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(黄金の夕焼け・リスボン 4)
Portugal Photo Gallery --- Lisboa 4

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リスボン88
城からの眺め

リスボン89
リスボンの町

リスボン90
サン・ジョルジェ城

リスボン91
城へ渡る道

リスボン92
要塞

リスボン93
高台の教会

リスボン94
まど

リスボン95
社会見学

リスボン96
劇したての説明

リスボン97
魔女役

リスボン98
守護聖人

リスボン99
路地

リスボン100
お土産店

リスボン101
荷台の陶器

リスボン102
陶器のオブジェ

リスボン103
角のカフェ

リスボン104
ワインビン

リスボン105
ワイン店

リスボン106
列車バス

リスボン107
ジェロニモス修道院

リスボン108
国立考古学博物館

リスボン109
航海を目指した人々

リスボン110
発見のモニュメント

リスボン111
宇宙

リスボン112
4月25日橋

リスボン113
大理石モザイク

リスボン114
ジパング

リスボン115
広場の世界地図

リスボン116
撮るよ〜

リスボン117
ヨットハーバー

リスボン118
飛行機

リスボン119
ベレンの塔

リスボン120
記念写真

リスボン121
夕暮れ

リスボン122
黄金に輝く

リスボン123
日没間近

リスボン124
夕焼け

リスボン125
ピンクの雲

リスボン126
夜景

☆リスボンの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
7つの丘に広がるポルトガルの首都リスボン(ポルトガル語ではリシュボーア)。
ギリシア神話の英雄オデュッセウスによって築かれたという。
ヨーロッパの都市の中でも比較的治安がよく、ひとり歩きには適している。
リスボン市内でも地域によってイメージがかなり違う。
何度いっても周りきれない楽しい町である。

「ポー君の旅日記」 ☆ 黄金の夕焼けのリスボン 4 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕

≪2006紀行文・22≫
    === 最終章●首都リスボンの顔、路面電車と大航海時代 === リスボン4

          《部屋騒動?》

 マデイラ島のサンタ・クルス空港からまだ薄明るい午後7時45分発に 乗り、ポルトガル本土のリスボア空港には日が落ちた9時に着いた。 日本語でリスボン、ポルトガル語でリスボア(Lisboa)。その空港から タクシーで宿に向かった。リスボンのメインストり−ト、りベルダーデ通 りからちょこっと入ったところにある小さなアレグリア公園。そこに接し た警察署の隣りにあるのが、6日前に泊まっていた宿アレグリア。小さな 宿だったが安くて心地よい宿だった。マデイラ島から帰ったらここで2泊 して日本に帰る手はずをしておいた。(すでに2泊分の宿泊代は支払ずみ だった)しかし、宿に10時に着きフロントの夜勤当番青年とひともんち ゃくが待っていた。

 6日前に宿泊した002号室を予約してマデイラ島に発ったのに、初め て見た夜勤当番青年は113号室の鍵を渡してきた。 泊るはずの002号室の前を通り細い通路を重い旅行バックを転がし、 たどり着いた113号室に入室してポーの繊細な?神経がプツンと切れた。 シャワーだけの風呂なしだ。しかも、部屋は狭く穴倉だった。 フロントに飛びかえった。日本語でまくしたてた。
 「舐めるな! すでにお金も払っての予約ずみだ! オーナーに聞け!」 青年は当惑だ。日本語でまくしたてられてもと不満そう。  「テレホーネ! ジェレンテ!(電話! 支配人!)」と単語をぶつけ た。青年は、何処かに電話をした。そして、少し照れた顔で002号室の 鍵を渡してくれた。顔の表情でポーは察知した。連絡のミスだと。 青年に嫌な思いをさせてしまったとポーは思う。 ともあれ、疲れ果て、ベットに倒れこんだのは真夜の12時だった。

