「ポー君の旅日記」 ☆ 4年ぶりのリスボン10 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・1≫
=== 序章●フランクフルトからのリスボン === 4年ぶりのリスボン 10
《3・11》
名古屋では932年振りの金環日食が朝7時30頃から見られるという出発の朝、
新舞子駅からセントレア(中部国際空港)へ向かっていた。
2012年5月21日、伊勢湾沿いを走る名鉄常滑線車中からはまったく青空が見えなかった。
生きている間には、もう金環日食に出会えるチャンスはないだろうと思う。
思えば、2001年から始まった《愛しのポルトガル撮影取材旅》も今回で7回目である。
前回は2008年6月だからまる4年目になろうとしている。この間、7回の「山之内けい子写真展」をやった。
●2008・12 〈名古屋市民ギャラリーで part15〉
●2009・10 〈愛・地球博公園で愛知県地域振興部国際課依頼の特別展「ポルトガルの子供たち」〉
●2009・12 〈名古屋市民ギャラリーで part16〉
●2010・7 〈セントラルパークギャラリーで part17・日本ポルトガル修好通商条約150周年記念展〉
●2010・12 〈名古屋市民ギャラリーで part18〉
●2011・3 〈ノリタケの森ギャラリーで part19〉
●2011・12 〈名古屋市民ギャラリーで part20〉
この4年の間で一番ショックを受けたのは、3・11東日本大震災による大津波災害と、
それによる原子炉爆発に伴う放射能汚染被害であった。
奇(く)しくもこの日、ポー達は名古屋駅近くにある[ノリタケの森ギャラリー]でpart19の写真展を開催していた。
ゴン!という音と同時に大きく縦揺れした。
そして会場にいた25人ほどのお客さんもみんな、床に四つんばいになり身を固くした。
横揺れの長さに恐怖を感じたのだ。
揺れが収まった時2階会場からノリタケの女性社員に誘導され、階段を使って外に出て、赤レンガ建物前の広場に退避。
何処で起こった地震か知る術もない。
20分ほど待機し会場に戻った時、ノリタケの男性社員が教えてくれた。
東北地方の大地震の後、大津波が押し寄せて来たという衝撃的ニュースに愕然とした。
写真展どころではなかった。残り2日間を打ち切ろうと考えたが、開催をまっとうした。
それがお客さんに対しての礼儀だと思った。実際、その2日間で50人ほどが見に来てくれた。
今、あの3・11から1年と4ヵ月ほどになろうとしている。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルに1回行くと、山のような写真ができあがる。
個展開催では、1回に1か所〜3か所くらいの町を発表する。
展示の枚数が限られるので、地域をまとめるようにしている。
なので、1回撮影取材に出かけると5〜6回は、写真展ができることになる。
今回、4年ぶりの撮影取材なのだが、未発表の地域はまだまだ残っているのである。
お蔵入りにならないように、広い会場(セントラルパークギャラリーなど)の展示の時に出そうと思っている。
《12000km・20時間》
ポルトガルに行くには直行便がない。ドイツやフランスなどの空港で乗り換えなければならない。
今回はルフトハンザ航空でドイツのフランクフルト空港で乗り換え、ポルトガルの首都リスボンに入った。
日本からの距離は、およそ12000キロメートル、搭乗時間14時間ほどだった。
しかし、便によって違うが、ポー達はフランクフルトで6時間ほども待たされた。
つまり、20時間かけてポルトガルに着いた。尻の筋肉が弱体したポーは、ケツ痛で参った。
相棒は平然と個別に見られる目の前の映像画面で、映画やドラマを堪能していた。
セントレアから金環日食を奪った厚い雲を抜け、小窓から見えるのは白い雲ばかりの日本海を飛び越し、
朝鮮半島・中国大陸・ロシアの大地の高度11000メートルほど上空からドイツに入った。
フランクフルト空港では空港の外に出た。出たと言っても、乗り物でドイツの町に出かける勇気はない。
空港周りをチョロチョロしたくらいでは乗り換え時間6時間は多すぎる。もう、眠るしかない。
と言って易々空港内の椅子を確保できない。空き椅子を求める人々でいっぱいである。
構内にあるカフェも満席状態だ。運よく寝そべり椅子が一つとれた。
