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☆ブラガンサの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
ポルトから、北東へ約200km。バスでヴィア・レアル乗り換えで約4時間。
ノグエリア山脈が連なる標高660mの地点にブラガンサの町はある。
1640年にはジョアン4世がスペインからの独立を達成、ブラガンサ王朝を開いた。
城壁に囲まれた旧市街を中心に往時の姿をそのままにとどめ、
歴史の片隅に取り残されたかのようにひっそりとただずんでいる。
「ポー君の旅日記」 ☆ サングラスの結婚式・ブラガンサ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
《ポルトガルの第二都市〔ポルト〕の宿はペニンスラール。豪華さには欠けるが、
ポルトの交通機関の中心サン・ベント駅まで歩いて3分とかからない、旅をするには便利なホテルだった》
2004年4月17日(土)。
この日から3泊の旅に出るので、ホテルに大きな旅行バックをフロント奥の物置に預けた。
地域ごとに決まったホテルを基点にして活動すると、便利である。
また、戻ってくることがわかっているので、荷物を預かってもらえるからだ。
どこにいくのにもスーツケースをガラガラじゃ、撮影もできない。
数泊の荷物は、リュックだけですむからだ。
身軽さが1番である。 その日も朝から寒かった。
町のシンボルである18世紀に建てられたクレリゴス教会の76mの塔を背に見上げ、今朝もまた市民の台所〔ボリャオン市場〕に向かった。
石畳の坂道で白い息を吐いて駅舎に急ぐ人々とすれ違う。皮ジャン姿が多かった。
『ポルトの人は皮ジャンが似合うね』と相棒の写真家がポツリ言った。
今朝の相棒はモコモコ姿ではなかった。
寒さ対策に、どんな細工をしてきたのか昨日の朝とは違って、すっきり決まっていた。
《私の売り場はここよ》のおばあさんに相棒は会いたかった。
市場構内は相変わらず人であふれていたがあの角には、小さな丸椅子がポツリとそのままだった。
相棒は、淋しげに視線を投げた。
隣の花屋のおじさんに2Lサイズ写真をあずけ、おばあさんに渡して欲しいと交渉したが通じなかった。
『まっ、いいか、また来よう!』と相棒のけいちゃん。
石畳の坂道を下った。〔ブラガンサ〕に行くバスターミナルは昨日、調べておいた。
行き先によってバスターミナルが違うからだ。
発車時刻より早かったので大きな入り口のシャッターは閉まっていた。 「けいの豆日記ノート」 《ポルトから北東に200キロ。ブラガンサはノグエイラ山脈の標高660mにある中世の城壁に囲まれた町だという》 ガイド本には、歴史の片隅に取り残された町、とあった。だから、行ってみたかった。
バスの車窓は、大高原地帯。 「けいの豆日記ノート」 ブラガンサのバスターミナルは元鉄道の終着駅跡に新設されていた。
残した線路にトロッコ形のベンチが置かれ、洒落た広場になっていた。
ここから町の中心地に向かって石畳がなだらかに下る。
名古屋からFAXで予約しておいたホテルをガイド本に載っている地図で相棒は確認した。
午後2時だった。
カテドラル広場で石畳の道は二股に分かれていた。
小さなカフェやレストランなどがある左の街路を選んだ。
午後の日差しを浴びたキヨスクの前で犬が伸びきって昼寝中だった。
車の走りもないのどかな町だ。おばあさんが立ち止まって見つめてきた。
『ボア タルデ!(こんにちは)』相棒が声をかける。戸惑った顔が笑顔にくずれた。
「デ オンデ ヴェイオ?(どこからきたの?)」と、おばば。
『ド ジャパオン』と、相棒。
「ジャポネーザ!(日本人!)」と、小さく叫び、嬉しげだ。
おばあさんは日本人を初めて見たらしい。 坂を下って左折。[ホテル・サンロケ]はビルの7・8階にあった。
部屋の窓から見わたせる町の俯瞰が絶品だ。
眼下に広がる民家のオレンジ屋根の先に城壁に囲まれた旧市外がこじんまりと見え、
その先にぶどう畑の農地が青空に向かって延々とつながっていた。
風が強くなったようだ。
眼下で、木々の葉が水面の波紋のように激しく揺れだした。
急に吹き出した風に乗って城壁に向かう。坂道の石畳は歩きにくいものだ。
都会でも田舎でも、車道も歩道も石畳のポルトガル。
【石畳をポルトガル語で、「カルサーダス」という。
この石畳の文化を持ち込んだのはローマ人。使っている石はこの国で切り出される石灰岩が多い。
石灰岩は雨水を吸収し、その水を濾過し、貴重な井戸水となって、今でも農業水につかわれているという】
