。
石畳は旅行バックの小さいコロをひっかけ転がりにくい。そのため、腕が痛むほどの力が必要だった。
コロをもっと大きくすればいいのに、といつも思い運んだ。ポルトガルは何処に行っても、ほとんど石畳である。
コロが大きいヨーロッパ専用の旅行バックをつくって欲しい。特許申請したら儲かるだろうな、と思いながら力を込めて転がした。
誰も坂道を上って来ないし、誰も追いぬく人もいない。外壁をアズレージョ(装飾タイル画)で囲まれた駅舎内部の切符売り場に行くと、先行した相棒が15番目ぐらいに並んでいた。
駅舎の時計は8時40分。列車に乗る人が意外に多かった。だが、切符売り場にはカーテンがかかったままだ。リスボン行きの列車は9時発だ。後20分もないのに・・・。
ポーはプラットホームに出た。外壁にアズレージョが描かれたその一枚の、コルク採取画の前で待った。エヴォラの郊外は昔からコルク採取で名高い証だった。
銀色に輝く列車が発車10分前に駅舎に入って来た。駅舎構内を覗くと、やっと売り場のカーテンが開いた。間に合うのだろうか。
5分過ぎても8人目ぐらいのおばあさんで、もたもたしていた。その時、15番目の相棒が列から離れて来た。
『車内の車掌さんから買うよ』。発車までに買えるわけがないというのだ。列車に乗り込んだ。
相棒の前後で待っていた乗客も列を離れて来た。それが正解であった。
列を離れた人たちも我らが乗った車両に次々に乗り込んできた。すぐに列車が走りだし、車掌が切符拝見にやって来る。
運がよかった。一緒に乗り込んだ乗客のおじさんが車掌に切符を持っていないわけを話し、相棒を指差し同じ仲間だと言ってくれた。
そんなわけですんなりリスボンのサンタ・アポローニャ駅までの切符が買えた。一人12ユーロだった。
相棒はおじさんに向かって『オブリガーダ!』と声をかけた。おじさんも満面笑顔で「ジャポネーザ オブリガード!」と声を返してくれた。
このひと声は、相棒がポルトガル一筋に各地を追い求める喜びの糧となったに違いない。乗り遅れなかった乗客からも相棒は拍手をもらった。
ポルトガルの人びとは、みな優しさがあり情があった。
「けいの豆日記ノート」
最近、エヴォラの列車が復活したという話を聞いた。
いつもバスで、リスボンからエヴォラまで移動している。
事前に、ネットから調べたら、列車の時刻表は、ため息が出るほど簡素であった。
というのは、運行列車の本数が1日4本くらいしかないのだ。
その中で利用できそうなのが、朝、9時発の列車くらいであった。
前日には、駅の下見をしておいた。
列車の時間も確認しておいた。
ネットの時間が古いままというのはよくある話である。
列車の駅はかなり郊外にあって、普段だと不便なこともあって使わないのだが、今回は、ホテルから駅まで徒歩5分?らしかったので列車に乗ることにした。
5分だからと思ってタクシーを使わず、ガラガラとひっぱっていったのだが、いつもながら石畳の道はたいへんだった。
チケットを買う人の列ができているのに、売り場はひとつしか空いておらず、発車時刻になっても列は続いていた。
待っていたら、列車は行ってしまうよ。
こういうところが、ポルトガルらしいというのかなあ・・・
《リスボンの駅舎》
エヴォラ駅からリスボンのオリエンテ駅まで1時間50分で着く。
ホームの時計は10時50分だった。オリエンテ駅はモダンな幾何学模様の鉄骨の駅舎である。
屋根は透明感があり明るい雰囲気に満ちていた。
鉄道でのリスボンの玄関口とも言えるサンタ・アポローニア駅に行く乗りかえ駅である。
オリエンテ駅は、鉄道でポルトガル各地に行く要のような駅であった。
乗りかえて15分、車窓左手に首都リスボンの象徴テージョ川の雄姿がみえると、サンタ・アポローニア駅に着く。
隣国スペインからの国際列車やコインブラ、ポルトなどポルトガル北部への発着駅である。
また、地下鉄の駅とも接続し、バス停からは市内に気軽に入れる。
駅舎を出るとポルトガルブルーの青空に白い雲がゆったり流れていた。
目の前の軍事博物館は、バロック様式で見事な石造装飾像が陽射しで浮き上がって見えた。
タクシー乗り場までの石畳模様を楽しみ、写真を撮る相棒の姿は重そうだ。
