「ポー君の旅日記」 ☆ 国境沿いの世界遺産の町エルヴァス3&バダホス ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・13≫
=== 第四章●エヴォラ起点の旅 === エルヴァス3&国境を越しスペインのバダホス
《エルヴァスの朝》
5月30日(水)、飛行機雲の白線が5筋太く交差して青空を支配する[エルヴァス]の朝であった。
エルヴァスは、首都リスボンの飛行場からヨーロッパ各地に飛び立っていく通り道のようだ。
今朝もモーニングを腹いっぱい食べ、バスターミナルに向かう。
バスに乗るためではなく、明日訪れる[エストレモス]行きの発車時刻を確認しに行く。
目の前を竹箒(たけぼうき)・高箒(たかぼうき)ともいうが、それをかついだ女性群が通り過ぎた。
早朝から楽しそうにおしゃべりをしながら何処へ掃除をしに行くのだろうか。
道路を清掃する姿は、押し車に緑色に塗ったドラム缶を乗せ、若草色の服装をした掃除部隊を7時前にホテルのベランダから目撃している。
とすると、女性たちの年齢層から判断すれば、小学校か幼稚園か。当番制で、毎朝掃除に出かけているのかも知れない。
「けいの豆日記ノート」
ホテルの朝食は、豪華であるとうれしいものである。
普段が質素な生活だからだと思う。
朝食ルームが小さい部屋をいくつもつなげたような場所であった。
古い修道院を改装したホテルであるので、昔からの造りをそのまま残しているのかもしれない。
窓から中庭を見ることもできた。
ブーゲンビレアのピンクの花がたくさん咲いていてきれいだった。
後から時間があれば、写しにいこうと思った。
《ポルトガルの燕》
2003年2月15日に初めてエルヴァスを訪れてから10年が過ぎ去っていた。
だが、相棒の頭脳にはエルヴァスの地図が生き残っている。ポーにとっては信じられない出来事だ。
あんたの頭の中はどうなっているんだ、と思わず吐露してしまったほどの、的確な道案内頭脳であった。
急な石畳の坂道を下りていくと、内城壁の残骸が燕の巣になっていた。その燕の大きさが半端でない。
鳩ほどではないがポルトガルの燕は怖いほど大きいのだ。都会ではあまり見ないが地方の町の城壁は何処も燕の巣になっていた。
もしかしたら、こちらの燕は日本とは違い「渡り鳥」ではないのかもしれない。
黒い巨体の燕が何百羽も青い空を弾丸のように飛行している。
特に、洗濯物を万国旗みたいに窓辺のひもに乾すお国柄だ。糞害はないのだろうか。
《市営市場》
『魚屋のお兄さんとパン屋のおばさんに会いに行こうか』と相棒が振り向く。ナイスアイディア!を込めて、右指の親指を立てる。
10年前に撮影でお世話になった市営市場に向かった。当然ポーは後をついて行くだけだ。
市営市場は迷わずあった。でも早朝というのに人びとの出入りがない。扉が少し開いていたので、中に入った。
高い天井の売り場には誰もいなかった。白い大理石で造られた売り場ブースもフロアーも掃除がゆき届いてきれいだ。
・・・魚屋のお兄さんが大きな鯛のしっぽを握り高々と持ち上げ「ボン ディーア!(おはよう!)」と声をかけてくれた。
また、長いねじり揚げパンをハサミで切って「お食べ(アクションで)・・・」とパン屋のおばさんが差し出してくれた・・・
その優しい人たちの姿はなかった。売る人も買う人も笑顔であふれ、親しい声で賑わっていた10年前の熱気。唖然とし、淋しさが込み上げた。
日々の生活を支え胃袋を満たしてきた市場が消えようとしているのだろうか。
時代の流れかもしれないが、ここでも大型スーパーマーケットに沈もうとしているのか。
まてよ・・・、今日は水曜日だ。きっと休みなのだと、ポーは決めた。決めた方が心の乱れを解消できたからだった。
白い大理石の広い売り場が、天窓から差し込む朝日で輝いて見えた。
「けいの豆日記ノート」
