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≪2013紀行文・10≫
=== 第四章●コインブラ起点の旅 === イザベルとイネスのコインブラ6
《もったいない》
ポルトガル第3都市の大学の町、コインブラ。ボンデゴ川岸にあるホテル「アストリアホテル」のレストランでモーニングを食べながら朝刊を見た。
昨日、色取り取りに飾られた車台に乗った白いブラウスの新入生の女性達が、よく振った缶ビールを力強くプシュッ!と抜き、花火のように撒き散らしていたが、その一瞬を撮った新聞写真が目を引く。
キャッチコピーは、『もったいない!』とか『何たる無駄使い!』だった。財政危機のポルトガルである。
毎年行われてきたコインブラ大学卒業式慣例行事【ケイマ・ダス・フィスタ】であっても、新聞記事は手厳しかった。
投げ捨てられた缶ビールはゴミ収集車50台分もあったと聞く。ビールをかけずに水かけろ。
高級スーツも黒マントもビールで泣くし、親も洗濯代に泣く。
昨日はアルコール中毒者続出であった。救急車で病院送り68件。
大学を出ても就職先が決まらない学生が多いことは、コインブラに住むKimikoさんからは聞いていた。うっ憤行為は理性を酔わしたようだ。
昨夜は真夜中過ぎても町中から学生達の酔っぱらう奇声が絶えず眠れなかった。
「けいの豆日記ノート」
今回の旅の1番の目的がコインブラ大学卒業イベントのパレードを見ることであった。
何事も、聞いた話だけでなく、実際に自分が経験してみないとわからないものである。
おもしろさとか評判とかでなく、イベントはなるべく見てみたいと思っている。
ガイド本には、いいことばかり書いてるが、裏側には、見せたくないことも多いと思う。
パレードが終わった後のお掃除部隊の手際よさが印象に残っている。
《サンタ・クララ橋を渡る》
5月6日(月)の朝は、曇っていた。エストレラ山脈を源とする町中を流れるモンデゴ川は 水量も多く美しい川だった。
旧市街へ向かう入口にある狭い洒落たポルタジェン広場の前にはモンデゴ川に架かるサンタ・クララ橋がある。
昨日ケイマ・ダス・フィスタの終点の地だ。
橋を渡りながら振り向けばコインブラ大学がある丘がそそり立つ。夕日で赤く染まる丘が川面に映える風情は堪らない。
今朝は対岸を楽しむことにした。
急坂を登って行くと左手に[旧サンタ・クララ修道院]がある。
1286年に建立されたが、たび重なるモンデコ川の洪水で崩壊し17世紀に閉鎖した。
しかし、長い改修工事で2009年に復帰した。この日は内部には入れなかった。
目的地は、17〜18世紀にかけ新しく建てられた新サンタ・クララ修道院であった。長い長い急坂を登る。
へこたれた。74歳まであと2ケ月、昨年より息が荒かった。早いものだ。
初めてポルトガル旅をしたのは2001年9月22日、あの「9・11ニューヨーク同時テロ事件」の11日後だった。
61歳になったばかりである。今回2013年で8回目のポルトガル撮影取材旅になるが、坂道の多いポルトガルは脚力が勝負。日々2万歩以上は歩く。
あるかないと、人や風景との素敵な出会いに遭遇できない。相棒は、ポルトガルの人々の[今の姿]を撮りたくてやって来ていた。
特に、動き回らないと人との出会いはない。だから、日々の万歩計の歩数はおいらより3000歩は多かった。
「けいの豆日記ノート」
前日のパレードの日の晴天とは、がらりとかわって、曇り空で小雨ふる日であった。
こういう日は、教会や修道院などの建物の内部を見ることにしている。
コインブラは何度も訪れているのに、内部を見ていない建物は多かった。
それだけ、たくさんの建造物があるということなのだが。
最初にコインブラを訪れたとき、旧サンタ・クララ修道院は廃墟であった。
新しいサンタ・クララ修道院もあることだし、復活するとは思っていなかった。
それが、やっと修復されたのだった。
修復されるまで何年かかったのだろうか。
今回、ほんとは、内部も見たかったのだが、月曜日が休館日ということで見ることができなかった。
また、次回の楽しみに残しておこうと思う。
《ふたつのイザベル王妃像》
[新サンタ・クララ修道院]は、高台にあった。ボンデゴ川と対岸の大学の町が一望できる所に真っ白い大きな像が、まるでコインブラの町を見守るように立っていた。
コインブラの守護聖人であるサンタ・イザベル王妃である。ディニス王の妻イザベルは慈悲深い王妃として市民に今も愛されているそうだ。
