「ポー君の旅日記」 ☆ 壮大な修道院のマフラ3&檀一雄の眠るエリセイラ2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・20≫
=== 最終章●リスボン起点の旅 === マフラ3&エリセイラ2
《不思議なめぐり合わせのマフラ》
7回目のポルトガル写真取材旅の最終日、2012年6月6日(水)の朝は霧に咽(むせ)っていた。
地下鉄グリーンラインに乗り、カンポ・グランデ駅で降りた。
野外バスターミナルの目の前には、スポルティング・リスボンの本拠地ジョゼ・アルヴァラーデ・スタジアムがでっかく迫っている。
収容人数5万2千人の巨大なスタジアムである。マフラ行きのバスは2階建。その2階の最前列に座った。
切符は乗る時、運転手から買った。4.1ユーロ。9時5分、霧雨の中を出発した。
『マフラに行く日は、不思議と雨だね』と、ポツリ相棒がつぶやく。
初めてマフラを訪れたのは、撮影取材旅3回目の2003年2月である。
雨のスペイン国境に近いカステロ・ブランコから南西に向かい、首都リスボンまでバスで3時間。
宿で荷を解き、野外カンポ・グランデバスターミナルからマフラに向かう。
1時間20分、小雨が降り出したマフラ修道院前のバス停で降りたその時だ。
相棒の赤い帽子がスローモーションのように風で飛ばされた。
ナイスキャッチしたのは勿論おいら。小学生時代は野球に熱中していた。
ユニホームも母がミシンで作ってくれた時代だった。川上は赤バット、青田は青バット、大下は黒バット。
我ら少年たちの憧れのプロ野球選手である。そのかつての野球少年の目の前にデ〜ンと横幅の長い3階建の建物が目に飛び込む。
マフラ修道院であった。入館料は3ユーロ。内部は改装工事中だった。
マフラに再訪したのは翌年2004年5月、4回目の写真取材旅の時だった。
午前中はポルトガルのヴェルサイユと呼ばれているケルース宮殿に行く。
ケルースからリスボンに戻ったのは3時を過ぎていたが、マフラ行きを相棒が決めた。
例の野外カンポ・グランデバスターミナルは更に広くなっていたため、マフラ行きの発車場所が分からない。
焦(あせ)る。歩いてきたポリーシア(ポリス)に聞く。彼も即答できず止まっていたバスの運転手に聞く。
しかし彼もまた即答できず、無線で事務所に問い合わせる。運転手がポリーシアに告げる。
ポリーシアは頷き、着いて来いといい、走りだす。ポリーシアを追って、我らも走る。
ポリーシアを追跡する日本人ふたり。バスを待つ人びとが怪訝(けげん)な顔で振り返る。
異様な光景に見えたに違いない。40メートルは走った。ポリーシアは中年のおじさんであった。
息が上がっていた。その優しさに感動した。ポルトガルの人は、どこでも本当に優しかった。
折鶴が相棒の手からポリーシアの掌(てのひら)に飛んで行った。感謝の印であった。
お陰さまでマフラ行きのバスに乗れた。朝から4時間以上も歩き回り、1万6千歩を越していた。
そこへ、今度は走った。どっと疲れが襲ってきた。・・・そして、運転手に起こされた。マフラのバス停であった。
その一つ手前の、マフラ修道院前バス停で降りなければいけないのに、バスの振動は揺りかごであった。眠ってしまった。
降ろされたバス停からマフラ修道院が小さく見えた。道に迷う距離ではない。足早に歩く街路樹が八重桜だった。満開だ。
5月3日の八重桜に、この地で会えたことが嬉しかった。八重桜越しのマフラ修道院を相棒は撮った。
修道院前の花壇は満開のキンセンカ。しかし、やっとたどり着いたマフラ修道院は、閉館していた。
入館制限時間は、閉館5時の30分前であった。無念。眠ってしまった我らが、悪かった・・・。
「けいの豆日記ノート」
リスボン滞在も後1日になった。
今回の旅では、マフラ修道院とジェロニモス修道院を 再々再度、見たかった。
