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(旧ユダヤ人街のカステロ・デ・ヴィデ)
Portugal Photo Gallery --- Castelo de Vide

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カステロ・デ・ヴィデ1
カステロ・デ・ウェデの町

カステロ・デ・ヴィデ2
山あいの町

カステロ・デ・ヴィデ3
サン・ペドロ門

カステロ・デ・ヴィデ4
城壁の中の村

カステロ・デ・ヴィデ5
はるかな草原

カステロ・デ・ヴィデ6
農家

カステロ・デ・ヴィデ7
半円風景

カステロ・デ・ヴィデ8
城壁工事

カステロ・デ・ヴィデ9
ぼくの庭

カステロ・デ・ヴィデ10
花いっぱいの家

カステロ・デ・ヴィデ11
通路の上は家

カステロ・デ・ヴィデ12
家が先?路地が先?

カステロ・デ・ヴィデ13
スケッチ

カステロ・デ・ヴィデ14
お散歩コース

カステロ・デ・ヴィデ15
教会の管理人

カステロ・デ・ヴィデ16
ノッサ・セニョーラ・ダ・アレグリア教会

カステロ・デ・ヴィデ17
階段の作業場

カステロ・デ・ヴィデ18
日なたぼっこ

カステロ・デ・ヴィデ19
社交場

カステロ・デ・ヴィデ20
玄関はベンチ

カステロ・デ・ヴィデ21
ヴィラの噴水

カステロ・デ・ヴィデ22
シナコガ

カステロ・デ・ヴィデ23
ひとやすみ

カステロ・デ・ヴィデ24
ただ今、工事中

カステロ・デ・ヴィデ25
郵便配達人

カステロ・デ・ヴィデ26
出会い

カステロ・デ・ヴィデ27
廃墟

カステロ・デ・ヴィデ28
続く坂道

カステロ・デ・ヴィデ29
市庁舎

カステロ・デ・ヴィデ30
銅像

カステロ・デ・ヴィデ31
新緑

カステロ・デ・ヴィデ32
清掃作業

カステロ・デ・ヴィデ33
ピンクのシャツ

カステロ・デ・ヴィデ34
トラックが通る

カステロ・デ・ヴィデ35
扉の向こう

カステロ・デ・ヴィデ36
町のはずれ

カステロ・デ・ヴィデ37
フワフワ雲

カステロ・デ・ヴィデ38
要塞の中の教会

カステロ・デ・ヴィデ39
花のある坂道

カステロ・デ・ヴィデ40
岩肌の見える山

カステロ・デ・ヴィデ41
水汲み場

カステロ・デ・ヴィデ42
よき友人

カステロ・デ・ヴィデ43
芝刈り

カステロ・デ・ヴィデ44
会話

☆カステロ・デ・ヴィデの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
ポルタレグレから約15km、サン・マメーデ山脈に位置する人口4000人ほどの美しい町。
13世紀にディニス王のよって城が築かれた。
城のすぐ下には、かつてのユダヤ人地区(Judiana)がある。
中世のユダヤ教会、シナゴガ(Sinagoga)も残っている。
温泉の町で知られ、高血圧・肝炎・糖尿病などに効果があるという。

「ポー君の旅日記」 ☆ 旧ユダヤ人街のカステロ・デ・ヴィデ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕

≪2008紀行文・8≫
    === 第四章●アレンテージョ地方のポルタレグレ起点の旅A === カステロ・デ・ヴィデ

          《灯色》

 昨夜、9時のポルタレグレの夕焼けを見て、城壁に囲まれた旧市街地から石畳の路地をくだり宿に向かった。 6月とはいえ夜の帳(とばり)がおりると薄寒かった。 だが、夜空は落日の残照で焼かれその色合いのなかで、 街路灯のオレンジの薄明かりが石畳の道をやさしく包み照らし、家々にはあたたかな明かりが灯り、 3時間前に歩いてきたたたずまいは絵本の世界のような色合いに塗り込められていた。 それぞれの灯色(ともしびいろ)の夢の世界を身体に染み込ませ、相棒とポーは宿に着いた。

