「ポー君の旅日記」 ☆ カテドラルと古本市のエヴォラ4 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・16≫
=== 第四章●エヴォラ起点の旅 === カテドラルと古本市のエヴォラ4
《霧のエヴォラ》
6月2日(土)の早朝は、ホテル全体が薄い霧で包まれていた。そのためか薄寒く、ジャンパーを着て外に出た。
今日と明日の2日間は、城壁で囲まれたエヴォラをゆっくり散策しようと、モー二ングタイムの時に決めていた。
相棒が最初に向かったのは、国鉄のエヴォラ駅だった。明後日の朝は、列車でリスボンに向かう。その時刻表の下調べであった。
城壁の南側外にある宿から100メートルほど更に南に下る。エヴォラ駅は最近建て替えられたのか小奇麗であった。
駅舎の外壁には10点ほどのアズレージョ(装飾タイル画)が巻かれている。しかし、アズレージョもそれを囲む縁模様も古いものではなさそうだ。
ポーには、そう見えた。古い駅舎で使われていた再利用ではなさそうだ。
でも、新しいものであっても、立派な作品だ。雰囲気作りには役だっている。
日本を旅立つ前にパソコンで調べた時間と同じ9時発だと、アズレージョを見ていたポーに近づき嬉しそうに言った。
スケジュールはすべて相棒が、立案担当者であった。
朝霧の後は晴れるものだが、その気配はない。
宿の前に戻り北に200メートル進み南城門を抜けると、小さな公園があり、そこに薄紫の花弁を付けたジャカランダの樹の傍に、鉄扉の門がある。
この門を入ると、相棒の好きな、孔雀の放し飼いのジョルダン公園だ。しかし、太陽がなければ孔雀に会う意味がない。すんなり通過し、30メートル先の市営市場に向かう。
その道にテントを張った野菜や果物を売る露店が並んでいた。9時過ぎといえば客で賑わう時間帯だが、その客も少なく商いも細々し、その通路の露天は当然活気がなかった。
長年市民の台所として続いてきた市営市場の建物に入ったが、市場の内部周囲を囲むようにある固定ブースのパン、チーズ、肉、卵売り場なども客が10人もいない。
見ているだけでポーの気持ちも落ち込んだ。相棒のシャッター音もほとんどなかった。
ここも、郊外の大型スーパーマーケットに食われてしまうのだろうか。日本がそうであったように、ポルトガル各地でも同じ現象を目の当たりにした。
暗い市場から外に出ると、太陽が顔を出した。ジャンパーを背負っているリックに押し込んだ。
「けいの豆日記ノート」
エヴォラに鉄道が復活した話を聞いた。
リスボンからエヴォラまでは、長距離バスしか行く方法がないと思っていたので、列車に乗ってみたかった。
でも、列車の本数は、1日4本くらいしかないらしい。
時間を確認して、ちょうどいい列車がない場合は、バスで移動しようと思っていた。
ホームを渡るエレベーター付きの階段が遠くから見えたが、鉄筋造りで新しかった。
駅前には、何もなく、がらんとしていた。カフェの1軒もないのである。
もっと、本数があれば、利用客も増え、店もできるのかもしれない。
《サン・フランシスコ教会と人骨堂》
ポルトガルで一番広いアレンテージョ地方の中心地[エヴォラ]は、城壁に囲まれた世界遺産である。
何処を散策しても、先史、ケルト、ローマ、中世、近世の遺産に遭遇する、そんな町だ。
つまり、旅人の好奇心を満足させさせてくれる時代時代の遺産を楽しませ、唸らせてくれる。
2002年3月、2003年2月、2008年6月と3回訪れ、今回で4回目になるが、訪ねるたびに町の表情が変わり迫って来て、いつも新鮮に接してくれた。