15分ほど石畳の坂道を歩いていくと城壁に入る門があり、その前の小さな広場に、ブラガンサ公爵の銅像が建っていた。 「けいの豆日記ノート」 城門を入った。
静寂。
人の姿は、なかった。
『廃墟の旧市街地?』と、相棒。
風で帽子を飛ばされそうになって、右手で押さえた。
左手には、一眼カメラが握られていた。 《この旧市街地がブラガンサ公爵の領地として認められたのは15世紀。
そして、1640年、ジョアン4世がスペインからの独立をなしえてブラガンサ王朝を開く。
ブラガンサは城壁に囲まれた現在の旧市街を中心に当時の姿を留めているという。
歴史の片隅に取り残されたかのようにひっそりとたたずんでいる。》 確かに、歴史の片隅に取り残された町、旧市街地「ブラガンサ」だった。
風が鳴った。
目の前に、1187年建造の城跡があった。
33mの四角い塔は15世紀のものだという。
旧市街地をさ迷う相棒は、中世の町に迷い込んだ子羊か。
『何もない淋しいところだね〜。でも、このまま帰るのは悔しいよ、ポー!』
と相棒は風に飛ばされそうになった帽子を再び押さえ、サンタ・マリア教会に入った。
教会の中は外観より思った以上に広かった。
祭壇の前に60人以上の人影があった。
近寄ったら、白いドレスが薄暗い中に浮かんで見えてきた。
結婚式の最中だった。また、遭遇だ。2年前、ポルトのカテドラルで体験してから二回目だ。
教会の中では判らなかったが外に出てきた参列者は皆、サングラスをかけていた。
びっくり、しゃっくりだ。記念撮影が始まった。
主役のふたりを囲んだ型通りの撮影の後、花婿と参列者の女性たち、花嫁とサングラス軍団の男性たちの記念撮影があった。
こんな記念撮影の光景は初めてだ。
『シャッターを切りながら、ちょっぴり感動したよ。
でも、何をしている人たちの結婚式だろうね』と相棒が首をかしげた。 「けいの豆日記ノート」 飛び入りの外国人である女性カメラマンにみんな優しかった。
日本から来たの? なぜ、ポルトやリスボンに行かないの?
こんな田舎に、どうして?
20代の黒い瞳が美しい女性がサングラスをはずし、相棒の腕を取って話しかけてくれた。
相棒の笑顔が弾ける。
きっと話は、ほとんどわからないだろうが、嬉しそうだ。
腕を取って話をしてくれたのが心にしみたに違いない。
だから、旅はやめられない。 城壁を出た丘の中腹にポザーダ(国営ホテル)がある。
そこから城壁の旧市街を見ると美しいと、あの黒い瞳の彼女が言ったと相棒が言うので、城門を出て急な坂道を25分かけて行ってみた。
その途中で巾10mほどの川を渡る。 「けいの豆日記ノート」 高級ホテルにしては安いと思う。日本なら、軽く2000円だ。
ポルトガルは物価が安い。飛行運賃が安ければ、もっと来られるのにと思う。
だから、来た時は、3週間は滞在する。それでも、8日間ツアー料金より安くすむ。
宿は安く、夕食はスーパー調達、それに散策は一日二万歩、移動はバスや列車、土産は買わない、という旅だから・・・。
新市街地は中層住宅が建ち並んでいた。スーパーで夕食の調達。
トマト大きめ2個0・26 レタス1個0・48(これらはすべて計り売り) 水0・17 シーチキン1缶0・86 赤ワイン1瓶2・15 カップケーキ1個1・99 ビニール袋0・04 計5・95ユーロ(774円)。
けいちゃん流に言うと、買い物袋を持って来ればよかったよ〜!ビニール袋代、5円取られた。 翌朝、4月18日(日)は雨模様で風強し。
モーニングをゆっくり食べた。
フイルムの整理やあした移動する町ラメーゴの資料を読んで、天気待ち。
テレビを見ていた相棒が、眠りに落ちた。
七階の窓から外を見渡す。雨も風も治まっていた。
八重桜の花びらが石畳に一面張り付いていた。何処かに満開の八重桜の木があったのか。
10m四方には、見当たらない。相棒は、石畳に舞い降りて咲く八重桜を撮っていた。
再び、城壁の旧市街地に向かった。
少し、寒い。 「けいの豆日記ノート」 城壁の中の旧市街地。人影、なし。
昨日、結婚式が行われていたサンタ・マリア教会の隣に12世紀に建てられたという市庁舎がある。
記念撮影はこの建物を背景にしていた。5角形の建物はロマネスク様式の石造り。
ポルトガル最古の市庁舎だという。中に入ってみたが、がらんどう。ひんやりした狭い空間だった。
城壁の中には30軒ほどの平屋の民家が長屋のように連なり、それが5筋ほどあった。
廃墟の家もあり、「売り家」と入り口に張り紙された家もあった。 *「地球の歩き方」参照*
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