          《朝のできごと》

 8時半のバスで〈カステロ・デ・ヴィデ〉に行く、6月9日(月)の朝だった。 昨日、時間はバスセンターで相棒が下調べ済みだ。その始発バスに乗らないと、一日有効に過ごせない。 そのため8時のモーニングタイムを7時半に、それも相棒が宿と交渉済みであった。 安い宿にもそれなりのモーニングが付いている。 ここも、最低限の焼き立てパンとハムにコーヒーと牛乳はあった。

  [ペンサオン・ノヴァ]の主人は40代の知的な人に見えた。 昨日は会えなかったが、モーニング時に挨拶された。 この宿を探しだし日本から予約してくれたのが嬉しいといった。 相棒の日本語とポルトガル語のちゃんぽん語は、適切であったようだ。 ポーが聞いている限り会話が不思議と通じているのだった。 ポルトガルと日本は根底でつながっているのかも知れないとさえ思えた。
 ポーが《山之内けい子・愛しのポルトガル写真集》を主人にプレゼントした。 泊まった宿には必ずお礼を込めて置いてきた。 もし、その宿で日本人が泊まったら見せてやって欲しいと。 日本の旅人のポルトガル歩きに少しでも参考になれば嬉しいと思うからだった。

 ―――第一次世界大戦中の1917年、牧民の3人の子供たちの前に聖母マリアが現れ、 ある奇跡が起こったというファティマの町の予約宿に泊まり、 写真愛好家であった宿の奥さんに泊まった記念として《山之内けい子・ポルトガル写真集》を プレゼントとして置いて来たことがある。 2004年4月のことだった。そして今年4月、その写真集を日本の旅人が偶然ファテイマの その宿で見たという記述を、知人のホームページに投稿されていたのを目撃し、ポーは感動した。 ファティマに行ってから4年がたっていた―――。

 男前の主人は写真集に挟んでおいた、毎年暮れに「名古屋市民ギャラリー栄」で 開催しているポルトガル写真展のDMに記してあるホームページ記号を見ると、 受け付けカウンターにあるパソコンに立ったままで打ち込んだ。 相棒の『山之内けい子・愛しのポルトガル』のホームページ映像がにじり寄るように画面に浮かび上がってきた。 勿論、日本語だ。 主人は手際よく画面展開をする。 そして、椅子を引き寄せ座り込み画面に熱中していった。

 可愛い顔の奥さんも昨日の目の優しいやや太り気味の女性も、 写真集を見ながら「リスボンには2年ほど行ってないわね〜」「ポルト?ね、ポルトでしょ!」 「ナザレね!」「コインブラよ、ね?!」と。 彼女たちが吐く写真の一枚一枚に答えていたらバスの出発時間に間に合わなくなる。 慌(あわ)てて、宿を飛び出した。

 人の気配もないバスターミナルであった。古びたバスが2台並んでいる。 読みにくい手書でCastelo de Videと書かれたバスに乗った。 白髪雑(ま)じりのの運転手は赤いネクタイをしていた。 ネクタイ姿のバス運転手は珍しい。 思わず「おはようございます!」とポーは顔を見つめて、日本語で丁寧に言ってしまい苦笑した。   オブリガード!ボン ディーア!(ありがとう!おはよう!)と返事をくれた。 日本語が分からないはずなのに、丁寧に応(こた)えられ面食らう。 カステロ・デ・ヴィデ始発バスには、乗客は相棒とポーだけだった。 バス賃(2.45ユーロ)は運転手払いだ。 起点の旅は、いつも始発バスで出かけ、最終バスで戻るのが基本である。

 「けいの豆日記ノート」
 カステロ・デ・ヴィデは、ガイド本にたった7行しか書いていない町であった。 もちろん地図などなかった。 アクセスもバスで30分、月〜金のみ1日2便としか書いてなかった。 現地に行って調べるしか方法のない町であった。 とてもきれいな町のようだったので、行ってみたかった。 スペインから逃げてきたユダヤ人をかくまったといういわれのある町であった。

          《カステロ・デ・ヴィデに行く》

 貸切バスみたいなどんこバスは、ポルタレグレの丘の上から大平原に向かって坂道を下っていくと、 朝の遅い太陽が斜めに鋭い光線を放ちコルクカシの林を赤く染める。 そして、オリーブ畑が延々と続き、左手にはスペインとの国境の1027メートルの サン・マメーダ山脈に連なる山並みが車窓を走る。 抜けるような青空を求め、その山並みにハイキングにやってくる外国人も多いらしい。 バスの座席にはシートベルトはなかった。 時速50キロも出ていない。 その速さが車窓風景を楽しむには都合がよかった。 明け放った窓から流れ込む空気はやや冷たかったが爽やかだ。 右手に牧草地が延々と広がり、放牧された馬が親子でバスの走りに伴走し、追い抜いていく姿が心地よいポーだった。