ここでイザベル王妃について書きたくなる。
サンタ・イザベル王妃は、国民に慈悲深い王妃だけではなかった。
2012年に10年振りに[サンタ・イザベル王妃礼拝堂]があるエストレモスを再訪した時の「2012年紀行文」がある。
イザベル王妃は、エストレモスで死んだ。
・・・・ここで、簡素に『サンタ・イザベル物語』をご覧ください。・・・・
【序章】 1271年〜1336年、65歳まで聖女として生きて来た。
イザベルは、スペインのアラゴン王ペドロ3世とシシリー王女コンスタンスの王女であった。
イザベルの名は、大伯母にあたるハンガリー王女聖エルジェーべトにあやかって名付けられた。
【一幕】イザベル12歳の時、10歳年上のディニスと結婚。ディニスは詩人であり、農業王であった。
広大な地に松の森を作り、それが後のポルトガル大航海時代に、松の木が勇壮なカラベル船となり世界進出に役立つ。
また、ディニスは王であり、コインブラ大学の前身になった大学をリスボンに設立してもいる。
【二幕】イザベルは結婚後も信仰を追い求め、病人や貧しい人々に身を捧げる。
イザベルの献身ぶりは貴婦人の域を超え、それが原因で家臣(かしん)の嫉妬や非難を招く。
【三幕】ふたりの間に生まれたのが、王子アフォンソン。王子は父王が庶民にばかり好意を注ぐので反乱を起こす。
1323年には親子の間で、宣戦布告までに。イザベルは、2人を和解させた。その功績で、彼女の存在感を世に知らしめる。
【四幕】1325年、ディニス王が死去。王子アフォンソがアフォンソ4世として即位すると、イザベルはコインブラに設立したサンタ・クララ修道院に入る。
(サンタ・クララ修道院は、現在の旧サンタ・クララ修道院である)そして王妃時代同様に貧しき人や病の人に尽くし余生を送る。しかし・・・。
【終幕】アフォンソ4世の王女マリアは隣国カスティーリャの王アルフォンソ11世紀に嫁ぐ。
だが、王には妾がいてマリアを病人扱いにし遠ざける。
怒り心頭の父、アフォンソ4世は隣国カスティーリャ(スペイン)に進軍を計る。
そこで、身体が弱っていたスペイン生まれのイザベルは無理を押してエストレモスに駆けつけ、争いを止め和平させた。
この騒動が原因でイザベルは病にかかり、1336年、エストレモス城で死亡。そして遺体はコインブラのサンタ・クララ修道院に移される。
(現在はコインブラの〈新サンタ・クララ修道院〉に棺が移され収められており、ここにもイザベル王妃の大理石像が建っている)
エストレモスのイザベル王妃像とコインブラのイザベル王妃像には違いがあった。それは手の位置である。
エストレモス像は下げた両手を開いた掌には薔薇の花々が、コインブラ像の右手は下に左手は胸にある。
13世紀と17世紀の違い、造り手の勝手であろうか。でも13世紀像の方が、おいらはシンプルで気品があって好きだった。
新サンタ・クララ修道院の中に入った。外観とは違い、教会内部は見事だ。心が安らんだ。重厚な教会はバロック様式である。
慈悲深かったイザベル王妃を愛しみ、銀製の棺にイザベルは眠っていた。今まで見た棺の中で一番美しく重厚に見えた。
修道院の中庭の周りは、思っていたより広いドーム状の回廊になっていた。壁側には木製の長椅子が整然と幾つも並べられてあった。
いろいろな回廊を各地で見てきたが、ここが一番質素だった。
だが裏を返せば、飾り気がなく親しみやすさを感じさせた。イザベル王妃の質素な人柄がしのばれた。
「けいの豆日記ノート」
新サンタ・クララ修道院は、以前にも訪れたことがある。
内部も見た記憶があるが、あんまり印象にないのはどうしてだろう。
フィルム時代は、撮れる枚数が限られるため、内部装飾まで撮ることができず、ささっと通り過ぎてしまったのだろう。
外の人物を撮ることを優先していたと思う。
今でも人物優先なのだが、デジタル撮影で建物の内部の記憶も残しておきたいと思っている。
《10年振りのキンタ・ダス・ラグリマス》
急坂をモンデゴ川に向かって、ゆっくりくだる。対岸の丘が目線の高さで見え、その丘を這い上がるコインブラ大学の建物は、まるで城塞のように思える。
1911年にリスボン大学が設立されるまでは、国内唯一の学術の中心地であった。
前回記したが、2013年6月に14世紀以降大学として使われている山の手のアルタ地区と、16〜20世紀にキャンパスがおかれた下町のソフィア地区が世界遺産になる。
そんな丘の上に広がる大学を中心にコインブラの町は息づいて来たのだ。
