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(輸送基地・トウア)
Portugal Photo Gallery --- Tua

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トウア1

トウア2
トウア駅構内

トウア3
トウア駅の主

トウア4

トウア5
ミランデーラ行き

トウア6
駅のホーム

トウア7

トウア8
唯一のレストラン

トウア9
ワインケース

トウア10

トウア11
船つき場

トウア12
しずむ船つき場

トウア13

トウア14
第一村人

トウア15
曲がった道

トウア16

トウア17
点検

トウア18
おしゃまワンコ

トウア19

トウア20
ワンの世界

トウア21
出会い

☆トウアの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
全長925km、スペインに源を発するドウロ川。
ポルトガル北部の山岳地帯をゆったりと流れ、ポルトを経て大西洋に注ぐ。
アルト・ドウロと呼ばれるドウロ川上流地域は世界に誇るポートワインの産地である。
川沿いには、山の斜面を利用したブドウの段々畑が広がっている。
伝統的なワインの製造方法も、2001年に世界遺産として登録されている。
ピニャオンとポシーニョの間のトウアからミランデーラへの路線が分岐している。

「ポー君の旅日記」 ☆ 輸送基地・トウア ☆ 〔 文・杉澤理史 〕

≪2006紀行文・5≫   === 第二章●ドウロ川上流アルト・ドウロ地帯を行くB === 

          《トウアに向かう》

 10月25日(水)の朝。なんとなくつけたテレビニュース番組を見た。 ポルトガル各地を始め、隣国スペインなどヨーロッパ各地で降り続ける 大雨による被害を伝える画面が流れていた。 ポルトガルに来てから小雨にはあったがテレビ画面のような激しい土砂 降り雨や家を流される洪水情報には正直、信じられない光景であった。 背筋が走る画面であったが、幸い運が良く怖い目に合わず安堵した。 それは、ポーが晴れ男だからかも知れない。
 そう言えばポルト在住28年間の主婦YUKOさんが30年ぶりの大雨 でドウロ川の水かさが増えているのよ、と言った一言がよみがえった。 それほどの異常な天気模様であった。 これも地球温暖化の影響なのだろうかと思い、恐ろしくなった。
 今日もポルトガル北部の山岳地帯にあるポートワイン産地で名高い町々を散策だ。 レグアからトウアとピニャオンの町にいくスケジュールを相棒が組んでいた。 写真家の相棒の感性で旅の予定を決めていた。 その感性が二人旅の基本であった。 ポーは記憶力と感性に、相棒に負けていた。ポーの武器は《晴れ男》だ けであった。(撮影には神様みたいな、ありがたい晴れ男ポーなのだ!)

 このアルト・ドウロ地帯の《町》の位置関係を再度くどいようだがお知 らせしておきたい。その方がこれからの紀行を楽しんでもらうのにも役立 つかと思うから。
 隣国スペインを源流にポルトガルに流れてくる全長925kmのドウロ 川は、ポルトガル第二都市ポルトから大西洋に流れ込んでいる。 そのドウロ川沿いを走る列車は、かつて川を下ってポートワイン原酒を 山間のアルト・ドウロ地帯から帆船ラベ−ロでポルトまで運んでいたが、 それに変わり原酒運搬貨物車としてポートワインの歴史を刻み込んできた。 その原酒運搬貨物車も時代の流れでトラックに変わったため人を運ぶ鉄 道として発展したのであった。 長くなったが、ポルトから終点のポシーニョまで行った取材途中の町は ごらんの通り。
 《ポルト→レグア→ピニャオン→トウア→ポシーニョ》であった。 ポルトからレグアまでは100km余り。レグアからドウロ川沿いに東 へ23kmでピニャオン。ピニャオンからさらに奥に進むとトウア。トウ アから何もなかった終着駅がポシーニョだった。全長150km程の旅だ ったが二人旅にとっては計算できない人々の出会い旅が待っていた。 偶然の出逢いを大切にした貴重な思いでの旅だった。

