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☆ヴィラ・ヴィソーザの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
エヴォラの北東約45km、スペインとの国境近くにある、人口5000人ほどの小さな町。
ヴィラ・ヴィソーザとは、「樹木の茂った町」という意味である。
オレンジやレモンの林に囲まれた、緑豊かな美しい町である。
15世紀初め、ブラガンサ侯爵家はこの地に住まいを定め、館を建設した。
1584年にこの宮殿に滞在した天正遺欧少年使節団は、当主ドン・テオドジオ2世と
その母カタリーナから手厚いもてなしを受けたといわれている。
「ポー君の旅日記」 ☆ 王家の居城のヴィラ・ヴィソーザ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕 ≪2008紀行文・23≫ 昨日は〈セルパ〉から〈ベージャ〉へと戻り、予定通りの18時00分に乗り〈エヴォラ〉に着いたのは19時10分であった。
スパーマーケットに寄り、水を2本(@0.12ユーロ)買って、起点の旅の宿[デイアナ]に入ったのは20時00分。
ポルトガルの夕方は日本の夜9時近い。だから、まだ路地の街灯には明かりはなかった。
《日本の香り》 今日も快晴。6月18日(水)の朝であった。
城壁の外にあるエヴォラバスターミナルからの〈ヴィラ・ヴィソーザ〉行きは8時15分。
宿から歩いて20分はかかるため、8時からのモーニングはあきらめる。
来る途中、小さな店先にバナナの房がきれいに並べられていた。
相棒は2本買う(0.6ユーロ)。
バス賃4.75ユーロ(@780円)で1時間半の乗車だ。 乗客は、おばあさんとおじさんの2人のみ。始発バスはがらがらだった。
発車間もなく相棒はバナナを1本ぺろりと食べ、日本から持参してきた常備食[胡麻醤油味せんべい]をパリパリ食べだした。
車内は一瞬にして、胡麻と醤油の香りが満ちた。
前方に座っているおばあさんが、何の臭いかいな?と振り返る姿が可笑しかった。 『なに?あれ!』砕かれた石の山積みが幾山(いくやま)も車窓に迫って来た。
相棒はカメラを向けたが止めた。
『大理石の発掘場だよ!帰りに、ここに来よう!』いつものことだ。
ポーは驚かない。そんな撮影取材旅を続けていた。 「けいの豆日記ノート」 《大理石の石畳》 運転手が後部座席にいる我らに向かって、「次がヴィラ・ヴィソーザだ!」と叫んだ。
「オブリガード!」とポーも大きな声で応えた。
運転手体格というのがあるのか、この運転手も大柄のメタボだったが優しかった。
車がバス停で止まる。運転席横の出入り口に向かう相棒におばあさんが声をかけてきた。
「ドンドゥ エ?(出身はどちら?)」と。
『ジャパオン!』と答えると、驚いたように「オ〜ォ、ジャパオン!」といって席から立ちあがり伸びあがって抱擁し、頬にキスをした。
相棒は小柄だが、おばあさんはもっと小柄だった。相棒は忘れなかった。
おばあさんに、おじさんに、運転手に1羽ずつ折鶴を渡してバスを降りた。 バスターミナル前の広場で骨董市が抜けるような青空の下で開かれていた。
相棒が大好きな青空市だった。
太陽のもとで撮影できるからだ。顔に笑みが走っている。
目印の赤い帽子が足早に、市に溶け込んでいった。
その相棒の足元に、ポーの眼がとまった。石畳の石だった。石は、白い大理石であった。
不揃いの石魂であるが、大小形の違う組み合わせで、デザインとしても生きていた。
そういえば2003年の3回目の旅で、大理石の石畳を見ている。
ここヴィラ・ヴィソーザのように広範囲ではなかったが、城壁に囲まれた中世の雰囲気を残す〈エストレモス〉で初めて見たのだった。
ポルトガルは品質の良い大理石産地だとは知っていたが、石畳に敷き詰められているとは思わなかった。 「けいの豆日記ノート」 《ヴィラ・ヴィソーザの町》 ヴィラ・ヴィソーザはエヴォラの北東およそ45キロメートル、スペインとの国境近くにある人口5000人余りの片田舎である。
小さな町であったが、美しい町であった。
大理石の壁面に、TURISMO(観光案内所)の文字が刻まれていた。
その町に来たら、まずはトゥリズモを探し、地図と資料を只(ただ・ロハ)でもらう。
係りの女性はここでも美人であったが、よく肥えていた。でも、明るく応じてくれ可愛かった。
地図に印をつけ説明してくれたのは、2か所。
