「ポー君の旅日記」 ☆ 5年ぶりの小雨降る町のポルト12 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・12≫
=== 第六章●ポルト起点の旅 === 5年ぶりの小雨降る町のポルト12
《気象予報士》
君は「お天気少年だね」と重宝(ちょうほう)されていた時期がある。
小学校時代の遠足や運動会など学校行事がある前日は、必ず担任のW先生に職員室に呼ばれた。
昭和25年小学校4の秋だった。・・・で「明日は、どうかな?」と聞かれ、おいらは即答した。
『晴れです!』と直立不動で応えた。
小学校4年生になった時、担任が変わった。海軍還(かえ)りの20代後半のW先生だった。
W先生は海軍で鍛えあげた、若さで満ちていた。
やさしくひとりひとりの名前を呼びあげ『よろしく!』と温かい声をくれた。
その儀式で、4年4組のクラス50人の担任になった。白い海軍キャップが良く似合った。
だが、ピンタ付きだとは知らなかった。ピンタが日常茶飯事になる。宿題を忘れた。
パチン!国語の本を読む声が小さいと、パチン!何しろ殴られた。
男も女も『両脚、踏ん張れ!』のひと声で横一列に並ばされ、両足を目一杯踏ん張った。
その刹那、そう、その刹那だ。
左頬が並んだ人数分だけ鳴った。ピンタを食らったのは、おしゃべりし過ぎなわが班10人だった。
しかし、泣きだす男も女の子も誰ひとりいなかった。頬に軽い痛さはあったが、痛さより鳴る音がよく響いた。
ピンタの仕方に技があることを、よく殴られたおいらは知った。
W先生が戦場から生きて帰って来た教育方針なのだと、徐々においら達は納得していった。それが、わがクラスの日常であった。
信じられないかもしれないが、50人の生徒の親は誰一人我が子が殴られたと文句をいう者がいなかった。
4年生から6年生までの3年間の担任W先生は、我らクラス50人にとっては、熱血先生だった。
3年間お世話になったわが4組は、ピンタに耐える仲間になっていった。
クラス対抗の運動会でも、相撲大会でも、軟式野球大会でも、テストの成績であっても、わが4組は3年間いつもトップの成績を残した。
戦後間もないその時期、各教科の問題集など市販されていなかった。
だが、その教材はすべてW先生がガリ版で作ってくれた。
夏・冬休みの宿題もすべてW先生が考え出し、日夜ガリガリ鉄筆で書きあげてくれ、一枚一枚手で刷りあげてくれた。
それで我らのクラスは宿題で鍛(きた)えられた。その50人分の3年間分ガリ刷り教材の紙代は、W先生の自腹だったと卒業後知った。
結束力抜群の我が4組だった。ピンタの一発一発が、われらに託すW先生の熱き教育方針が込められていた。
その記憶に残る一発一発が、われらの頬に沁み込んでいった。
それは、W先生がくれた愛情の一発一発の温かさであった。
W先生はピンタをした後、「お前たちが、好きだよ」と言った。
その笑窪の顔が優しかった。10歳,11歳、12歳。戦後のこの3年間は学校に行くのが楽しい日々であった。
《ビルマの竪琴》
そのひとつ、W先生が我らに与えてくれた素敵な話をしたくなった。その頃、学校給食が桜小学校でも始まる。
給食が終わると他のクラスは校庭で遊んでいたが、我が4組の仲間は給食を早く済ませ、W先生が教壇で朗読してくれる小説『ビルマの竪琴』を聞くのが楽しみであった。
我らは日々この小説の世界に引き込まれて行った。
この物語は、雑誌《赤とんぼ》に1947年〜1948年まで竹山道雄が唯一児童向けの作品として描き起こしたものだった。
W先生が担任になったのは1949年だ。我らに計画的に本の楽しさを与えてくれたようだった。
中学に入ってからおいらは、再度読み返した。
