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☆ポルタレグレ3の説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
スペイン国境に近いポルタレグレは、古くから戦略上の要にあった。
1290年にディニス王によって城が築かれた。
16世紀以降はタペストリーやシルクの生産地として栄えた。
当時ブルジョアたちが築いたバロック様式の邸宅は今も町のあちこちに残っている。
背後に自然豊かなサン・マメーデ山脈をひかえ、マルヴァオンを訪れる際の起点となっている。
「ポー君の旅日記」 ☆ コウノトリとコルクの町のポルタレグレ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕 ≪2008紀行文・10≫ 《その日の朝》 昨夜、宿に戻って鍵をもらうとき、ご主人が語りかけてきた。 「あなたのホームページは面白い。写真が沢山あって楽しい。 日本語は読めないが写真は万国共通だからね。今日は半日エンジョイした。」と微笑む。 「オヴリガーダ(ありがとう)」と相棒も笑む。 「明日は何処に行くのか」と聞かれ、「明後日はマルヴァオンに行くが、明日はここ(ポルタレグレ)だ」と答える。 ご主人はう〜んと声を出し、「ここは3時間あれば充分 ・・・どうですか、ここから西に34キロのところにある〈crato・クラト〉に行くといい。美しい町だ。」と勧める。 モーニングも特別に7時にするからとまで言ってくれた。 相棒がポーの顔を見た。 確か、首都リスボンからここに来る途中バスの中から〈crato〉と書かれた看板をいくつか見た。 その町中も通ってきた。 城壁脇には薄紫の花々で飾った大きなジャカランダの樹木が茂り、街並みも美しい平地の町であった。 昨日行ったカステロ・デ・ヴィデと同じくらいの距離だ。30分もかかるまい。ポーは頷いた。 「バスは8時発です。」とご主人は言った。 翌朝6時に起き、テレビをつけたら隣国スペインのどこかの町では大雨で、家を流されるほどの洪水である。 そのニュース映像は生々しさがあった。しかし今日も、ポルトガルは満天の青空である。 7時40分。宿から坂道を下ってバスセンターまで10分もかからない。しかし、昨日は2台とまっていたバスの姿がない。 クラト行きは8時のはずである。10分前だ。頭を傾げるポーを残し、相棒はバスセンターの中に入って行った。 『あ〜あ、あ〜ァ』と声を出して戻ってきて、『今日は6月10日の祭日、しかも、ポルトガルの日(建国記念日)だよ。 もしやと思って調べたら、クラト行きは運休、リスボン行きは夕方5時だよ〜ん! あした行くマルヴァオン10時30分発はいま再確認してきたけれど。 あ〜ァ、どうする?宿に帰るのもなァ・・・』 さらに、相棒の頭の回転は速かった。 ここに着いた日の夕方、といってもこちらの今どきは、夜9時が夕方であった。 城壁にもたれ眺める青空をオレンジ色に染め、目の前の小高い丘の背後に太陽は落ちていった。 丘の頂上には、十字架が見えた。その丘に登ってみようというのが、相棒の提案であった。 「けいの豆日記ノート」 《アラジンの魔法のランプ》 バスセンターからも左斜め前方に頂上の十字架が昨夜より大きく見えた。 その丘に、向かった。 石畳の道路を下って行くと二股に分かれる。 左の道を下れれば高速道路並みの広い道に出る。 この坂道はリスボンから来た時も、カステロ・デ・ノヴァの行き帰りにも通った。 しかし相棒は右の道を選んだ。何かを視野に捕らえたに違いない。 『ポー、あれは何だろうね?』指さす遥か先に大きな緑の空間があり、その手前に2階建ての白い家がぽつんとあって、 その家を囲む柵には何かが飾られている不可思議な景観であった。 獲物に向かう野獣のごとく相棒の足は速まる。赤い帽子がみるみる小さくなる。 ポーは慌(あわ)てて、後を追った。そこは、相棒の被写体の世界であった。 朝一番のシャターの音は、ここから始まった。 柵の道路側には、古い振り子時計や鉄製の風見鶏、鍬、鍋、白いバスタブなどが所狭しと置いてある。 古時計だけでも10台はあった。バスタブだって大小合わせ7つが立てかけられ異様な景観だ。 