「ポー君の旅日記」 ☆ 大学の町の案内人のコインブラ3 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・6≫
=== 第三章●コインブラ起点の旅 === 大学の街に素敵な案内人がいるコインブラ3
《トマール駅からコインブラB駅》
5月24日(木)15時11分、宿に寄り2個の旅行バックを受け取り、相棒が千代紙で折った折鶴を可愛いフロント嬢に手渡し、
その満面の笑みに送られ目の前のトマール駅からコインブラB駅に向かった。
トマール駅で切符(9.3ユーロ)を買いに行った相棒が、対面3人掛けの窓際の赤い背もたれシート席に座っての報告だ。
それによると、一昨日降りてアルモウル城に行ったエントロンカメント駅で、リスボンから北上して終点ポルト駅に行く列車に乗り換える予定だったが、
その手前のラマローサ駅で乗り換えると言う。
エントロンカメント駅では乗り換えるのに7分もなく、ラマローサ駅だと20分の余裕があり、コインブラに行く乗客は皆ここで乗り換えると言う。
でも、ポルトガル語をろくすっぽ喋れない相棒が、切符売り場でよくもここまで調べ上げたものだと、ポーは舌を巻いた。
「けいの豆日記ノート」
トマール駅でコインブラまでのチケットを買うとき、時間と乗り換え場所を確認した。
エントロンカメント駅で乗り換えだと思っていたので、乗り換え時間が5分しかなく大丈夫かなと思ったからだ。
エントロンカメントの手前の駅で乗り換えだといわれた。
ネットで調べた時刻表のコピーを見せると乗り換え駅のラマローサLamarosaに印をつけてくれた。
エントロンカメントでトマール方面とコインブラ方面の線路が分かれるのかと思っていたら、このラマローサLamarosaという駅で分かれていたのだった。
このことを知って今までの疑問点が解消した。
日本で時刻表を見ながら、なんて乗り継ぎの悪い時刻表なんだろうと思っていた。
トマールの列車がエントロンカメント駅につく数分前にコインブラ駅行きの列車が出発してしまうのである。
午後3時を過ぎているのに、太陽は車窓の上空で照り輝いていた。
15時35分着。重い旅行バック2個を列車から引きずり降ろして、ラマローサ駅プラットホームに降り立つ。
乗り換え時間は20分もある。余裕、綽々(しゃくしゃく)だ。だが、そのゆとりの一瞬を打ち砕かされる。
『ポー、ここ(4番線)から、1番線へ移動だよ。急いで〜!』悪魔のひと声に思えた。
同じホームでの5番線からの乗り換えとばかり思っていた早とちりのポーには、大誤算であった。
目の前の隣り2〜3番線ホームの先の、1番線ホームははるか先。遠くに見えた。
ホームの端っこにある連絡通路に向かって2個の旅行バックを急いで転がした。下(くだ)ろうとした連絡口で、ポーは唖然とした。
急な石段が奈落の底まで口を開いているように見えた。まるで、ポルトガルに着いた一夜目の安宿の、狭い急勾配の長い階段の恐怖が甦っていた。
線路の下を通るための通路にこれほど深く掘り下げないと、連絡通路として機能しないのか。
ポーには、深すぎるとさえ思えた。でも、この急勾配の階段を降りなければ、1番線プラットホームには行けないのだ。
余裕の20分間が、プツン!と、切れた。ポーが一人で運ぶには、無理だ。
4年前の、6回目のポーではない。相棒に、男を捨て提案した。階段はふたりで1個づつ運ぼうと。
通路は、ポーが何時ものようにふたつ転がすからと。相棒は、優しかった。
『のっけから、その積りよ』と、まるで天使のささやきであった。
ふたりで1個づつ2度運び降ろし、それぞれ1個づつ通路を転がし、ふたりで1個づつ2度にわたり急勾配の階段を運び上げた。
15時54分、1番線からコインブラB駅に向かって色濃いポルトガルブルーの青空の下を、列車は静かに動き出した。
《コインブラB駅》
コインブラには、鉄道の駅が2か所ある。A駅とB駅。
