「ポー君の旅日記」 ☆ 100年祭のモンサラーシュ2&城壁の小さな町テレナ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・15≫
=== 第四章●エヴォラ起点の旅 === 100年祭のモンサラーシュ2&テレナ
《別れの朝》
昨夜9時過ぎ、[エストレモス]の「下の町」にある宿〈アレンテジャーノ〉のオープンカフェで、帰宅後の男たちが集まってワインやビールを静かに飲みながら語り合う姿を撮影した。
この連中を日本の居酒屋にお連れしたら、どう思うだろうか。
仕切られた狭い空間でテーブルを囲み、肩寄せ合い飲み食いする異常な雰囲気や料理の多種多様さとその種々の香り、喋る声の大きさなどを目の当たりにしたら・・・。
それに、若い女性の多さ、大ジョッキの飲みっぷり姿を見たら、どんな反応をしてくれるだろうか。
相棒が撮影している間、ポーはそんなことを考えながら赤い椅子に座り、満天の星空を眺め、水より安いサグレス生ビールを飲んでいた。
そして今朝、6月1日(金)も晴天だった。ポルトガルブルーの深み鮮やかな空が 目の前のロシオ広場上空に見渡す限り広がっていた。
ポルトガルに来て12日目の朝である。モーニングの場所はカフェの中に並ぶ好きなテーブルでいいとオーナーがいう。でも、真ん中のテーブルには座りにくい。
端の席にした。オレンジの実をオーナーが絞ってくれた。そのオレンジジュースは、空っぽの胃に沁み込むほどうまかった。
焼き立てのパンにバターを塗り、ハム2枚とチーズ2枚を層にして挟みこむ。
相棒が呆れた声で『歳が歳なんだから、考えて食べなぁ』と、ふたつ目のケーキをほう張りながら言う。
いいのかな〜あ、朝からそんなに食べてもと相棒の歳も考える。
モーニングはタダ(宿賃含みだろうが、食べなくてもお金が返ってくるわけではない)とはいえ、遠慮なく食べた。
エネルギー補給のためセコイ旅人は、朝はしっかり食べておかないと一日二万歩の旅はもたない。
優しく、また遊びにおいでと言ってくれたオーナーのお父さんとは、もう会えないかもしれない。相棒はハグをした後、ホテル裏にあるタクシー乗り場まで急いだ。
「けいの豆日記ノート」
ホテルを出るとき、チェックアウトの会計をする。
カードの使えるところは、なるべくカードで払うことにしている。
手持ちのユーロはあまり余分がないので、使いたくないということもある。
いつものようにカードを機械に通して、レシートが出るはずであるが、紙が入っていなくて出なかった。
なので、紙を入れなおして、もう1度同じことをした。
その時は、それでいいと思っていたが、
帰国してから、カードの清算書を見るとホテル代が2重払いになっていた。
紙があってもなくても、2回通したのだから、2回請求されていたのだ。
すぐにカード会社に連絡して、返金の請求をしたのである。
(返金されるまで3か月もかかった・・・)
カードを使うときは、注意しないといけないと思った。
《タクシーの車窓》
8時25分、タクシーは[エヴォラ]の手前[アザルージャ]に向かった。延々と葡萄畑が続く。
陽射しが斜めにタクシーを追いかけて来る。前方に見える牧草地の羊の大群が朝日に浮かぶ。絵を見るようだ。
『あっ、[エヴォラモンテ]の城壁が見える』と相棒が右手奥の丘を指差した。
4日前に日本で会ってから5年振りの日本人ドン・ガバチョ夫婦に自家用車で連れて行ってもらい、城壁からアレンテージョの大平原に沈む太陽を見た丘だった。
そうだ、あのエンスト癖のある車の尻を今日も押す羽目になるのか、不安が過(よぎ)る。落日の後、夜9時の西の空は夕焼けでピンク色に染まった。
その帰り際にエンストだ。奥さんのカトリーヌさんとふたりで、エンスト車の尻を息切れするほど押した。相棒は頑張れ頑張れと声援し、嬉しそうに写真を撮っていた。
車窓にコルク樫(かし)の林が飛び込んできた。樹皮を剥ぎとられたコルク樫の木がポツンポツンと見える。
6月から8月がコルク樹皮を剥ぎとる時期で、剥ぎとる木は9年ごとだと言う。つまり、元通りの樹皮に回復するのに9年かかるという。
何度はがされてもいい。コルク樫の寿命は200年もあるからだ。