相棒に渡しポーはカフェでドイツ生ビールを呑んだ。日本のビールは旨いと認識した。
大切な注意がある。離陸時間案内板だ。よく離陸時間と搭乗ゲートが変わっているからだ。
こまめにチェックする必要がある。忘れるなかれ。
個人旅は、我が身を我が身で守らなければならないのである。
もう一つある。普通、ポルトガルとの時間差は9時間と言われている。
しかし、3月最終日の1時から10月最終日の1時まではサマータイムとなり、時間差は8時間になる。
ポルトガルに着いた時、腕時計の針を8時間戻した。戻すのを忘れるとひどいことになるから要注意だ。
「けいの豆日記ノート」
過去、2回はエールフランス航空を使っていた。
本数も多く、料金も安く、飛行機がJALであったことが大きな理由である。
JAL便は、個人で好きなビデオが見れるのである。
数年前に、そのエールフランスがセントレア(中部国際空港)から撤退してしまった。
なので、今回は、ルフトハンザ航空にした。
フランクフルト乗り換えで、乗り換え待ち時間が6時間もある。
待ち時間が3時間の便もあったが、3万円も高かったため、6時間待つことにした。
飛行機がJALでないのが、残念と思っていたら、ルフトハンザの飛行機にも個人用のビデオがついていた。
それになんとなく、座席の間隔が広くなったような気がする。
ラッキーであった。
12時間の飛行時間は、寝ている暇などない。ビデオ三昧であった。
《24時》
ポーの旅行バックは、呪われていた。紛失癖があった。
一回目は2006年ポルトガル第二都市ポルトの空港で、二回目は2008年首都リスボンの空港で紛失され、翌日宿に届いた。
しかし、荷物受取場のターンテーブルに出てこなければ紛失だ。
ロストバゲージの事務所を探し、そこで紛失届の手続きをしなければならない。
1回目は戸惑ったが、2回目は簡単に済んだ。経験は宝であるが、空港を出るまで1時間はかかる。
なにせ、紛失者が10人や20人ではない。
そんな嫌な思いを2回連続したため、手を打った。
旅行バックの表側と裏側にマジックで呪い封じを込め大きく書きこんでおいた。
[PORTUGAL LISBOA すぎさん]と、3段横書きだ。
これなら係員もミスなく種分けしてくれるだろうと考えた。
しかし、この旅行バックを空港内やその後の街中で転がすのに抵抗感はあったが、背に腹はかえられなかった。
今回はリスボン到着後、素直にターンテーブルに乗って現われた。
呪われた旅行バックが得意そうな顔に見えた。空港から深夜のタクシーに乗った。
リスボンの深夜タクシーは、特に暴走気味だ。後ろ座席に座っていても、右側通行の感覚が恐怖を倍増させた。
街灯に照らされる明るい町並みから、暗い狭い路地にタクシーは滑り込んでいく。
50代の白髪の運転手は、宿の住所が書き込まれた相棒のメモノートを再度確認し、宿を探した。
彼の仕草で初めて行く宿だと知った。Uターンして更に狭い薄暗い路地に入った。
ポーの心が萎(な)えて来た。相棒がネットで探した極安の宿である。
タクシーが止まった。深夜の24時であった。
タクシーを降り、メーター料金通り10ユーロ払う。
車のトランクに大型旅行バック2つ入れた分も料金に加算されている。
メーター表示レバーを倒してくれた運転手に感謝し、相棒は飛行機の中でコツコツ折りためた千代紙の折鶴を1羽10ユーロ札と
一緒に折鶴の説明をしながら、笑顔で語りかけ渡す姿をポーは知っていた。
レバーを倒さない深夜運転手が10年前は多かったからかも知れない。
ともあれ、いい光景をポーは垣間見ていた。
「けいの豆日記ノート」
リスボン空港からのタクシーの中から、4年ぶりのリスボンの町を見た。
「やっと、ポルトガルに来ることができたんだなあ。」
なかなか、来れそうで来れないポルトガルである。
タクシーの運転手さんは、サンタ・アポローニア駅付近の地理をあんまり知らないらしかった。
住所の通りの番地と地図を見比べていた。
サンタ・アポローニア駅付近は、あんまりホテルのない場所である。
タクシーを使うような客が行くホテルがないといったほうがいいかもしれない。
その運転手のタクシーが闇夜に消えて去って行った。ふたりは、宿の建物を振り仰いだ。
小さな4階建ての建物に狭い入口のドアが見えた。
ドアの上のちっこい看板の文字は「Residencial Oliveira」と読めた。ここが、今夜の宿[オリヴェイラ]であった。
薄汚れた白い小さなブザーを押すと、上の方から足音が降りて来た。