ポルトガルの幹線鉄道は、首都リスボンから北の第2都市ポルトまでのおよそ300キロメートル。
その間にエントロンカメントやコインブラがある。そのコインブラに止まる駅がコインブラB駅だ。
コインブラA駅は、B駅で連絡列車に乗り換えひと駅で着く。
街の中を北東から南に流れるモンデゴ川は、エストレラ山脈を源とする水量が多い美しい川だ。
そのモンデゴ川岸に、中心地に近いA駅がある。川を右手に見ながら200メートルも歩けば街の中心地ポルタジェン広場があり、
モンデゴ川に架かる対岸に渡るサンタ・クララ橋がある。
橋の中ほどから振り返るとコインブラ大学の丘が川面に悠然と映る。
「政治のリスボン」「商業のポルト」そして、ポルトガル第3都市コインブラは丘の上にディニス王によって
1290年に創設されたコインブラ大学で象徴される、大学を中心に発達した人口10万人の「文化のコインブラ」と言われている。
疲れ果てぐっすり眠って、17時23分にコインブラB駅に着く。コインブラB駅は広い駅だった。
改札口らしいところもなく、人びとは自由にプラットホームを出入りしている。
それに降りる人、乗り換える人、乗る人びとで混乱状態であった。
駅前はロータリーになっていて、乗客を迎えに来た乗用車であふれ、タクシー乗り場には乗客の列が尾を引いていた。
そこへ、旅行バックを転がし並んだ。待つこと20分。18時を過ぎたが太陽はまだ、天空3時の針の方向で輝いていた。
ふた晩泊めてくれる、KIMIKOさんが住むマンションの住所を、相棒が運転手に告げた。
「けいの豆日記ノート」
コインブラには、コインブラA駅とB駅がある。
コインブラB駅は、リスボンとポルトを結ぶ特急列車の止まる駅である。
コインブラの市街にあるコインブラA駅は、コインブラB駅からの引き込み線である。
コインブラA駅からリスボンやポルトに行くときには、B駅で乗り換えなければならないのである。
この引き込み線方式は、大きな町ではよく使われている。
ポルトの町でも引き込み線であるので、以前、知らなくて、列車に乗り遅れるということになった。
郊外にあるコインブラB駅で、KIMIKOさんと待ち合わせをしていた。
広い駅であるし、交通量も多いので、時間が過ぎたら、タクシーで自宅まで行くことになっていた。
会社帰りの車で混雑しているところでの待ち合わせはしないほうがよかったかなと少し反省した。
《KIMIKOさんとの出会い》
帰宅時間帯に出会ったのか、狭い道のためか、交通ラッシュだ。
その中をタクシーはコインブラ大学がそびえ立つ丘の北側にある、丘陵地帯の住宅地を目指していた。
ところで、なぜコインブラに住んでいるKIMIKOさんと知り合ったのか。
ポルトガル撮影取材旅をしていた時ではなかった。
それは、毎年12月に名古屋市民ギャラリーで相棒が個展開催している『愛しのポルトガル 山之内けい子写真展』会場に中日新聞が取材にみえ、
県民版に掲載していただいた。
その記事を読んで、知多半島にある焼き物の街「常滑(とこなめ)」に住むご夫婦が会場に来てくれたのが、KIMIKOさんとの出会いの発端である。
ご主人がいう。『娘がポルトガル人と結婚して、いまコインブラに住んでいて、1週間ほど娘のところへ遊びに行って来たところです』と。
それは、3年前(2009年)のことだった。この会話がきっかけで翌年、常滑山車祭りにご自宅に招待され海の幸をご馳走になり、
常滑山車祭り行列が2階の座敷から狭い路地いっぱいに通るのを上から見ることができた。
笛や太鼓の音(ね)、長老のしゃがれ掛け声や若者たち引き人の苦しい唸り、大きな山車のきしみや車輪が転がる音、子供たちのかん高い声が、狭い路地に響き渡る。
勿論、相棒のカメラは山車の俯瞰アングルに、歓喜で泣いていた。
そして、今年2012年2月末に父親からポーの携帯に連絡が入った。KIMIKOさんが妹の結婚式で帰国している。
遊びに来てください、逢いたがっているからと。相棒が彼女と連絡をとり、常滑の実家で会った。