 翌朝、11月9日(木)7時。ポーはフロントに走った。 5時間も寝ていなかったが夜勤の青年に昨夜の非礼を詫びたかった。 宿のミスとは言え、青年には関わりのないことだ。5冊持参してきた 〔山之内けい子・愛しのポルトガル写真集〕の最後の1冊を青年に渡した。 青年は弾ける笑顔で受け取ってくれた。ポーにとっては救いの笑顔だった。
 相棒は、食堂でモーニングをむさぼっていた。焼き立てのパンにバター とママレードをぬり、絞りたてのオレンジジュース、それにハムとチーズ を山盛りにしてお代わりで。このエネルギーが相棒の《一日二万歩ポルト ガル紀行》の行動力源になっていた。 ポルトガルの首都リスボン散策ができるのは今日だけになってしまった。 明日はパリのシャルル・ド・ゴール空港経由で名古屋のセントレア空港に 向って飛び立ち、日本に無事着陸するのみだ。

 「けいの豆日記ノート」
 ロシオ駅から、駅ひとつ分はなれたアレグリア公園にあるレシデンカル・アレグリア。 隣に警察署があり、ちょっと安心かなと思えるホテルだ。 ガイド本には、『部屋は、ちょっとした3つ星ホテル並み』などと書いてあった。 マデイラ島に行く前に泊まった部屋は、たしかにそのとおりであった。 ホテルのロビーも新しくてきれいであった。
 だが、マデイラ島から帰ってからの部屋は、違っていた。 こんなところにまで部屋があるのかと思うほど、奥に入った部屋だった。 実は、このホテルは、正面からみると、ひとつの建物に見えるが、二つの建物をくっつけたようであった。 建物の境目の壁にドアをつけて、向こうの建物にいけるようになっていた。 つまり、古い建物に新しい建物をくっつけて造られたようなホテルであった。

          《路面電車の活用法》

 バックバッカ−(節約旅行)並みの旅を続けて来たポーと相棒は、高さ 30mのオべりクスが建つレスタウラドーレス広場に向う。 宿からりベルダーデ通りの坂道を20分ほど撮影をしながら下ってきた。 そして、更に南下し、ロシオ広場を抜け東に歩くと、鳩が群がるドン・ジョ アン一世の騎馬像が建っているフィゲイラ広場に出る。ここは、地下鉄ロ シオ駅やバス、路面電車の要的(かなめてき)な広場だった。
 騎馬像の近くに黄色い小屋が建っている。そこが、carris(カリス)と 書かれた乗物のチケット売り場だ。(2008年6月に行ったとき、カリ スの小屋は閉鎖され、すぐ近くのビルに移っていた) 今日は路面電車を乗りまくる予定にしていたので、何回も乗れるチケッ トを相棒が購入した。リスボンを楽しむには情緒満点の路面電車に限る。 石畳の狭い道をくねくねと自動車や人、建物すれすれに走る路面電車は 乗っていても、撮影していてもわくわくするからだ。

 12番、15番、28番の路面電車に乗ればリスボンを堪能できる。 (12番はアルファマ地区を1周。15番はフィゲイラ広場からベレン地 区へ。28番はバイロ・アルト、バイシャ、アルファマ地区へ) 乗りたい時に乗り、景色を見て降りたい時に降り、歩きたい時は歩きま わる。それが路面電車の活用法なのだ。なにせ、今日一日しかリスボンを 探索する楽しみはない。相棒の行動能力勘が頼りだ。相棒の閃きで撮りた い映像を追いかけて行けばいいのだった。何回も報告している通り、一度 通ったところは決して忘れない相棒は、まさに犬であった。

 まず、2001年9月、初めてポルトガルに来た時に感動したサン・ジ ョルジェ城に5年ぶりに行くことにした。 (アメリカのニューヨークで起った今も忘れられない惨事、同時テロ事件 9・11があった、その11日後、厳戒態勢の空港を乗り継ぎポルトガルに やってきた。2001年の初紀行でポルトガルの虜になり、2002年・ 2003年・2004年・2006年と5回に渡り〔一日二万歩ポルトガ ル歩け歩け紀行〕を続けて来たが、今回は明日で終りだった)