コルク樫は〈エコ〉の木だった。ポルトガルは現在も世界の55%を占めるコルク生産量国なのだ。
8時50分、アザルージャのガバチョ宅に着いた。エストレモスから25分、24.4ユーロ(2688円)であった。
今日もまた、ガバチョ夫妻が[モンサラーシュ]に、ピクニックに連れて行ってくれるという。そのためにタクシーを飛ばしてやって来たのだ。
「けいの豆日記ノート」
今回のアザルージャ訪問は、前もって決まっていた。
ポルトガルに住む友人に会いたかったからである。
モンサラーシュの500年祭りの話があり、ちょうど、100年に1回の100年祭りの日程と重なるため、連れて行ってくれることになった。
100年に1回ということで、前回の祭りを知っている人が存在するわけもなく、未知の祭りであった。
あの静かなモンサラーシュの村がにぎやかな村になるのだろうか。
《拾う神あり》
玄関先でガバチョ夫妻が車に荷物を積んでいた。目敏(めざと)い相棒が『あれっ?車が違う!』と吐いた。
「オ〜!さすがカメラマン、目が早いね、エンコ車は売った」とガバチョさん。今日のために買い替えたのだ。
古い車だったが車種(ルノー・4)が気に入った人がいて、高値で買ってくれたらしい。
ルノー・4は、フランスのルノー社が1961年から製造している小型大衆車で、中古車を日本で買うと50万円以上もする。
クーラーなど付加していると70万もした。しかし、陸続きのポルトガルだから50万もしないだろうが、ガバチョさんには〈拾う神〉が付いているようだ。
お陰で具合が良い中古車が買えたようだ。それは、夫婦で隣人を大切にし、こっちから飛び込んで明るく親交を深めた、その日頃の努力が実ったのではないだろうか。
ドン・ガバチョが歌う。♪あしたがだめなら、あさってにしましょ・・・どこまで行っても明日がある♪ あきらめない根性は積極思考の塊(かたまり)なのだ。
未来を信じる歌は、ガバチョさんのお人柄そのものの『艶歌』である。
《モンサラーシュに向かう》
9時50分、アザルージャから南東にある[モンサラーシュ]に向かう。1時間ほどのドライブだと、真っ白い口髭を動かしガバチョさんが告げた。
2003年2月、3回目のポルトガル撮影取材旅で〈時間の流れから取り残されたような村〉と、ガイド本「地球の歩き方」のモンサラーシュ紹介ページのキャッチコピーに誘われた。
バスを乗り継ぎ、労して探し当てたモンサラーシュは、小高い丘の上にこじんまりとあった。
白い壁の民家に挟まれ石畳の狭い道が、村の中央を細長く端っこにあるカステロ(城)まで延びている。
村をぐるりと回ったら30分もかからなかった。宿も決めてなかった。トゥリズモ(観光案内所)で教えてもらった宿を当たる。
やっと決まった時には18時を過ぎていた。夕飯は2軒しかないレストランで食べたが、一口食べてポーは唸った。喉を通らない。
なんでも苦も無く食べる相棒ですら、ふた口食べてギブアップした。翌朝は深い霧で何も見えなかった。
人口は100人程だと聞いていたが、2日間で10人ほどしか住民に会えなかった。そんな思い出しか残っていないモンサラーシュ。
あれから、9年・・・モンサラーシュは時間の流れが止まったままなのだろうか。
「けいの豆日記ノート」
以前にモンサラーシュに行った時のことである。
エヴォラで連泊して、1泊予定でモンサラーシュまで来た。
1日2本しかないバス(実際には、1本しか使えない)に乗り、モンサラーシュへ行く。
普通は、泊まる宿は前もって決めてあるのだが、いくつかある宿の中でどの宿なのかわからなかったので、決めれなかったのである。
モンサラーシュについて書いてある本を読んで、その場所に泊まってみたいと思ったからである。
広いテラスからアレンテージョの風景が目の前に見える部屋である。
名前の記載がなく、現地で探すしかなかった。
案内所の近くの宿から、中の部屋を見せてもらって判断した。
数軒後にそれらしき宿を見つけた。
たしかにテラスがあり、見晴らしがいい。
でも、その部屋は料金が高く、結局、テラスのない部屋に泊まったのである。
20分後、広い川の岸辺にガバチョさんは車を止めた。ご夫婦が好きな場所だと言った。