背にはリュック、肩にはカメラバック、それにでっかい真っ赤な旅行バック。移動日は何時も力仕事である。
「けいの豆日記ノート」
列車でもバスでも、到着する時間は、同じようなものである。
バスのほうが1時間に1本のわりあいで運行しているので、とても便利である。
列車は、郊外を走るし、本数も少ないので、どの路線でもガラガラなことが多い。
だが、今回乗った列車は、満員であった。
途中の駅から乗った人たちは、座れない人もいるほどだった。
こんなに利用客があるなら、もっと本数を増やしてくれればいいのにと思う。
せっかく、新しい駅舎と階段エレベーターを作ったのだから。
《ああ、花咲くジャカランダ》
宿までタクシーに乗る。旅行バック2個を積み込む。当然タクシー料金に、バック代2個分の運搬料金が加算される。
日本だとタダなのに。車窓に懐かしい風景が流れてくる。ヨーロッパ大陸最西端の首都リスボンの起伏が激しい街並みが迎えてくれる。
それは、今までに歩いて歩いて、歩き回った景観だった。
ポンバル公爵広場を通り過ぎると、高さ15メ―トルもある大木のジャカランダ並木道が続き、薄紫色の花が青空を支配していた。
『後で、ここに来よう!』と相棒。最盛期のジャカランダのお花見である。
5月中旬から6月中旬までポルトガル各地で楽しめるが、首都リスボンのジャカランダは最高である。今回で、2回目の遭遇だった。
タクシー代7.8ユーロ。ホテル・フラミンゴはジャカランダが咲く並木道の外れにあった。
荷を解き、町に飛び出した時は、12時ジャスト。腹が減っていた。
宿を出るとなだらかな広い坂道を上る。
ジャカランダの花が延々と続いていた。
落下した花弁が駐車しているフロントガラスを薄紫に染めている。
公園の中のジャカランダ並木通りは、大型観光バスがきれいに並んでいる。観光客はジャカランダの花見中であろうか。
この公園だけでもジャカランダの大木が200本はあるだろうか。まさに、ジャカランダの花の楽園であった。
日本では、なかなか見られないジャカランダの花。4年前、相棒がネットで苗を手に入れた。
そのうちの4本を譲り受け、自宅のベランダで日々水をやり、植木鉢で育てている。
順調に育っても、7〜9年はかかるという。幹が大人の腕ほどにならなければ咲かないと聞く。
4年たった今でも、手の親指の太さしかない。
旅立つ朝、97歳になる母にジャカランダの木に水やりだけは忘れないようにと念を押し、出かけて来た。
どうしても、ベランダで咲くジャカランダの開花を目撃したいからだった。咲くまでは生き抜かねばならぬ。
「けいの豆日記ノート」
ジャカランダの花の咲く時期は、5月下旬から6月中旬と聞いている。
花の開花期間は長く、1か月ほど楽しめるという。
気候の関係か、毎年、咲く時期は、ずれてくる。
日本の桜もそうだが、花の開花時期だけはしかたないことかもしれない。
ボンパル侯爵広場のジャカランダは、満開であった。
今回の旅は、ジャカランダの時期より多少早いかなと思っていたので、サンタレンでも、エルヴァスでも咲き始めであった。
このリスボンで、満開のジャカランダを見ることができて、よかったと思う。
ただ、ジャカランダの花を見ると、おっかけのようにジャカランダばかりを写してしまうので、歩くのに、すごく時間がかかる。
《プラタナスのリベルダーデ通りでの出会い》
ジャカランダの花越しに、ポンバル公爵像が青い空に浮かんで見える。
1775年のリスボン大地震の後、こんにちのリスボンを再生させた政治家である。
白い大理石のオブジェの塔の上でライオンを従え、リスボンの町を見下ろしている。
ロータリーになっているポンバル公爵広場の周りは、高級ホテルやレストランがあり、ビジネス街になっていて何時も賑わう。腹が減った。
相棒の勘で、5人ずれのビジネスマンの後を追ってカフェに入る。
変わったカフェで、広々とした小奇麗なショールームみたいであった。
客もネクタイ族で、女性もオフィス勤め風で化粧も決まっている。
ジーパン姿は我らだけだ。スパゲッティ(5.2ユーロ)、巻きサンドウィッチ(4ユーロ)、サグレス生ビール(1.25ユーロ)、アイスクリーム(1ユーロ)で、計11.55ユーロ(1500円)。