ジョロニモス修道院の休館日は月曜日、マフラ修道院の休館日は火曜日であったので、休館日にかさならないようにジョロニモス修道院を先に見ることにした。
なので、マフラ修道院は、後になったのである。
前日の晴天がうそのように朝から小雨が降っていた。
《3度目の正直》
3度目の正直に、賭(か)けた。
今回はどこかに寄ってからマフラに行くのではなしに、朝1番で行くことにしたが、早朝から深い霧雨であった。
相棒が言う通り、マフラに行く日は不思議と雨だった。
8年振りに、首都リスボンの野外カンポ・グランデバスターミナルから9時5分発の大西洋に面した漁村エリセイラ行きに乗り、その途中にあるマフラ修道院前バス停で降りた。
10時30分であった。マフラ修道院は深い霧の中でにじんで見えた。
しかも、ファサード(正面入り口)前の広場は工事中であった。『何でかな〜ぁ』と、落胆の相棒がいた。
マフラ修道院の入場料は、相棒6ユーロで、おいら3ユーロ。
65歳以上はパスポートを見せると半額である。勿論パスポートを握りしめていたのですぐ出せた。相棒はにっこり笑い、賢いね、と吐いた。
2時間ほど目一杯相棒は、撮りまくった。まさに、3度目の正直だ。マフラ修道院は我らを待っていてくれたのだった。
「けいの豆日記ノート」
天気ばかりは、どうしようもない。
今まで晴れが多かったのが運がよかったのかもしれない。
前回、もし閉館ギリギリに間に合ったとしても、きっと撮影も中途半端になっていただろうと思う。
閉館時間になったら、どんなに途中でも追い出されたに違いないと思う。
フィルム時代でたくさんは撮れなかったと思うし、デジタルになった今回しっかりと写してこようと思っていた。
《これぞ、マフラ修道院》
マフラ修道院は、3階建の全長230メートル以上もある巨大な建物である。
建設は1717年から始まり完成までに延べ5万人以上の作業員と13年の歳月が必要だったと知る。
その建築経費などはポルトガル大航海時代の植民地から得た財宝であった。
特に、ゴールドラッシュに沸くブラジルから得た莫大な富で潤っていたポルトガル王室であったからこそ建設可能だったのだ。
1711年、世継ぎに難儀していたジョアン5世と王妃マリア・アナは、世継ぎが誕生したら修道院を建てると神に誓う。
そして、王女誕生。約束の豪華絢爛の修道院建設となった。
しかし、最終的には建設13年もの歳月がポルトガル経済を破綻させていき、王室崩壊の要因になってしまった、と聞く。
92個の鐘を付けた左右の鐘楼が天を突く白大理石のバロック風バジリカがでんと構えるファサードを入ると、正面に入場無料の大聖堂(教会)がある。
当然のように相棒はタダに吸い込まれる。高さ70メートルの礼拝堂のドームは、ヴァチカンのサン・ピエトロ寺院を模倣しているという。
天井の明り採りの半円ドームといい、天井の装飾といい、壁面や柱、床に敷き詰められた色鮮やかな大理石といい、入ってすぐ「どこかで見た?!」と思った。
首都リスボンのバイロ・アルト地区で見たネオ・クラシック様式のドームが印象的な白亜の教会、エストレーラ聖堂内部と似ていたのだ。
こちらは1717年から建設開始、あちらは1779年建設開始である。
ということは、エストレーラ聖堂がこちらを模倣したことになる、と思えるほど造りが似ていたのだ。
しかし規模が違った。500人はクルミ材を使った木製長椅子に座って祈るスペースがあった。
マフラ修道院は中央に3階分の高さの大聖堂があり、左右3階に渡り宮殿と修道院が表裏になっていた。
見物には前述の料金で、受付で購入した。その時、小学生の団体50人程がファサードから入って来た。それもみんな真っ赤な帽子をかぶっていた。
写真取材旅では必ず相棒も目印になる赤い帽子が決まりであった。
ありゃ〜!とふたりで笑ってしまったが、実際には余りにも広いマフラ修道院、赤帽子群団とは撮影中は遭遇しなかった。