かなり大きな広場の一角にある市場の真向かいに、と言っても50メートルほど離れた場所に、16世紀建造の〈サン・フランシスコ教会〉がある。
ファサード(正面入り口)は、マヌエル様式の装飾が美しい教会だ。
中に入ろうとした時、観光団体客がやって来るのを遠目にとらえた相棒が『礼拝堂を先にしようか』と言い、教会に接した右側の通路に向かう。
撮影のために団体客をさけた。
礼拝堂には、昔は教会の中から入れたが今は専用の入り口になっている。見学料は2ユーロ+0.5ユーロ。
2008年の時は1ユーロ+0.25ユーロ。+ユーロ代は撮影料だ。携帯カメラで一回撮ろうと、一眼カメラで100回撮ろうと撮影料は同じだ。
17世紀につくられた礼拝堂は〈人骨堂〉と呼ばれ、5000体もの人骨が壁や柱に埋め尽くされている。
その異様さに、身震いし圧倒される。
骨だけでなく髑髏(どくろ)も並べ埋め込まれていた。
17世紀まで王侯貴族や位の高い僧侶は教会内部に埋葬された。しかし、修道士などは建物の周りに埋められる。
この礼拝堂はそんな修道士などを掘り起こしてつくられたという。つまり、修道士たちの瞑想の礼拝堂になったのだと知る。
教会に戻る時、通路ですれ違ったのは20人程の、日本からの観光客であった。ポーが聞いた。
成田空港集合の関東各地から集まった団体さんだった。それにしても、日本人団体さんに会えるのは珍しい。
ポルトガルの各地を歩き回るのは今回で7回目になるが、ふたり連れの女性や母娘、ご夫婦が多く、一人旅の女性たちにも何度かお会いした。
そんな時は、話しかけるか声を掛けられるかで、5分か10分ほど言葉を交わす。それがご縁で帰国後相棒にメールが頂いた。男性は一人旅で、定年後の住まいを求めてのおじさんもいた。
と言っても、お会いしたのは20人もいなかった。
教会のファサードに入る。20メートル近くもある高いドームが重厚に迫ってくる。
それほど広くなく眩(まばゆ)いばかりの華やかさはないが、何十本とある支柱の青味がかった大理石が印象的だ。積み重ねられた円筒の柱には、均等に白い線(目地)がある。それは大理石のつなぎ目のように見えた。16世紀初期に建てられたマヌエル様式の教会だと言う。
支柱ばかりではない。
ステンドグラスの窓辺周囲やアーチを形作る大理石も、また正面祭壇を囲む壁の大理石もみなつなぎ目が白く、教会内は白い線のデザインで統一されている。
200人ほどが座れる3列に並ぶ木製長椅子が、天窓からの明かりで射られ渋く光っていた。
「けいの豆日記ノート」
サンフランシスコ教会も人骨堂も以前に入った場所である。
サンフランシスコ教会のステンドグラスの光が教会の彫刻に映り、神秘的な情景であった。
神様や天使がほんとにそこに見えるのではないかと思えるほどであった。
光の映り込みは、季節や時間や天候によってかわってくるので、同じものは、撮れないだろうと思う。
人骨堂は、気持ち悪いとか怖いとか言われる人も多いが、そんな感じはしなかった。
骨も建物の1部の装飾としてしか感じなかった。
信仰心がないからなのだろうか。
人骨堂に入るまでのホールのアズレージョは以前にも見た記憶があるが、小さな礼拝堂が新しく造られていた。
《ジラルド広場の古本市》
エヴォラの市民の憩いの場、〈ジラルド広場〉に向かった。自動車がゆっくり走る石畳の坂道には、狭い商店が連なる。
そのショーウインドーを相棒は一軒一軒覗き込みながら、時々シャッターを押し、上って行く。
子供向けのおもちゃ、人形、キティちゃんグッズ、子供靴と続く。
ガラス越しに赤い靴を履かせられた3歳ぐらいの女の子が、相棒に向かって微笑む。
カチャ!当然、鳴る。若い母親もカメラ目線で手を振ってにっこり。カチャッ!
