《メトロは地下鉄ではなかった》
翌日、10月27日(金)の朝は快晴だった。
モーニングの時、福岡からひとり旅をしている65歳の原さんという男
性に偶然会った。スペインからポルトガルに入ってきて5日目だと言った。
元気で歩ける間は旅を続けたいと一緒に食事をしながら語ってくれた。
(帰国後、メールをくれた。嬉しかった)
今日は一日中ポルト三昧(ざんまい)に当てていた。相棒が出発前に計
画を立てていた日程通りの順調な展開だった。
相棒が言った。『出来たての地下鉄を乗りまくるぞ!』
ポーには、その言葉が理解できた。首都リスボンの地下鉄走破の自信が
ったからだ。
9時に宿を出た。
晴れ男、ポーの青空だった。
《お使い》のご利益かも知れない。
地下鉄(メトロ)に乗る手順は前に記述したので省くが、今回はカード
を持っているので購入は早かった。
乗車券販売機装機にカードを差し込み行きたい駅のエリア料金を確かめ
支払えば差し込んだカードが戻ってくる。(カードは一度買えば何度でも
使える。なくすとまた買わなければならない)
メトロには改札口がない。ホームに入る通路に立っている装置にカード
を押し当てると、ピっという音と同時に青ランプが点き、カードに料金と
乗車駅名が記入される。それで目的駅まで乗れるシステムになっている。
これを確実にしないと行き先までの料金を払って切符を買ったはずなの
に、カードに乗った駅名が記載されていないと、無効となってしまう。
普通は乗っていない車掌だが、急襲検閲があり、それに引っかかると無
賃乗車と見なされ、70ユーロ(10500円)もの罰金が課せられたと
賢いはずの体験者YUKOさんが言っていた。
「けいの豆日記ノート」
ポルトの新しくできたメトロは楽しみであった。
前回の2004年春に来たときには、まだできていなかった。
あちこちで、工事中だったこと覚えている。
サン・ベント駅前も工事中だった。
リベルターデ広場などは、周りが塀で囲まれていて、景観どころじゃなかった。
なにができるのだろうと思っていたら、メトロだった。
メトロと言っても地下を走るのはわずかだった。
すぐ太陽が燦燦と輝く地上に出た。橋の上をゆったりと太陽を浴びてメ
トロは走った。
ドウロ川に架かるドン・ルイス1世橋を渡った対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・
ガイアの町にある駅で降りた。
駅の前に公園があり、そこから見たドン・ルイス1世橋もよかった。
橋の姿を見ていると何処かで見たような感じがする。
それもそのはず、ドン・ルイス1世橋はパリのエッフェル塔設計者の弟
子の作だった。
その橋の向こうに、ひな壇のように積み重なるポルトの町が俯瞰(ふか
ん)で楽しめる。
駅を降りた公園の反対側にはノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院が
あり、その修道院の広場の隅っこから初めて見た景観が今も蘇える。
ドウロ川とドン・ルイス1世橋の向こうに広がったポルトの町の景観に
感動し、感涙した。
2002年の2回目のポルトガル紀行の時だった。
相棒がドン・ルイス1世橋を渡ってくる2両編成の黄色いボディ―のメ
トロを撮っていた。その橋は高さ68m。橋の眼下を観光船が水を切って
白い閃光を残しながら下流の大西洋に向かって走っていくのが見えた。
「けいの豆日記ノート」
メトロというと地下鉄なのだが、地下を走っている部分はほんのわずかしかない。
ほとんどが地上を走っている。
ライトレールというのが正解かもしれない。
ドン・ルイス1世橋の2階は、メトロが走っている。
その横は、人が通れるようになっている。
別々になっているわけでなく、同じ線路?道路?を通っている。
人が歩くすぐ横をメトロが走っているなんて、日本では考えられないと思う。
路面電車の最新版のような感じなのだろうか。
《日本語補習校の下調べ》
今日、メトロに乗った目的には、昨夜夕飯に招待された時、YUKOさ
んから聞いた《2人の子供に日本語を教えたい》と始めた《日本語補修校》
のことがあった。
ポルトガルの北部の都市ポルトで日本語補習校を立ち上げたい熱意が浸
透し、小学校の休日の教室を借りての補習授業が始まったという。