 腹の調子がイマイチだと言ってモーニングに現われた相棒だったが、焼 き立ての香ばしいパンを旨いと三個も食べた。 夜半降り続いていた雨も上がり、空に青空が見え隠れする朝だった。
 トウアまでの乗車券を買った後、レグア駅構内に設置してあるパソコン 装置で列車が来るまでの間ゲームを楽しんでいる高校生の女の子に会った。 その様子を撮影した後、相棒も挑戦した。 自分のホームページを画面に引き出す。 ポー君のホームページが画面に現われ、シスターに囲まれた笑顔の相棒 がいるトップページの写真が画面に表示された。 二人の女の子は画面の写真と目の前の相棒の顔を見比べ、驚きで笑顔が弾けた。 しかし、文字は化けていた。 (タイトルの『愛しのポルトガル』だけはちゃんと日本語だった)
 『こう、なってしまうのか−』と相棒は平然として納得。 女の子達は、相棒が撮影させてもらったお礼に渡した《折り鶴》に歓喜。 折り鶴の説明はポーの役目。演技を交えた説明に彼女達は声を上げ笑っ て納得してくれた。 その歓声の艶艶しさを生でお聞かせできないのが残念でならない。

 「けいの豆日記ノート」
 愛しのポルトガル写真集のホームページを作ったのは、2004年の11月である。 だから、今回の旅は、ホームページを作ってから、初めての旅となる。 それまで、パソコンにも触ったことがなかった。 ホームページには、興味があったが、ネットをしてもあんまりかわらないと思っていた。 かわらないなら、習う時間と労力とお金がもったいないと。
 でも、パソコンを習うチャンスに恵まれた。 それも、基本から、検定試験を受けられるほどしっかりと。 とってもラッキーだったと思う。 念願だったホームページも自分で作ることができた。 ネットで、ポルトガルに住んでいる日本人のことも知ることができた。 そのおかげで、ポルトに住んでいるYUKOさんと出会うことができた。

          《好評!折り鶴教室》

 予定通りやって来た列車に乗った。9時18分、ドウロ川を車窓の右側 に見ながら東に向かった。 トウアまではピニャオンを通り越し40分程で行けるはずだったがピニ ャオン駅で上り列車待ちになった。単線なのでここですれ違いなのだ。 トウアの帰りに寄る予定にしている駅で待たされた。 車掌が来て30分は遅れると言った。そしてもう一言あった。 〈この車両は1等席〉だと。隣り車両に追いやられた。誰も乗客はいな いのに、しかも40分程で行かれるところを30分も遅れるのにと吐きな がら相棒は移動した。
 移った車両には3人の乗客がいた。若いカップルと30代の女性だった。 暇な時間があれば千代紙で折り鶴を折る相棒だった。感謝の証に渡す折 り鶴が手の中から次々に誕生していく。 通路を挟んだ座席から6つの眼が相棒の手元に注がれていた。 30分の待ち時間を持て余していたのかもしれない。 ポーは相棒の腕を突ついた。 気がついた相棒は『折り鶴、グロウ−』と微笑み3人に千代紙を渡した。 車内でいつもの《折り鶴教室》が始まった。

 ポルトガルに来る度に機会があれば、何時でも何処でも相棒は溶け込ん で《折り鶴教室》を開いて来た。 市場で働く魚屋・八百屋・果物屋のおばちゃん達やバス待合室で待つおば あちゃん達、走る車中で隣りに座っていた黒人の少年、社会見学に来てい た20人ほどの高校生達など、相棒が折り鶴を伝授してきたポルトガルの 人々は、もう100人は越したかもしれない。
 時間はたっぷりあった。 3人は、まず正方形の千代紙の美しいデザインに興味を示す。
 『千代紙! 綺麗でしょ。これで、折り鶴!よ』 相棒の静かな語りから教室は始まる。 そう、日本語でいいのだ。それで、伝わるのだ。 生徒たちから〈チヨガミ!〉〈オリツル!〉と明るい声が、必ず返ってくるからだ。
 3人の生徒は熱心だった。 相棒の折りこむ手先を凝視。相棒が的確な折りかたを手を添えて折りこ ませる。フィニッシュのくちばしの折りが生徒たちには決まらない。 このくちばしの長さが大切なのだ。 そして、両羽を掴み、グイッ!と左右に開く勇気だ。 初めて折りこんだ人は怖くてその加減が判らない。ギュ−と力を込めて 開く勇気がない。鶴が美しく舞うのはその勇気だけだった。 3人はそれぞれ3羽を折った。そして、歓喜だ! おぼつかない手の中 から鶴が舞いあがったとき、自分で自分に拍手をしたのだった。 3人の瞳が輝き、相棒に感謝の笑みをあふれんばかりに添えてくれた。 生徒の手の中から鶴が舞いあがると、いつも相棒は恥じらいだ子供のよう な笑みで応えた。