宮殿の特徴は、フラスコ画で飾られた天井画が目を引いた。
長い廊下や広い客室、居間などの天井画はきめ細やかな線と色彩で楽しめた。
特に、凄いと思い息を飲む美しさは、大理石の市松模様の床だった。ピンクや藍、白などふんだんに使われ大理石であった。
また、半円丸天井に覆われたロココ様式の図書室は圧巻だった。華麗な彫刻の本棚には4万冊ほどの本が奥行き83.6メートルにわたり並べられていた。
ポルトガルの大詩人カモンイスの初版も収められているという。当時の宮殿の生活様式を彷彿させてくれる宮殿であった。
宮殿の後に修道院があり、僧房、薬院、病院などがすべて広大なマフラ修道院の建物空間に収まっていた。また大聖堂は、2階3階からも俯瞰で見えるようになっていたのが印象深く楽しめた。
2階吹き抜けから眼下に赤い帽子のご一同様が長椅子のひと隅に集められ、神父さんの話を聞いていた。ポルトガルでは、95%がカトリックの国である。
3度目の正直であった。宮殿・修道院・大聖堂をふた廻りもして、満喫できた。2時間ほどかかっていた。
万歩計は23883歩が表示されている。歩き回ったものだ。外に出ると霧雨は上がり、紺碧の青空も見えていた。
「けいの豆日記ノート」
マフラ修道院は、巨大な修道院というほど、大きな建物で、見るだけでも時間がかかる。
写真を撮りながらだと数倍は時間がかかる。
写真撮影OKの表示があったので、どんどんと撮っていった。
女性の係員が数人集まり、話している。
どうも見られている感じはあったが気にせずに撮っていた。
しばらくすると、係員の代表のような男性が話しかけてきた。
ポルトガル語も英語もいまいちというか、わからないが、ジェスチャーを含めたわかりやすい説明でだいだいのことは理解できた。
『写真撮影はOKで、部屋全体を撮るなら問題はない。
陶器や調度品の細かいところまで写真を撮らないように。』ということらしい。
すでに半分くらいは、撮ってしまっていたので、了承した感をだして、後は、全体を撮るようにした。
細かい所を撮るとなにか問題でもあるのか・・・?
《忘れられない作品『檀』》
明日は、早朝に日本に帰る日であった。予定では3度目の正直で、マフラ修道院を堪能できたらリスボンに戻り、帰国準備をするはずであった。
しかし、相棒は撮影にどん欲である。『エリセイラに寄って行くぜ!』だった。30分もかからないはずだと、二カリ笑った。
地図にも強く、時間を無駄にしない計算力にも強い相棒であった。ポルトガルの旅では、おいらはボディガードで役立っていた。
といえば、たくましい頑強な相方と思うだろうが、相棒のカーザ ドゥ バーニョ(トイレ)のための荷物番であった。
12時50分、マフラバス停から小さい魅力的な漁村エリセイラに向かった。エリセイラは、北西の大西洋に向かって10キロほどにある。
2006年10月、ポルトガル5回目の写真取材旅で漁村サンタ・クルスの帰りに寄った街であった。
サンタ・クルスは、小説『火宅の人』で知られる直木賞作家・檀一雄さんが1970年から71年まで、一人で一軒家を借り、1年半住んでいた町だった。
「サンタ・クルス」という文字を見ると、1冊の本が瞬時に浮かぶ。
それは、『深夜特急』や『一瞬の夏』『バーボン・ストリート』などの著書で一躍脚光を浴びた沢木耕太郎さんが、1995年10月に発刊した単行本『檀』である。
檀一雄さんの死後、奥様に1年近くもインタビュー取材し、奥様の眼線で作家であり夫である檀一雄さんとの生々しい生活を小説『火宅の人』を縦軸に描いた傑作である。
1995年10月に単行本『檀』を購入して以来、今まで8回も読んでしまった。
読むたびに、奥の深さに感嘆し、作家・沢木耕太郎さんの凄さに敬服した。何度読んでも、面白いのである。