食べながら広い窓ガラス越しに道行く人を眺める。観光客より地元のサラリーマン風の人がほとんどだ。当然だ。
オフィス街には、観光客は似合わない。
カフェを出てポンバル伯爵広場から南東にプラタナスの大樹に覆われた広い下り坂が伸びている。
これが大地震のあと造られた幅90メートル、長さ1500メートルのリスボンを代表するビジネス街のリベルダーデ通りである。
通りの中央は市民のための憩いの場になっており、プラタナスの大樹の木陰の下に並ぶベンチで安らぎのひとときを過ごすお年寄りが多い。
ベンチは彼や彼女たちの指定席のようだった。
そのリバルダ―デ通りを3分ほど下った右手のビルディングの中に、在ポルトガル日本大使館がある。来るたびに寄る。
親しかったWさんからKさんに変わっていた。3年ほどで、任務移動があった。
早すぎる。応対していただいた担当者は、Kさんで4人目だった。Kさんはアフリカの任地からこの地に来て1週間もたっていなかった。
失礼ながら、ポルトガルをこれから知ろうという矢先にWさんは転務のようだった。
それでは、赴任地を愛せないし、その国を理解できるはずがない。せめて赴任期間は最低でも5年は必要だ。
12年間ポルトガル各地を歩き続け、少しでもポルトガルの素晴らしさを判って欲しいと遁走している我らの気持ちである。
どういうシステムで、海外の任務地移動を決めているのだろうか。
知るよしもない。しかし、もっといたいわ、と言った7年前のNさんの笑顔が忘れられない。
「けいの豆日記ノート」
今回のリスボンのホテルは、ネットで探した。
ボンパル侯爵広場の近くには、リッチなホテルが建ち並んでいる。
そんなホテルは縁遠いが、その中で小さ目のホテルがリーズナブルだったので決めた。
数本奥に入っただけで、安いのは、とてもうれしい。
リベルターデ通りにガラス張りのカフェがあった。
コンビニのように軽食が並べてあり、好きなものを持ってきて会計をする。
その後に自由にテーブルに座って食べる形式である。
ファーストフード店のような感じである。
《ケーブルカーと焼き栗売り》
坂の多いリスボンには、急坂の高低を短距離で結ぶケーブルカーが3か所ある。
グロリア線・ラヴラ線・ビッカ線の3路線だ。
リベルダーデ通りを下る途中左手にラヴラ線のケーブルカーがあり、通りを下った先のレスタウラドーレス広場からバイロ・アルト地区に登るグロリア線は、急勾配で路線の距離も長い。
観光客も含め利用者が多い路線だ。
黄色い車体は、まっさら。いたずら書き天国みたいなリスボン。4年前もその前も、車体に黒スプレーでいたずら書きを受けていた。
まっさらの車体を見たのは初めてである。車体の両脇は急坂な歩道になっていて、中央に2本のレールが坂上まで延びている。
スピードはゆったり。
歩いているような感じで、住民の生活が垣間見られるから楽しい路線であった。ビッカ線はバイロ・アルト地区の、リベイラ市場の北の斜面にある。
さてと・・・、リベルダーデ通りを下るとポルトガル再独立を記念するレスタウラドーレス広場に出る。
広場中央に高さ30メートルの勝利と独立の精神を象徴するオリベスクの塔が建っている。台座は復興者の像でかこまれていた。
16世紀末から隣国スペインに60年間支配されていた屈辱があった。
そして、民族の自立を願い1640年蜂起し、ポルトガルの再独立を勝ち取った記念の広場であった。
復興者たちを、レスタウラドーレスという。広場の名前はここから来ていた。
そのレスタウラドーレス広場からロシオ広場に抜ける途中に、ロシオ駅の建物がある。出入り口が馬蹄形に造られ、装飾も凝っている。
ここから、豪華な宮殿があるケルースや世界遺産のシントラ方面の列車が発着している便利な駅だ。
駅前の路上でパラソル1本開き、焼き栗を売る白髪交じりのおじさんを相棒が撮る。
冬場はポルトガル各地で焼き栗売りを目にするが、この時期は珍しい。
焼き栗は甘栗ではない。蒸し焼きした栗に、ひと掴みの塩が付いてくるシンプルな焼き栗だ。
「けいの豆日記ノート」
4年前に来た時、グロリア線のケーブルカーは工事中であった。
いつから工事しているのか、ポルトガルに住む日本人に聞いたことがるが、もう1年近くになるらしい。
いつになったら、工事が終わるのか?