 「けいの豆日記ノート」
 折り紙は、とてもすばらしい日本文化だと思う。 紙1枚で、いろいろなものが作れる。 見た目にもきれいな千代紙の折鶴は、プレゼントに最適である。 かさばらず、軽く、安く、きれいである。 折ってある鶴もいいが、目の前で折る鶴がもっといい。 四角い紙から、鳥ができるのは、マジックのようなんだろうと思う。 そのマジックの種を教えてもらい、自分にもできたときは、うれしいと思う。 きっと、後でひとりになったら、できないとは思うが・・・

          《トウアにやっと着く》

 30分のはずが50分遅れで列車はピニャオン駅を発車した。 遅れた原因は判らず仕舞いだった。 トウア駅まで20分で着いた。 生徒3人に手を振って相棒とポーは、トウア駅で下車した。
 『教え甲斐がある人達だったよ』 折り鶴先生はご機嫌でつぶやいたが、下車した駅舎には誰もいなかった。
 降りた人も乗る人もいなかった。 下車した乗客のキップを受け取る駅員もいないのだ。 白と黒のブチ犬がゴミ1つ落ちていない長いプラットホームの向こうか らノコノコ歩いてきた。そんな寂しい駅舎であった。 駅舎の外観は白く塗装されアズレージョ(装飾タイル画)模様が壁面半分を 帯状に包んでいる清楚な駅だった。 でも、貨物車時代は葡萄原酒の積み込みで賑やかな駅だと想像できた。 駅舎は小さいが線路が幾筋も走っており、敷地は宿泊しているレグア駅 より広々としている。

 ホームの横の引込み線には、蒸気機関車が屋根で覆われた大きな格納庫 に収まっていた。それを相棒が見逃すはずはない。走り寄って行った。 観光シーズンにはこの路線を煙を吐いて走り、観光客を喜ばしていると いうが目の前の蒸気機関車は『これで走れるのかな?』と相棒が吐いたほ ど古くて汚かった。貨物車時代の蒸気機関車が他にも何両か保管されてい るのかも知れない。
 駅舎にあった資料によると、トウア駅は北にあるミランデーラ町に行く 路線と東にあるポシーニョ町に行く路線の分岐駅であった。 その当時のトウア駅舎の状況が浮かんできた。 葡萄原酒の樽を貨物車に運び込む人々の息使いや貨物車と貨物車が連結 するガシャ−ンという音。石炭を燃やす黒い煙が機関車の煙突からもくも くと吐き出され、ピーと耳を突き刺す汽笛一声で蒸気機関車の大きな車輪 がゴットンと回転し、白い蒸気を吐き出して行く。
 働く人々も駅員も走り去る貨物車に向かって力いっぱい手を振って送り 出す。レールのつなぎ目を車輪が拾うゴトンゴトンという音を響かせ、ド ウロ川沿いを黒い煙をポーポーと汽笛を鳴らして吐き出し、貨物車を30 両以上もひっぱて走り去っていく蒸気機関車の姿を見た。 そんな情景が、ホームの端に立ってまっすぐ逆光のなかに伸びていく線 路を見て、浮かび上がってきたのだ。

 「けいの豆日記ノート」
 シーズンの時には、レグアからトウアまで、蒸気機関車が走っているらしい。 観光客に人気の蒸気機関車の写真を見ていたので、本物を見たかった。 走ってなくても、見えるところに置いてあるのかと思っていた。 たしかに、トウアの駅構内に、蒸気機関車はあった。 でも、どうみても走れるとは思えなかった。 それほど、古くてボロボロ(失礼)の蒸気機関車だった。 きっと、古い蒸気機関車が置いてあるだけなのだろう。

          《葡萄原酒輸送基地だったトウア》

 トウア駅舎の前はドウロ川が流れ、その背景は小高い丘が広がっている。 そして、その丘を青空が包み込み白い千切れ雲がゆったり流れていた。 その広大な小高い丘は、すべて葡萄畑だった。 9月初旬から1ヶ月ほどで摘み取られる葡萄の姿は今はない。
 ぜひ収穫時期に来たいものだと相棒と話す。 葡萄農家に1週間のホームステイをして、その収穫の過酷な仕事をする 人々を撮らなければならない。 その光景、情景だけで写真展は開ける。一日二万歩のポルトガル歩け歩 け撮影取材は今回の旅でサヨナラしてもいいかもしれない。もう、60ヶ 所近い市町村を歩き廻ったのだからと。
 しかし、まだまだ行っていないところも多い。それが心残りではあるが。 そう、1ヶ所重点主義で行って、歩き旅はまだまだ続ける。これかな! 今回の旅で経験したアフリカ大陸に近いポルトガル領マデイラ島探索は その1ヶ所重点主義だったかも知れない。

