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☆エヴォラの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
エヴォラは城壁で囲まれた空間すべてが、ひっくるめて世界遺産になった。
それは、先史時代、ケルト、ローマ、中世、近世の各時代の文化遺産が、
町を取り巻く城壁内に凝縮されているからである。
6月、クジャクが放し飼いにされた公園はジャカランダの花が満開であった。
フットボール(サッカー)の人気熱は町じゅうを興奮させていた。
「ポー君の旅日記」 ☆ 哀愁の古都のエヴォラ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕 ≪2008紀行文・19≫ 《旅の鉄則》 首都リスボンを発ち、広大なテージョ川を渡るとコルクカシの林、
オリーブや葡萄畑など緑の田園風景が広がるアレンテージョ地方。
その中心地である古都エヴォラに向かう6月15日(日)は、ポルトガルに来て11日目。
この日も、快晴の朝であった。
日曜日の商店街は閑古鳥。店が閉まって、休みのところがほとんどである。
観光地の首都リスボンであっても、頑として休みは休み。
レストランだって閉まっているところが多い。
だから、旅人は夕食の段取りが必要だ。ふたりは、休業しない何処の町にも必ずある中華店を探し確保していた。 この朝、宿からセッテ・リオス・バスターミナルまでは、大型旅行バックが2つあるため仕方なくタクシーを使った。
7ユーロ(1120円)。ふたりにとっては豪華な昼メシ代に匹敵した。
エヴォラ行きの出発時刻は9時半。昨日、バスターミナルで調べておいた。これも必ずやっておくのが、旅の鉄則なのだ。
特に、土・日曜日に移動する場合は、バスなど交通機関の本数が激変するし、出発時刻も当然違う。 「けいの豆日記ノート」 《エヴォラの思い》 エヴォラには、今まで2回訪れている。 1回目は2002年2月3日。帰国する前日に、リスボンからバスに乗った。 余裕の一日まるまる撮影取材のはずであったが、実際エヴォラにいられたのは3時間しかなかった。 その原因は、ポーにあった。 相棒の写真家は、バスが走り出すとその振動でいつものように眠りに落ちた。 車窓は青空に溶け込んでオリーブの木が畑のように点在して過ぎ去っていった。 出発してから1時間半が過ぎていた。もう、そろそろエヴォラに着くころだ、とポーはガイド本のエヴォラの地図を見ていた。 その時だった。ふと、車窓を見た。バスターミナルの前に、墓地が見え迫って来た。 ポーは思わず、叫んだ。『起きろ!着いたぞ!』 目を丸くこじ開けた相棒を引っ張って、慌てて下車した。 見ていたエヴォラの地図では、墓地の前がバスターミナルだったから、間違いない。しかし、そこは、エヴォラではなかった。 『ポー、雰囲気が違わない?』 『間違いないって!ターミナルの前に墓地があるだろ』 と、ガイド本のエヴォラの地図を相棒に見せた。 『地図と雰囲気がな〜?』と相棒は首をかしげる。ポーは強気であった。 地図にある城壁の方向に歩いていくと、振興住宅地に迷い込んだ。 『ガ〜ン!ここはエヴォラじゃないよ。何処に城壁があるのよ』 地図では町を城壁が囲んでいるが、目の前の風景には城壁がない。 そこがエヴォラの手前の町とわかるまで40分経過。降りたバスターミナルに戻り、切符売り場に相棒がとんでいった。 『つぎのバスは2時間後だってさ』あ〜あ、あきれた、という相棒の顔があった。 時間がもったいない。仕方なしに、時を金で買った。 相棒は新聞を読んでいたタクシーの運転手と交渉だ。 ポルトガル語がしゃべれなくても交渉成立までやってしまうのがすごい。恐れ入谷の鬼子母神だ。 タクシーでエヴォラに入り、帰りのバス時間までの3時間で撮影取材。そんなことがあった。 2回目は、2003年2月15日の土曜日午後2時30分。 スペインとの国境の町エルヴァスからバスで1時間半かけてエヴォラに入った。 前年、3時間しか撮影できなかったエヴォラに行きたくて、2日間のスケジュールを相棒が組み立てた。 真冬のエヴォラは寒かった。 