「ポー君の旅日記」 ☆ 世界遺産になった要塞都市のエルヴァス2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・12≫
=== 第四章●エヴォラ起点の旅 === 世界遺産になった要塞都市のエルヴァス2
《アザルージャの夜に、檀一雄さんが浮かぶ》
昨夜、5月28日(月)、[エヴォラモンテ]で宇宙の果てに白く細長く肉感的に沈んでいった落日を堪能し、
ガバチョさんのエンストした愛車を奥さんのカトリーヌさんと相棒とポーが渾身の力で坂道を押し上げ、エンジンよ、かかれ!と坂下に突き放した。
鈍いトトトッの連続音が爆発し、軽快なエンジン音に変わった。
ガバチョさんが住む[アザルージャ]まで10分、途中で停まるな!と念じ後ろ座席のポーは、車窓に追いかけて来る十三夜の月を仰ぎ見ていた。
ふたりの家に着き、ガバチョさんはエンジンを切る。
3人は、ホッと安堵の息を吐いた。家に入ろうとした時、後ろからクルクルクルッと情けないエンジン音。
ガバチョさんの声が飛んできた。『押して〜え!』。車庫まで動けと、3人で平らな道だったので力を込めて、走って、押した。
エンジンが温まっていたため、簡単にかかった!ポーはお歳、ハ〜ヒ〜と、苦しい息を吐く。
「けいの豆日記ノート」
愛車のルノーはファンが多い人気の車である。
クラシックカー好きの人は、けっこう多い。
以前にコインブラの駅前の道をクラシックカーの集団が通っていくところを見たことがある。
ひとり乗りの様な小ささがいいのかもしれない。
このルノーは手放すらしい。
買い手が決まっているという。
大事なルノーがなくなってしまうのかと思っていたら、もう1台ルノーを持っているという。
ポルトガルでは、物価が安く、車も安いらしい。
そのわりには、ガソリン代が高く、たいへんらしい。
車に関して無知なので、よくわかっていないが・・・
21時半から22時半まで1時間、4人で酒を飲みながら語った。
赤ワイン、サグレス瓶ビールで改めて再会に乾杯だ。珍しく相棒が赤ワインを飲んでいた。
ガバチョさんがポーの土産〈薩摩産芋焼酎〉を飲まずビールを飲んでいた。
「飲まないの?」と聞くと、『もったいない、楽しみながら新鮮なペピーノ(きゅうり)を買ってきてから仲間と一緒に飲むよ』、と言ってくれた。
ガバチョさんも仲間を大切にする、ポルトガル人になっていた。
その時、ふっと檀さんがポーの頭に浮かんだ。
ガバチョさんがポルトガルの人たちの中に溶け込む生き方が、ポーが好きな作家のひとり、
放浪の作家と言われていた檀一雄さんに似てはいまいかと、脳裏を走った。
ポーが作家・檀一雄の名前を知ったのは高校時代だった。
その頃ポーが読んでいたのは、坂口安吾や井伏鱒二、武者小路実篤、夏目漱石。
そして、太宰治で釘ずけ。特に太宰のユーモアが好きだった。
その太宰が女と入水自殺した時、親身になって奔走(ほんそう)したのが檀一雄だったと知った。
それがきっかけで、太宰と檀の交流を新聞記事や記述本を読み漁り、檀一雄という作家の人柄が好きになり、彼の作品を読んだ。
『りつ子・その愛』『りつ子・その死』を。
高校の時に始まった読売新聞に掲載された新聞小説『夕日と拳銃』は、毎日ワクワクして読んでいた。
その檀さんがポルトガルの大西洋に面した小さな漁村である[サンタ・クルス]で、1年半ほど(1970年〜1971年)ひとりで住み、
当時話題になっていた小説『火宅の人』を書き続けていたことを知ったのは、大学を卒業し教育テレビで構成台本を書き始めた昭和40年。
そのロケハンで、43年暮れ四国高松に行った時、小さな古本屋に入り290円で買った本が「太宰治の魅力」檀一雄編だった。
まえがきに、昭和41年10月 檀一雄、とあった。ポーが結婚した年であり月であった。
その奇遇に感動し、その夜は読み耽(ふけ)り、今も忘れられない思い出として残る。
(檀さんがサンタ・クルスで生活しだしたのは、前述本発行から4年後、アポロ月面着陸の翌年であった)
それはさて置き、作家・檀一雄を知るには、今でも若者たちに人気がある海外旅行をどう探索堪能し、生きていかなければならぬかの、
バイブルみたいな『深夜特急』を書いてくれた沢木耕太郎さんの著書『檀』を読んでいただければ、ポーが檀さんを好きになってしまったかを納得していただけると思う。
【2006年紀行文・15〈作家が愛した町のサンタ・クルスとエリセイラ〉をご覧ください】