ここの住人は、廃物収集癖症候群か。骨董品の愛好家にしても道端にバスタブの陳列はない。まさか売り物の商品か。 でも古時計を雨ざらしの中にはおけまい。もし商品ならば、毎日の展示出し入れは大変な労苦が必用だ。 ポーには判断しかねた。その間も相棒のシャターは鳴っていた。 門柱にはキリストの像が無造作にひもで吊るされ、道路から門柱までの石積みの上には古いランプが20個ほど重なり合っている。 門柱の外から中庭をのぞくと素焼き色の壺が30個ほど整然と並び、その上の石積み台には絵模様の皿が50枚ほど飾られている。 骨董品を生業(なりわい)にする家だと判断した。 きっとここの住人は、各地で開かれている露天骨董品市場を巡って、生計を営んでいるのかも知れないとポーは思う。 急に初見の興味が薄らいだ時、あのガラクタのランプの山に潜り込んでいた《アラジンの魔法のランプ》を、 相棒が間違って擦(こす)ったに違いない。 バリトンの声だった。「ボン・ディーア!」 相棒のシャッターを押す指が、固まった。「おはよう!」のバリトンの声が、もう一度響いた。 ポーは、「おはようございます!」と声を張って応えた。 バリトンの主は、黒い帽子をかぶり、黒い長袖シャツに黒い上下のだぶだぶの背広姿で大きな腹をおおい、 黒い靴を履いていた。顔は鼻筋がとおったふくよかな頬から顎まで真っ白な髭で覆われ口髭も白く、 鋭い目力(めじから)は鷹の眼であった。 すべて黒づくめで覆われたメタボ白髭60代の男は、身長180センチはあった。 まさに、アラジンの魔法のランプから煙と共に突然現れた大男である。 ポーは相手の目を凝視し、両手を舞い、日本から来た旅人で、素晴らしい景観を目にしたので写真を撮らせて貰っている、と説明した。 そして相棒をさし、フォトグラファと紹介し、ポッソ ティラール ウマ フォト?(写真を撮ってもいいですか?) と、閉めた。 すると大男は掌(てのひら)を上げ、待てと合図し家の中に入って行き、頭のてっぺんから爪先まで真っ黒い衣装の奥さんを連れてきた。 そして撮ってと、ふたりは並んだ。 相棒はちらりポーに視線を投げかけ、そして、黒い衣装の老夫婦の記念写真を笑顔でカメラに収めた。 「けいの豆日記ノート」 《pedir》 中庭の壺や絵皿、裏庭の柵に絡みつき咲く青い花(西洋朝顔)などを撮った。
大男は背広の胸ポケットからパスポートみたいなものを取り出し相棒に見せる。
それは、身分証明書だった。写真が2枚並んで貼ってあり、その下にミミズがはったような字体は名前だ。
写真は指紋と顔写真。帽子を取った頭は顔中覆う白い髭に似合っていた。草原の輝きである。
別れ際に大男は大きな手から小さな相棒の手に握らせたものがある。
門を出た後で相棒は恐る恐る手を開く。たたんだ紙切れであった。
紙切れをそっと開くと、住所と名前が書いてあり、その下に「pedir」と小さい字で書いてあった。
ポーはリュックサックから小型ポ日辞典を出し確認する。 「けいの豆日記ノート」 《聖地》 骨董商の裏手に拡がる大きな緑色の空間は、フットボール(サッカー)競技場であった。 4000人足らずのポルタレグレには大きすぎるほどだ。 広さは公式競技にも使える本格的な規模のように見える。 照明も完備し、観覧席は正面スタンドのみであるが、目測でも1000人は収容可能だ。 でも周囲のフェンスは高くない。場外からの立ち見観戦もできるが、それほどの人が集まるだろうか。 しかし、手入れは行き届いている。 フットボール好きなポルトガルの人びとには、ここは聖地なのかも知れない。 大きな文字がスタンドの壁に書いてある。 《ESTADIO MUNICIPAL DE PORTALEGRE》ポルタレグレ市営競技場であった。 競技場は町外れの高台にあるため見晴らしがよい。 目の前には十字架がある丘が一望でき、眼下にはポルタレグレの丘の裾野をぬって自動車道路が アレンテージョ地方の大平原に白い長蛇のごとく伸びていくのが見渡せた。 「けいの豆日記ノート」 《闘牛ポスター》 二股に分かれていた道まで戻り、予定の左側の坂道を下る。 コツコツ歩く一日二万歩の撮影取材旅である。気ままで行き当たりばったり、なかなか目的地まで進まない。 