だが、憧れていた中世が同居するエヴォラを2日間満喫して、またバスでつぎの予定地モンサラーシュに向かった。 その時の思いを交えながら、2008年6月15日からの古都エヴォラとその周辺の町の撮影取材旅をお伝えしたい。 「けいの豆日記ノート」 《いざ、出発》 首都リスボンのセッテ・リオス・バスターミナルから9時30分、高速バスでエヴォラに向かった。 1時間半から2時間はかかるが、料金は11ユーロだった。 タクシーで20分7ユーロに比べても、ポルトガルのバス料金は安い。 乗客16人を乗せたバスは、テージョ川に架かる全長2278メートルの4月25日橋を渡る。 太陽がテージョ川を射る。車窓から、白い雲が青空に波動してくるように見える。 ポルトガルの夏模様は気持ち良い。 対岸の町クリスト・レイの丘に建つ高さ110メートルの巨大なキリスト像がだんだん大きくなり、 波動してくる白い雲の中に浮かんで迫る。 『バスから見ると、ムービー映像で見せてくれるな〜』と、呟き、シャッターを押す。 高速道路を降りたバスは、アレンテージョ地方の広大な田園地帯を走る。 オリーブ畑やコルクカシの林が延々と続く。相棒がバスのゆりかご振動で、沈んだ。 「けいの豆日記ノート」 《3回目のエヴォラは天女から》 バスは1時間40分後、城壁の外側にあるエヴォラバスターミナルに着いた。 目の前には、真白な大理石の墓石群が陽射しに照らされ、墓地全体が白く浮かび上がって見え、 その向こうに石積みされたローマ時代からの厚く高い城壁が連なっている。 空はポルトガルブルーだった。 2回目も冬のエヴォラであったが、3回目は夏のエヴォラである。 一刻も早く宿で荷を解き、町に溶け込みたかった。 ローマ時代、中世、そして今。城壁に囲まれた中に、それぞれの時代を物語る建物が同居し、まるで町全体が博物館のようである。 勿論、世界遺産に登録されている。 今夜からの宿泊基地は、予約してある宿《ペンサオン・ディアナ》。 ディアナはカテドラル(大聖堂)の裏手の小路にあるため、バスセンターからタクシーでの6ユーロは仕方ない費用である。 大型旅行バック2つを転がして900メートルほど歩くには、距離がありすぎた。 タクシーが城壁の中に入り直進すれば3ユーロほどで行ける距離であったが、 城壁内の道は小路が網の目のように張りめぐっているため走行不可能である。 そのため城壁沿いをぐるりと回った反対側まで走り、城壁の中に入る。 しかし、小路前で止まる。小路は車両通行止めであった。 宿までの距離は100メートルほどだと、運転手から聞いた。 狭い石畳をポーは重い2つの旅行バックを左手と右手に分けて転がした。 しかし、石畳の凹凸に小さなコロが絡(から)んでなかなか先に進めない。 10メートル進むのにも、息が切れる。しかも、陽射しは容赦ない。ポーの額は汗粒が流れる。 それに、両腕がはち切れんばかりであった。 その時だ。まるで創作劇のように救いの天使、いな、天女が現れた。 何処の宿?ディアナ?と、中年のおばさんが声をかけてくれた。 ポーが頷くと、ひょいと左手で握っていた相棒の重い方のバックを持ち上げ歩みだす。 相棒が、オブリガーダ!と声をかけ、おばさんと話しながら宿へと向かう。 ポルトガル女性の生活能力のたくましさや腕っ節の強さは、今までの撮影取材でポーは知っていた。 しかし、ポーは目(ま)の当たりにする、そのたくましさに圧倒された。 やっとこさっとこ転がしてきたバックを軽々と運ばれるとは、だ。 日本男子の面汚し目!そう言われても仕方がない。でも、なんと言われようがありがたい救世主であった。 ポーはふたりの後を、両手で一つのバックを転がし追った。 石畳の道に響くコロの音がやけに大きく小路の両サイドの白壁にぶち当たりポーの耳に響く。 まだ、宿まで50メートルはある。3回目のエヴォラは、たくましいおばさん天女との出会いから始まった。 「けいの豆日記ノート」 ≪ジラルド広場≫ 宿にポーがたどり着いた時には、重い旅行バックを軽々と運んでくれた天女の姿はなかった。 深々と頭を下げて、感謝の気持ちを伝える機を失した。 小路の角っこに建つ《ペンサオン・ディアナ》は3階建の宿。その狭いカウンターで相棒が記帳していた。 