 30分後、標高630メートルほどにある城壁に囲まれた町、カステロ・デ・ヴィデが車窓に広がってきた。 6回目の旅で出会った城壁の町は、もう幾つ目になるのだろうとポーは思う。 ポルトガルはどの町に行っても城壁が残っていた。 つまり、ポルトガルの歴史はどの町も村も防御で生き抜いてきたに違いない。 ポルトガル大航海時代の幕開けの根底には、この防御の悲哀が脈々と流れていたかも知れない。

 その悲哀の城壁を抜けると、広場に出た。 バス停の前に大理石の水くみ塔があり、石畳の広場が広がっていた。 相棒は下車するとバス停で帰路の時間を確認。 『14時45分だよ。5時間45分散策できるね』と笑む。 水が湧き出ているのは大理石に彫られた人の顔のその口からだ。 お年寄りが大きなペットボトルにくみこんでいる。 サン・マメーダ山脈からの伏流水なのかもしれない。 別口から流れ出る水をポーは両手で受け止めてみた。 心地よい冷たさであった。飲んでみた。軟水であった。

 その地に着いたら、まず探すのはトゥリズモ(観光案内所)だ。 その地に行かないと、その地の地図と資料がただでもらえない。 トゥリズモ探し担当は、相棒だった。 いつも、ポーより早く察知する能力があったからだ。
 地図をもらってから分かったことだが、大きな広場はここだけであり広場の名は〈ドン・ペドロ5世広場〉と知った。 そのドン・ペドロ5世の大理石像が水くみ場の先にひと際、大きく青空に向かって立っていた。 像の右手奥に大きな建物が見える。 この町で一番大きな建物の市庁舎である。 トゥリズモは市庁舎のすぐ横にあった。

 トゥリズモに入ると黒髪を肩まで垂らした小柄な女性が、愛くるしい瞳で迎えてくれた。 その彼女に、日本人かと聞かれた相棒はそうよと笑顔で答えると、日本人は珍しいといい、嬉しそうにほほ笑む。 ポルトガルの女性の笑顔は、はにかみがあって美しいとポーは思う。
 彼女は地図を広げ、地図の上の地名を次々と赤鉛筆で丸く囲み、見てほしいポイントを案内してくれる。 相棒は、sim、sim(はいはい)と頷き、笑顔を絶やさない。 地理感の吸収力がいい相棒だった。 ポーは自慢ではないが、方向音痴なのである。 勿論、千代紙で折ったお礼の折鶴が彼女の掌(てのひら)に舞っていった。 彼女の笑顔がまた美しく弾(はじ)けた。

 相棒は線には確かに強い。 だが、点ではポーも負けていない。 つまりその場所に行くまでの線には弱かったが、その点(場所)に行けば、本能的な感が作動する。 その場の空気を読む。 動体視力が抜群なポーは動くものに敏感である。 それが思わぬところで効を奏し素敵な人びとに出会え、その出会いが相棒の感動の映像を生む。 このバランスがふたり旅の強みだとひとりポーは思っている。 まさに松本清張の小説「点と線」・・・?

 「けいの豆日記ノート」
 地図の情報がない町では、トリズモ(案内所)を探すまでがたいへんである。 中央の広場のようなところにあることが多い。 カステロ・デ・ヴィデの市庁舎の横の四角の箱のような建物がトリズモであった。 デザインが現代風なので、最近できたのかもしれない。  係りの若い女性は、歯の矯正をしていた。 前歯に矯正の針金がしてあった。 日本でもそうだが、矯正は保険がきかないので、けっこう高いものだ。 歯並びが悪いと健康などに影響がでるらしいので、見栄えだけのものではない。 いい家庭のお嬢さんなのかもしれない。