その進まない道のりから思わぬ被写体が飛び込んでくる。旅には好奇心が必用だった。 高速道路並みの自動車道路に出たが、横断歩道もなければ当然信号機もない。 対面に渡るには勇気しかなかった。 ここは広大なアレンテージョ地方の、それも隣国スペインとの国境近くの片田舎。 幸いなことに引っ切り無しの交通量ではない。左右を何度も確認して横切った。 8メートルほどを走って息絶えた。大型タンクローリィが渡って5秒ほど後に通過していった。 遥か彼方から丘沿いをうねって登って来る自動車道路だった。坂の陰間までは計算になかった。 深呼吸をした。相棒から睨まれた。『みず、水をくれ〜!』とポーは演技した。 笑って、ペットボトルを渡され、一口飲んだ。カラカラの喉壁に水が流れ落ちていくのが分かるほどであった。 自動車道路際の壁に同じポスターが群れで10枚ほど張ってあり、闘牛場の写真に ≪19deJUNHO22H CAMPO≫と書かれたコピーが目に飛び込んできた。 6月19日22時カンポというところで闘牛があるようだ。 まさに、大型タンクローリィは突進する闘牛であった。 「けいの豆日記ノート」 《十字架の丘に登る》 急斜面の石段の下で上を仰ぎ見た。ここを登れば教会の建物があり、十字架はそこから更に登った頂上にある。 なぜ具体的に察知できているかというと、先ほどの競技場からここの景観をしっかり見定めていたからだ。 階段幅は1メートル半ほどで、急勾配。両側は厚い丸みを帯びた低い白壁である。 階段登りは得意な相棒、嬉々として登って行った。 ポーには変な癖がある。昔から階段や石段を登るときは何故か段数を数えている。 50段登ると左手親指を折っている。また50段登ると人差し指を折る。 段数を数える時は、声は出ない。頭の何処かでカウントする。石段の頂上が近くなったところで折っていた小指が開いた。 300段目であった。そして頂上に着いた時、頭の中でカウントが止まった。先に着いていた相棒はポーの癖を知っている。 『何段だった?』340段ぴったし!とポーは吐き、座り込んだ。しんどい急な石段である。 息荒く、汗びっしょりであった。 『見てごらんよ!ポルタレグレの町がまるで豪華客船だよ!』と、相棒がカメラを向ける。 目線より高く岩場の丘が緑色の船体で、その上に見える白一色の群れた建物は客室層だ。 確かに青空のもと、アレンテージョの大海原を航海する豪華客船であった。 そしてポーは、白い群の中にひと際高い2本の煙突に興味が湧(わ)いた。 「けいの豆日記ノート」 《PENHA礼拝堂》 目の前に白い建物がある。窓やファサードには青い帯状の線が縦に走る。 ファサードと書いたが白い壁に木製の扉がはめ込まれた素朴な正面入り口である。 プレートに≪CAPELA DE NOSSA SENHORA DA PENHA≫とある。 ここでも、ポ日辞典を取り出し引く。 ≪険しい岩場にある私たちキリストの礼拝堂≫と分かったが、礼拝堂の扉は閉ざされていた。 動体視力抜群なポーは人の動く気配を見た。声をかけたが、白髪の小柄な老婆は瞬時に戸口に消えた。 歓迎されていないのだと判断した。礼拝堂だと思うが、民家的生活の香りがした。 ロープを張った干し物には、女性物の服や男のシャツ、ズボン、ベットシーツなどがだらりと垂れていた。 どこかにつながれている犬が吠えだした。 PENHAとは、険しい岩場と辞書にはあったが《ペーニャ》という丘の名前かも知れない。 とすると≪ペーニャは私たちの礼拝堂≫になるかも・・・。 昼前、宿に帰って、自動車道路から急な石段を登って礼拝堂まで行って来たとご主人に言うと、 「あの急勾配の石段を登ったのか、そんな観光客は初めてだ!」と言い、その後何かしゃべってくれたが理解できなかった。 語る顔は固く、語り口に何かが引っかかったが、悔しいが深く話し聞くだけのポルトガル語容量がポーには多いに不足していた。 あそこの丘の名前を聞くと、ご主人は〈ペーニャ〉と言った。 《老いたコルクカシ》 礼拝堂の建物前を通り十字架に向かう。 喉元にひとつ異物を残したような感触のままだった。 老婆が消えた青いペンキが剥げた戸口をノックし、礼拝堂を開けて中を見させてほしいとお願いする手はあったが、 瞬時に消えた老婆の厳しい視線がポーの目に残っていた。 