この作品は、市川昆監督で2回映画化された。1回目は1956年、2回目は1985年。
1956年は渋谷の劇場で見た。高校2年生だった。W先生が懐かしくなり、ご自宅にその夜電話をした覚えがある。
《小児喘息》
小学校時代の運動会や遠足天気予報は、おいらが予報した通りの晴れ晴れの全勝であった。
その秘密は、おいらの悩みであった小児喘息だ。喉がゼ〜ッ!と鳴れば、2日後には必ず雨が降った。
喘息が起これば10日間は学校を休んだ。息苦しさに喘(あえ)ぎ、食欲もなく5キログラムも体重が落ちた。
息苦しさを紛(まぎ)らわすために布団の中で偉人伝や雑誌小説ばかり読んでいた。
W先生の影響があったかも知れない。
東京・世田谷通り沿いにあった家で成長した幼少だった。
その後、自動車排気ガスのため〈環7環8喘息〉と呼ばれたように小児喘息患者が急増した。
W先生はおいらを励ますために『明日はどうかな?』と聞いてくれていたようだ。
今みたいに早朝からテレビをつければ、正確な気象情報が流れる。
日本のテレビの気象情報を参考にしている隣国が多いと聞く。
まさに日本は今や「気象予報士王国」である。
毎朝テレビを見ている100歳になろうとする我が母も〈気象予報士〉並の発言をするほど、天気予報図が身近な生活の一部になっているようだ。
《エンタツ・アチャコの早慶戦》
卒業式が終わった後、4組だけの父兄参加観謝恩会をW先生がやってくれた。そこに、おいらは友人と漫才を組み、出演した。
当時ラジオではお馴染みだった横山エンタツ・花菱アチャコという〈しゃべくり漫才〉の元祖芸人が、東京六大学野球からネタをおこし『早慶戦』という漫才を世に出した。
そのレコードを金持ちの友人の家で何度も聞いていた。
まだ、テレビのない時代であった。毎夜5日もかけて繰り返し右腕が痛くなるほど蓄音器のハンドルをぐるぐる回し、ふたりの漫才の声をレコード盤から絞り出し、漫才台本に起こした。
それをW先生に見せると感嘆してくれた。『これ謝恩会でやってみようか!やるしかないね』とW先生の一言で決まった。
当時、仲の良かった私立麻布中学校に入学が決まっていた級長のH君と組んで、初めて漫才に挑戦した。
彼は頭が良かったので台詞の覚えが良かった。
おいらは頭脳明晰ではなかったが、レコードから苦労して台本化した当人だ。
台詞は当然2人分頭に入っていた。投げて受けて、受けて投げても30分もかかった。会話にテンポが無かったためだ。
10分が持ち時間だ。おいらは、笑いが起こる間隔を10秒1回にする台本作業をした。
流れを壊さない短縮作業に苦労した。
誰もいない教室で、謝恩会前日にW先生に披露した。
あんなに笑って深い笑窪をくれたW先生の弾ける笑顔は、今も忘れられない。
そのW先生は出世して小学校校長になっていたが、大学2年生の夏を過ぎたある日、W先生が亡くなったという知らせがあった。
小校学を卒業して8年がたっていた。
4組の仲間半分は葬儀に参加した。
今でも左頬の奥深くに、あのピンタの響きと痛さが思い出として、ほんのり温かく張りついているような気がする。
《伊達男》
タイトルの『小雨模様』に引っかかり、前振りが長すぎた。
さて、曇り空の下を大学の町コインブラから9時30分発の高速バス(@12・5ユーロ)に乗って、大好きな北にあるポルトに向かった。
5月8日(水)の高速道路は空(す)いていた。
ポルトガルの伊達男の運転手は、おでこにサングラスを押し上げた姿で軽快に飛ばす。
ポルトガルの伊達男はおしゃべり野郎が多いが、彼は模範運転手部類のゆったり安心感あふれた運転振りであった。
でも、判らない。知り合いが乗り込んできたらこの静かな世界が一変するはずだ。
知り合いが、乗り込まないでくれと祈る。
もしそんな羽目になったら楽しい筈のバス旅は、恐怖のバス旅に変わる。