急に行きかう人が多くなる、ムーア時代の名残のアーチが商店街アーケードになっている通路だという。
この先にジラルド広場がある。白壁に挟まれた急坂を上がると、とんがり帽子状の白いテントが幾つも連なり広場を飾っている。
そのテントの中は種々の本が並べられ、客で賑わっていた。今日と明日の二日間だけの古本市であった。
特に絵本のコーナーは親子でいっぱいだ。古本と言っても新品同然で、1冊5ユーロと大きく書いてある。撮影の間に間に相棒も2冊買った。
やや大きめなテントの中では、小振りのステージがあり、椅子に座った子どもたちに紙芝居形式で若い女性が絵本を読み聞かせている。
親たちはその周りに立ち笑顔が絶えない。本が好きな国民だと思える嬉しい光景であった。
撮影しながら相棒が『声を録音して、あの絵本を買えば、ポルトガル語の勉強になるねっ』と、吐いた。
ジラルド広場は、エヴォラの英雄ジラルド・センバボルの名前からつけられた町の中心地である。
この広場から蜘蛛の巣状に路地が城壁内に広がっている。だから、ここで地図を広げれば、エヴォラの町がよくわかる。
「けいの豆日記ノート」
広場で古本市が、開催していた。
土曜日だったので、午前もやっていたが、平日は、夕方から夜に開催するらしい。
(土曜日も午後からは、店じまいして、夜にまた開いていた。)
エヴォラで、古本市を見ることができるなんて思っていなかったので、うれしかった。
本は、きれいなものばかりなので、新古品なのかもしれない。
何ユーロと書いてある箱の中から、絵本を選んでみた。
15ユーロが5ユーロというように値札が貼ってあった。
日本でもそうだが、絵本は意外と高いものである。
エヴォラ大学の学生たちが描いた絵も売られていた。
油絵、水彩画といろいろ飾られていた。
値段までは見なかったが、いくらだったのだろう。
以前にポルトガルに6月に訪れた際、リスボンのポンバル広場で古本市が夜に開催されていたらしい。
昼間に広場にいったので、四角の箱のようなテントだけがいくつも並んでいたのを見た。
古本市ということも知らなかった。
あとから聞いて、「夜に開催していたんだ〜」と少し残念だった。
《10月5日通りの理髪店》
広場の中央には、白いパラソルが整然と並び路上カフェになっている。我らはここでゆっくりとカフェしたことがない。
撮るのが仕事だ。路上カフェは昼も夜も賑わっているため格好の標的だった。
とくに、くつろぐ女性陣の姿は映像になった。広場中央の東側に、賑わう300メートルほどの路地がある。この路地を抜ければ、世界遺産の宝庫が待っている。
〈ディアナ神殿〉〈カダヴァル公爵邸〉〈ロイオス教会〉〈エヴォラ大学〉〈エヴォラ美術館〉そして、〈カテドラル〉だ。
しかし、その〈10月5日通り〉は、簡単に通り抜けられない。目を引く店がいっぱい手を差し伸べてくるからだ。
洒落た小さなカフェやレストランや沢山の土産店がぎっしり並んでいるのだ。
相棒が最初に捕まったのは理髪店だ。かつて、ここの店主におねがいし仕事ぶりを撮影させてもらった。
『ちょッと顔を出してみるか』と、相棒が店に顔を突っ込んだ瞬間ハサミとクシを持った手が止まり、鏡に映った相棒の姿に驚いた頭のてっぺんが薄い洒落(しゃれ)男が二ッカリ笑い振り向き、KEIKO!と発した。
相棒も『うッそ〜?!』と吐く。4年前に飛び込み撮影して以来である。店主は髪を切っていた客に何やら嬉しそうに説明していた。
ハサミとクシをもったまま、ハグしてきた。一見恐ろしい光景であったが、ユーモアあふれた再会であった。
店主はポーにも向かってきたが、右手のハサミを指差すと、オ〜ゥと吐き、ハサミを置いて握手しに来た。
相棒が、Tudo bem?(元気?)と、いうと、Muito bem,obrigada.(とても元気だよ、ありがとう!)と、笑顔で返してくれた。
そして、名残惜しそうな店主に、土産変わりの折鶴を5羽渡し、優しく、Tchau!(バイバイ!)と言って、別れた。
土産屋で目に引くのは、ポルトガル生産のコルクで作った製品だ。
ワインの国でもあるポルトガルはもとより、ヨーロッパのワイにはポルトガル産コルクが、瓶詰めにコルクふたとして使われてきたが、プラスチックふたの需要などが多くなり衰退してきた。
土産もピンナップ板などだったが、最近はコルクをなめしハンドバックや帽子、傘まである。水に強くしなやかで軽いことが喜ばれているようだ。
《エヴォラの休日・カテドラル》
10月5日通りが終わった真正面に、カテドラルとしてはさほど大きくないファサードが迎えてくれる。
しかし、流石(さすが)エヴォラの顔であったと知る。12世紀から13世紀のロマネスクからゴッシク過度期に建てられたカテドラル(大聖堂)だ。
カテドラルはポルトガル各地にある。それぞれが思い出としてよみがえる大聖堂だった。
(『ポルトガルのカテドラル(大聖堂)』の、特集を書いてみたくなった)