 12番の路面電車に乗った。 アルファマ地区にあるサン・ジョルジェ城に行くには便利だ。歩いても 40分ほどで行けるが、石畳の坂道を登りっぱなしが辛い。でも、5分も 乗らずにコンセイサオン通りで相棒の『ポー、降りるよ!』の一言で、ひ ょいと降りた。車窓風景に、何かを見つけたに違いない。 コンセイサオン通りはバイシャ地区の中心地で、いつも賑わう繁華街だ。 28番も走る朝の路面電車のラッシュ時だった。車体一面に広告文字を 着飾った色とりどりの路面電車がわっせわっせとやって来る。相棒のシャ ッターは鳴り続けていた。
 『陽の向きがなー・・・影がきついな〜・・・』とぶつぶつ吐きながら。 建物と建物の狭い空間をコトンコトンとうしろに自動車の群れを引き連 れて走る路面電車は、首都リスボンの主役のようだ。石畳の線路がレッド カーぺットのように輝いて、ポーには見えた。

 「けいの豆日記ノート」
 アルファマ地区を走る路面電車は、狭い路地を通るのがおもしろい。 両側に建物が迫ってくる路面電車は、ここでしか撮れない。 ギリギリのところを走って行くのがいい。 狭い路地は単線になっているので、よけいに狭く感じる。 曲がった坂道の上と下で信号がついている。 ここで、待ち時間がかかるので、電車が2台くらい続いてしまう。 電車を撮り出したら1日いても飽きないだろうと思う。

 石畳の坂道に延びる線路際の狭い狭い歩道を歩いた。この先には、サン ト・アントニオ教会があり、その先にリスボンの大聖堂であるカテドラルがある。 カテドラルは、1147年の建造で、砦みたいな頑固な造りだ。177 5年のリスボン大地震にもガンと崩れることなく生き延びたカテドラルだ ったと聞いている。その風格がいい。頑強な鎧をさりげなく身につけた貴 公子然とした騎士にも見える。
 相棒は、そのカテドラルのファサード(正面入り口)から路面電車があ たかも出て来るような映像を撮りたかった。陽の当たり方が鍵だった。 今まで何度も挑戦してきたが、納得できる映像が撮れなかったことが根 にあった。   この日、ポルトガルの神の助けか、ファサードに陽が当たってくれた。 下手(しもて)の建物の陰から急に路面電車が顔を出し、ファサード前 で右折して坂道をくだって来る瞬間を相棒は根気よく待った。 次々に路面電車がやって来ないため、ポーは坂上50m先のファサード 前で路面電車が来るのを待ち、現れると相棒に合図を送ることにした。 20分間で3回のチャンスがあった。  『撮れたー!』の合図が、坂下50m先からポーの目に飛び込んできた。 赤い帽子が頭上で揺れていた。(撮影時には必ずかぶる「相棒目印帽」だ)

          《サン・ジョルジェ城に行く》

 路面電車を乗りまくるチケットを買ったのに、乗ったのはたった5分。 撮影をしながら急坂を歩いてきてしまった。乗り物に乗っていては、撮影 はできない。歩くからこそ、被写体との出会いが待っている。 28番路面電車が走るカテドラルからサン・ジョルジェ城に向かった。 5年振りの石畳の坂道を登る。ポーには記憶のない石畳だったが、相棒 はわが庭のように、ひょいひょいと雌鶏のように足早に登って行く。 写真家の記憶力に唖然だった。地理的勘は、脳のどこら辺に入っている のだろう。それが不思議だとポーは思いながら、相棒の後をヒヨコのよう に追いかけた。ちりひとつ落ちていない石畳の坂道には、何軒ものポスト カード売りの店が並んでいたが、観光客はいない。
 城に入る通路にチェーンが張られ小さな看板が吊り下げられていた。  入場料5ユーロの文字が馬鹿にでかく迫る。5年前は無料だったのに、8 00円は高いとポーは思う。市民の憩いの場であり、観光客にリスボンの 景観を楽しませる最良のサービスのはずだ。(市民だけは無料なのか?) 普通だと『やーめた!』と吐いている相棒が『5年振りだもんね』と、 入場券売場に走った。

 高台にあるサン・ジョルジェ城から5年前、初めて見た時、リスボンの 情景にポーは身震いするほど歓喜した。眼下に飛び込んできた視界一面は オレンジと白の花畑のようだった。オレンジの屋根瓦と白い壁が紺碧の空 の下に広がり、絵本を眺めているような心地よさだ。 首都リスボンは海に面しているとばかり思っていたが、広い広い川であ った。テージョ川だと知る。しかし、目の当たりにする川は、海のように 思える。大きなタンカーが上手(かみて)先にある大西洋に流れていくよ うに見えた。
 いま、テージョ川に面したコメルシオン広場の船着場から対岸に渡る遊 覧船が出て行くところだった。かつて、ここから海洋に活路を求めたポル トガルの大航海時代が始まったのだ。