常設市場は売り手も買い手も活気があり、写真を撮るのは、ぜっこうの場所である。
平日の午前中なら人出も多いだろうと思い、行くことにした。
市場の建物は、そのまま残っていたが、中は空だった。
『え〜〜 休みってことはないよねえ〜』
(1店だけ、八百屋が出ていたので休みということはないだろう。)
市場がなくなってしまったのだろうか。
なんか、残念であった・・・時代なのかなあ・・・大理石の置き台だけが輝いていた・・・
《乾燥プラム》
1ヶ月後には世界遺産に登録されると決まったエルヴァスの人口は、23000人ほどだ。城壁の外は、城壁を囲むように広大な肥沃(ひよく)な大地がある。
オリーブとプラムがエルヴァスの主要農業だが、特に乾燥したプラムは輸出で右肩上がりだという。
ふたりにとっては嬉しいニュースである。
ユーロ圏の一番小さな国ポルトガルを12年間にわたりコツコツ貯めた資金とケチケチ旅で通いつめてきたポルトガル。
来年は、『日本ポルトガル友好470周年』の記念年である。こちらに来るたびに、優しく迎えてくれる国民性に惚れ込んだふたりであった。
その恩返しではないが、21回の『愛しのポルトガル写真展』を開催し、80市町村のポルトガルの今を、延べ50000人を越すお客さんに新作写真で、見ていただいて来た。
《ポザーダ》
城壁内から頑強な南門を潜り城壁外に出た。
青空には白い飛行機雲が、ひとつ、ふたつ、みっつ・・・やっつ、8筋にも増えていた。
消防士の噴水の前に〈ポザーダ・デ・サンタ・ルジア〉のホテルがある。
ポザーダとは古城や修道院を改装した国営ホテルで、他のホテルより宿泊代も高く予約も多く、簡単に泊れない。
人気のポザーダは[ギラマンイス][セトゥーバル][オビドス][エヴォラ][エステレモス][ポルト][ヴィアナ・ド・カステロ]などがあり、
現在38か所あるが、40か所になる情報もある。
「けいの豆日記ノート」
エルヴァスのポザーダは、以前に訪問したときに泊まったことがある。
他の町の伝統あるポザーダにくらべて、エルヴァスのポザーダが新しいこともあり安かったからである。
さすが、ポザーダの朝食は豪華で、感動ものであった。
普通は、プラスチックの小さな入れ物に入っているジャムやバターが小さいビンに入っていた。
かわいいので、記念に持って帰って家に飾ってある。
《塗装名人》
そのホテルから延びる石畳の歩道沿いの塀を、真っ白に塗り替える人がいた。60歳を越したご婦人ふたりであった。
壁や塀を塗るための特殊水性塗料をローラー刷毛ではなく、幅3センチ長さ25センチほどのブラシで塗料を石畳に飛び散ったり流れ落ちることもなく巧みに塗っていた。
ポーは思わず拍手を送る。ホホホっと振り向いて、素敵な笑顔をくれた。
この作業は簡単に見えるが、普通塗る時は石畳に塀際にシートなどで養生(ようじょう)しないと、若し塗料が垂れ落ちたら後始末に往生(おうじょう)するものだ。
経験者でないとその苦労は分かってもらえないが、このご婦人たちは養生もしないで塗り込んでいく。
その鮮やかな技に舌を巻いた。ホホホッの笑顔は、少女のように可愛かった。ポルトガルの女性は老いても働き者である。
《必修科目》
城壁南側外には、エルヴァスの生命線が走っている。整備された道路だ。
道路は村から町、町から都会を結ぶ動脈である。ポルトガルは南北には鉄道が走っているが、東西はほとんどバスしかない。
旅人にとっては、バスが命だ。でも、平日と土・日では運行時間と運行回数が違うため、前もっての時刻表の確認は必修科目である。
城壁と道路の間には洒落たレストランや噴水公園、住宅地が芝生に囲まれ細長く広がっている。
西側端に、昨日夕陽を追いかけたイベリア半島で最も長い〈アモレイラの水道橋〉が見えた。
だが、目的の〈バスターミナル〉の建物が見当たらない。
道路の南丘陵地帯にエルヴァスの外城である〈サンタ・ルジア要塞〉の城壁が200メートルほど先に見える。