急坂を降りると細長く広い子供向けのテーマパーク[ミニ・ポルトガル]がある。
ポルトガルの有名な建物や各地方の伝統的な建物をミニチュで再現した公園で、マカオやブラジル、モザンピークなどの旧ポルトガル植民地もあるらしい。
一度も入ったことがない。入館料が8.95ユーロ。ケチケチ旅人にとっては入れない。昼食代2人分が飛んで行く。
テーマパーク沿いを歩き、中をチラリ覗きながら先を行く相棒を追う。
石畳の道を進むと右手に広い芝生が見えてくる。ゴルフ場だ。見たような記憶がかすめるがほとんどおいらは覚えていなかった。
狭い石門にポルトガル・アズレージョ(装飾タイル)の小さなプレートがはめ込まれていた。
【QUINTA DAS LAGRIMAS】キンタ・ダス・ラグリマスと、おいらでも読めた。
これはホテルの名前だろう。でも、訳せば[涙の館]でもあった。
石門からは、左右の太い樹木の葉っぱが生い茂り、長いトンネル状になって遥か奥の建物に連なっている。
2003年の1月の冬場に来た時とは雰囲気が当然違っていたが、相棒は写真を撮りながらスイスイ歩いて行った。
おいらはアズレージョのプレートも、この通路にも記憶がなかったが、写真家は犬であった。
一度通った道は、忘れぬ才能があった。
しかも、10年が経っているにもかかわらずにであった。
10年前は、トイレを借りただけの古典的な洒落たホテルの印象だけが残る。
あの時はガイド本で知り来たものの[涙の館]の意味にまで頭が回らなかった。
ただただ、寒さに痺(しび)れ、飛び込み、トイレをお借りしたありがたい館だった。
生い茂る樹木のトンネルを抜けるとその建物はあった。
その時、建物から曲線が美しい大理石の石段を下りてくる夫婦がいた。日本人だった。
相棒は駆け寄り婦人と二言三言(ふたことみこと)言葉を交わした。高級車が滑り込み夫婦は乗って走り去った。
優雅な中年夫婦であったが、それにしても素っ気のない出会いであった。
我らはみすぼらしい日本人だと見捨てられた想いをした。
その石段を登りながら相棒が囁(ささや)いた。『あのさ〜、2泊で230ユーロ(32200円)だってさ。
コインブラでは最高級だよね』と、あっけらかんの相棒である。二言三言って、こんなものだ。
相棒はその4つ星ホテルでトイレを借りた後、フロントに向かい、廊下や装飾品などを撮影させてもらえないだろうかと交渉を始めた。
トイレの行き帰りでしっかりロケハン(ロケーションハンティング)、つまり撮りたいものの確認を瞬時に見届けてきたに違いない。
相棒は度胸の人だった。撮影交渉時には、小さな体が大きく見えた。
この4つ星ホテル「キンタ・ダス・ラグリマス」の内部装飾や置物には中世を偲(しの)ばせる配慮を感じさせてくれていたからだった。
「けいの豆日記ノート」
リッチな日本人と少しだけ話した。
キンタ・ダス・ラグリマスホテルのレストランが、ミシュランの1つ星であり、ここで食事をすることが目的であったらしい。
宿泊料より高い、レストランの高級ワインとリッチな料理で食事することであったらしい。
いろいろな国を旅行している夫婦でうらやましい限りである。
リッチな旅には、ぜんぜん、縁がないな〜〜〜〜
《イネス・デ・カストロ嬢に会う》
あり余る中世がこのホテルには活(い)きていた。通路や小部屋に古典的なピアノが5台もあった。
見応えがある素朴な装飾の小振りのピアノ達だった。
おいらが勝手に思っている友達の、音楽仲間の腹ボテ中年の男達の世界を描き続ける作風が大好きな画家・田中敏夫さんに見せたいほどのピアノ達であった。
鍵盤に指を打つことができなかったが、きっと素敵な音色を響かせてくれるに違いないとさえ思う。
相棒はフロントにいた美しい女性に案内され撮影をしていた。
通路の壁で1枚の女性の繊細な肖像画が飛び込んできた。鼻筋の通った美しい女性であった。
だが、寂しい瞳で見つめるなで肩の気品あふれる女性の素描画の下に「D,ICNEZ DE CASTRO」の文字が読み取れた。
イネス・デ・カストロ。
しかし、いつ描かれた作品かは定かでない。
あの、『ペドロ王子とイネスの悲恋物語』で、おいらも今回の旅の《紀行文5・アルコバサ修道院》で記した、記憶に残る、その素顔の女性に初めて会ったのであった。
悲恋物語を簡単に記すと【父アフォンソ4世の言いつけによって、隣国カスティージャ王国のコンスタンサ姫と結婚したペドロ王子は、姫の侍女として来たイネス・デ・カストロと恋に落ちてしまう。