KIMIKOさんは背が高く、おかあさん似の美人だった。名古屋市栄にあるポルトガル料理店「ヴィラモウラ」で、
久し振りに旧友たちと食事をしてきたところだと、嬉しそうに彼女は言った。
「けいの豆日記ノート」
名古屋市中区のラシックにあるポルトガル料理店「ヴィラ・モウラ」は、2011年の8月に開店した店である。
名古屋に初めてのポルトガル料理店である。
東京には、何軒かあり、話には聞いていた。
名古屋飛ばしという言葉もあり、名古屋に店が出ることはないだろうと思っていた。
それが、ラシックというおしゃれなビルの中にできたという。
少しでもポルトガルを知ってもらえることは、とてもうれしかった。
写真展でポルトガル料理のこと、聞かれたりする。
ツアーでいけば、ホテルのおいしいポルトガル料理が食べれることだろうと思う。
いつもケチケチの旅のため、たいしたポルトガル料理を食べていないのが現状である。
もともと、料理の味の説明はむずかしいものである。
イワシの炭焼きくらいしか説明できないのである。
2011年の写真展のときには、ポルトガル料理店「ヴィラ・モウラ」のパンフがあり料理の写真がついているので見てもらえばわかるので助かった。
ランチはリーズナブルなのでたまには、友人と食べに行っている。
彼女と相棒は旧知の仲のように親しげに話をしていた。彼女の子供たち、6歳の男の子と2歳半の女の子と大阪から来ていた彼女の姉家族も一緒だった。
久しぶりで会った家族団らん時に、我らが侵入したようだ。ポーは30分ほどで引き上げるのが礼儀だと考えていた。
その旨(むね)を親父さんに小声で告げると、蛸飯をつくったから食べてからに、娘もポルトガルしか撮らない写真家に会いたがっていたから、と。
ポーは小声で言った、すみませんね、と。
はにかみ屋のお兄ちゃんと、人なつっこいお嬢さんのお相手をしたが、なにせポルトガル生まれだ。
ポーは話し相手にならなかった。1時間ほどで帰る予定が、2時間以上もお邪魔してしまった。
この時は、この子らに3ヶ月後に再び会えるとは想像もしていなかった。
KIMIKOさんと相棒は息が合い、話し続けていた。
ポーは、親父さんと釣り談義。常滑沖に建設されたセントレア(中部国際空港)の周りが魚の宝庫で、友人と船を出して四季の魚の釣り三昧と聞き、ポーはしおれる。
家のそば、新舞子海岸でのお遊び釣り師だからだ。
(帰りに、内臓を取りさったキスの冷凍を30匹もいただいた・・・)
話がそれたが、この時の彼女との出会いが思わぬ発展を生んだ。ポルトガル帰国前にもう一度会う。
子供がいるので近くの喫茶店で、ふたりは話し続ける。ポーは空気を読んで、隣のテーブルで本を読んでいた。
その後2人は、日本・ポルトガル間でメールのやり取りを重ねていた。
その結果、KIMIKOさんの好意でふた晩(実は4泊を勧めてくれたが、それは甘え過ぎだと)泊めていただくことになり、
さらに幼稚園に勤める彼女の努力の計らいで、相棒の念願であった幼稚園内部と子供たちの様子が撮影取材可能となった。
そればかりか、彼女は素敵な案内人になってくれた。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルで学校や幼稚園はたくさん見た。
どの学校も高い塀やフェンスの中にあり、すみっこから覗くくらいであった。
それでも人懐っこい子供たちはフェンスの隙間からこぼれるような笑顔を見せてくれた。
何校か、中に入れてくれないかと交渉したことがある。
ポルトガル語で説明文を知り合いに書いてもらって見せたりもした。
でも、入れてはもらえなかった。
今回、KIMIKOさんから、幼稚園の中を見せてもらい、子供たちの写真も撮らせてくれる話があった。
KIMIKOさんの夫のお母さんが幼稚園の園長をしていることもあってのことだろう。
子供たちの親にも了承していただく書類も作ってもらった。