それほど大きくは見えないが、実際は縦横200メートルほどの星型要塞であった。
10年前、中に入れると思いなだらかな丘陵を登り城壁の入り口を探したが、何処も鍵がかかっており入れなかった。
一周1000メートル以上は歩いた苦い思い出を相棒と話し合っている時、バスが目の前を通り過ぎすぐ左に消えた。
バスターミナルは道路より低い左下の広い敷地に潜(ひそ)んでいた。
明日行く[エストレモス]の発車時間は、始発7時30分、次は13時30分の2本しかなかった。
「けいの豆日記ノート」
前回、エルヴァスを訪れたときには、バスターミナルは今回泊まったホテルのすぐ横の城壁の内側にあった。
狭い場所で、バスが方向をかえるのもたいへんな場所であった。
数年後のガイド本には、バスターミナルは、城壁の外側の要塞の近くにできていた。
ほとんどの城壁の町では、バスターミナルや鉄道の駅は郊外の広い場所に造られているものである。
バスターミナルの横には、大型スーパーマーケットができていた。
《国境線》
宿泊ホテル前のバス停から、エヴォラ発の10時30分のバスに乗り込む。
『あらっ、ボン ディーア!』と相棒。運転手は昨日乗って来た人だった。スペインの[バダホス]まで2.6ユーロ。
相棒は5.20ユーロをニコニコ顔の中年運転手に渡す。
ポルトガルと隣国スペインの国境まで10分ほどだと運転手が教えてくれる。乗客はふたりだけ。だから運転手横の最前列席に座っていた。
広いフロントガラスからの景観がパノラマだ。スペインまで高速道路でつながっていた。高速道路とはいえ、日本のような高架道路ではない。
平地高速道路である。青空がフロントガラスをおおう。暑くなりそうだ。
その時、運転手が叫んだ。
『アキ!(ここ!)』。一瞬で国境を通過した。
相棒は10分前後を狙っていたようだ。シャッターが鳴った後『アキ!』が聞こえた。
何処だったの?とポー。小さな小川があったでしょ、と相棒。ポーには見えなかった。
今まで見た国境線といえば、太い川か山脈かだったが、一瞬にして通過する国境線は初めてである。
それも幅1メートルもない小川だったとは信じられなかった。
「けいの豆日記ノート」
地図で見ると国境の川は、グアディアーナ川だと思っていた。
このグアディアーナ川は、モンサラーシュとスペインとの国境にある川でもある。
モンサラーシュには、アルケヴァ湖という最大の人口湖が造られている。
国境には、看板がつけられている。
それを見のがさないように、しっかりとバスの外を見ていた。
国境の看板は、あっという間に通り過ぎる小さい川の手前に見えた。
そのあとに、大きなグアディアーナ川を通った。
(見間違いかとおもい、帰り道もしっかりと確認したが、やはり小さい川のほうに看板があった。)
《バダホスの町》
瞬(まばた)きをする間もなくスペインの[バダホス]に入国した。
エルヴァスから30分、パスポートは不必要だ。レンガ積みバスターミナルの時計の針は、12時だった。
ポルトガル時間なら11時のはずである。時差が1時間あった。相棒が切符売り場で帰りの時刻を調べた。
16時30分発エヴォラ行きを確認し、バスターミナルを出た。
ポルトガルの風景ではなかった。高層住宅の建物が乱立していた。バダホスの人口は、15万人を越していた。
活気が違う。人びとの服装にもいろいろな色彩がある。真夏を思わせる日差しだ。暑い。30℃を越しているだろう。
ジャカランダの青紫の花弁がポトポト落ちて石畳みを染めていた。広い通りに出た。
日本では見慣れている横断歩道の白線が、強い陽射しで眩しい。通りの角にカフェがあった。
バダホス散策は4時間もある。早朝のエルヴァス散策、一瞬の国境越え、バダホスの暑さで喉が渇いていた。
すんなり、そのカフェに入った。昼食を兼ねた。