あの厳しい目は完全な拒否反応であった。深追いする推理の旅ではない。人との出会い旅が目的だ。 嫌がる人を追い求める撮影取材ではない。気持ちを切り替えるのも早い。 旅には、感情切り替えスイッチも必要だ。 小さな黄色い花を付けた雑草が土砂の道辺斜面に何千と咲き乱れていた。 その中に青い花も混じり、青空から注ぐ太陽光線を浴びている。この丘には礼拝堂の建物の他には家はない。 岩場と雑草ともう一つあった。コルクカシの老木である。頂上の十字架まで続く土砂道沿いに老木はあった。 20本ほどの老木は余命をまっとうしたのか朽ちかけていたり、崩れるように斜面に倒れ込んでいた。 かつてこの丘はコルクカシの林であったかも知れない。 ポルタレグレの町が栄えたのは、コルクと繊維の産業だったと聞いている。 コルクカシの姿を見ている間に、頂上の十字架はどうでもよくなった。登るのをポーはやめた。 相棒は登り、15分ほどで戻ってきた。上はどうだった?と聞くと『別に』だった。 豪華客船の白い群れから、教会の10時の鐘が聞こえてきた。 その時、対岸のひと際目立つ白い大聖堂(カテドラル)の方向からポルトガル国歌《ア・ポルトゥゲーザ》の曲が流れてきた。 スピーカーから放たれる国歌演奏にはたどたどしさがあった。どう聞いてもオーケストラの重厚さには勝てない。 もしかしたら、昨日会ったあの子供たちの演奏に違いない。そう決めて、相棒と拍手しながら聞いた。 その演奏はアレンテージョ地方の隅々まで風に乗って運ばれ、人びとの心に響き伝わって行くようであった。 「けいの豆日記ノート」 《中華店とテレサ・テン》 先ほど枯れて倒れていたコルクカシから剥ぎとった記念の厚いコルクの皮を宿に置き、昼食を中華店で食べることにした。 宿のご主人は、ふたりの顔を見るなり、「今日は月曜日だから、バスは定時発の8時と言ってしまったが、 祭日だった、ごめん!」と言った。ポーだって、祭日を気にして生きてはいない。 ご主人は申し訳なさそうに更に言う。カテドラル前の広場で子供たちの演奏会が午前中にあったのを忘れていた、と。 ふたりはご主人を責められなかった。ご主人のやさしい心の配慮に感謝していたからだ。 演奏している子供たちの顔より、昨日の弾ける自然な笑顔いっぱいのポーズの方がいいに決まっている。 相棒の顔にもそれが読み取れた。 中華店はカテドラルの近くにある。ポルトガル風中華味は何処の市町村に行っても食べられた。 ふたりにとって中華店はオアシスであった。ポルトガルではなかなか食べられない〈もやし〉も焼きそばには入っている。 見た目も味も日本で慣れた中華料理ではないが、ラー油をかければ馴染みの中華味になった。 サグレスビールにジャスミン茶、ワンタンスープ、小エビ・カニカマ・レタスのサラダ、チキン・もやし・野菜の焼きそば、 揚げ菓子で10.25ユーロ(1500円)すべて1品づつがふたりの昼食である。量が多いので分けて食べても足りた。 何処の町の中華店に入っても、あの心を痺れさすテレサ・テンの中国語の歌声が流れている。 「空港」や「つぐない」を中国語で聞くとこれまた絶品である。だが、この店にはテレサ・テンはいなかった。 無理もない。今日は、「ポルトガルの日」なのだから・・・お休みであった。 「けいの豆日記ノート」 《煙突》 気になっていた大きな煙突2本が青空を突いていた。 煙突に書いてある文字は〈LOBINSON〉と読めた。そのコルク工場が解体され始めていた。 16・17世紀には繊維とコルク産業で繁栄してきたポルタレグレである。 コルクと言えばポルトガル産が世界のシェア―7割以上を占めていると聞いている。 テレビのクイズ番組にもよく取り上げられる問題だ。 ポルトガルを始め隣国スペイン、フランス、イタリア、ドイツなど世界に知れ渡るワイン大国が目白押しだが、 そのワインに不可欠なのがコルクで作ったコルク栓である。 コルク栓がなければワイン産業はどうなっていたか。それほどコルク栓はワインの歴史を変えてきた。 しかし、そのコルク栓の需要が減ってきているのも事実のようで、急激には変わらないと思うが、 栓に関しての技術革新は華々しいらしい。将来コルクだけにしがみ付いてもいられないかも知れぬ。 