前を向いて運転してくれ〜!と、おいらは絶叫する羽目になるからだ。
客と話すのはいい。でも、顔を客に向けて話し続けるな、であった。
もう何度この高速道路を話好きの伊達男たちに苦慮し、怖い経験をしながら走ったことか。
相棒は、狭い座席に沈むように眠っていた。車中は何時も眠りの場だった。
1時間半後、ポルトのバスターミナルに着く。
旅行バック2個を転がしタクシー乗り場に。
サン・ベント駅前の定宿〈ホテル・ペニンスラール〉を相棒が予約していた。
狭い入り口の重い扉を押して中に入る。
通路の奥にフロントがある。
その通路の両サイドの壁には高い天井まで届く大きなアズレージョ画(タイル装飾画)が圧倒して来る。
☆ふたつのホテルだが天井は高く、部屋は広く宿泊費も安い。
ポルトに来るたびにお世話になっているホテルだった。
「けいの豆日記ノート」
コインブラから、ポルトへの移動は、列車にするか、バスにするか、いつも迷う。
料金も時間もほとんどかわらない。
バスの場合は、荷物を座席下の専用の荷物置き場に置いてくれて、降りるときまで安全である。
列車の場合は、入口そばに荷物置き場があるが、だれが持って行ってもおかしくない場所である。
かなり不安があるので、いくつかの荷物全体をヒモで巻きつけていたりする。
終着駅なら、ゆっくりでいいが、途中で降りる場合、列車から荷物を下ろすのがたいへんである。
乗り換えのホームの移動もたいへんである。でも、列車に乗りたい気持ちも強い。
《トイレ事情》
【旅の鉄則・したくなくてもホテルの便器には感謝を込めて、町に出る前には必ず座れ!】である。
ホテルから一歩町に出たら、これ以上の綺麗なトイレには絶対会えないと思え。
レストランであってもトイレは別物だと知れ。
日本では想像出来ないことが起きているのだ。
便器に蓋(ふた)がないのは当然としても、便座がないのは困る。
尻がすっぽり、はまってしまう。そして、トイレットペーパーだ。空港でも幅の狭い薄いロール紙。
でも薄くても、あれば運がいい。何処のトイレにもロールペーパーがないと思っておいた方がいい。
そのためには、海外に行く時はティッシュペーパーをいっぱい用意しておこう。
日本ではただでくれるが、そんな国はない。
恥ずかしがらず何度も往復して、駅前のティッシュ配り人からいっぱい貰っておくことだ。
それより困るのが、鍵が壊れていることだ。相棒から聞き巻(ま)くっている。
内側から必死こいてノブを力の限り握りしめ、扉を開けられないようにしながら用をたす、トイレは辛い!という。
レストランであっても、これだ。高級ホテルや高級レストランは、我らケチケチ旅人にとっては別世界だ。別世界のトイレ事情は知らない。
シャワートイレを期待しない方がいい。シャワートイレが無いと、旅に出られない若者が今に激増するに違いない。
そんな時代が目前にありそうだ。日本は世界で一番のトイレ王国なのだ。
日本のシャワートイレ経験をそのまま引きずって海外に行ったら、挫折する。
必ず、毎朝「日本に帰りたい!」と、トイレの中で泣き叫ぶに違いない。
日本のトイレはニッポンが誇る《世界遺産》だと認識し、日本を誇り、日本のトイレに深く感謝することだろう。
日本のトイレの素敵な優しさは、便座に座れば暖かい。特に冬は、天国の温かさである。
そんなトイレには、会えない。日本の発明品として世界に注目されているシャワートイレ。
日本観光に来た外国人が土産で買って帰る逸品は、シャワートイレだと聞く。
「けいの豆日記ノート」
日本のトイレが快適であること、よくテレビで見ることが多い。
家庭ではもちろんのことだが、公共の施設や外にある施設などでも、整備がよいといわれている。
ドライブインなどでの豪華トイレなど、トイレに凝った施設もある。