その経緯には計り知れない血の滲むような遍歴の努力があったと思う。
2人の子供ばかりではない。日本から家族で来ていた商社の奥さん達な
どからも我が子もぜひ参加させたい手伝わせて欲しいの声に押され開校に
こぎつけたという。日本人の血も流れている限り日本語の読み書きは教え
ておきたい。それは母親の責務であり愛情であった。
積り積もっての、20年間。その苦難の道のりを、昨夜の招待でYUK
Oさんが淡々と語ってくれた。
当然YUKOさんの二人の子供も、母が築いてきた《日本語補習校》の
卒業生であった。この日本語補習校から旅立っていった子供達は何百人に
もなると、YUKOさんは言った。
その授業風景を撮影させて欲しいと昨夜頼みこみ、地図を書いてもらっ
た。その《日本語補習校》は土曜日に行なわれていた。
今日は金曜日だ。その下見を地下鉄で行くと相棒がいう。異存なかった。
今、サン・ベント駅から乗って来た黄色線のメトロに乗りドン・ルイス1
世橋を渡り、終点まで行ってみた。
一人128円。(ポルトガルの運賃はバスも路面電車も、列車もケーブ
ルカーも安い)
終点駅は何もない広々とした空き地だった。駅舎の前に大きな建物があ
った。YUKOさんのご主人が勤めるサン・ジュアン病院だった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトのメトロの料金は、わりと細かく設定されている。
リスボンの場合は、ほとんど同じ料金でどこまでもいける。
最近、数ヶ所の遠くだけ、別料金になったが。
切符売り場といっても自動販売機なのだが、そこ横に地図が描いてあり、区域が色分けになっていた。
距離によって料金が違うのは日本と同じだ。
1時間以内に戻ってくるなら、往復料金でなく、片道でいいそうだ。
ポルトのメトロはわかりにくく、住んでいる人でもわからないのではないかと思った。
利用するのは、通学や通勤で通う若い人が多いのだろうと思う。
黄色線の終着の病院までは、区間を越えていたので、料金オーバーであった。
検問にこないことを祈ってドキドキだった。
引き返し、トリンダーデ駅で乗り換えて3つ目の駅で降りる。
YUKOさんから渡された地図を見ていた相棒の勘で降りた3つ目の駅だった。
駅舎を出ると小さな公園があり、背後に高校の建物が白く輝いていた。
公園は高台で町が見渡せた。意外と樹木が多かった。
石段を下って狭い石畳の路地を歩いていくと、小ぶりの公園に突き当た
った。公園の周囲は色づいた大木が生い茂り、その中央に30mもあろう
高くて重厚なモニュメントが建っていた。
戦う戦士の果敢な姿の中に、左手に旗を右手に剣を握り締めた女性が
勢いよく前進姿勢で叫ぶ。その顔が印象深く迫る。塔の最上部には天使
の羽が生えたライオンが怖い顔で吼えていた。
その時、唸る声が聞こえた。ライオンが、ガガガッと唸る声だった。
声ではなくゴミ収集車が積み込んだ落ち葉を車内に押し込む機械の音だ
った。かき集めた落ち葉の山を係員が汗だくで処理中であった。
路地を下ると閑静な住宅街に出た。
人の歩く姿もない淋しい石畳を歩き、ここかなと相棒はつぶやいて、路地を折れた。
大きな鉄扉が前進を阻んだ。
そこが目的の小学校だった。
メトロの駅を降りてから10分で来れると判れば明日の目的達成だった。
明日は約束の8時半にここに来ていれば《日本語補習校》の授業風景が撮
影できるのだ。(YUKOさんには仲間と生徒たちの家族に取材許可を取っ
てもらっている)
鉄扉の向こうに、YUKOさんの20年間の血と汗が滲む苦闘の努力を
垣間見れると思うと心が踊った。
それが、身震いするほどの《命と愛の聖域》だとポーは思った。
淋しい石畳の路地に戻ると小さな石組みの簡素な教会に出た。ポルト最
古の教会だった。内部に入ってみたかったが閉鎖されていた。
この情報はYUKOさんから昨夜食事中にもらった。
羅針盤の《地球の歩き方》にも載っていない。木目細かな情報を望むの
は酷なのだろうか。
全世界を描き尽くす《地球の歩き方》だ。紹介する小
さな国とは言え、確かな情報を提供し続けるのが情報誌の使命だ。
旅する者にとっては聖書《地球の歩き方》だと思っているからなおさら
だった。
《久しぶりのレストランで昼食》
腹がグーと鳴った。相棒の腹だった。(ポーではない!)