夏のシーズンには、間に合うのだろうか?
この辺もポルトガルっぽいのでしょうか。
《消費税率》
ロシオ駅を過ぎると急に人の姿が多くなる。
広場の中央に初代ブラジル国王となったドン・ペドロ4世のブロンズ像が、30メートルほどの円柱の上ですくと立っているロシオ広場に出る。
この広場の周りにはカフェやレストラン、土産物屋があり、一日中人びとで賑わう。
飲食店の前は広い歩道で何処もテントやパラソルを張り、ジャカランダの花の下でオープンな会食を楽しめるようになっている。
カフェ&レストランのNIKOLAは何時も混んでいた。安くて旨いと評判の店だ。
午後4時、2時間以上も歩き続け喉が渇く。評判の店に入ってみた。
サグレス生ビール(1.5ユーロ)、コカコーラ(1.85ユーロ)だった。
リスボンは首都だから当然高いと思っていたが意外に安く、何時も混んでいるはずだと思う。
ビールとコーラの値段の差は、地元産と輸入物産の消費税率の違いかもしれない。
商品によって、消費税率に差があることは知っていた。贅沢品には26パーセントの消費税がかかる物もあるらしい。
店内は落ち着いた雰囲気があり大人のカフェを感じさせた。オープンカフェは観光客で占められ、店内は地元の年配客のようだった。
撮影許可を得て、店内撮影を始める相棒。コーラ代が、撮影代だ。
コイン1セント足(た)りと無駄にしない相棒だったが、ケチってポカをする相棒は憎めない。例えば、・・・止めときます。
「けいの豆日記ノート」
いままで、カフェに入っても注文するのは、セブンナップが多かった。
缶の飲料と空のグラスが来て自分で入れて飲むのである。
自動販売機のかわりのようなカフェである。
冬場は、ガラオン(ミルクコーヒー)が多いのだが、暑くなると冷たいものが飲みたい。
残念ながら、アイスコーヒーはないのである。
売り出せば、けっこう流行るようなきがするのだが・・・?