          《点と線》

 まず、高台に向かう。 高台から街の俯瞰(ふかん)を見る。 それがふたり旅の基本である。 高台にあるカステロ(城)に向かった。 石積を基盤にした住宅地が荒く敷き詰めた石畳の両脇に2階建で奥に伸びている。 隣との間に隙間はない。 ぎっしり詰まった家並みがある。 広場からその路地に入る手前に白い標識板があり、方向を示す矢印と共に、 Casteloの文字と正三角形の上向きと下向きが重なったマークが記されていた。

 『ポー、このマークはユダヤの印だよね。ここからユダヤ人街なのかな〜』相棒がつぶやいた。 トゥリズモの女性が説明してくれた時、確か旧ユダヤ人街が目的で来る観光客が増えたといった。 その理由は宿に帰ってから貰った資料を持参の「ポ日辞典」を引きながら少しわかった。 (訳した単語の点の積み重ねで、細い線にしただけだったが)

 「けいの豆日記ノート」
 城壁に囲まれた町の中央の高台には、かならず城がある。 城壁に囲まれているということは、その土地自体が高台にあるということだ。 なので、中央の城(現在は城跡しか残っていないが)に登れば、町全体が見渡せるということである。 登り坂は得意なので、せっせと登っていく。 帰りの下り道は楽なようで、実はけっこう足にくるものである。

          《旧ユダヤ人街を行く》

〈カステロ・デ・ヴィデ〉は、かつての城郭(じょうかく)都市であった。 今まで城郭のある町や村を幾つも歩いて来たが、それらの町の姿とは雰囲気が違っていた。 一味も二味も異なる、まさに中世の時代にすい込まれていくような空気が流れているように感じられた。 資料によると、この町の歴史は深い。 はじめはローマ人が砦(とりで)として築き、8世紀から13世紀までの500年はイスラム教徒が治め、 13世紀以降はキリスト教騎士団が支配したらしい。 ディニス王により13世紀に築かれた城塞の中やその周辺には、 16世紀から18世紀に建てられた石積の家々の名残で埋め尽くされているという。 まさに中世の姿が今に受け継がれているのだった。その甦(よみがえ)った中世さながらの世界を歩いていた。 音のない世界にわくわくどきどきと未知への好奇心で心臓が躍(おど)る。

 石畳を歩く相棒との靴の音を初めて感じる。 相棒と語る声が石畳に吸い込まれていくように思える。 なだらかな坂道の左右の家には、形の違う入口の扉が重なり合うように続く。 その扉の前には、鉢植えの花が色とりどりに咲いている。 あじさいの花だった。 右側の花は陽射しに輝いて咲き、左側の花は日陰の中でひっそり咲いていた。 人の気配がしない。犬も猫も歩いていない。ただただ静寂であった。 相棒が放つカシャッと鳴く、シャッター音がやたら大きく響いた。

 角を曲がると、驚くほどの急斜面の狭い路地になった。 坂上から下りてくる人がいた。 背の高い白いシャツを着た、肩に黒いバックを下げた痩せた男だ。 手に郵便物の束を握っている。 郵便配達人だった。 郵便物を扉の投函口に入れ振り向いた彼は少し驚いた顔をした。 赤い帽子の女が一眼カメラを向けていたからだ。 その時、間、髪を容(い)れず『ボン ディーア!』と相棒が配達人に声をかけた。 ナイスタイミングだった。 ボン ディーアの返事があった。
 『ポッソ ティラール ウマ フォト?』写真を撮ってもいいですか? 相棒の問いに、彼は深く頷いてくれた。
 『オブリガ―ダ!』ありがとう、は忘れなかった。

 いつもの相棒の得意技は、アイコンタクトだ。 この技の方が、自然体状態が撮れるからだった。 でも今のとっさの判断はよかった。 相棒はお礼の折鶴を両手で羽を開いて郵便配達人に差し出した。 彼は貰えるの?という顔をし、親指を立てBon!(ボン!)グッド!といった。 彼と別れ、さらに急坂の石畳を登る。 急坂に並ぶ石積の家々には、石灰や白いペイントで塗られている。 古い石積そのままの薄汚れた家もある。 オレンジ色の屋根瓦ではない。 それがかえって新鮮にも感じられた。 この風雨にさらされた光景こそが旧ユダヤ人街なのだ。