それが悲恋の始まりであった・・・】
ホテルの建物の裏の森の中に、500年以上は成長を続けている根っこが幾筋も地表に張り出したものすごい榎(えのき)の傍(かたわ)らに、イネスとペドロ王子の密会の館が、今は廃墟として残っていた。
殺害された「涙の泉」も、相棒と探し、その歴史の真実の切なさを知った。
詳しくは今回の【2013年・紀行文5】をご覧いただければと思う。
その「涙の泉」にあった碑に、ポルトガルの有名な詩人カモンイスの『ウズ・ルジアダス』の一節が刻まれていた。勿論、ポルトガル語である。
『モンデゴの妖精たちは涙を流し続け、彼女の悲しい死を記憶に刻み込んだ。そして永遠の記憶を求めて、流された涙は美しい泉となった。
あの処刑のできた泉に、妖精たちはイネスの愛という名を付けた。泉は今でも湧き続けている。見よ、なんと清らかな泉が花々に水を与えていることか。愛という名の泉から流れる涙の水を』
「けいの豆日記ノート」
ガイド本には、涙の館の入館料が2ユーロと記載があった。
どこかに入口があるのかと探したのだがなく、ホテルの横の庭を歩いていると、散歩をしている人が手招きをしてくれた。
たぶん、ホテルに宿泊している人だと思う。
「涙の泉は、そこを入ったとこだよ。」とでも言っているように聞こえた。
かってに解釈して、庭の奥に入っていった。
涙の泉のこと、知らなければ気が付かずに通り過ぎて行ってしまうほど、地味であった。
《ティータイムならサンタ・クルス・カフェ》
昼食は、サンタ・クララ橋を渡り、下町にあるあの「中華の店・豪華飯店」で4.99ユーロのランチ一人前を分けて食べた。
ランチは、春巻、チャーハン、チャ―ミン(やきそば)、酢豚だったが、炒飯は手つかず。一口おいらが食べたが、絶句。
なんでも食べる相棒も、ひとくち口に運んだが、すぐに食べるのをやめた。相棒が料理を残すというのは究極なのだ。
日本の中華店の味に慣れ親しんで来た我らにとっては、その不味さには素直に正直であった。
小雨が降りだした5月8日広場から[サンタ・クルス修道院]に飛び込んだ。
1131年にアフォンソ・エンリケスによって建造され、16世紀にマヌエル1世が大改築。教会の壁面は見事なアズレージョ(装飾タイル画)で囲まれていた。
柱はマヌエル様式、説教壇はルネサン様式。沈黙の回廊と呼ばれている回廊は、マヌエル様式の代表作と聞く。教会は無料だが、回廊は有料だ。
65歳以上はパスポートを見せたると割引で1.5ユーロ。相棒も同額だったので複雑な笑みが浮かんだ。
万歩計を見た。歩き回った一日である。16971歩。修道院の右隣りにある[カフェレストラン・サンタ・クルス]には、初めて入った。
建物正面は小振りだが重厚さがある建物で、前々から気になってはいた。1530年に建てられた教会をそのまま残し使っていた。
ドーム状の天井も高く曲線の梁(はり)も教会を偲ばせる。
窓辺の天袋のステンドグラスの色合いが映えてうつくしい。教会の雰囲気が楽しめここでなら落ち着いて本が読めそうであった。
注文は、水(1.0ユーロ)、ガラオン=ミルクコーヒー(1.6ユーロ)。
「けいの豆日記ノート」
サンタ・クララ修道院の横のカフェは気になっていた。
以前から、入ってみたいと思っていたのだが、日曜日が休みであり、今まで機会がなかった。
今回、やっと入ることができた。
建物は、修道院を利用していることもあって、重厚感があるのだが、テーブルやイスが普通のカフェとかわらなかった。
奥にステージのようなものがあったので、何かのイベントでも開催するのかもしれない。
小雨の中をコピンブラでは老舗のホテル・アストリアに帰った。
途中の酒店で、帆船マークのカティー・サークを1本買った。40年以上も飲み続けているウイスキーだった。
オンザロックの水割りで飲みたかったが、ここはポルトガル。水は買ってきたが、氷は売ってない。
カウンターに行って、氷を分けてもらっても、その氷は水道水かも知れぬ。三つ星ホテルだと信じ、氷を分けてもらう。
カティー・サークのオンザロックの水割りを飲んだ。8日ぶりであった。
*「地球の歩き方」参照*
                       
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2014年11月に掲載いたしました。
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