このコルク工場は撤去され、文化センターにする計画があるようだった。 「けいの豆日記ノート」 《コウノトリと折鶴》 カテドラル(大聖堂)前の広場は、ポルトガルの日のイベントも午前中で終わったようで閑散としていた。 カテドラルの鐘楼の屋根などに細い木の枝を集めて作った巣が幾つもある。コウノトリの愛の巣だ。 少しでも高いところから巣をねらいたいのだが、この町でひと際高い建物がこのカテドラルだ。 あのコルク工場の煙突に登るわけにいかない。相棒はポジション探しをする。餌を運んでコウノトリがご帰還だ。 羽を大きく開き、ヘリコプター着陸である。巣の中から真っ白い羽が見える。奥さんだろう。 コウノトリがくちばしの先に赤ちゃんが入った包みをくわえて飛んでいるイラストを見るが、あれはオスなのかメスなのか。 ポーはメスだと思うが、相棒はオスだという。 小学生5・6年生くらいの男女6人がカテドラルの石段で固まって話している。 犬が1匹少年の脇に張り付き仲間入りしている。時々笑い声が起こる。すると、犬も一つ吠える。 なにをしているのか分からないが見ていて飽きない。 『やっぱり、ココかな』と相棒は石段に座り込み、上空にカメラを向けるがポーの腕を引っ張り『壁!』と吐く。 被写体はコウノトリではなく子供たちであった。 相棒はポーを壁にして子供たちを撮った。 10カットほど撮ると相棒は立ち上がり子供たちの輪に近寄った。 見ていると、子ども一人ひとりに折鶴をあげていた。 子供たちの明るい声は、「オヴリガード!(男の子)であり、オヴリガーダ!(女の子)」の嬉しそうな弾んだ声であった。 6人の中で一番背の低い犬を連れた少年の願いで、相棒の久々の《折鶴教室》が始まった。 千代紙を一人一人に渡し、相棒がまず手本折りをする。その間1分。子供たちが訴える。 もっとゆっくり折ってと。6人の子供全員が折れるまでには1時間はかかるとポーは今までの経験で踏む。 しかし、6年間のポルトガルの旅で20回以上やった折鶴教室だったが、10分で歓声が起こった。 全員が掲げる6羽の折鶴が背丈にあった高さで舞っていた。 その子供たちの喜びの顔を相棒も嬉しそうに撮っている。 こんなに早く終わった教室は今までなかった。 『すごいよ!すごい!この子たちは凄いぜ、ポー!』と言ってきた。 相棒の笑顔が弾けていた。 「けいの豆日記ノート」 《サグレスグラスビールとソフトクリーム》 ス−パーマーケットに行き、夕食の調達をするため狭いメインストリートの石畳を下る。 中華店を過ぎ、電気屋を通り、宿の前を通り過ぎバスセンターがあるロシオ広場の石畳の坂道を行き、 樹木に囲まれた公園を過ぎるとテーブルから椅子、パラソルまで真っ赤なレストランの露天テラスがあった。 まだまだ日の高い4時だ。人の数も多い「ポルトガルの日」である。 ポルタレグレは子供たちの姿が目立ったが、若者たちも多かった。 老人の町ではない。この町は若者が残り、子供を産む。コルク工場がなくなっても、若者が残る仕事場があるのだ。 レストランのカウンターでグラスビールとソフトクリームを注文する。 店員は可愛い女性たちである。並ぶ列も若者が多い。やたらとポーは目立った。 ハンサムボーイだから仕方がないか。ジジィーだからよッ、と相棒が悪魔のごとく呟く。 そういう、あんさんだって○○―、とは殺されてもやさしいポーには言えない。 レストランの広い壁面に、ブーゲンビリアの真っ赤な花が絵模様のように咲いていた。 「けいの豆日記ノート」 《今夜もまた夕焼け》 宿の3階の窓からオレンジ色に変わりつつある空を50羽ほどのコウノトリがカテドラルを中心に舞っているのが見える。 飛んでいる姿といい広げた羽根模様といい、鶴そっくりだ。違いは長いくちばしと長い脚の色だけ。 コウノトリはともに真っ赤であった。 今夜もまた青空が濃いオレンジ色に変わり、星が瞬く夜空になって行く・・・・・。 *「地球の歩き方」参照*
終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 次回をお楽しみに・・・・・・・2010年5月掲載 |
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