 〈カステロ・デ・ヴィデ〉には、かつて6千人とも8千人とも言われた人口の半分をユダヤ人が占めていたという。 キリスト教の弾圧により改宗に応じないユダヤ教徒が、異教徒には寛大であったポルトガルに隣国 カスティリア王国(今のスペイン)から逃げ込み、人頭税を払うことで住むことを許されたという。 そこは過酷な地で飲み水も急斜面を下り運び上げなければならなかったという。 ユダヤの人々は、ここで金銀などを細工し生計にしていた。その細工に使った道具がユダヤ教会 (シナゴーガ・礼拝堂)の床下から発見されている。 だが、彼らもこの地に残るためには嘘でも改宗をせねばならなくなり、改宗しない者はこの地をなくなく離れていく。 そんな歴史の積み重ねが、この旧ユダヤ人街にはあった。

 狭い路地を抜けると、少し開けたといても道幅3メートルもない急斜面の石段が遥か先のカテドラルの城壁まで延びていた。 その石段の中央に鉄パイプの手摺が一直線にやはり城壁まで連なっている。 ここに住むお年寄りたちのための手摺だとポーは理解した。 道幅が広がった分、陽射しもたくさん入り込み石段の両側に連なる家々の白壁に反射し、明るく見える。 家々の入りくちには、ここでもあじさいの鉢植えが置かれ、花々が陽射しに踊る。 狭い石段は、まさに〈あじさい通り〉であった。 たぶん薄暗い部屋の中には、昨夜のサッカー中継を繰り返すテレビ画面をみているに違いないお年寄りたちがいるはずだ。 だが、いまだに坂道の石段に照りつける暖かい太陽を求めて出てくる気配はなかった。

 「けいの豆日記ノート」
 旧ユダヤ人街は、想像していたよりずっときれいな町であった。 坂道以上の急坂は、階段の道になっていた。 白壁の家々の前には、鉢植えの花がたくさん飾ってあった。 どこの家も花がいっぱいであった。 地面がないので、植木鉢ばかりである。 長年、大事に育ててきたのだろう。 小さな鉢から、大きな花がたくさん咲いていた。

          《教会と老婆》

 カステロ(城)に向かう途中で不思議な小さな建物に出会う。 正面の壁は白く塗られていたが、閉ざされた入りくち扉の上にはアズレージョで描かれ、 その中央にはキリスト像が鉄の十字架模様の格子で覆われ、その上にアズレージョの十字架がはめ込まれている。 今までに見たこともない不思議な教会であった。 相棒が正面の扉を押したが開かない。

 その時、背後から声がした。 振り向くと小柄な白髪の皺だらけの老婆が立っていた。 相棒がこんにちはと挨拶すると、右手に大きな鍵を握りしめて、すたすたと建物の横を奥に進む。 一瞬ポーの顔に視線を流し、相棒は老婆の後を追う。 恐怖はなかったが好奇心はあった。 大きな鍵が小さな鉄扉の鍵穴に差し込まれ2・3度ガリガリ音たてて回される。 老婆が鉄扉を明けると冷たい風が流れ出た。 久しく閉じ込められた冷気かも知れないとポーは思う。 内部は確かに祭壇のある教会であった。 祭壇の周りにも一面アズレージョ模様で飾られている。 こんな祭壇はいままで見たことがなかった。 鼻の先の霊気は、気持のよい匂いではなかった。 カビの匂いではない・・・。 これがシナゴーガ(シナゴーグ・ユダヤ教の礼拝堂)なのか。

 でも、とポーは考えた。 旧ユダヤ人街とシナゴーガを見る観光客が最近増えたとトゥリズモの彼女は確かに言った。 もしここが観光客が訪れるユダヤ教の礼拝堂ならば、ガリガリ裏木戸状の小さな鉄扉をこじ開ける[鍵]は必要ではない。 相棒に目配せして外に出た。 そして、ガリガリと大きな鍵で鉄扉を閉めた老婆の皺くちゃな手に、相棒はそっと5ユーロ札を握らせた。 老婆が口をあけほほ笑む。 歯がなかった。 5ユーロ(700円くらい)でもケチケチ旅をするふたりにとっては大金だった。 相棒の心に響く何かがあったはずだ。 ポーは笑みをそっと相棒に返していた。 (この教会はノッサ・セニョーラ・ダ・アレグリア教会だと、後で知った)