夏場は涼しい川風を求め、岸辺の木陰で持参の椅子に座り、本を読んだりスケッチをしたりして過ごすひと時が、好きだと教えてくれた。
ガバチョさんが「オウオウ・・・」とつぶやき、かぶった麦藁帽子を押さえながら走り出した。知り合いを発見したようだ。
釣竿が弓のようにしなっている。釣り人が唸って、リールを巻き込んだ。「これは、でかいぞ、パオさん!」ガバチョさんが興奮している。
こんなガバチョさんの姿を初めて見た。冷静沈着のガバチョさんしか、ポーは知らない。
目の前のガバチョさんは、少年のようだった。ポルトガルの風土がガバチョさんを変えたのか。
笑顔いっぱいのカトリーヌさんも釣り参戦だ。パオさんとはこの岸辺で知り合った仲間のようだ。
釣りあげた魚は、60センチメートルもある鯉だった。
《モンサラーシュの今》
アレンテージョの広大な農地の前方の丘の上に、城壁で囲まれたモンサラーシュが平べったい白い船体のように浮かんで見えた。
10時30分、モンサラーシュバス停留場前の広場に着く。10台以上も乗用車が駐車されていた。その数に驚く。祭り関係者の車に違いない。
観光客なら、ほとんどが小型観光バスか路線バス、それとタクシーを使って来る。最近はレンタカーで旅する人も少なくない。
ガバチョさんが我らをモンサラーシュに連れて来てくれたのは、今日ここで、モンサラーシュ祭りがあるからだった。
100年に1度の祭りだと言う。はじめ聞いた時は、エッ?と聞き返したほどだ。なにせ、100年に1度の祭典なのだ。
祭り経験者もほとんどいないのかもしれない。伝承伝達資料は当然あるだろうが。
その会場に陽射しの下、石畳の坂を上り、町の中心地に4人で行ってみたが、開催する教会の中では準備のまっ最中であった。
日本なら前日には、準備完了のはずだ。特に100年に一度のお祭りなのだから。
その祭りは午後3時から開催と知り、12時まで自由行動にした。ポーは相棒の足の向くまま、気の向くままに任せた。
前述したが、町をぐるり歩いても30分も有れば見て回れる狭さだ。
白い民家の壁が両側に連なる町のメインストリートだが、祭りの日だと言っても観光客も住民も人ひとり歩く姿はなかった。陽射しが強いためでもなさそうだ。
スペインとの国境に近いモンスラーシュは、かつては軍事的に重要な拠点であった。カステロは1167年アフォンソ・エンリケスがこの地をムーア人より奪還。
13世紀にディニス王が再建。今も城跡の広場は闘牛場として使われているらしいが、客が集まるかは疑問である。相棒は『陽射し、いいな〜ぁ』とシャッターを押す。
確かに城壁で囲まれ、石積で壇上に重ねた観客席と広い空間は闘牛場としては充分である。
しかし、首都リスボンにレンガ造りのイスラム風建物の闘牛場があるが、週1回の闘牛日も客の入りが満杯だとはいかないらしい、と聞いている。
この地の織物に魅せられ、住みついたというオランダ人のお店は、ポツンと今もあった。
ミゼッテさん手作りの毛織物は、色彩がほのぼのとして美しい。
お店といえばここしか9年前にはなかったが、絵本作家のお店やカフェテラスのお店をカメラに収める相棒がいた。
モンサラーシュは、アレンテージョの大地から吹き寄せる風の流れの中で刻こくと息づいていたようだった。
「けいの豆日記ノート」
モンサラーシュの村は、以前とかなり変わっているように見えた。
以前は、レストランが2軒でお土産店が数軒くらいしか店がなかった。
今は、カフェもお土産店もずっと増えていた。
カフェは石積みの塀を利用して、家並みを壊さないように、造られていた。
それだけ、観光客が増えてきたということなのだろうか。
村としては、いいことなのかもしれない。
《ピクニックランチ》
その大地から涼しい風が運ばれてくる展望台でランチにした。カトリーヌさんの手料理である。
モンサラーシュでゴチになったのは、ポルトガル風?ピクニックランチである。
生ハムにチーズ、レタスにトマト、頭より大きなパンは、おいしいパン店で焼き立てをわざわざ買ってきてくれたものである。
大きなパンは、ナイフで切るのもたいへんであった。
ビールとジュースは、氷の中に入っておりヒエヒエであった。
カトリーヌさんの優しさを満喫した。
久しぶりに味わったピクニック、オブリガード(ありがとう)!