 「けいの豆日記ノート」
 はじめてのポルトガルの旅でサン・ジョルジェ城を訪れた。 その時は、無料であった。 どこの町にいっても城壁などは、無料のところが多い。 城の建物の中に入るのに入場料がいることはあるが。 はじめてのポルトガルでリスボンのオレンジの屋根が広がる景色は印象に残っている。 でも景色より、城壁をまたいで本を読んでいた女性の後ろ姿のほうが印象的だった。
 2004年にサッカーのユーロ2004の大会がポルトガルであった。 4年に1度のヨーロッパの大会なので、すごく盛大に行われる。 ホテル代もすごく高くなる。 予約も取れないらしい。 きっとそのときに入場料も取るようになったのではないかと思う。 整備とかでお金をかけたのだろう。

          《ポルトガルの大航海時代》

 ここでちょっと、ポルトガルが生き抜いていく術とした大航海時代の活 路を、ポー思考でまとめて置きたいと思う。 大航海時代の基礎を築いてきたのは、ポルトガルの国王ジョアン一世の 息子エンリケ航海王子だ。エンリケが海洋に活路をと考えたのは、125 4年ヴェネチア生まれのマルコ・ポーロが書いた「東方見聞録」だと聞く。 国の二面を海に面した小さな国が生き抜いていくには、海に出ていくし か活路はないとエリケンは考えたに違いない。
 ≪黄金の国チパング≫の記録を見た、その心根がエンリケの心中を大き く揺さぶったに違いないと。≪チパング≫とは、日本だ。 そして、この「東方見聞録」はその後の歴史的な人物にも多大な影響を 与えたようだ。新大陸発見(アメリカ)のコロンブス。かれはマデイラ島 で海に出る術を学んでいる。また世界周航のマゼランがいる。 ポルトガルのエンリケ航海王子はコツコツと航海領域を広げていく中で、 アフリカに近いマデイラ島を発見し、アフリカ大陸の沿岸を開拓し伸ばし ていった。
 アフリカ大陸を目の前にするポルトガルの南端のさびしい岬サグレスに 海洋学校を開き、航海技術を若い世代に伝授していく。それは、チパング 航海実現へと夢を馳せていたように、ポーには感じて来る。 その夢は、エンリケ航海王子の死(1460年)後、ジョアン三世にい たるまで根気よく受け継がれ、大航海時代が開花していった。

 【ポー的な年表にまとめると・・・】

(1271年、マルコ・ポーロが東方旅行に旅立つ)
 1415年、エンリケ航海王子の航海時代が始まる。
 1492年、コロンブスの新大陸発見。 
 1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見。
 1500年、カブラルがブラジルに着く。
       (その後、ポルトガル語の植民地になる。だから、ブラジルはポルトガル語だ)
 1510年、インドのゴアを征服。
 1511年、マラッカを征服。
 1518年、セイロンを征服。
(1519年、マゼランの世界周航)
 1543年、種子島に漂着。鉄砲伝来。
 1549年、鹿児島にフランシスコ・ザビエル来航。
 1569年、宣教師ルイスが織田信長に謁見(えっけん)。
(2006年、相棒とポーが、5度目のリスボンにいた)

 こうしたポー的年表にしてみると、マルコ・ポーロの「東方見聞録」が いかに長い年月、当時の世代に大きな影響と夢を与え、航路でチパングへ の旅に出た男達の夢物語が、偶然の機会を得てその地その地にたどり着き、 勝ち得た業績をもとにポルトガルは富と繁栄を得、そして、エンリケ航海 王子の夢が初めて日本と結びついたか。何と長い歳月が流れ去って行った 航海王子の夢実現物語であったか。エンリケ航海王子の業績の夢をこんな に凝縮してしまうのは、はなはだ失礼な気持ちである。 しかし、エンリケ航海王子の夢があったこそ、日本の4分の1の大きさ しかないポルトガルが海に活路を見出し、世界史に残る富を得て繁栄した 時代を築き上げたのだ。
 その富みで造った数々の国家建物や各地の教会、カテドラル(大聖堂)、 修道院、広場などが、1755年のリスボン大地震があったにせよ、凛 (りん)として今日も現存し、13もの世界遺産をポルトガル各地に残し ている。また、エンリケ航海王子の夢を引き継いだヴァスコ・ダ・ガマの 功績やフランシスコ・ザビエルの日本来航が南蛮文化をもたらし、当時の 織田信長や豊臣秀吉に多大な影響を与えたポルトガルの実績が日本史に歴 然と輝いている。