あるとき、コーラを注文するとグラスの中に氷が入っていた。
コーラはビンのときも缶のときもあったが、透明な氷がついていた。
コーラは、普通のジュースや炭酸飲料より高めである。
高いから氷がついているのか、氷がついているので高いのかはわからないが、氷ほしさにコーラを頼むようになった。
《旅人の想い》
店の隅っこのテーブルで生ビールとコーラを飲みながら、これからの行動を話し合う。3日後には帰国の機乗のひとだ。
明日と明後日は予定をたてていたが、今日はフリータイムにして気ままなリスボン散策日と決めていた。
リスボンの中心地ロシオ広場から繁華街のアウグスタ通りを抜けて、コメルシオ広場に行くことにした。時刻は4時20分、まだまだ落日までには4時間以上もある。
店の笑顔が可愛いおじさんに撮影の礼を残し、店を出た。陽射しはキツイ。
右手の路地奥の小高い丘の上にサン・ジョルジェ城が見えた。城からの景観は絶品だった。
初めてサン・ジョルジェ城に案内してくれたのは、ドン・ガバチョさんだった。今回の旅の11話目(総合紀行文117話目)で登場するドン・ガバチョさんだ。
11年前(2001年9月)である。ポルトガルの北部から南部まで歳の数55枚の絵を描きに来ていた。
リスボンに下る日に来れば2日間だけ案内してくれるという誘いを受け、ガバチョさんが大好きな熊本県産芋焼酎を旅行バックに忍ばせ、相棒とポルトガルに初めてやって来た。
2001年9月22日、アメリカ同時テロ事件9・11の11日後のことであった。
それがきっかけで、相棒とのポルトガル紀行が翌年から始まった。
サン・ジョルジェ城からの眺めは何処を切り取っても一服の絵であった。
オレンジ屋根に白い壁の家並みが丁度よい俯瞰で楽しめ、その先に海のように広いテージョ川が羨望(せんぼう)できた。
この景観に、「サウダーデ(郷愁・きょうしゅう)のリスボン」というキャッチコピーをいう人がいっぱいいたが、ポーはまだ郷愁の域まで到達できていなかった。
口にすればすべて嘘になる、虚構の旅人にはなりたくないウブな旅人だった。
アウグスタ通りは車が走れない歩行者天国みたいな通りで、その中央は両側にある店のテントやパラソルのオープンカフェになっていて、椅子に座ると同時に必ず店員が注文を取りに飛び出して来る。
だから、疲れたといって気軽には座れない。世界に名をはせた名前の店が並び、ショーウインドーを覗くだけでもリッチになりそうだ。
ポーには縁のない店ばかりだ。
その店先路上で、小銭入れのカンカンをチワワの首にさげさせ、その後ろで胡座(あぐら)をかきアコーディオンを奏でる青年がいた。
来るたびに相棒は小銭を入れて、ツーショットを撮らせてもらう。
青年もその度に、ジャポネーザと微笑む。チワワの顔も年々老いて行く。代が変わったかも知れない。
青年を初めて知った時は30歳そこそこだったが、その彼も青年とは呼べぬ40歳代に入っていた。
それが長年にわたる、彼とチワワの仕事であった。
「けいの豆日記ノート」
アウグスタ通りは、リスボンに来るたびに、必ず、訪れる場所である。
ロシオ広場から、コルメシオ広場まで続く、遊歩道は、何度歩いても飽きない場所である。
観光客も多いのに、日曜日は、カフェとレストランとお土産店以外は店が閉まっている。
日曜日は、家族の為に休むのがポリシーなのかもしれないが、商売っ気があってもいいような気もする。
まあ、空いてても、閉まっていても、縁がなく買わないのは、かわりないのだが・・・
《テージョ川を渡る》
ロシオ広場からテージョ川に面したコメルシオン広場までの碁盤状に広がる5筋の通りは、バイシャ地区と呼ばれている低い土地だ。
なにせ、リスボンは7つの丘の町といわれるほどの起伏に富んだ町だったが、テージョ川に面したこの地はバイロ・アルトとアルファマの二つの丘に挟まれた平地の商店街だった。
特にアウグスタ通りはリスボンで一番の繁華街で夜遅くまで人波が途切れなかった。
繁華街の拾いショットの撮影を続ける相棒の先に、コメルシオ広場に抜ける勝利の凱旋門のアーチが迫って来た。
そのアーチを抜けると、テージョ川の川風が吹き抜けるコメルシオン広場だ。勝利のアーチはかつてのポルトガルの威勢を誇るように凛として伝わって来る。
その高みに、日本でも馴染みのヴァスコ・ダ・ガマや前述したボンバル公爵などの像が刻まれている。
まさに彼らは、ポルトガルの英雄であった。
そして広場の中央に18世紀に造られたジョゼ1世の騎馬像が、リスボンの海の玄関口コメルシオ広場とテージョ川を見つめる。