22時半、ガバチョさんの知り合いのタクシー運転手をエヴォラから電話で呼んでくれた。この地にはタクシー会社がなかった。
ピンパオンさんは深夜なのに来てくれた。
相棒が夜遅くすみませんと言うと、深夜じゃない、夕方が終わったばかりだよ、と微笑んだ。
ピンパオンさんは、日本人ガバチョさんとカトリーヌさんが大好きな、優しいおじさんであった。
タクシー代は24.92ユーロ。エヴォラから呼んだ分、高いのは当然だ。
《ポルトガル14個目の世界遺産》
今日、5月29日(火)の朝7時、モーニングに行くと食堂には既に30人ほどの団体客が、賑やかに食事中であった。
北欧の国から来た老夫婦団体のように見えた。
ポルトガルの太陽を求めての観光客はこの時期、特に多い。
相棒は食べすぎるほど、食べた。
相棒が思い込みチョンボで、ホテルに予約してしまった6月を、5月に変更してくれ泊めてくれた、機転のきくあのフロントの女性に、
旅行バック2個を[エルヴァス][バダホス][エステレモス][モンサラーシュ]の小旅行に行って来るからと預(あず)けた。
彼女は相棒の言葉を聞いて嬉しそうに頬染めて、新聞を差し出し『来月6月30日から[エルヴァス]が世界遺産に決まりました!』と誇らしげに告げた。
ほんとですか!おめでとう!と相棒が答えた。彼女は相棒に力強く握手をした。
ふたりは、なかなか握った手を離さず歓喜していた。
ポルトガルに、14個目の世界遺産が誕生したのだった。
【ホームページの〈ポルトガル豆知識〉の中の、「世界遺産」をご覧ください】
「けいの豆日記ノート」
さすが、3つ星ホテルの朝食は、豪華だった。
パンの種類も多く、温かいおかずや果物も豊富でとてもうれしかった。
ついつい食べ過ぎてお腹をこわしてしまうほど、食い意地がはっている。
そこまでして食べなくてもいいのにとも思うが・・・
宿泊代が考えられないほど安く、食事も豪華で、こんなホテルが各地にあったらなあと思う。
このエヴォラのホテルには、4日後には、戻ってくる。
全部の荷物を持っての移動はたいへんなので、大きな荷物は預かってもらう。
石畳のガタガタの道を大きなスーツケースを押して歩くのは重労働である。
なるべく荷物にないほうがいいけど、最低限でも減らせない荷物はあるものである。
ほとんどのホテルが再宿泊の予定がある場合は大きなスーツケースは預かってくれるものである。
《エルヴァスに向かう》
バスは国境を渡った、スペインの[バタホス]行きだった。
その小型バスには、乗客はふたり。
相棒とポーだけの貸し切り状態のバスであった。
[エルヴァス]まで6.95ユーロ。バスが走り出した、と思ったら停まった。
我らが泊っているホテルの前だった。
知っていたら1キロメートルもバスターミナルまで歩くこともなかったのに、と相棒が悔しがる。
貸し切りバスは[エヴォラ]の城壁をぐるりと回り北東のスペインとの国境12キロメートルにあるエルヴァスに向かう。
その[エルヴァス]に行くのは2回目。
初めて行ったのは、2002年2月15日だった。
10年の歳月が過ぎていた。
車窓に、広い青空と広大な牧草大地が続く。
放牧された牛たちは点にしか見えない。
それほど、牧草地は広かった。
かつて陶芸の工房廻りをした[ルドンド]の停留場に止まり、おじいさんとおばあさんを乗せた。
9時45分、乗客は4人になった。バスは快調に片側一車線の直線道路を飛ばした。
車窓両サイドにオリーブの木の畑が飛んで行った。
15分後、前に来た人口5000人ほどの町[ヴィラ・ヴィソーザ]のバスターミナルに着く。
おじいさんとおばあさんはこの町で降りた。
町の周辺で採取された大理石で築いた〈ブラガンサ公爵の宮殿〉は見応えがあり、石畳は大理石が敷き詰められていた。
また、ふたりだけの貸し切りバスになった。
大理石採集の露天掘りをする会社を幾つも過ぎる。
大理石の平板や厚みのある固まり大理石を製造する過程で出来た破片の山が車窓に延々と続く。
バスはガイド本にも載っていない小さな町[ボルバ]のターミナルに着く。
この町はかつてバス時間の折り合いが悪くタクシーで来た。
大理石の町でありワインの町であったが、目的は大理石砕石場の撮影がしたくて今、ヴィラ・ヴィソーザからバスが走って来た道をボルバから、
暑い太陽に照らされ1時間45分も歩いて大理石砕石場をわざわざ見に来た2008年6月の旅が、昨日のように思い出された。