 「けいの豆日記ノート」
 教会は、博物館のようなものである。 祭壇も壁も彫刻像も年代物であり、貴重なものだろう。 なので、わざわざ、博物館や記念館に行かなくても、教会だけを見るだけでも充分である。 それに、だれでも見学ができるというのがいい。 カテドラル(大聖堂)のように奥に回廊などある場合は有料だが、普通の教会は無料である。 でも、たまに教会の管理人がいて、中を見せてくれるところがある。 今まで、数ヶ所はそういう教会に出会ったことがある。 わざわざ、見せてくれるのだから、チップは必要なのだと思う。

          《カステロでの出会い》

 石積の城壁にあるアーチをくぐった。 城砦の石段を上ると、がらんどうの部屋に出る。 そこには、石の窓枠で切り取られた風景が幾つもあった。 窓に近づくと眼下にカステロ・デ・ヴィデの町が広がっていた。 広場の空間があり、市庁舎が大きくデンと納まり、後は家々がぎっしり城塞に向かって急坂をはい上がって連なっている。 全体的には家々の壁は白で塗られ薄汚れたオレンジ色の屋根瓦をのせている。 その景観を濃い青空がすっぽり包み込む。 そして眩い陽射しがまんべんなく城郭の町に降り注いでいた。

 狭い石段を駆け上がっていく相棒の姿を動体視力抜群なポーは右目の端で捕らえた。 撮影取材中は放し飼い状態だが、経験で治安がいいポルトガルだと分かっていたが安心はできない。 ポーはボディガード役でもあった。 即座に後を追う。城砦の屋上に出た。 360度の大パノラマが飛び込んできた。 身体を1回転してみた。 目線は眼下に拡(ひろ)がる広漠とした大地であるアレンテージョ地方の景観を捕らえる。 もう一度、さっきよりゆっくり1回転し、視線を送る。 前にも記したが、アレンテージョの大地はポルトガル国土の3分の1を占めてはいるが、 人口はわずか全人口の10分の1だというその大地を納得させてくれるそんな風が流れていた。 首都リスボンや北の第二都市の港町ポルトでは感じなかった時の流れが漠々(ばくばく)と伝わってくる。 密集した2つの都市では得られなかったポルトガルの原風景かも知れないと思える。

 ポルトガルは、小さな国の日本の更に4分の1しかない面積の国と思っていた認識を粉状(ふんじょう)させた。 その広大な大地がポルトガルブルーの濃い青空で包み込まれ、夏の恵みの太陽がさんさんとふりそそいでいた。 ワインの産地にはなくてはならぬコルク栓を生み出すコルクカシの木々が群れをなし、 食卓の必需品オリーブオイルを与えてくれるオリーブの木々が果てしなく見え、 市民の台所ともいうべき市場(いちば)を飾るオレンジや沢山の野菜を生産する畑が大地を彩る。 白い山羊やひつじ、馬、牛の広大な牧場もある。 まさにアレンテージョ地方は、ポルトガルの人びとの胃袋を満たす食の宝庫かも知れない、とポーは思う。

 カステロの屋上に50代の男と女がいた。 男は短パン姿でリュックを背に小型ビデオカメラをサングラス姿の金髪の女に向け撮っていた。 白が多めに雑(ま)じる髭を生やした男は口元を白い歯で笑み、首にカメラを下げた相棒に声をかけてきた。 〈ニコンか?日本からか?私たちはドイツから来た。ポルトガルは初めてか?〉 相棒が6回目だと答え、結婚記念日の旅だと聞かされると、振り向いてポーを手招いた。 記念撮影を、頼まれたのだった。 ポーもちゃちな安物のデジカメ持参だ。 その目的は、紀行文を書くための覚え撮り(メモ撮り)用であり、DMに使うための相棒入り風景写真撮り用である。 でも時々、相棒が出会う人々との記念撮影用にもなった。

 出会いを求めてのポルトガルの旅で出会った人々に、撮影させてもらったその記念として貰っ ていただいている千代紙の〈折鶴〉が、相棒の指先からドイツ人夫婦の掌にここでも舞っていった。 奥さんの熱願で《折鶴教室》が青空の下で始まった。 相棒の自信に満ちた日本語の、鶴の折り紙教室だ。主人は相棒の手元を熱心にビデオ撮りする。 その間、1分。 奥さんが〈早すぎる〉という。でも、主人は〈撮った〉と満足そうに妻に言う。 それでは、奥さんが納得しない。 もう1回と人差し指を立てる。 相棒は、奥さんに懇切丁寧に折り方を伝授した。 3回目で奥さんは見事に折りあげ、折鶴をひらひらさせ歓喜した。30分も過ぎていた。