 話しを戻す。トウア駅舎とドウロ川の間に家が1軒見えその前の狭い道 には古びた乗用車が5台駐車されていた。この地に住む人が通勤で乗って 来た車に違いない。 道は東西に走っていた。その道に行くにはホームを降り、何本もの線路 を横切って行かなければならなかった。 錆び付いた線路の上にカメラを置いて両膝を砂利石に着き、相棒はファ インダーを苦しそうに身を丸め覗きこみ、アングルを決めていた。   もしかしたら相棒も走り去っていく当時の蒸気機関車の亡霊を見たのか も知れないと、ポーはその時思った。 道沿いに見えた家は開店しているのかどうか判らない小さなレストラン だった。
   終点のポシーニョまで行った列車が戻ってくるまで1時間10分あった。 相棒の勘で右手、ドウロ川下流方向に向かう。人にも会わず家もない道を 5分ほど歩いたところで相棒が川に降る坂道を見つけた。降りていくと船 着場が茶色に濁るドウロ川に張り出していた。
 川の流れは速く不気味であったがローマ字のTの形をした船着場は観光 船用のものかもと相棒は判断した。恐る恐るTの下部分を渡り、Tの上部 分は意外と広かった。川の激しく流れる速さと茶色に濁る原因は、上流で 激しく降った雨のせいだ。川面の先50mには急斜面で丘が這い上がって いくのが見え、オリーブの低い木が何百本と斜面に植えられていた。 この岩場だらけに見える丘陵地帯は農業には過酷な地として映って来た。 大きな木が1本もない葡萄畑の段段が空に向かって積み上げられていく耕 地。それが延々と広がる大地であった。間近に目撃する光景は葡萄生産の 苦難の歴史を垣間見た思いにさせた。

 「けいの豆日記ノート」
 ドウロ川のほうに下りていった。 小さな船着場があった。 木の板が川に浮いているような簡素な船着場だった。 川の水が多くて、船着場の板のギリギリまできていた。 端のほうなど、川に沈んでいた。 この時は、洪水のことなど知らなかった。 だから、無謀にも船着場の板の上を歩いてしまった。 今にも沈みそうで、流されそうな船着場の板の上を。 あとから、考えると恐ろしいよ〜

 道に戻り、更に先に行くと乗用車がすれすれに通れるくらいの道幅にな り、民家が10軒ほど現われた。質素なたたずまいであった。 民家の煙突から出た煙が眼下を流れるドウロ川からの川風に砕かれる。 石積みされた塀は崩れかけていたが、西洋朝顔のつるで覆われ咲き乱れ る青い花で支えられていた。 川の流れと川風の音しかない。その中に、相棒のシャッターを切る音が 聞こえた。そして、50ccバイクに乗った青年が駅方面に走り去る音が 追加された。この地で初めて会った人だったと気づいた。

 列車が来るまで40分もあった。 あの駅舎前のレストランの戸を叩くと中から女性の声がした。 相棒がドアを開け『ボア タルデ(こんにちは)』と声をかけた。 オープンしていた。グラス赤ワインとガラオンを頼み、相棒はトイレに 走った。カウンター越しの棚の上にポルトガルのシンボルであるニワトリ の置物が大きい方から小さい方に50個近く並んでいた。窓辺からドウロ 川が見える席に着いた。小さいと思っていたが内部は意外と広く綺麗であ った。1杯1ユーロ(150円)のグラスワインはまろやかで美味しかった。
 列車が来る10分前に駅舎で乗車券を買った。 誰もいなかったホームには乗客8人がいた。 ベンチに座り相棒を目で追いかけるおばさん3人が日本人かと声をかけ てきた。相棒がそうだと答えカメラを向ける。「Sim! Sim!」と 笑顔でポーズを作る。あのブチ犬も寄って来る。おばさん達にお礼の折り 鶴を渡す。赤いセーターのおばちゃんが大きな胸に折り鶴を押し当て、ブ ローチになるとしなを作りカメラに収まった。
 12時16分発の列車に乗り込んだ。 相棒の「折り鶴教室」の生徒の、あの若いカップルが乗っていた。

                              *「地球の歩き方」参照*

終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 次回をお楽しみに・・・・・・・2008年3月掲載

掲載済み関連写真===≪ポルトガル写真集≫2006年版旅日記
前途多難の予感のポルト 出会いのポルト ドウロ川終着駅のポシーニョ アルトドウロの基点のレグア2

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