時間を刻む相棒の12時の叫びだ!(本当だよ!)
若い女性が何人も吸いこまれていくレストランに相棒も吸い込まれた。
《casa de 3》という店名を見て入った。狭い店だったが美味し
そうな香りが漂って来た。若い人ばかりの客であった。近くに大学がある
のかも知れない。我らにぴったり?の店だった。
何故か2人に視線の矢が飛んできた。場違い的異邦人だからか。
『日本から来た。』と隣りのテーブルで食事中の4人に相棒が声をかけると
笑みがかえってきた。やさしい微笑だった。
日本人がめずらしいのか、やわらかな視線をいっぱい頂いた。
相棒がランチ4種類の中から2種類を頼んだ。どんな料理が来るかは、
賭博(とばく)的勘だけの注文方法だから、現物の料理が運ばれてくるま
で何時もドキドキだった。
じゃがいも輪切り炒めにオリーブ炒めライス、赤ピーマンの盛り合わせ
が一皿にてんこ盛り。もう一皿はポテトチップスの中に牛肉焼き。それが
頼んだ2種類のランチだった。
見た目はギョギョときたが味は美味かった。交換して食べた。
ランチは一皿4.5ユーロ(675円)だった。
「けいの豆日記ノート」
とても外観は、レストランに見えなかった。
横断歩道を渡って行く人たちをはじめは被写体としてみていた。
後ろ姿もすてきだった。
写真を写していると、普通の家に入っていくのをみて、なにかのお店かと思った。
店に近づくとレストランであることがわかった。
小さなレストランだった。
ワンフロアに20人でいっぱいになるくらいだった。
ランチメニューらしきところから、選んでみる。
どれでもおいしそうだった。
観光地の大きなレストランより、地元の小さいレストランのほうがおいしいにちがいない。
こんなにたくさんの人でいっぱいなのだから。
《昼食後の散策》
狭い路地の坂道は下っていた。両側が古い建物が折り重なって連なり、
その先にあの高いモニュメントがにょきっと生い茂る木々から飛び出して
見える。
その石畳の坂道を下らないで、登っていき、左折したところに全面総ガ
ラス張りの変わった形の建物に出会う。建物に入るには陽射しに照らされ
白く輝く広い階段を昇っていかなければならない。ロビーもとてつもなく
広かった。何のビルか判らない。劇場のようにも思える。
ポルトの中心地は中世の雰囲気を楽しめるが、この建物はポルトには似
合わない。エレベーターに乗って最上階まで行こうとしたが、ボタンを押
しても動かなかった。悔しくてエレベーターの前で観察した。中年夫婦が
乗った。5秒後に出てきた。ニャッと笑って立ち去る。なぜ動かないのか
は不明。悔しい。若い男女が乗った。10秒後に出てきた。足早に立ち去
った。笑顔がない。受付に文句の1つも言いに行ったのだろうか。
結局、ポルトで天井が高く新品の豪華な最高のトイレを経験し建物を後
にした。
「けいの豆日記ノート」
この最新の音楽ホールのトイレのドアがすごかった。
ホールなのだから、トイレはどこにあるはずだと探した。
小さなカフェのようなところの入り口付近にやっと見つけた。
トイレの部屋に入る鉄の扉が半端でなかった。
普通の家の3階分くらいある高い天井までの扉だ。
トイレの入り口にこんなに大きな扉が必要なのだろうか。
ホールで演奏会が行われているときには、扉は、開けておくのだろう。
これは、想像なのだが・・・
中に入ると、トイレ自体は、普通のきれいなトイレであった。
とりあえず、トイレが見つかってよかった。
また延々と続く坂道の路地に入っていくと大きな教会に当った。
その脇に大きな鉄扉が開かれ、係りのおじいさんが木の丸イスから腰をあげ中に呼び寄せた。
入ってみた。30mほどなだらかな石段状の道を歩いていくと、そこは墓地だった。
広い空間にぎっしり墓石が並ぶ。
『ここは、白い大理石が少ないね』相棒の感想だ。
今までの5年間の旅で、20ヶ所余りの墓地は見てきた。いろんな形を
した大理石の墓石は白く輝いて墓地を明るくしていたが、ここは暗かった。
帰り際、相棒はおじいさんに折り鶴を渡すのを忘れなかった。
朱色にシルバー線引き模様の千代紙で相棒が折った鶴が、輝いて見えた。
勿論、おじいさんの笑みが可愛いく返ってきた。
トリンダーデ駅からメトロに乗って、またドン・ルイス1世橋を渡った。ポルトの雛壇(ひな
だん)状の町に太陽が大西洋側から斜めに当るのは午後だったからだ。
建物に線引きの影ができ立体感が際立ち絵画的絵模様になるはずだった。
想像していた相棒の被写体空間が展開してくれた。シャッターの音色がポ
ーには心地よかった。
腰につけている万歩計は21249歩を刻んでいた。相棒の万歩計を覗
きこむと23995歩だった。(死んでも足の長さとは言わない。撮影の
ために被写体を求め、こまめに動き回った結果であった。真実だ!)