大理石採集方法は露天掘りで、横幅150メートル、奥行き200メートル、深さ100メートルほどもあり、
切りだした大理石を運ぶ大型運搬トラックが小指のひと間接ほどしか見えなかった。
そして、10時30分に[エルヴァス]の城壁内の停留場に着いた。
エヴォラから1時間30分だった。
しかも、バスターミナルではなく、今夜泊まる真っ白い壁の四つ星ホテル〈サン・ジョアン・デ・デウス〉の前だった。
貸し切りバスは、空(から)のまま国境を越したスペインの町[バタホス]に向かって走り去って行った。
「けいの豆日記ノート」
前日にエルヴァスまでのバスの時間を聞いておいた。
ネットでは、調べたが、古い情報が更新されていないこともよくあることなので、その場で調べるのが確実である。
なんせ、1日に3〜4本しかないのである。
ネットで調べた時は、高速バスの時間だったらしく、午後1時までバスがなかった。
小型バスが9時台のちょうどいい時間にあってよかった。
ネットでのバス料金は、12ユーロくらいであった。
これは、高速バスの値段であり、今回の小型バスの場合、料金が安かった。
途中に止まる場所が多いのもあるだろうが、数十分の差であったら料金の安いほうがいい。
《ホテル屋上からの景観》
ホテルの部屋番号は、338号室。
廊下に敷き詰めた赤い絨毯(じゅうたん)を踏みしめ、めったに泊れない四つ星だな、と思いながらポーは歩く。
左の壁は白く塗り込められ、右の茶色の壁は石を積み重ねて練り込んだ、前からあった壁を生かしたようだった。
このホテルは、かつての修道院を改装したと、後で知った。
10分後、部屋を出た。
「落ち着いて、のんびり」は、我らの旅にはない。
「落ち着いてのんびり」するのは、歩き回る旅の中では贅沢ほど時間を割いた。
気の向くまま時間をかけて、時間に追われることなく被写体を追い求めた。
「旅行」ではなく「旅」を楽しんだ。
ただし、何処に潜り込んでしまうか判らない相棒の行動には、繊細なポーの洞察力が欠かせない。
スケジュールを立案するのは相棒であったが、管理はポーの役目でもあった。
こう書くと、にやりと微笑む相棒の顔が浮かぶが、ポーは厳しかった。
映像を求め深追いするブレーキ役は必要である。
ニコンの一眼カメラを胸に下げた小さな女は、絶好の餌食。
運よくポルトガルの人びとは優しかった。
ヨーロッパの各地を旅行した画家たちからは、怖い体験談を幾つも聞いていた。
例えば・・・その国のイメージのためにも、ここではやめておこう。
ホテルを一歩踏み出した時、頭上でガラ〜ンと鐘の音がなった。
見上げると2つの鐘楼塔を白く塗り替えている人が見えた。
『屋上に行くよ!』相棒の姿がホテル内に消えた。
働く人は相棒の大切な、被写体である。
修道院の名残りだという鐘楼塔はまじかで見ると大きく飾りの曲線も優しく美しい。
親子の塗装職人が青空のキャンバスに、白く形よく鐘楼塔を描いているように見える。
大小の鐘が大小のドーム型空間に収まり、町を見渡しているようだ。
親父が長梯子の上から叫ぶ。「ジャポネーザ?」と聞いてきた。
『ソウ ジャポネーザ!』と相棒は応えた。
屋上から城壁の外に延びていく〈アモレイラの水道橋〉が、すぐ目の前に見えた。
「けいの豆日記ノート」
エルヴァスのホテルは、今回の旅で、1番贅沢なホテルである。
毎回、1か所くらいは、贅沢なホテルに泊まりたいと考えている。
どこかのポザーダ(国営ホテル)にも泊まりたいが、すごく高いため、なかなか泊まることができない。
よくあるツアーなどではポザーダに泊まるプランがメインになっていたりする。
格安ホテルサイトのネットからの予約で、普通に予約するよりも安く泊まれるので、このホテルにしてみた。
修道院を改装して造られたホテルなら、内装などもいいだろうと考えた。
博物館を見るつもりである。
中庭の感じもよさそうであった。
《塁壁と要塞》
城壁に囲まれたエルヴァスは、17世紀に築かれた塁壁(るいへき)つまり砦(とりで)の壁に囲まれ、
1801年にナポレオン軍によるスペイン侵入戦争の舞台になった時も塁壁が要塞(ようさい)
つまり防衛上重要な場所に設けられた軍事的な防備施設となって町を守り抜いたという。
だから、スペインとの国境からわずか12キロメートルしかないため、イスラム教徒対キリスト教徒やポルトガル対スペインなど
様々な攻防戦が繰り広げられてきたが要塞都市エルヴァスは健在であった。