食後、カフェテラスでサグレス生ビールを飲む。ガバチョさんは運転があるためエスプレッソ。カトリーヌさんと相棒はアイスクリームだ。
白い壁で乱反射した陽射しの矢が突き刺さってくる。でも、高台にあるモンサラーシュは風が吹き抜けていく。
気持ちがいい。「時間の流れから取り残されたような村」のキャッチコピーが少し頭をかすめる。
ガバチョさんが祭り実行委員会事務所から戻ってきた。いきなり、[テレナ]に行くよ、という。祭り会場の撮影は禁止だということらしい。
撮影ができないなら来た意味がないからやめたよ。さっ、テレナに行きましょう。ガバチョさんは申し訳なさそうに言ってくれた。
ありがとうございます、気を配っていただきと相棒が応じた。撮れない祭りは、カメラマンには必要なかった。
撮影できない100年に一度の祭りって、どんな祭りなのかは物書きとして心に引っかかったが、新聞記事に載れば知れると解した。
「けいの豆日記ノート」
100年祭りを開催するという小さい教会には、ポスターのような資料が展示されていた。
イスがたくさん並んでいたので、式典のようなイベントなのかもしれない。
印刷されたポスターのようなものを資料として写そうと思ったら、撮影禁止だという。
博物館や美術館のような歴史的重要な絵や彫刻があるわけでもないのに。
(実際の祭りは夜に行われるらしく、音楽などのライブがあるらしい。)
よく、フェスタの期間だと、町の中を電飾やモールで飾ったり、露天市場や出店がでたり、ライブがあったりするものが多い。
このモンサラーシュでは、100年に1回の重厚な伝統行事の為、趣旨が違ったのかもしれない。
お祭り好きの私のために連れて行ってくれたのに、申し訳ないことをしてしまった。
祭りがあってもなくても、モンサラーシュに久しぶりに訪れることができてよかったと思う。
《道端に咲くニンニクの花》
15時、テレナに向かった。ガバチョさんが好きな、絵になる素朴な小さな町らしい。
運転していたガバチョさんが、スピードをゆるめ窪んだ路肩に車を止めた。「ニンニクの花と根っこまで、優しく回収!」と、告げる。
夫人のカトリーヌさんが、刺とげがあるから注意してね、とポーに言う。相棒は、カメラを構えていた。ニンニク採取するより映像採取が優先だ。
ニンニクの花には、いろいろな花の色があるが、路肩の自然発生のニンニクの花は紫色だ。可憐で色濃かった。
ニンニクは、北にあるポルトガル第二都市ポルトの町で行われる、6月23日と24日の〈サン・ジョアン祭〉の、
魔除けの〈三種の神器〉として売られる〈ピコピコハンマー、マンジェリコ、ニンニクの花と茎と球根〉の一つである。
採取した生きたニンニクは、植物好きなカトリーヌ夫人の腕の見せ所。そのためにガバチョさんもポーも、掌(てのひら)に突き刺さる痛さも、笑顔で採取した。
痛がるポーを笑いながら、相棒は撮っていた。ポルトガルで、こんな旅の楽しさをくれたガバチョ夫婦に感謝するポーだった。
「けいの豆日記ノート」
ニンニクを発酵させて、黒ニンニクを作っている日本の友人がいる。
使わなくなった炊飯器を使い、中にニンニクを並べて、保温状態にして、何週間も寝かせるらしい。
匂いが臭いために、家の外の納屋の中で作っているという。
できた黒ニンニクは、その名の通り、黒いニンニクである。
そのままを食べるのだが、あんまりおいしいものではない。
生のニンニクも健康にいいが、それ以上にいいといわれている。
《中庭の夕食会》
〈テレナ〉の町は、静かな住宅地であった。白壁に橙色の太い巾木模様が塗られた町並であった。
普通なら巾木の色は青だったり黄色だったりと、色々だが同じ色の巾木色で連なっていた。テレナの町は家々が花で飾った香る町であった。
城跡もある長閑な町〈テレナ〉の小さな町は、ガバチョさんの「絵になる」町並みに見えた。
つまり、普通人には、通り過ぎてしまう変哲もない町並みであったが、ガバチョさんにとっては心に広がる〈絵〉の世界だと、納得した。
同じ、映像世界を揺すぶる雰囲気を共有させてくれた。ガバチョさんは7月18日生まれ、ポーは、8月18日生まれ。
年月は知らねど、1と8は、共有できた。それを知っただけでも、似たもの同士を勝手に認識してしまうポーがいた。
ガバチョさんの自宅に着く。5時50分。ご自宅の中庭で、洗濯物がまだ太陽が照りつける中で、舞っていた。
夕日が落ちた9時25分まで、中庭で近所の夫婦をまじえての夕食会が待っていた。カトリーヌ夫人の料理が、我らを堪能させてくれた。
痩せた隣人の夫と、その5倍もある(失礼!)美人の奥様と。
ポーは、その美しさに、石に躓(つまず)いて、よろけ奥様にハグ! 皆が、大笑い!熱い、厚い、抱擁であった!
これで、打ち解けた夕食が始まった。ガバチョ夫婦がこの地で、生活しておられる姿を垣間見せてくれた夕食会であった。
ガバチョお二人の優しさが、迫って感じられた。
この夫婦に憧れ、毎年この地を訪ねて来るる日本の人びとが、年々多くなっているようだが、我らもその一人なのだろうか。
『おごっつぉ』された分は、ちゃんとその時の時価ユーロを、すんなり、そっと、置いて来るのが、旅の礼儀なのかもしれない。
夜、夕日が落ちた25分後、タクシーを呼んでもらい、エヴォラの宿に戻った。月が満マルになるまで、あと2日か。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2013年8月に掲載いたしました。
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