「けいの豆日記ノート」
坂道をあがりきったところに教会があった。
ラパの教会だ。
二つの鐘堂のある教会は、高台にあるので、下からもよく見えた。
こんなに大きな教会なのに、ガイド本には、名前も載っていない。
ポルトの町は、こんなに大きくて見所いっぱいなのに、ガイド本の扱いが少しすぎると思う。
リスボンの5分の1しかページが使われていない。
この教会から1番近い駅から、メトロに乗ろうと思った。
大まかな地図しかなく、駅の場所がよくわからなかったので、通りがかりの人に聞いてみた。
教えてもらった道は、わかりやすかったが、けっこう遠かった。
途中で、見覚えのあるバスターミナルの横を通った。
ギマランイスやブラガ行きのバスターミナルだ。
以前によく来た場所だ。
このまま行くとトリンダーデ駅まで行ってしまう。
近い駅を聞いたはずだったのに、次の駅を教えてくれたらしい。
まあ、トリンダーデ駅は乗り換えできる駅なので、大きいのだが。
《日本語補習校で子供たちに会う》
翌朝28日(土)、この日も快晴だった。
宿の前にあるサン・ベント駅から地下に潜りメトロに乗って、下見して
おいた《日本語補習校》まで25分で着いた。メトロの駅を出た小さな高
台にある公園から朝焼けの中で浮かび上がる教会の塔が見えた。学校に着
いたのはYUKOさんと約束していた10分前だった。
高くて頑丈な鉄扉を押した。開いた。
YUKOさんの仲間が鍵を外してくれたからだ。
狭い校庭でラジオ体操が始まる。
10人の生徒の中でYUKOさんもNHKのラジオ体操の曲が流れるカ
セットのリズムに合わせて《イチ・ニ・サン・シー・ゴ・ロク・ナナ・ハチ》
と声高に《日本語》を発して、腕と足を横に縦に斜めに上に下にと回転さ
せ繰り出していた。もう、体操から日本語の学習が始まっているのだとポ
ーは感じていた。
女の子も男の子も、日本人の顔だった。でも、外国人の顔でもある。
最近は日本人の母とブラジル人の父の血が流れる子ばかりだとYUKO
さんから後で聞いた。皆、母の希望でこの土曜日に補習校に来させる子供
が多いらしい。母親が子供にかける日本語への夢が感じられた。
ラジオ体操のCDを引き出し、YUKOさんがカセットに差し込んだC
Dが流れ、生徒と日本人の《市民先生がた》が歌い出した曲にポーの心は
ちりじりだった。
♪うみはひろいな、おおきいな、なみがよせたり・・・・♪
そろわない生徒の歌声が、一声ひとこえに魂が込められて、伝わってき
た。声がそろっての歌声でなかったのがいい。そろって歌われたら気持ち
悪い。そんな配慮をYUKOさんがするはずがない。
YUKOさんの世界は、そのまんまの姿を堪能させてくれた。
教室は5教室。YUKOさんの教室には2人。小学生の女の子だった。
目がキラキラ輝いていたのが嬉しいとポーは思ってYUKOさんの授業を
堪能していた。我が子に日本語を教えるような熱気をYUKOさんから感
じ、それが嬉しかった。この感動を素直に《お持ち帰り》にしたいと思っ
た。YUKOさんに感謝をいっぱいして別れを告げた。
(子供たちや先生がたを撮影したが、ネットには出さない約束なので公開できなくて申し訳ありません。)
常宿に戻り、荷物を積めこみ、ポルトを後にした。
大好きなサン・ベント駅から大学の町コインブラの町に向かった。
この日、運賃で大儲けをした。信じられない日であった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。次回をお楽しみに・・・・・・・2008年6月掲載