足元でワンとポーに吠える声。白い小型犬だった。80歳近い夫人が「リンダ!」と犬を叱る。 リンダはク〜ンと鼻を鳴らした。犬は、ニカッと笑った。ポーは猫派なので、犬の気持ちが分からない。 しかし、このニカッが、気にいった。高齢の夫人はこの宿のオーナーであり、この町の生き字引として慕われていた。 後で知ったことだが。 吹き抜けになっているらせん階段を上る。 狭い小さな宿と決めていたが、内部は小奇麗で歴史を感じさせる手摺り回り。 2度に分けて重いバックをポーは運び上げた。小路に面した部屋に入る。思ったより広く天上は高い。 2階の小さなテラスからは、石畳を歩いて行く観光客の白い半袖短パン姿が見える。 道行く人々はジラルド広場にあるレストランの野外テラスで、夏の陽射しを浴びながらの昼食を楽しみに向かっているに違いない。 宿から1分も歩けば、ジラルド広場に通じる10月5日通りだ。 ホテルやカフェ、土産物店で賑わう通りで、そこを左折すれば3分もかからず広場に出る。 右折すれば、すぐにカテドラル(大聖堂)があり、エヴォラ美術館やロイオス教会、 ロイオス修道院(ポザーダになっている)、ディアナ神殿などに10分もかからない。 今回《ペンサオン・ディアナ》を定宿に決めたのは、実は相棒の観察眼が下敷きで、2003年の取材旅の折、 何度となく通った時にすでに次回来た時の宿に決めていたのだ。ポーの脳はそこまでの配慮に欠けていた。 『ポー、もう、ヘトヘト?一休みしてなよ、一人で行ってくるから』 うん、そうするよ、と言えるはずがない。 なにせ、これでも相棒御用達のスーパーガードマンである。治安のよいポルトガルとはいえ、一人歩きはさせられない。 今日まで6回の撮影取材で、120日間ほどポルトガル各地を歩きまわった相棒を守り続けてきた。 だから、相棒を守る使命がポーにはある。ひとり野放しにさせる勇気は、ポーにはない。 荷を解き、トイレをすませ宿を出てジラルド広場に向かった。 ≪エヴォラの中心地は、エヴォラの英雄ジラルド・センパボルの名からジラルド広場。 広場は市民の憩いの広場であり、市民も観光客もたまり場みたいに一日中人波で賑わう。 寒くても、広場に設置された丸テーブルには、ワイングラスが並び、会話がはずむ。 冬場の広場は、焼き栗売りを売るおばさんの声と煙と香りが流れていた。≫(2003年紀行文より) 夏場の石畳の広場は、陽射しで満ちあふれていた。 白いパラソルが咲き乱れ、観光女性客の白い二の腕も肩も太陽で輝き、丸テーブルにはサグレス生ビールのグラスが並び、 サングラスの笑顔は食事とおしゃべりで口元が忙しい。傍(かたわ)らの犬はパラソルの日陰で長々と石畳に腹を押しつけ涼をとる。ブチ犬は俺を撮るな、と顎突き出しシャッターを押す相棒にぎょろりと目をむいた。 昼時の太陽は、まだ天空の日本では10時頃の位置で輝いていた。 白いパラソル群の反対側に、縦2メートル半、横3メートル半ほどの大型ビジョンが設置されている。 今夜、ポルトガル対スイス戦の〈2008ヨーロッパフットボール(サッカー)選手権大会〉が放映されるのだ。 今日勝てばAグループで準準決勝に進める大切な負けられない一戦である。 きっと、広場は観衆の熱狂で弾(はじ)けること間違いない。 「けいの豆日記ノート」 ≪孔雀の園≫ ジラルド広場からは蜘蛛巣の糸のように張り出ている路地や小路がある。 南にあるサン・フランシスコ教会の先にあるジャルダン公園に向かう。 相棒がどうしても会いたい連中がいるからだった。 坂を下る両サイドの建物に、オレンジ色で帯状に塗られた白い壁が目を引く石畳の路地を下って行くと、小さな広場に出る。 ここも白いパラソルで覆われた野外テラスで昼食をとる人であふれている。 裏通りで賑わうレストランはうまい。ここのレストランもきっと美味いに違いない。 相棒がメニューをチラリ盗み見る。昼にする気配なし。ポーの顔を見て、顔を振る。高すぎの合図だ。 大きな皿の上に焼きたての鳥1羽がうまそうにビールを飲む白い顎鬚のおじさんの前に運ばれてきた。 ニカッと笑うおじさんが憎い、ポーだった。 左手に16世紀初期に建てられたという、サン・フランシスコ教会が見えてきた。 ≪サン・フランシスコ教会は、マヌエル様式の装飾が華麗であった。 だが、ここでは〈人骨礼拝堂〉がひと際目を引いた。 気味が悪い。壁から柱まで頭蓋骨や骨で埋め尽くされていた。 その数5000体。天井は美しい絵画で描かれてはいたが。 修道士たちの黙想する場として造られたという。撮影するにはお金がいる。》(2003年紀行文より) 教会の真向かいが市場である。 前に来た時は工事中であった。中に入ってみたが、他で見てきた市民の市場としては期待外れ。 店数も少なく、活気がない。館内に3メートルもする大きな花嫁姿の張りぼて人形が展示されていた。 目ん玉ぎょろぎょろ、でっかい唇に真っ赤なルージュ。何のための展示なのか理解できなかった。 きっと、ウイットに富んだ催しのための花嫁さんだろうと思う。 更に石畳を南に下ると鉄扉に囲まれた、相棒がお目当てのジャルダン公園に出る。 門扉の傍らにジャカランダの樹が薄紫の花を咲かせ、その足元に黄色い菜の花畑が夏の陽射しを浴びている。 『 楽しみだな〜、まだ、いるかな〜!』と、相棒が公園に小走りで入って行く。 いた。お目当ての連中が、待っていた。公園に放し飼いされている孔雀たちだった。 60羽はいる筈だ。ここはマヌエル宮殿の跡地であった。 その屋敷跡の建物やアーチ、それにかつて2階3階に通じる階段であったかも知れないその階段跡が、 孔雀たちの生活拠点になっているようだ。 頭の冠から折りたたんだ羽先まで2メートル近くもある孔雀たちが、相棒の足元を平然と歩いていった。 『凄い!凄すぎる!夢みたい、だよ。これで、目の前で羽を広げてくれたら、極楽!』 童心に返りシャッターを押す相棒にとって、それは天国であろう。観光客は一人もいない。 ガイド本にも載っていない、まさに相棒至福の楽園であった。 小一時間も孔雀を追い求めた相棒は、帰り際、歓喜して公園を後にした。 別れの挨拶か、目の前で大きく時間たっぷり、美しく羽を開いてくれた。 陽射しの中で、大輪を咲かせてくれたのだ。相棒の目に涙がにじんでいた。 「けいの豆日記ノート」 《中華店》 昼飯は、前回2度夕食を食べた中華店に寄る。公園から10分ほどだったからだ。 ≪夕食は「中華店・財源酒楼」。中華店を捜してみつけた店だった。 安く、一人前の量が多く、美味い(といっても、日本で食べる中華味と比べてはいけない)。 たらふく食べて、飲んで、この日は9・98ユーロ(1297円)。 中国三世の女性達も気さくで可愛い。 エヴォラを発つ前夜の夕食後に、旅を無事に続けられるようにとお守りをくれた。 店内に流れる中国語で歌う、テレサ・テンの歌声は哀愁に満ち、なぜか、ポーを、泣かせた。≫(2003年紀行文より) 5年の歳月は、旅人を泣かせた。親しくなった三世の女の子たちはいなかった。 店もなぜか物悲しさを感じさせた。昼食時なのに、客が一人もいなかった。 でも、14ユーロも食べて飲んだ。あの、お守りをくれた彼女たちへの餞別をこめて・・・。 「けいの豆日記ノート」 《ケチケチ旅人には泊れない、ポザーダ》 いったん宿に戻り、トイレをすませ、宿から10月5日通りに出て、右折した。 まだ、2時を過ぎたばかり。なだらかな石畳の坂道を登ると、カテドラル(大聖堂)が目の前だ。 《12〜13世紀のロマネスクからゴシックへのかどきに建てられた大聖堂だ。 中が凄い。八角形のドームが高く迫り装飾された壁面の美しさが圧倒する。 その調和美に声も出ない。大きなパイプオルガンが目を引く。 日本人の、大正遺欧少年使節の一人がこのパイプオルガンを見事に奏でたと聞く。 1584年9月のことだったと知る。すぐ近くに15世紀に建てられたロイオス修道院の跡がある。 今は国営ホテル・ポザーダになっていた。 ポザーダは宿泊しない限り中を見物できないが、ここは自由に入れるから嬉しい。 ポザーダは憧れのオアシスだ。(そのうち宝くじを当てたら・・)》(2003年紀行文より) カテドラルに隣接してエヴォラ美術館、その隣にロイオス修道院を改装した国営ホテルの〈ポザーダ・ドス・ロイオス〉がある。 ポルトガル各地にあるポザーダは宿泊しない限り内部見学はできない。 しかし、ここは寛容だった。 中庭を囲むマヌエル様式の回廊は、白壁に黄色の縁取りを描き、気品を感じる。 