 「けいの豆日記ノート」
 この夫婦は、ドイツでなくイタリアだと聞いた気がしたが、どこの国でもいいか・・・ 明るいふたりであった。 この城跡は、屋上に登ることができた。 普通の城跡は、ここまで登ることができない。 屋根の上のようで、見晴らしはいいが、怖い場所である。 柵があったのだけは助かったが。

          《陽だまりの石段》

 この町の中心地の建物や広場、それに旧ユダヤ人街のその反対側の光景は、三重の砦になっていた。 高い壁と壁の間は人が二列では歩けない道幅だ。 侵略者を食い止める戦略路地かも知れない。 城壁の下は荒い岩場の坂になっており、その先は遥か彼方まで見渡せる大地にオリーブ畑が続きその先に山並みが長く広がっている。 山の向こうはスペインだ。〈カステロ・デ・ヴィデ〉はまさに侵略者防御の砦(とりで)、城郭(じょうかく)だった。

 腹がスキスキ・カラカラ状態になっていた。昼は、とっくに過ぎていた。 (あ〜〜ァ、ゴマ煎餅でもいい、パリッと割った半分でも、喰いたい、とポーは思う) 広場に戻らないと、レストランはない。 登って来た石段を下りかけ、相棒の足がぴたりと止まった。 登りには強いが下りには弱い。 とくに急勾配の石段には弱かった。 相棒は石段中央の手摺を左手で滑らしながら下る。 もしも転んで、怪我をしたりカメラ破壊の事態だけは避けたいからだった。 だが、その急勾配の石段路地景観は絵にもしたいほどの美しさであった。 太陽が照りつける石段の両サイドは、白い壁の民家が下に向かって吸い込まれている。 遠近法で描かれた絵画のようである。 その石段の踊り場で、石段に腰掛け作業するふたりの後ろ姿の女性がいた。

 相棒はまず引きの画像を撮るため、手摺から左手を外しファインダーの中に景観風景の中の ふたりのショットをおさめ、再び左手で手摺を握り下る。 踊り場でサイドから撮り正面で撮ってもいいですかと聞く。 ソーパ(スープ)に入れる野菜を細かく切っていた60歳くらいの女性ははにかんだが、30代の女性は頷いてくれた。 ありがとう!を連発して撮った。勿論、お礼の折鶴は忘れない。 更に石段を下った先の踊り場で杖を手にハンチングをかぶったおじいさん達の日向ぼっこ姿を相棒は視覚に射る。

 登って来た時には誰もいなかった急斜面の石段には、太陽光線を楽しむお年寄りたちが家からはい出していた。 相棒が気になっていたことを聞いた。 立て看板に書いてある〈Sinagoga〉(ユダヤ教の礼拝堂)はどこかと。 ハンチングをかぶり直して教えてくれた。 シナゴーガは目の前の白い塀のような壁だった。 建物ではなかった。どう見ても礼拝堂には見えなかった。 白い壁に小さな扉がはめ込んである。 扉を老人があけてくれたが真っ暗であった。 中に入るべきではない、とポーは思った。確認だけでいい。 土足で入る聖域ではない。 相棒も同感であったようだ。 教えて貰えただけでも幸せだった。 相棒が聞かなかったら通り過ぎてしまっていた。 このお年寄りたちの祖先は、ユダヤ教徒から仕方なしに改宗した苦渋の経験をした人たちだったのだろうか。

 「けいの豆日記ノート」
 シナゴーガがあるといので、探して歩いたが見つからなかった。 ユダヤの教会というので、教会の建物を探していたのが間違いだったようだ。 探して歩いて、気がつかずに通り過ぎてしまった。 ユダヤ人街が終わってしまっても見つからないので、また戻ってみた。 教えてもらったシナゴーガは、さっき前を通った場所であった。 そういえば、トマールで見たシナゴーガもこんな感じだったかなと思う。 ひっそりと隠れていたのだから、めだってはいけないのだ。