ポルトガルのトイレの便器の横に大きなゴミ箱が置いてある。
はじめ、サニタリー用にしては、大きいと思っていた。
これは、使用済みのトイレットペーパーを入れるゴミ箱であるらしい。
下水施設がよくないので、流れが悪いらしい。
と聞いても、いつもの習慣で流してしまうのだが・・・
《合羽》
20分後、宿を飛び出した。小雨が降り出していた。
おいらも大学に入ってからは、喘息が73歳になっている今まで、つまり55年間一度も起こっていない。
なので、喘息少年気象予報士は廃業していた。
廃業中は、長年〈晴れ男・すぎさん〉として映像の世界では重宝され、撮影クル―からも拝(おが)まれていた。
相棒は花模様柄のピンク地にフード付き合羽(カッパ・ポルトガル語)姿であった。
傘を差さないでもいいほどの小雨であったが、派手派手合羽を着用だ。
大切な命の〈一眼レフニコンカメラ〉を守るためである。
それにしても、ポルトの町では相棒は目立った。
こんな姿、日本でも見たことがない。
そう、なのだ、目立つ姿は写真家相棒の【治安対策忍者術】なのかもしれない。
みんなの注目度が増せば、スリなどの犯罪者が近寄りがたい。
今までポルトガル各地を一日二万歩の撮影旅を続け、怖い思いもせず歩き続けて来られたポルトガル放浪旅の13年間であった。
それは相棒の旅慣れた計算術があったためかも知れない。
「けいの豆日記ノート」
写真展などで、「いつも晴れの日の写真ばかりですね。雨は降らないのですか?」と聞かれることがよくある。
もちろん、ポルトガルでも雨は降るが、雨の日は写真を撮らないので、雨の日の写真がないのである。
雨の日に無理に写真を撮ってカメラを壊しては、困るのである。
そこまでしなくても、晴れの日は、また、やってくるのである。
《小雨模様》
ホテルを出るとすぐ左手が、20世紀初めに修道院の跡地に建てられた[サン・ベント駅]の建物がある。
ここは首都リスボンからおよそ300キロメートル北にあるポルトガルの第二都市ポルトの鉄道の玄関口だ。
一日中人の出入りで賑わっている駅舎であった。
そして視線を正面に移すと、石畳の坂道の下に12世紀に建てられ17〜18世紀に改修されたカテドラル(大聖堂)の建物が見える。
更に右に目を転じると、石畳の急坂の上に18世紀に建てられたバロック様式のクレリゴス教会の雄姿がある。
その教会の塔が雨空に向かって高々と76メートも延びている。その情景が小雨に濡れる。
晴れた時もいいが小雨で見る教会と急坂の町並みもいい。
うっとり眺めるその中を薄茶の気品に満ちた路面電車が小雨に打たれ、その後ろに自動車を引き連れるように静かに下って来る。
ポルトの路面電車は、リスボンの広告を車体に塗り込んだじゃじゃ馬みたいな路面電車とは違い、その優雅で物静かな風情が好きだった。
貴婦人のような静かな気品を感じさせてくれる。
急な登り坂があれば、当然急な下り坂が多いポルト。
その町の午後を小雨に打たれ楽しむことにした。
「けいの豆日記ノート」
ポルトの路面電車は、2路線だったのが、数年前に3路線になった。
旧市街地を走る路線が増えたのである。
旧市街地を走ると、バックに見える建物とのコラボがいいのでうれしい。
リスボンと違い、30分ごとしか走っていないので、見過ごすと、次までが長いのである。
《旅情》
坂の多さは〈7つの丘の町〉と呼ばれる首都リスボンにも劣らない、人口23万人の港町ポルトである。
小雨のポルトを歩くのは初めてだった。小雨は郷愁を生み、ポルトの旅情をかきたてた。
小雨に濡れた石畳は水を含み、柔らかさを感じさせてくれる。
石積みの建物が折り重なって狭い坂道の両側から坂下に延び、その坂道にへばりつく2本の路面電車のレールが鈍く光る。