迷路みたいな廊下がいい。無造作に掛けてある絵画が見逃せない。 セザンヌの絵もあれば、マチスの絵もあった。ポーの眼力に間違いなければの話ではあるが・・・。 相棒の姿を見失った。 だが、撮影取材旅の目印の赤い帽子があっちでチラ、こっちでチラと子ネズミのように移動していた。 ポザーダの宿泊費はわれらの定宿ペンサオンの5倍以上であった。5年前の夢、宝くじは未だ正夢に遠かった。 「けいの豆日記ノート」 《大理石の彫刻》 ポザーダの前に、2〜3世紀にかけローマ人によって造られたというコリント様式の神殿がある。 《ポザーダの前にディアナ神殿の円柱が青空に浮かぶ。 2〜3世紀にかけてローマ人が建てたコリント様式の神殿だ。 月の女神ディアナに捧げられたものとされている。 中世には要塞として使われたおかげで、イベリア半島に残るローマ神殿としては比較的保存状態がよく、 円柱の土台と柱頭にはエストレモスで採取された大理石が、柱身には御影石が使われているという。 前年は中に入れたが柵に囲まれていた。当然だ。》(2003年紀行文より) ディアナ神殿前の公園は高台にあるため見晴らしがよい。その眺めの良い位置に大理石の彫刻があった。 丸味のあるふたつの彫刻が寄りそうその接点に、半円が重なり丸い空間ができている。 その丸い空間から青空に浮かぶ白い雲が流れていくのが見えた。 この作品は、日本人の彫刻家、北川晶邦さんのもので作品名は〈波立つ海の中に光る満月〉である。 ちなみに、この作品があると知ったのは、定宿のあの生き字引80歳オーナーばあさんの助言があったからだ。 『日本人が造った彫刻がここにあるの、知っている?知らなきゃ見ていきなよ』 言われなければ知らない世界ばかりの撮影取材旅であった。 「けいの豆日記ノート」 《0−2》 その公園から高さ5メートルほどのアーチ状になっている高架が北西に向かって延々と連なっているのが見えた。 1530年代に作られたアグア・ダ・プラタ水道橋である。この水道橋はエヴォラの各所で恵みの水として役立っていた。 ジラルド広場にある大理石で造られた小さな噴水の水も、今もなお水道橋が運んできた水であった。 この情報も、あの生き字引ばあさんからもらった。 宿に戻る前にスーパーマーケットで、オレンジ2個と水1.5リットル、計0.75ユーロを買って宿に戻った。 時間は5時、万歩計は22396歩。ポーの脹脛(ふくらはぎ)がジーンと鳴っていた。 ありもので夕食をすませ、まだ明るい7時に宿を出てジラルド広場に向かった。 広場に着く前から狭い10月5日通りの路地には、群衆がポルトガル国家を声高らかに熱唱する声が流れ込んでいた。 広場は、市民であふれていた。 エヴォラの若者がほとんどであったが、エヴォラのサッカー好きの老若男女が大集合であった。 家でテレビ観戦するより国家をかけた戦いは群衆とともに見る方が燃えるし楽しいものだ。 その心理状態は何処の国でも同じはずだ。それが国家愛である。 どうも、日本ではその点やや希薄な気もしないでもない。 でも、毎年行われる今や国民的行事の東京の大学駅伝、東京―箱根往路の箱根駅伝は正月行事スポーツとしては国民的には成っている。 それ以上に、この広場は国民的に燃えていた。 広場の群衆はポルトガルの国旗を振り声援を送った。しかし、0対2でスイスに負けた。 でも、まだ2勝1敗だ。次の対戦ドイツに勝てば準準決勝戦に進める。 4年に1度の国と国がサッカーで燃える。4年前はポルトガルが開催国で準優勝している。 今年こそは、優勝しかない。国民が燃えるのは当然であった。 9時になっていた。ライトアップされているというディアナ神殿を見て帰ろうと相棒が言った。
真っ暗な夜空に浮かぶ神殿は神秘的だ。月の女神ディアナに捧げられたものと推測されている神殿であった。
コリント様式の柱の間に、大きな満月が天空に輝いていた。 *「地球の歩き方」参照*
終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 次回をお楽しみに・・・・・・・2011年2月掲載 |
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