生ビールとツマミの海鮮サラダで1.65ユーロ、チョコアイスのカフェZEROで2ユーロ、計3.65ユーロ(440円)。
スペインの生ビールは、銘柄が判らないがサントリー系の味であった。
シャッターの音で振り向くと、相棒が店の外に並ぶテラスでくつろぐ女性を撮っていた。
黒いノースリーブで髪の毛の長い20代、栗毛色で長髪のサングラスに短パンの30代、本を読む白髪の60代。みな美しい横顔であった。
「けいの豆日記ノート」
エルヴァスからスペインまでの国境はすぐである。
国境の町に行った際には、隣のスペインの町にちょっとだけ寄ってみようと思った。
エルヴァスくらいの小さな町だと思っていた。
軽く考えすぎていたことが、間違いであった。
町につけば、なんとかなると思っていた。
(北の国境の町バレンサ・ド・ミーニョの隣のスペインのトウイの町。
南の国境の町サント・アントニオの隣のスペインのアヤモンテの町など。)
バスターミナルの近くは、郊外の住宅地であった。
住宅というより、マンション街であった。
どっちの方向に行くのかもわからず、案内所もわからなかった。
ポルトガル語の指さし案内ブックはあったが、スペイン語の本はなかった。
とりあえず、感だけで、あちこち歩くしかなかった。
バダホスの姉妹都市は今、ポルトガルではエルヴァスやサンタレン、ナザレである。
だが、ポルトガルの間にも長い闘いの過去があった。
国境の要塞として何度も包囲攻撃を受け、1660年にはポルトガルに、1705年にはスペイン継承戦争の同盟国に攻囲され、
スペイン独立戦争では、1808年と1809年にフランス軍に攻撃され、スペイン内戦では、1936年にこの地でバダホスの戦いがあった。
国境の町は、戦いに巻き込まれ過酷に耐え忍ぶ不運な歴史を背負わされてきたのだ。
どちらが悪くどちらが良いという問題ではない。所詮、人間が起こした愚行である。
戦争は何時も庶民を奈落につき落してきた。
この歴史的背景を垣間見(かいまみ)ておきたかったが、バダホスの旅は深入り出来なかった。
時間がない、暑すぎるという以前の問題である。ポルトガル旅には強い目的意識があったが、バタホスにはそれが湧(わ)かない。
早々に切り上げるのが礼儀であった。
「けいの豆日記ノート」
暑くて、熱中症になりそうな不安からバスターミナルの近くにあるホテルのロビーで休むことにした。
街中のカフェは、室内でも冷房が入っているところはまずない。
ホテルは冷房がきいているのである。
あんまりロビーにいるのも悪いので、ロビー横のカフェで、ビールとコーラだけで、1時間以上も粘ったのである。
多少値段は高いが、場所代ということだろう。
他に客はいなく、バスの時間までゆっくりした。
教訓:ガイド本にない町に行く場合、グーグルマップや3Dマップで、歴史的建物の場所は調べておく。
せっかく行ったのに、場所がわからず、なにも見ていないのはもったいないのである。
帰ってきてから、グーグルマップで町の中を見た。
もう少し、中心地方面に歩けば、城跡や教会を見ることができたのであった。
まあ、今さらしかたがないことであるが・・・
《感謝》
帰路はしっかり『アキ!(ここ!)』の国境線である小川を目撃した。
なぜこの小川が国境線になったのか。ここに決まるまでには、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て解決したに違いない。
この小川をめぐって争いがあったとは思えない。
バスは国境線を越えエルヴァスに戻った。平和な1日が今日も過ぎ、ポルトガル旅が続けられた。感謝。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2013年6月に掲載いたしました。
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