ヴィラ・ヴィソーザ城と侯爵の宮殿だ。
「シンシン(はいはい)」と頷いた相棒は折鶴を彼女の掌(てのひら)にのせ、「オブリガーダ!」と、案内所を出た。 地図を頭に沁み込ませた相棒は、町の中心地レプブリカ公園にむかう。
公園の左右が道路になって東西に延びている細長い公園であった。
道路の街路樹はオレンジの黄色い実をつけ、果てしなく延び、その先の小高い丘の上に城壁がある。
その城壁に向かう公園も道路も、すべての石畳は大理石の塊で敷き詰められている。
それに公園に並ぶどのベンチも噴水も、すべて白い大理石であった。
公園全体が陽射しで真白に見えた。 「けいの豆日記ノート」 《カステロ・城》 カステロと言っても、日本のように《お城の姿》として復元された姿は見たことがない。
カステロは城跡である。しかし、城跡でも威厳(いげん)が迫るカステロはいくつもあった。
マルヴァオン、バレンサ・ド・ミーニョ、エストレモス、エルヴァス、モンサント、レイリア、ラメーゴ、
パルメラ、ギマランイス、ブラガンサ、シントラ、リスボン、モンサラーシュ、オビドスなどで心に残る城跡は幾つも見てきた。 陽射しは、強かった。
高さ20メートルほどの城壁の中に入る狭いアーチ状の門をくぐると、民家が並ぶ坂道の路地が白く眩(まぶ)しく大理石の石畳を焼き、白壁を溶かす。
相棒がポーのリックのサイドポケットから水を詰めたぺットボトル(日本から持参したカラの。
お茶の中味が入っていると空港で没収される)を抜き、のどを鳴らす。
ぬるま湯になってしまったね、と言うと、お腹にいいよ!と言う。
冷たい水が飲みたいに違いないが、決して、弱音は吐かない。相棒の目的意識にはぶれがなかった。
一日二万歩の写真取材旅だ。目的意識はポーより強い。
心を揺さぶる人に出会い、心に残るあたたかい写真を撮る。
それが、目的だった。 500年以上前になる城壁の手摺りのない石組階段を見上げ、一呼吸した相棒は急斜面の階段を登る。
降りるときの恐怖を覚悟した表情だ。
1461年ディニス王の時代に築かれた城跡であった。
城壁の狭い通路まで登ると、眼下に今歩いてきた公園が見える。
白い大理石の石畳の広場と緑一杯のオレンジの街路樹を挟(はさ)み込むように、オレンジ瓦と白壁の建物が白く輝いていた。
その白さは、優雅に映った。まさに白い大理石で出来た町であった。 城壁内に目を転じると、崩れ去った母屋がいくつも観察できた。
城壁内に住んでいた住民は郊外の新興住宅街に住処を求めていた。それが時代の流れなのだ。
ポルトガルの各地を歩き続けて8年の経験から察知できるポルトガル事情であった。
壊して建てなおすより新興住宅地に移り住む方が、旧市街地の昼間でも薄暗い部屋から解放できるからだ。
その住宅地の奥に白い教会が陽射しに浮き上がって見えた。
『あの輝きは大理石だよ!』と、相棒が吐いた。 「けいの豆日記ノート」 《ノッサ・セニョーラ・ダ・コンセイサオン教会》 手摺りのない急斜面の狭い石組階段を、冷汗三斗のていたらくで相棒は震えて降りた。
判っていても登る。それがカメラマン。何かがある、何かが撮れる。
撮るには、分かっちゃいるけどやめられないのだ。
教会に向かうと観光客どころか住民の人影一つない広場の先に、ノッサ・セニョーラ・ダ・コンセイサオン教会はあった。
大きな建物ではなかったが、壁は大理石で造られていた。
その14世紀に建立されたという教会に入ってみた。 狭い教会内は簡素であったが、正面の祭壇がゴシック様式で造られ目を引く。と言っても豪華さではない。
十字架にはりつけられたキリスト像の下に浮かび上がって見える王冠を頭にのせた立像の女性像だ。
まるでこの祭壇はこの聖女像のために、まるでこの祭壇の主人公のように凛(りん)としていた。
ジョアン四世が聖女に王冠を捧げポルトガルの守護神になることを祈って以来、ポルトガルの歴代の王は王冠を身につけることを遠慮した、
ということを聞いたことがあるが、そんなことを思わせる祭壇であった。 《博物館》 カステロの中に博物館があったのでふらっと入ってしまったのが間違いのもと。
入館一人3ユーロ(480円)。
おばちゃんの案内人がつき説明がある。断ったがだめ。その理由はすぐ判った。
一部屋ごとに電気をつけ説明し終わると電気を消し次の部屋に。写真を撮ろうとしたが、だめ。
電気をつけては消しの繰り返し。展示物は見れば分かるが、説明する内容は当然分からず。
発掘物を見てもな〜あ、と相棒。首にかけたカメラが退屈そうに揺れている。