そこを貴婦人の路面電車が優雅に小雨に吸い込まれ下って行く。
相棒のカメラが合羽で鳴った。鳩が石畳を突っつきク〜と足元で鳴く。建物と建物の狭い空間に下に向かって狭い石段がある。
遥か先は小雨で鈍る。『下ってみるか』と相棒。登るのは嫌だが、下るのは好き。濡れる石段は滑りやすい。
一歩一歩慎重に進む。『ドウロ川に出るよ、きっと』地図に強い〈犬〉が言う。旅行でなしに、旅でよかったと思う。
行動時間は自分たちで作れる。先を急がない。バスの出発時間を気にしなくてもいい。
でも、腹が減った。
ホテルを出てから1時間半が過ぎていた。
路地から路地を抜けて、ポルトの旅情を楽しんだ。小雨もやんだ。
相棒の言う通り、ドウロ川沿いの道に出た。その眼先に大きな恐竜やマンモスがいた。
高さ7メートル、長さ15メートルはあった。当然相棒は走り寄った。
何のために置いてあるのか判らなかった。
でもしばらく、子犬のように恐竜の足元を廻って撮っていた。
そして、雨上がりのドウロ川岸をピンクの合羽を着たまま、上流のドン・ルイス1世橋に向かって歩き出した。
隣国スペインから流れているドウロ川は、ポルトの動脈とも言える活路の川である。
ドウロ川の南岸にある[ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア]はローマ時代にポルトゥス・カ―レ(カ―レの港)と呼ばれ、その後この名がポルトガルの語源になったと言われている。
また、1415年にはエンリケ航海王子の指揮の下ポルトを出港し北アフリカのセウタを攻略。
これを切っ掛けに、15世紀からのポルトガル大航海時代へと進み巨額の富を築く。
そして大航海時代後の窮地を救ったのが、ドウロ川上流で採取したブドウをワインセラーが並ぶヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアまで帆船で運び世界的に名高いポルトのワイン、ポートワインを製造した。
つまり、大西洋に流れ込むドウロ川河口の港町ポルトにとっては、いやポルトガルにとっても、ドウロ川はポルトガルの歴史を支え、生き抜いてきた生命線であったと思う。
「けいの豆日記ノート」
高い所は好きなので、階段があれば登ってみる。
城壁の手すりのない石の階段も登るのは、平気である。
でも降りるのが、怖い。
目が悪いのもあるが、足元が不安である。
なので、階段は、ゆっくりと1段ずつ踏みしめて降りるのである。
あわてて降りて、転んで骨折でもしようなら、救われないのである。
《ランチ》
13時。目の前を貴婦人が走り、その背後にドウロ川と対岸ヴィラノヴァ・デ・ガイアのワイナリーが見える一般市民が食べるレストランに入る。
すきっぱらに生ビール(2・2ユーロ)が沁みていく。
美味い。相棒は水(1・2ユーロ)。美味そうに飲む。食事はランチ一人前。
チキンのカレーご飯にサラダ付き(5ユーロ)で計8・4ユーロ。1176円である。
腹を空(す)かせれば、なんでもうまい。
食後ドウロ川岸をブラブラと上流に向かう。
路面電車の終点駅がすぐそばにあった。
運転手がパンタグラフに結んである紐を引っ張って走り、前方向きから後方に向きを換えた。
乗客が貴婦人に乗り込む。観光客と市民が半々ぐらい。
数えていたら22人乗った。
おいらは昔から数える癖がある。
階段を登れば頭の隅の計器が作動する。
ポルトガルでは、これが役立った。
クレリゴス教会の76メートルの塔に登った時も、自然と作動して数えていた。
【塔の石積み螺旋階段は、92段目で急に狭くなり、163段目で更に狭くなる。
大きな女性が降りてきたらすれ違えるか。197段目でやっと展望台に出た。】と、2004年版ポルトガル紀行文に書いている。