ガチャ!と鍵が開く音がし、内側にドアが開いた。目の前に急な狭い階段がそびえるように見えた。
背の高い頑強な色黒の青年が眠そうな目元を太い腕でこすり、「日本から来た人か?」と鋭い目つきで聞いた。
もう、映画で見る暗黒街のシーンだとポーは身を固める。「そうよ!」と、相棒が青年を見上げ笑顔で応えた。
黒い顔が微笑み、重い旅行バックを3階にあったフロントまで運んでくれた。
ポー達も彼の後をついて上ったが怖かった。もし踏み外せば、大惨事だ。
一つ目を運んだあと、彼は2つ目を運ぶために階段を下りて行く。
下でガチャ!と鍵をかける音がして、再び25キログラムもある旅行バックを片手で持ち、上って来た。
相棒がそっと呟いた。
『ポーだったら10分いや30分はかかるね。』と言った、それほど急勾配の長い狭い3階まで続く階段であった。
相棒の名前で宿を押さえてあるのに、ポーまでパスポートを要求された。
彼はパスポートを見て、「若いね。」と言い口元に笑みを浮かべた。
生年月日でポ−の歳を知ったに違いない。見た目より、いい青年のようだった。
「けいの豆日記ノート」
リスボンでの宿をこのレシデンシャルにした理由はある。
サンタ・アポローニア駅から近いということだ。
ネットでの格安ホテルサイトで見つけたホテルである。
サンタ・アポローニア駅に近いホテルはここしかなかった。
次の日はサンタレンとエントロンカメント、翌日はトマールに行く予定であった。
両日とも、鉄道を使う町である。
荷物を運ぶのに少しでも負担が少ないことを考えた。
それに、リスボンのようにホテルがたくさんある町では、いろいろなホテルに泊まることにしている。
ホテルの行き帰りの風景が違うほうがいいのである。
《29ユーロ》
ポーたちの部屋はこの上にあると、両手に旅行バックを持ち上げた青年はいう。
階段を上って案内された4階は、夜空が見える70坪ほどの屋上であった。
『えっ!?・・・』と相棒は声を呑みこんだ。
部屋が屋上の隅に増築された平屋だ。部屋は2つあり、左の部屋には明かりがともっていた。
バス・シャワーとトイレは共用だった。今さらキャンセルして他を探す訳にはいかない。
なにせ深夜12時半を過ぎていた。 『オブリガーダ』と、相棒が青年にありがとうと謝した。
追いこまれると、何事にも強かった。切り替えが早かった。旅の<いろは>を習得していた。
(注・ポルトガルの1階は0階。2階が1階になるが、階数は日本式で表示します)
壁と天井は白く塗りこめられていたが、部屋は驚くほど狭かった。
2つのベッドの間は60センチメートルほど。旅行バックはそれぞれのベッドの上で開かなければならない。
勿論、テレビはない。ポーは寒さを感じたので冬用のジャンバーを出し、それを着込んで寝たかった。
相棒は隣にある風呂場に行くという。もし、何かあったら大声を出せ、と告げた。
この部屋代は、29ユーロ(2900円)だった。ポー達の撮影取材旅は1回目からすべて折半である。
この日の宿泊代は、一人1450円であった。
「けいの豆日記ノート」
格安ホテルのサイトの中でも特に格安であったレシデンシャルである。
ある程度は、予想されていたことではある。
共同バス・トイレは、安宿には、よくあることである。
バックパッカー向けの宿など、このパターンが多い。
しかし、屋上に建て増ししたような部屋にはびっくりした。
すぐ後ろの建物との高低差があるため、崖の下の部屋であった。
もちろん、朝食もついていない。
雨でなくてよかった・・・いろんな意味で・・・
相棒が行った後、ポーは部屋を出た。
眠ってしまえばポーのボディーガード役が失(う)せる。
そんな苦労をしてもポルトガルに来たいのか、と説く自分がいた。
それでも来たい、と心が答えた。
屋上から見える夜空には、いっぱいの星がキラキラと輝き、深く切り込んだ上弦の月が鋭く光っていた。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
今回より、≪2012年版 ポルトガル旅日記≫がはじまりました。
毎月更新予定の旅日記ですが、制作が間に合わないことがあると思いますが、ご了承ください。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2012年7月に掲載いたしました。
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