苦痛の30分であった。 カステロから出ようとした時、まっ白な世界が眩しく飛び込んできた。
相棒のカメラが30分間の憂(う)さを晴らすかのように鳴りだした。
城壁際にすべて白い大理石で造った墓地があった。
その大理石の墓石を磨く黒衣の婦人がいた。赤い花束が墓石の上で萌(も)えていた。 「けいの豆日記ノート」 《ブラガンサ王家の宮殿》 カステロから歩いて10分。広い広い大理石の石畳の広場の先に、3階建ての長い長い広大な建物が迫ってきた。
トゥリズモでもらった資料で知ったが、ブラガンサ王家の宮殿は左右110メートルにも及ぶ長さであった。
しかも面白いことに、1階から3階まで横に等間隔で同じ大きさの窓がずらっと並んでいる。
1階にある出入り口も。これほどの建物なら中央辺りに3階まで使った大きなファサード(正面玄関)があってもいいと思えた。
建物の前に高い台座がありその上に騎馬像がある。
その台座の下で騎馬像を撮る相棒を尺にして測っても、13メートルの高さは有にありそうだ。
騎馬像の雄姿は8代目公爵ジョアン4世であった。
勿論、台座も110メートルもの壁面も、すべて白い大理石だった。 受付で相棒は思案した。
案内板に入館料6ユーロ、館内撮影禁止、案内人の説明ありと書いてあるのを見たからだった。
それに、さっき博物館で経験した二の舞はしたくなかった。当然の思案だ。
『あのさ〜、ふたりで12ユーロは昼飯代2人分だよ。
でもね、1時間近くも案内してくれるというのは期待料かもね。
それも王家の宮殿だしね。
撮影禁止でも、ここまで来たんだから昼メシを抜いても入ってみるか』と、相棒は決めた。
朝食は、バナナ1本と胡麻醤油味煎餅2枚だ。安心はできないが、入館にはポーも賛成した。
受付の部屋から気のよさそうなおじさんが出てきてニカッと笑み、先に発って入館者を案内した。
入館者はふたりだけだった。相棒がおじさんに言った。
『説明は聞いても分かりませんからいりません、ごめんなさい』と。 「けいの豆日記ノート」 ポーは、この宮殿の歴史的背景を知りたくなった。ジョアン8世とは、ブラガンサ王家とは、ポルトガル王制とはを調べてみた。 ● 隣国カスティリア(スペイン)を破りアヴィス王朝を作ったのが、アヴィス騎士団長のジョアン一世。 ● ジョアン一世は、ペドロ一世(悲劇のヒロインと言われるイネスとともにアルコバサ修道院で眠る)の子。 ● 1386年、ジョアン一世はイングランドの王エドワード三世の孫フィリーパと結婚。 ● ジョアン一世とフィリーパの間にドゥアル(王)、ペドロ、エンリケ(航海王子)の3人の王子がいる。 ● 別の女性との間に2人。一人がアフォンソ。 ● ジョアン一世はアフォンソにブラガンサ公爵の地位と所領を与える。 ● アフォンソは軍の指揮官として活躍し、ポルトガルで最も裕福な公爵家となる。 ● 1640年以降80年も続いたスペインの支配に終止符を打ち、その間オランダに乗っ取られたアフリカやブラジルを奪回。 ● この時誕生したブラガンサ王朝は、270年も続く。 ● 18世紀にリスボン大地震を受け、19世紀初めイギリスの同盟国と言うだけでナポレオンから侵攻される。 ● そのためポルトガル国王はブラジルに遷都。 ● さらにフランス革命に影響される。自由主義革命、ブラジルの独立などでブラガンサ王朝は終焉に向かう。 ● 1910年10月5日、マヌエル二世がイギリスに亡命。ポルトガル王制は終止符となる。 ニカッと笑ったおじさん案内人は一つ目の部屋を開けた。暗かった。
おじさんは電気のスイッチは押さなかった。
窓辺に進み厚いブラインドを上げた。
外光が部屋に満ちた。おじさんはこれを何十回と繰り返した。
外光に浮かび上がって、豪華な生活をしてきた部屋での生活が垣間見られた。 おじさんが開けた最後の部屋は、カルロス王と王妃の居間であった。
マヌエル二世がイギリスに逃亡し、ポルトガル王制が終止符を打たれた1910年10月5日の2年ほど前の1908年2月1日である。
この宮殿から馬車でリスボンに向かった前国王カルロスは、リスボンに着いた時共和主義者に暗殺された。
その当時のままの姿で残されていると、おじさんはニカッと微笑み説明した。 *「地球の歩き方」参照*
終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・2011年6月掲載 |
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