 初めてポルトガルの地を両足で踏みしめてから5年後の今、眼下にポル トガルの首都リスボンの景観があった。 その景観は5年前に感知した時より薄らいで見えるはずだったが、太陽 を浴びて輝くオレンジの屋根と白い壁、それに緑色のパステルで幅広に引 いたような帯状のテージョ川先端が、紺碧の空に溶けていく。しばらく眺 めていても、少しも飽きない素敵な情景だった。
 マデイラ島でファンシャルの俯瞰景観を見たとき、リスボン以上に美し いとその時は思ったが、やはりヨーロッパ大陸最西端の首都には、歴史の 重みと深みがにじみ出ていて、しかもこの景観の地から旅立った船が日本 にたどり着き、鎖国日本に南蛮文化を広めた歴史的背景を思うとどこまで も続く紺碧の空の下に広がるリスボンの美しい景観が一服の旅情をかきた ててくれる。 大きく胸いっぱいにその旅情を、ポーは吸い込んでいた。

 「けいの豆日記ノート」
 ポルトガルと聞いてもほとんどの人が、ピンとこないだろうと思う。 きっと昔、歴史で名前を聞いたかなという記憶くらいだろう。 場所もどこにあるのかわからないのが現状だと思う。 旅行などでもスペインまでは行ったことがある人は多いが、ポルトガルまで足を延ばす人は少ない。 スペインもポルトガルも同じようだと思っている人も多いことだろうと思う。 そのあまりメジャーでないポルトガルばかり行くのを不思議に思う人も多い。
 『なぜ、ポルトガルなのか?』  『なぜ、何度も行くのか?』  『ほかの国には、行かないのか?』 よくある質問である。 食べ物の好き嫌いやタレントの好き嫌いのように国にも好き嫌いがある。 理屈ではない感覚的なものかもしれない。
『ポルトガルが好きになった・・・』ただそれだけである。

          《再度、サン・ジョルジェ城から》

 テージョ川から目線を下げたらすぐ前にフィゲイラ広場が見えた。さっ き切符を買った黄色い小屋のカリスとドン・ジョアン一世の騎馬像がある フィゲイラ広場だ。その広場は大きな建物で囲まれた正方形に近い広場だ と初めて知った。この広場に200人以上の肌の黒い人々が集まり、黒人 歌手がポルトガルの艶歌ファドみたいな旋律で歌い込むアフリカの民謡を 聞き入る集団が燃えていた。偶然にその場に遭遇した日本人が、平然とま じってカメラのシャッターを押し続けていたのは、2年前の5月5日の昼 下がりだったことをポーは思い出す。広場は、太陽が照りそそぐ青空の下 の、市民のステージだった。あの熱気が今も、伝わって忘れられない。

 城の広場で子供たちの黄色い声が響いてきた。 20人ほどの小学生の一団がいた。その中心に宝塚歌劇団のような2人 の女性が子供たちの輪の中で朗々と演じているのに遭遇した。 この城の成り立ちの歴史を、演劇調で説明しているようだった。 中世の衣装を着た2人の女性は先生ではなく、団体客を案内するこの城 の職員なのかも知れない。
 聞き入る子供たちの表情がいい。頷きながら2 人の演技を楽しむ瞳が愛くるしい。透き通る瞳が輝いていた。このリスボ ン子たちが旅情豊かなリスボンを守り続けて行くのだろう。そんな思いで ポーは眺め、相棒は30分ほど子供たちの姿を追った。
 『子どもたちは、無邪気でいいねーェ。素直な瞳の輝きは宝だね』と、 相棒がご機嫌で、ポーが待つ約束のベンチに帰ってきた。