(なぜ、サンタ・クルスの文字で『檀』が瞬時に浮かぶのか、沢木耕太郎さんと新潮社の許可なく、抜粋させて頂きます)
・・・昭和45年10月末、あと少しとなっていた『火宅の人』を完成させることなく、檀はヨーロッパに旅立っていった。
・・・私は、サンタ・クルスに居を構えた檀に、頻々(ひんぴん)と手紙を書き送った。
・・・檀が日本を離れた直後に三島由紀夫さんの自決があり、事件の経緯が記された新聞や週刊誌の切り抜きを送ったりもした。
・・・外国どころか、国内でさえひとりで旅行することはなかった。
その私が、ヨーロッパも西のはずれのポルトガルへ、ひとりで行こうなどというのは無謀としか言いようのないことだったろう。
・・・ポルトガルの空気は爽やかだった。いや、ポルトガルの6月の空気が爽やかだったのかもしれない。
・・・海に面した丘には、私たちが幼いころにロンドン草と呼んでいた、松葉牡丹に似た花が一面に咲いていた。
・・・私が少し落ち着いたと見ると、檀はポルトガルのいろいろな町を案内してくれはじめた。
・・・近くはエリセーラやマフラ、遠くはコインブラやポルトまで足を延ばした。
・・・幸運にも、ポルトではサン・ジョアン祭にぶつかった。
・・・マフラという町では、古い修道院を訪れた。私たちが、その前の喫茶店でコーヒーを飲んでいると、凛々しい軍服を着た若い兵士たちがさっと入って来た。
修道院の一部が兵舎になっていたのだ。私は、ふと、その若者たちの中に、『赤と黒』のジュリアン・ソレルがいるような気がした。
・・・来るときは素通りしたリスボンにも、何度か足を運んだ。
まるで大正時代の日本のように、街がしっとりと落ち着いていて、上流階級の婦人が優美なのが印象的だった。
「けいの豆日記ノート」
前回、マフラに行くために乗ったバスがエリセイラ行きということをその時に知った。
マフラとエリセイラは意外と近いのである。
サンタ・クルスからエリセイラに行くよりよっぽど近いのである。
マフラまで行くのならエリセイラまで足を伸ばしてみようと思ったのである。
《絵本の世界エリセイラ》
マフラバス停からエリセイラバスターミナルまでは30分だった。エリセイラは大西洋に面した台地にある港町である。
バスターミナルから海岸道路に出て少しばかり驚く。新興住宅地のビル群が多くなっていた。サンタ・クルス同様、ここも避暑地に変貌していた。
海岸道路を横切って、旧市街地に入る。相棒は一度通った道は忘れない。昨日通った道ではない。8年前に2時間ほど立ち寄った町だった。
すいすいと歩いて行く相棒を追いかけた。おいらが犬と呼ぶ、警察犬であった。
一度通った道は、難なく通る臭覚を秘めていた。方向音痴であるおいらには、想像もできない技であった。
旧市街地は変わっていなかった。時間が止まったままの世界であった。こじんまりとした町は相変わらず美しかった。
建物自体は古かったが真っ白に塗り込められた壁が陽射しで反射し町全体が明るく輝いていた。
そして、建物の壁の巾木や縁取りは、紺碧色で幅広く塗り込められている。
そのポルトガルの海や空のような紺碧色が町全体を清楚に見せていた。特に、図書館はエリセイラ独特の白壁に紺碧色が映えていた。
まるで、絵本の世界に飛び込んできたような雰囲気に酔えた。
日常生活が変わることなく刻々と刻み込まれ、その流れの中で淡々と時の流れを受け継ぎ、その風情を何百年も軽やかに何事もなく流れているような絵本のような世界のエリセイラであった。
住んでみたい、町であった。きっと、長生きさせてくれるに違いないとさえ思った。
ポルトガルの各地を12年間にわたり歩き続けて来たおいらの終着駅は、もしかしたらこの地かもしれないとさえ思った。
30メートル以上もある断崖絶壁の下に砂浜があり、大西洋の波が打ち寄せてくる。
その景観の中に漁船が20艘ほど身を寄せあう漁港がある。