ファサード(正面入り口)が凝っていた。そこには左右に6体ずつの、キリストの使徒像が和やかに刻まれている。
中に入ろうとした時、相棒が矢印の看板を見て、『TERRACO(Cの下にネズミのしっぽがつく)、って屋上だよね。先に行こうか』とカメラマンの決断だ。
即、同意した。階段を上る。意外と屋上は高いようだ。ポーの特技が始動開始。頭の中では一段一段を上り始めからカウントしていた。106段で屋上だった。
カテドラルの屋上の美しさや景観は予想もしていなかった。
まさか、カテドラルに屋上があると想像もしていなかったし、ましてや屋上に上れるとは思ってもいなかった衝撃が強かった。
当然、今までにない経験である。まず屋上の様子だが、通路は幅7メートルほどもあり奥行きもあり、広々としていた。
着飾ったような3つの、15メートル以上もある3本の塔があり、緑色と藍色のタイル模様のとんがり屋根が、1本天を突いていた。
さて、景観。北東にあるエヴォラ大学の先に、アレンテージョの大地が遥か彼方まで見渡せた。
眼下には、ディアナ神殿が下で見ていたより、コリント様式の14本の柱身それぞれが美しいローマ時代の造形だった。
回廊のアーチ模様で囲まれたカテドラルの中庭を歩くおんなの人が見え、手を振ったら手を振ってくれたが美人かどうかは判別できない距離観であった。
南面下に、30本ほどのジャカランダの薄紫色の群れが、白い壁とオレンジ屋根に囲まれひと際、美しい。
朝方の霧は嘘をつかない。空はポルトガルブルーに晴れ渡る。その陽射し具合がいいのか相棒は、この屋上が気に入ったようだ。
屋上だけで30分経過。今日明日は、先を急がない[エヴォラの休日]だ。
屋上から中庭に下る階段は、上って来た階段と違った。大聖堂の中は、入り組んでいた。まるで城塞のような頑強さを感じた。
回廊のアーチ越しから見る中庭の芝生は陽射しで輝き、屋上で見た塔も青空を背景に凛々(りり)しかった。
回廊を抜けるとカテドラルの高い8角形のドームが美しく重厚に目に飛び込んできた。
丸みのある大小の支柱が固まって高い天井まで延び、奥行きのある聖堂の歴史を形作っている。これが、12世紀から13世紀に建てられたものとは思えなかった。
これだけの大聖堂を今日まで維持管理してきた情熱に心が揺れた。
マヌエル様式の支柱や壁には白い目地が入り統一され目を引いた。また、ドームの左右にあるバラ窓のステンドグラスが陽射しを受け輝いていた。
左のバラ窓が明けの明星で、右が神秘のバラで共に聖母マリアのシンボルを表しているという。
また、信長時代の大正少年使節団の一員がこの大聖堂にあるパイプオルガンを奏でたとも聞いた。
感動はしなかったが、そのパイプオルガンも見た。250人は座れる長椅子が2列並び、奥行きの深さを感じさせていた。
「けいの豆日記ノート」
いままで、何度もエヴォラに来ていて、カテドラルも何度も見てきた。
だが、なぜか、回廊などを見てなかった。
季節や時間の都合もあっただろうし、フィルムの時代は建物の中は暗くて貴重なフィルムはあまり使えなかった。
それよりも、町の中を歩くほうが、人物を撮るのによかったからかもしれない。
《馬車と孔雀》
ファサードから外に出ると、目の前を白馬2頭だて馬車が石畳にひずめの音を軽やかに響かせ、通り過ぎて行った。
『ここで、待って、て!』と、馬車を相棒が追いかけて行った。戻ってくるまで、20分経過。
『エヴォラ大学まで、追いかけられなかった、よ・・・』。お疲れ気味で、戻ってきた。
撮りたい映像を追いかける、元気があった。粘り強いのがカメラマンの、相棒の良さであった。決して、若くないのだが・・・。
宿に戻る時、陽射しの角度を測って、南端の『公園に会いに行くよ!』と、ニコニコ顔で、先を急いだ。
相棒がエヴォラに来ると、逢いたい仲間がいる。今朝(けさ)素通りした、あの鉄扉を入った公園であった。
仲間は、孔雀たち。ジャカランダの花が咲くこの時期、その鉄扉を潜れば、放し飼いの孔雀を1メ―トルの距離で撮れるからだった。
『満開に、開いてくれるかな〜ぁ』。期待を込めた、相棒の囁(ささや)きだった。
放し飼いの孔雀は建物の屋根に、窓辺に、廃墟の階段に、芝生の庭園に、エヴォラの町を囲む南面の城壁を、自由に闊歩している。
孔雀の園には60羽以上を、ポーのカウント技が1羽2羽・・・と、数えていた。
数を数えるのが、ポーの特技?だった。変人?技は、確かである。
『やった〜ぁ!』相棒の雄叫びが聞こえた。静かに、声の方向に移動すると、大きな孔雀が満開だった。
相棒に向かって、お好きなように、撮って!とばかりに綺麗に孔雀開きしてくれていた。
ありがとう!と、孔雀の長老?にポーは、感謝した。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2013年9月に掲載いたしました。
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