 「けいの豆日記ノート」
 子供たちは、社会見学なのだろうか。 これは、ラッキーだと思い、後をつけていくことにした。 解説の女性は、城の職員らしいが、服装がよかった。 中世の衣装をイメージしたのだろうか。 子供たちに興味を持って説明を聞いてもらうための方法のひとつかもしれない。
 正義の味方と悪役という配役で物語を説明しているらしい。 悪役の魔女風の女性は、魔女にぴったりの顔だった。 (失礼・・・) 城の外のベンチで座って待っている時に千代紙で鶴を折ってあげたら、とても喜んでくれた。 『あなたにとって、簡単に作っているが、私にはすごくむずかしい。ありがとう。』 と身振りで伝えてくれた。 気持ちを伝えようとしてくれる気持ちがうれしくて涙がでそうだった。

          《路地裏の小さなレストラン》

 2時を過ぎていた。城からの石畳の坂道を下り、路地を曲がったところ に小さなレストラン(食堂)があった。店の中は狭く目もとのきれいな婦 人が迎えてくれた。10人も入ればいっぱいの店内だ。 イワシの塩焼きを一皿、サグレスビールとファンタを頼む。5ユーロの 昼食だった。 狭い厨房で婦人がイワシを焼く姿を相棒が撮らせてもらう。
 ひとりで、もう20年も切り盛りしているという。美人だから常連客も多いと思う。 焼きたてのイワシにレモン汁をかけて、頭からがぶりと喰う。脂の乗っ た肉汁が口に広がる。あったかい白い御飯が欲しくなる。 冷えたサグレスビールが渇いた喉をゴクッと鳴らして食道を落下してい くのが心地よい。
 路地裏の小さなレストランの美人女将とメール交換をした相棒が言った。
 『会話ができたらな〜〜。もっともっと友達になれるのにな〜』 ごもっともとポーも同感。でもね、身からでた錆び。会話の大切さは今 思い知らされたわけじゃない。ポルトガルに来るたびに、苦渋を舐め反省 を背負って帰国しての繰り返し。ろくすっぽの反省が身を削るのだった。

 「けいの豆日記ノート」
 イワシの塩焼きは、いつも食べれそうであって、なかなか食べれない。 今回の旅でも、1度も食べていないことに気が付いた。 最後には、食べたいと思った。 アルファマの小さな大衆食堂だった。 向いにも同じ経営の店があるらしい。 こちらで作った料理を運んでいったりしていた。 ケースに入っていたデザート類も運んでいった。 いつもは、デザートなど食べない。 でも、かわったものを見つけた。 聞くとライスプリンだという。 ためしに食べてみた。 プリンがけご飯のようで、なんともいえない味だった。 別々に食べたいよ〜

          《15番に乗って、ベレン地区》

 フィゲイラ広場に戻り、15番の路面電車に乗ってテージョ川沿いを6 キロほど大西洋に向かうと、30分ほどで大航海時代の名残を楽しめるベ レン地区に着く。路面電車の中は観光客であふれ、英語・スペイン語・フ ランス語などが飛び交い、聞き分けができない発音の言葉も重なり賑やか な車中であった。日本語は相棒とのふたりだけ。肩身の狭い会話を交わす。  車窓に長く連なる大理石の美しい建物が飛び込んできた。ジェロニモス 修道院だ。3回目のご対面だった。相変わらず美しく尊厳に満ちていた。
 司馬遼太郎著「街道をゆく」のなかで、ジェロニモス修道院を初めて見 たときの感想を端的に描写している。それが印象的であった。 《皮膚色の大理石が、よほど結晶粒がこまかいのか、うすぎぬを透した女 性の肌を思わせるように美しい》 そして《建物ぜんたいに感じられるの は成熟した女性のやさしさである》と、結ぶ。 外観の感想を、司馬さんは、こう言い切っている。 うますぎる、とポーは思う。ずるい、とポーは脱帽した。