この現象は、なんとか症候群なのかもしれない。
「けいの豆日記ノート」
ドウロ川沿いにレストラン街がある。
レストランはたくさんあるが、レストラン街のレストランは高いので、そこまで行く間にランチにしようと思っていた。
路面電車が前を走る小さなレストランにランチの看板を見つけた。
日本でもそうだが、平日のランチは、お得なのである。
《サン・フランシスコ教会》
路面電車を見送って振り向けば、サン・フランシスコ教会である。
何度もポルトに来ているが、この教会には入ったことが無い。撮影禁止だかである。
でも、先をいそがない旅。@3ユーロで入る。入ってよかった。
バロック装飾の極致と聞く。
14世紀に建てられた当初はゴシック様式であったが、17世紀にバロック様式に改装されたその極致とは。
教会内部は「ターリャ・ドウラーダ」(金泥細工)で埋め尽くされていた。
天井や柱はもとより、天使、鳥、花、つる草などすべて金箔を貼った彫刻が覆いかぶさって来るような圧巻である。
これが17世紀のバロック様式なのだった。写真に撮れない相棒の歯ぎしりの音が、聞こえてきそうだった。
目の保養とは、このことであった。
教会を出てドウロ川岸を上流に向かえばカイス・ダ・リベイラの川岸レストランやドウロ川に架かるドン・ルイス1世橋に行けるが、この地帯は晴れた日が似合う。
我らは左折れ石畳の坂道を登った。カテドラルに向かう。
ここも撮影禁止。@3ユーロで相棒だけが入った。
おいらはカテドラルの展望台からの景観が見たかった。実はさっき見た眼の保養を消したくなかったのだ。
カテドラルの広場からの景観も好きである。眼下にオレンジの屋根をのせた下町風情の建物や路地が良く見える。
その向こうに飛び抜けた高さでクレリゴス教会の76メートルの塔が市民の生活を守るように見下ろしていた。
「けいの豆日記ノート」
ポルトのカテドラルは、なんども訪れている。
以前、回廊と宝物殿も見たのだが、フィルム時代だったので、デジタルで撮りなおしてみたいと思った。
天気もすぐれないし、こういう日は、建物の中を撮るに限るのである。
晴れた日は、前を通り過ぎることが多いのである。
アズレージョ(装飾タイル)の回廊と宝物殿をしっかりと撮ってきた。
カテドラルの写真集ができそうな量である。
《サン・ベント駅舎》
更に坂を登れば、ホテルが目の前のサン・ベント駅。17時になっていた。
5時間半かけて、ぐるりひと回りしてきた。サン・ベント駅舎は大好きだった。
高い駅舎の壁面は、アズレージョ(装飾タイル画)の博物館のよう。
今までは薄い沙が前面に貼られていたが、今年は外されていた。
このアズレージョは、ジョルジョ・コラコが1930年に製作。セウタ攻略やジョアン1世のポルト入城などポルトにまつわる歴史が描かれていた。
青く焼かれた一枚一枚のタイルが大集合して一枚のタイル画となってホール一面から美しく迫る。
その迫力が素晴らしい。ポルトガルに来なければ、ポルトガル風アズレージョは見られない。
今年は鮮明なタイル画になっていて嬉しかった。
21時、夜景を撮りに20分ほど町に出た。宿の周辺は明りがあり安心であった。
夜の市庁舎などいくつもの建物がライトアップされ闇夜に浮かんでいた。
喘息は55年間未だ起こっていないことに感謝である。
73歳になったおいらに優しいW先生がどこかでそっと包み込んでくれているのかも知れないと思う。
おいらはそっとポルトの美しい夜景に向かって、ありがとう!と声にした。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2015年1月に掲載いたしました。
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