          《ランチ》

 ランチはゆっくり時間をかけ、味を満喫し、語り合う会話を弾ませる楽しさがある。 しかし、われわれの旅は〈一日二万歩〉の取材旅。 ランチは歩くエネルギー源。安くて量があればいい。 それも短時間で食べ、会話はこれからの行動手順。 手順といっても計画ではない。 成り行き任せの旅だ。でも、時間には敏感である。 乗り物の時間には細心でなければならない。 乗り遅れたらの不安がつきまとう。 お金で解決、例えばタクシーを使うなんていう無駄は極力避けたい。

 よく写真展会場で言われる。 ご一緒したいわ〜あ。それは、無理だと思う。 ツアー観光旅行ではない。 いいホテルに泊まって、果物もいっぱいあるモーニングを食べ、先の行動の心配もなく高級観光バスに揺られ、ランチは素敵なレストラン。 お土産いっぱい持ち切れない。 それは、無理、無理。 2日間せめて5日間ご一緒していただければ、合格のハンコをペタンと背中に押して差し上げる。 炎天下バスのない砂ぼこりの田舎道を90分歩き、目的地の荒野の中にある大理石堀の現場を30分撮影し、 また炎天下90分自動販売機ひとつない焼けた道を引き返す。 これが全てではないが、似たり寄ったりの25日間を耐えられるだろうか。 それがケチケチ取材旅である。

 ランチは広場に接した建物の地下にある小さなレストランであった。 ポルトガル産サグレスのグラスビール1杯に、日替わりランチ一人前(スープ・サラダ・バカリューのグラタン)で 合計5.5ユーロ(720円)。 さっき相棒が老婆に5ユーロ渡したとばっちりのための昼飯代ではない。 いつもこんなもの。 で、相棒の料理味感想は・・・バカリュー(干した鱈)と緑の葉っぱのチーズグラタンは食べられないことはないが、イマイチ、でもみんな食べたよ、だった。 あの〜、ポーの分は? ごめんねっ、だった。 でも、それを聞いてポーは相棒に感謝する。 なぜなら、ポーは不味いものは食べない、食べられない。 お腹がすいたら、どうするか。 鱈干しを細かく裂いたおつまみか、醤油胡麻煎餅(共に相棒の日本からの持参もの)で済ます。

 「けいの豆日記ノート」
 どこの町にも中華店はある。 中華店は、安くて量があって、ほどほどに食べれる味である。 この町にもあるだろうと思って、トリズモ(案内所)に再度たずねて聞いてみた。 だが、中華店は、なかった。 しかたないので、近くのレストランを聞いてみた。 トリズモの近くの店をいくつか教えてくれた。 カフェのようなレストランであった。

          《サン・ロケ砦》

 オリーブの木に黄色で白っぽく咲く花が狭い石畳の先に、小さな教会を見つける。 先ほど登ったカステロの反対側の丘にサン・ロケ砦はあった。 草ぼうぼうの砦から見るカステロ・デ・ヴィデの景観はカステロから見た感じとは違い、厳しい生活感が伝わる。 長閑(のどか)さがない。 行く道の景観と振り返ってみた景観の違いのようだ。廃墟が多かった。 その崩れ去る家の狭い庭に黄色い野草花が咲き乱れている。 そこに、小さな民家のような教会があった。サン・ロケ教会。 細面で目に力があり、微笑むと慈愛があふれる20代の女性がいた。 彼女が言う。 今日初めての観光客だと。 それも、日本人なんて信じられないと。

 もしかしたら、かつてユダヤの人びとが住んでいた地区から800メートルも離れた町のはずれにあるこの教会こそが、 彼らの隠していた祈りの場であったのかもしれないとポーは勝手に思う。 それほど簡素な民家的教会である。想像は勝手であり、過ちを引き起こす。 でも、そんな気のする素朴な家庭の居間ふうの室内であった。ここで集会をしても家族親戚の寄り合いだと思える。 彼女の瞳の温かさがそう訴えているように思えたのかもしれない。 思いは勝手であるが、歴史的事実を誤って曲げてはならない。

 予定通り広場のバスセンターから、14時45分発のどんこバスに乗って赤いネクタイの運転手の 時速50キロメートルでポルタグレの町に帰った。

                              *「地球の歩き方」参照*

終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 次回をお楽しみに・・・・・・・2010年3月掲載

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