テージョ川岸は人でいっぱい。涼を求めた人びとだった。岸に打ち寄せる波は海辺のようだ。
川風が涼しい。大西洋は12キロメートル下流なのに潮の香りさえする。
15世紀から始まった大航海時代が、今日のポルトガルの基盤になった。
それは今、テージョ川を行き帰する船を撮る相棒が立っているこの川岸から始まったのだ。
その相棒が言った。『フェリーで対岸カシーリャスへ行ってみよう!』と。
「けいの豆日記ノート」
以前、カシーリャスを訪れた時、駅前広場からメイン通りの道路は、工事中であった。
なにができるのかと思っていたら、数年後、ライトレールができたという話を知った。
「これは、1度見てみないといけないな。」と思い、今回カシーリャスまで足を延ばすことにした。
グーグルの地図で見ると、3路線のライトレールがあるらしい。
カシーリャスは、もともと、リスボンで働く人たちの住宅地であるので、観光の為の電車でなく、通勤の為の電車なのだろうと思う。
《テージョ川に浮かぶリスボン》
コメルシオ広場から川沿いを下流に向かい、官庁舎を過ぎリベイラ・ダス・ナウス通りに入る。
小さな公園のジャカランダが満開だ。
ポーの歩行メートル感覚は一級品だと信じて言えば、700メートルばかり歩くとカイス・ド・ソドレ駅に着く。
この駅から列車でリスボンのリゾート地カスカイスまでは川岸を走って40分もかからない。
その駅舎の近くに対岸に渡るフェリー乗り場がある。
渡船代、片道2.8ユーロ。5時発の2階建フェリーに50人ほども乗り込んだ。
対岸カシーリャスの町からアラビダ半島の各地にいける初めて電車路線ができたのだ。そのためか、フェリー利用人数が延びたのかもしれない。
川を渡るというより海を渡る感覚だった。飛沫がガラス窓を容赦なく打つ。10分ほどでカシーリャスに着く。
4年振りで渡船場に降りた。降りて行く人々の数に驚く。80人は軽く乗っていた。
4年前までは渡船場の前がアラビダ半島の各地に散らばる路線バス乗り場の大きなバスターミナルであった。
しかし、ひと握りの広さしかなかった。
かつてバスターミナルから本数の少ないバスに乗って、セジンブラ、アゼイタオン、パルメラ、クリスト・レイなどを旅した。
その頃バスの車中から土埃だらけの工事現場を何度も何年も見て来た。それが、電車路線工事であった。
丘の頂にそびえるパルメラ城があるパルメラに行った時は2003年2月だったが、その時すでに工事は始まっていた。
記憶に間違いなければ、完成まで10年ほどかけた電車路線のようだ。
そんな物思いにふけっている間に相棒は電車路線乗り場に向かっていた。目が離せない。
青い車体に窓の上下に白線の帯が引かれた清々しい4両車体の電車であった。
相棒は視角範囲の中で、行く電車来る電車を追いかけていた。
万歩計を見た。15563歩だった。今日も2万歩は越すだろうなと思う。
「けいの豆日記ノート」
カシーリャスのライトレールは、新しいだけあって、ピカピカであった。
新型車両は、動きもなめらかで、スマートである。
乗ってみたいと思って、チケットを買おうとしたが、できなかった。
電車のチケット売り場で、奮闘したがダメだった。
こんなとき、ポルトガル語ができないのが情けないと思う。
駅近くのライトレールを撮ることにした。
駅前は、3路線が通る道なので、数分おきにライトレールが発車する。
通勤時間帯でないので、ほとんど空のライトレールが通っていく。
6時を過ぎていた。太陽は2時方向の高さで輝いている。釣り人が多いテージョ川岸をのんびり歩く。
目の前にテージョ川をまたぐように4月25日橋が架かっている。
1966年に開通した全長2277メートルのリスボンと対岸のアルマダを結ぶつり橋である。
上段は車で下段は鉄道専用になっている。
そのアルマダ側のクリスト・レイの丘の上に高さ110メートルの巨大なキリスト像が両手を広げリスボン全体を見下ろしている。
1959年の建造だ。
目の前のテージョ川は大型船などいろいろな船が行きかう。
なにしろ広い海のような川だった。対岸の首都リスボンがテージョ川に浮かぶように見えた。
今回はジャカランダの花咲く最盛期の、6月初旬の首都リスボンの気ままな一日旅をお届けしました。
チャゥ!(バイバイ!)
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2013年11月に掲載いたしました。
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