もうひとつ、城壁の南外に出城〈サンタ・ルジア要塞〉や北外にも出城〈グラサ要塞〉も残っている。
ここで、今まで見てきた国境の町を挙(あ)げてみる。どこも頑強な要塞であり城塞であった。
●バレンサ・ド・ミーニョ(北の国境・3重の要塞)
●ブラガンサ(東の国境・中世の面影を残す城塞)
●モンサント(東の国境・山の中腹にある石の城塞の村)
●マルヴァオン(東の国境・鷹の巣と呼ばれる天空の城塞)
●ポルタレグレ(東の国境・戦略上の城塞)
●エルヴァス(東の国境・塁壁と要塞)
●モンサラーシュ(東の国境・時間の流れから取り残された城塞)
《犬も歩けば、ポーも歩く》
ホテルから北にあるカステロ(城)に向かう。11時30分であった。
ポーはほとんど道を忘れていたが、相棒(犬)はほとんど覚えていた。
歳のせいではない。相手は、犬である。
一度通った道を忘れる筈がない。
旅にはありがたい、お人であった。
城壁内のエルヴァスは南北600メートル、東西800メートルほどしかない。
200メートルも歩くと町の中心地〈レプブリカ広場〉だ。観光客もいない。
更に北に進むと〈ノッサ・セニョーラ・ダ・アスンサオン教会〉があり、
16世紀に建てられた〈ノッサ・セニョーラ・ダ・コンソラサオン教会〉があるが、どちらも閉まっていた。
サンタ・クララ広場には16世紀のべロリーニョが立つ。
ここから〈ベアタス通り〉と呼ばれ美しい路地という。
家々の前には鉢植えされた植物が並んでいたが、花もなく寂しげである。
明るさに掛けているのは白い壁がくすみ剥げ、雨水の跡が残る。
これからが塗り替える季節なのかもしれない。
来月末には世界遺産だというのに。
2002年に来た時はもっと明るく活気があったはずだ。相棒のシャッター音も鈍い。
カステロ入場料2ユーロ。
13世紀ローマの要塞跡にイスラム教徒が築き15世紀に拡張したカストロである。
城壁の通路を歩いて高台に出る。
城壁の外の丘はオリーブの林でその上に〈グラサ要塞〉が見える。
それに自動車道路も整備され、城壁の外には真新しいオレンジ屋根に白壁の建物が多くなっていた。
カステロの横に陶芸工房がある。
10年前に会った青年も40代に入ったようだ。
彼は我らを覚えていなかったが、我らは彼を覚えていた。
顎鬚(あごひげ)も板につき、陶芸の腕も上がっていた。
しかし、10年も続け、陶芸で生活ができていることが不思議であった。
10年前も今も、客がいなかった。
相棒が撮影のお礼に千代紙で折った折鶴をあげると、ちいさな陶器のオブジェをくれた。
「けいの豆日記ノート」
カステロの横にある工房は、以前にも入った覚えがある。
この工房で、作っているところを見せてくれて、そのあとに、近くの工房の店につれていくのである。
以前といっしょのパターンはかわっていないらしい。
作っている作品は違うがなかなかの商売上手である。
工房には、仏教の観音像のような作品が飾ってあり、自慢のようであった。
以前は、千代紙の折鶴をあげると、千代紙の模様のほうに関心を示したので、千代紙を10枚くらいあげた覚えがある。
今回も千代紙を数枚あげたのだが、覚えてないだろうなあ。
《アモレイラの水道橋》
18時30分ホテルを出た。
水道橋と夕日をうまく組み合わせた夕景が撮れないかと相棒が言い出したからだ。
ポーには、昨日の強烈な[エヴォラモンテ]の夕焼けが脳裏に突き刺さっていた。
でも、賛同しエルヴァスの夕日に賭けた。
〈アモレイラの水道橋〉は、1498年〜1622年に建造された、全長7キロメートルを越すイベリア半島最長の水道橋だという。
しかも高く、美しいアーチが連なる。
高さ31メートルもあり、アーチの数は800を越すらしい。
その強靭な円筒柱の行列は果てしなく大地の果てまで延びていた。
この水道橋が世界遺産ではなかろうか、と思った。
(帰国後判ったことだが、エルヴァスの世界遺産対象は2つの出城要塞とアモレイラの水道橋などであった)
20時50分、夕焼けタイムは水道橋の向こうを、うっすらピンクに染めて消えて行った。
急に疲れが出た。
でもアモレイラの水道橋は黒いシルエットで浮かび上がり、凛とした雄姿があった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2013年5月に掲載いたしました。
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