その日その日のエリセイラ住民が食べられる収穫があれば、それでよしの漁業地なのかもしれない規模である。
その断崖の上にレストラン(食堂)があった。店の名は、JOY。13時50分、そこで昼飯にした。
イカフライとポテトにライスのランチセット、ビール付きで6.5ユーロ。コーラは別料金で1.3ユーロであった。
一人前にすればよかったと思うほど量があった。
これが、うまかった。でもやっぱり、二人前でよかったと思うほどの美味さであった。
「けいの豆日記ノート」
白壁に青い縁取りがきれいな町並みである。
標識がアズレージョ(装飾タイル)できており、縄模様が海の町らしかった。
ランチタイムに断崖の上に建つレストランに入ってみた。
10cmくらいのほそいフリッターがたくさん盛り付けてあるのを2人の女性が食べていた。
おいしそうだったので、「あれと同じものを」といって注文した。
それが、本日のランチであったのである。
ランチには、飲み物とデザートもついていた。
日本でもそうだが、平日ランチはお得にできているんだなあ。
《エリセイラの「そこ」とは》
そして、作家・檀一雄さんが日本に帰り、昭和50年癌による死期が迫ってから『火宅の人』の最終章を口述で書きあげる。
本は売れだし、翌年51年の年明け2日に死すと、爆発的なベストセラーになる。奥様は4年後にポルトガルを再訪している。
「檀一雄が愛したポルトガル」というツアーの主催者に連れられて。沢木耕太郎さんの作品『檀』にはーーーー。
・・・しかし、2度目のサンタ・クルスは、前のときほどの感動がなかった。行ったのが11月で、季節が違っていたせいかもしれない。
夏のシーズンが終わり、閑散としていた。
・・・その旅行には、檀の骨も少し持っていった。
本当はサンタ・クルスのどこかに埋めるつもりだったが、かつて檀が案内してくれた海辺の町のエリセーラに行くと、暗い大西洋の海が溜息の出るほど素晴らしかったので、そこに埋めることにした。
檀一雄さんの奥様は、エリセイラのどこに檀さんの骨を埋めたのだろうか。
この地に、前に立ち寄った6年前の2006年10月に訪れた、その時の日記紀行文を読み返してみた。
《2006紀行文・15》「ポー君の旅日記」作家が愛した町のサンタ・クルスとエリセイラ。
その紀行文の締めには、こう書いていた。
[ 大西洋の海岸に出た。岩場の多い海辺だ。釣りを楽しむ人が多い。
青空 が見える広々とした空の下に紺碧の大西洋が白い波を運んできて岩場を砕 いていた。見ていて飽きない美しい海岸線だった。
かつて、檀一雄がサンタ・クルスを訪ねてきた愛妻を案内した海岸だった。
檀の死後、再度この町を訪れた妻には、目的があった。サンタ・クルスの地 に埋める予定の檀の骨をこのエリセイラの海岸の何処かに埋めたという。
そこが、今、大西洋を眺め歓喜している、この足元ではないのかとポーは、フッと思った。 ]
そして、その6年後の2012年6月6日、明日は帰国する前日にマフラの帰り、再び檀一雄さんの奥様が檀さんの骨を埋めたという大西洋に面したエリセイラの断崖絶壁に立っていた。
檀さんの奥様が言った、そこに埋めることにした『そこ』とは、エリセイラのどこだったのか。
そこが、気になっていた。沢木耕太郎さん、教えて!と、声を発するおいらがいた。
もしかしたら、ポルトガル撮影取材旅7回目をこの地エリセイラで終わるのも、おいらの好きだった小説家・檀一雄さんと沢木耕太郎さんの粋な計らいなのかもしれないとさえ、ふと、思った。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回から2013年版がはじまります。お楽しみに・・・・・・・今回分は2014年1月に掲載いたしました。
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