 〔ジェロニモス修道院〕は〈世界遺産〉である。 エンリケ航海王子の偉業を記してマヌエル1世が1502年に着工し、 その後100年以上もかけ建立した大航海時代の栄華を象徴する修道院だ。 外観はポルトガルで発掘された大理石を使用。ポルトガルは大理石の産 地としても名高い。大理石を砕いて石畳に敷き詰めた街もある。 (リスボンから西に150km程行ったヴィラ・ヴィソーザからボルバの間 に、今も大理石を発掘する地帯がある。2008年6月に行く。《200 8年版紀行》で紹介します)
 2001年9月に初めてポルトガルのリスボンにやってきて、唯一の頼 りであるガイド本[地球の歩き方]を左手から離さず、羅針盤のように頼り きり、相棒の写真家と右往左往した。まず、路面電車に乗ってみようと相 棒が決めた。初めて乗った路面電車の番号は、15番だった。
それで出合ったジェロニモス修道院はポルトガルに13ある世界遺産の 一つであった。修道院の外観を眺めていた相棒が初めてシャッターを切っ たのは、南門だった。彫り物の繊細な造形が頭上から滴(したた)り、落 ちてきた。ポーは、首が痛くなるまでその美しさを仰ぎ見続けた。

 その南門が、午後4時過ぎの斜めに差し込む陽射しに浮かんでいた。 5年前と同じように、相棒と南門の前で立ち尽くす。何度見ても、この 門は旅人の心を癒してくれる。石に彫り込まれた繊細な線が力強く、美し く迫る。その入り口の上部にはエンリケ航海王子像が20体ほどのキリス ト騎士団像に囲まれて立っている。 南門の左手にジェロニモス修道院の入り口があり、閉館30分前だと入 場できたが相棒は見送った。空の様子を観察していたポーが断言したから だ。〈今日は、夕焼けになる!〉と。
 夕焼け、と聞いて相棒はポーを信じた。今回、綺麗な夕焼けに出合って いなかったから、意外と素直であった。
(修道院の中は、別世界である。代表的なマヌエル様式の建物だというが 雰囲気だけで圧倒される。まず、ヴァスコ・ダ・ガマの石棺があり、詩人 ルイス・デ・カモンイスの棺も並んでいる。特に相棒が気に入ったのは、 中庭を囲む55メートル四方の回廊である。マヌエル様式の最高傑作だと いわれている。この回廊を5周、2時間もかけ撮影した相棒の姿が浮かぶ)

 「けいの豆日記ノート」
 ジェロニモス修道院は、観光案内ガイドには、必ず入っているところだ。 世界遺産でもあり、大航海時代の富によって建てられた栄華を反映させた修道院だからだ。 たしかに正面の繊細な彫刻は、すごいと思う。 はじめて見た時は、びっくりしたものだ。 回廊は、バターリャのマリア修道院のほうが好きであるが。 バターリャの修道院も世界遺産である。

 ジェロニモス修道院の前は広々とした広場があり、その先に海みたいな 広いテージョ川が上手にある大西洋に流れている。その川岸に〔発見のモニ ュメント〕がある。モニュメントは毛嫌いしていたので見る気もしなかった が、夕焼けになるはずまでを使って立ち寄ってみることにした。 高さ52メートルの帆船の船首に像が立ち並び、今にも大海原に乗り出 そうとするようなモチーフであった。改めてガイド本を立ち読みだ。
 〈エンリケ航海王子500回忌記念(1950年)に造られ、当時の帆船 カラベラ船を持つエンリケ、そのあとに天文学者など活躍した人が続く〉
 この大理石で造られたモニュメントがある場所から、エンリケ航海王子 の死後1497年にインドをめざしてヴァスコ・ダ・ガマが4艘の船で出 航したという。
 エレベーターで屋上まで行ったのは相棒だ。料金が高かったので自発的 にポーはやめた。明日は帰国、手持ちのユーロが乏しかった。相棒の報告 によると、屋上からは眼下に大理石のモザイクで作った世界地図が見えた ので撮ったよ、と。30分ほど相棒が屋上にいる間、ポーはそのモザイク の世界地図の上を歩いていた。近くだと、なんだかよくわからない。だだ の絵模様の、石畳であった。

 「けいの豆日記ノート」
 毎回、リスボンに来ていてもなぜか、発見のモニュメントは近くで見ていなかった。 遠くからは、電車からもよく見えるのだが。 新しい建物ということもあって、おもしろみにかけるような気がしていたのかもしれない。 ジェロニモス修道院からは、広い公園をこえて、鉄道をこえて、川辺に行かなければならない。 今回は、時間もたくさんあったし、行ってみることにした。

 太陽がだいぶ傾き、青い雲に微かに色がつき始めたとき、夕焼けを確信 した。その時だ、急に腹が痛くなり、トイレが欲しくなった。モニュメン トから下流900メートルほどにある〈世界遺産〉の〔ベレンの塔〕に向か っていた。ポーは唸った。先に行くよ、と尻の穴しめてベレンの塔の近く にあった筈のレストランを思い出し、小走りで急いだ。
 600メートルは遠かった。 途中で穴を掘りたくなったが、何せ何もない見渡す限りの広場 である、無理だ。もう、冷汗2リットル、限界の境地。汗の隙間に音楽が 流れるレストランが見えた。テラスの丸テーブルで夕焼けを期待する観光 客の間をぬって店内に入り、『カーザ デ バーニョ?』と虫の息。若き 女性の指差す先が、天国であった。(あのバーニョは、ポーの世界遺産だ)

 夕焼けになる、という確信が現実となった。 岩礁に建てられた〔ベレンの塔〕はL字型の要塞だった。目的は船の出入 りを監視するためであり、また大海に出た疲れ果てた船乗りを出迎える心 のオアシスでもあったようで、16世紀初めにジェロニモス修道院建立の 間に建てられたと聞く。L字の縦が6階建てになっていて川側の壁には砲 台があり火砲のための穴もあいている。大きな要塞ではないけれど、修道 院と同じ設計者かどうかは知らないが、要塞にしては優しさと気品みたい なものを感じる。
 そのベレンの塔が頬を染めるように変化していった。 太陽が大西洋側に落ちて行くに従って頬の色は濃さを増す。黄色から 橙(だいだい)、そして黄金の燃えるような火の色にだ。美しい。化粧直 しの花嫁のような清々しい完璧な夕焼けであった。 興奮気味に相棒がシャターを鳴らし『こんな夕焼け見たことも、撮った こともないよ!』と唸った。

 「けいの豆日記ノート」
 夕焼けは、待っていても出るものではない。 それにその時間に見える場所にいるかもわからない。 移動中のことも多い。 帰り道はいつも真っ暗だった。 ポルトガル最終日なので最後の期待をかけた。 ベレンの塔の横の堤防前でしばらく待っていた。 夕焼けを待っている人たちはたくさんいた。 テージョ川が大西洋に注ぎ込む河口に夕日が沈もうとしていた。 ベレンの塔は、反対側の夕日に照らされて赤くなっていた。 大西洋の向こうに見える大型船に夕日が落ちていった。 夕日は、あっという間に落ちて行く。 沈んでしまった〜っと思って振り返ると、ベレンの塔の後ろの雲が真赤になっていた。 ベレンの塔は、もう暗くなっていたのに後ろだけが燃えているようだった。 最後の日にラッキーな夕日であった。

 設計者は、季節季節の夕焼け角度を計算して 建てたに違いない、とポーは思った。 5回目の「愛しのポルトガル紀行」帰国前日に、神様がちょっとばかし 奮発してくれたプレゼントであったかも知れない。

                              *「地球の歩き方」参照*

終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
今回で、2006年版旅日記は、終了します。次回より、2008年版の旅日記になります。
お待たせいたしました。次回をお楽しみに・・・・・・・2009年7月掲載

掲載済み関連写真===≪ポルトガル写真集≫2006年版旅日記
前途多難の予感のポルト4 ・2出会いのポルト5 ・3ドウロ川終着駅のポシーニョ ・4アルトドウロの基点のレグア2
輸送基地のトウア ・6ワインの里ピニャオン ・7中継バス地点のヴィア・レアル ・8地上のメトロのポルト6
・9日本語補修校のポルト7 ・10大学の町のコインブラ2 ・11コンデイシャとコニンブリガの遺跡 ・12宮殿ホテルのブサコと天然水のルーゾ
・13フィゲイラ・ダ・フォス ・14リスボン3 ・15サンタクルスとエリセイラ ・16フンシャル
・17モンテ ・18カマラ・デ・ロボス ・19ポルト・モニス ・20サンタナ
・21フンシャル2

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