いたせりつくせりで、とてもうれしかった。
《家の中を案内してくれたマリアンヌさん》
KIMIKOさんが住むマンションにタクシーは向かっていた。
丘陵地帯は高級住宅地に見えた。
マンションが建ち並び個人住宅も大きく美しかった。コインブラ大学とその丘の周りは、2003年1月と2006年10月に歩き回ったが、
その北側の丘陵地帯の住宅地は初めてである。無理もない。ここは観光地ではない、住宅地だ。
やや急勾配の坂道を上って行った。
車窓右側の建ち並ぶ建物の空間から、遥か先まで連なるコインブラの街並みが垣間見える。
ここは丘陵の高台にある住宅地だと知らされる。タクシーが停まった。6・75ユーロ、B駅から15分もかからない距離だった。
相棒はチップ代わりに折鶴を料金と一緒に渡す。
『セゴーニャ、鶴・・そう!ツル。オブリガーダ!』中年過ぎのおじさんは短髪の白髪混じりの頭を撫ぜながら嬉しそうに、運転席から相棒に微笑んでいた。
そして、タクシーは坂道をゆっくり下って行った。つまり、KIMIKOさんの住むマンションは、坂の頂点にあった。
さて何階の何号室に住んでいるか、オートロックだと尚更(なおさら)連絡がつけられない。
彼女も幼稚園から帰宅できるのは18時頃だと聞いている。
帰宅していたら気のきく優しい彼女なら、我らのタクシーを外に出て待っていてくれずはずだ。
しかし、いないということは道が相変わらず混んでいるに違いない。
その時、オートロックの扉が開いて女性が出て来た。KIMIKOさんの所に来た日本の方ね、ちょっと待ってね。
(と、ポーには聞こえた・・・)女性は、ボタンを押して、どこかに話をしている。
そして、今、降りて来るから、ちょっと待ってね。(と、言ったはずだ・・・)相棒は彼女に『オブリガーダ!』と、礼を言う。
背の高い目元ぱっちりの若い女性が現れた。彼女が14歳のマリアンヌさんだった。
彼女の名前は、相棒がKIMIKOさんからすでに聞いていたようだ。ポーは知らなかった。
マリアンヌさんは笑顔で相棒の25キログラムもある旅行バックを持ち上げると、階段を登り始めた。
部屋は2階なのかとポーは思い、25キログラムの旅行バックを一段一段ゆっくり運び上げた。
マリアンヌさんと相棒の姿は瞬時に見えなくなる。やっと、2階フロアーにたどり着く。
ふーと息を吐いた時、『もう、1階、上だよ〜!』悪魔の声が降り下りてきた。
エッ、3階?!でも、タクシーを降りた時見上げたマンションは5階建てぐらいに見えたのに、どうしてエレベーターがないのだろうと額の汗をぬぐった。
マリアンヌさんが降りてきて、一緒に運び上げてくれた。
なんて優しい娘(子)だろう、とポーは思った。玄関を入ると、天井が高い広いスペースで相棒が微笑んでいた。
『ここが、最上階だって。3階すべてが住まいだって!凄いね〜』驚きと期待が顔に現れていた。
マリアンヌさんは、我らがポルトガル語に弱いと瞬時に察知し、ゆっくり発音して英語で部屋の中を丁寧に案内してくれた。
これが客への礼儀なのかもしれない。我らは彼女の後をついて廻る。
ここでは細かい説明は避けるが、部屋数も多く調度品も一級、絵などの装飾品も目を引いた。
20分も観て回ったところに、KIMIKOさんと常滑で会った子供たちが賑やかに帰って来た。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルの建物は、日本の1階が0階である。
KIMOKOさんの住所では、2階になっていた。
ということは、日本の3階なのである。
高台にある小さいマンションで地下にも部屋があった。
0階と1階は、ワンフロアに2軒の家族が入居していた。
KIMIKOさんの住む2階は2軒分の広さを1軒で使っていた。
それに、屋上の屋根裏全部も住宅であった。
屋根裏といっても充分に広い部屋が4つもあった。
テラスも広くで眺めも抜群であった。
なんていい家に住んでいるのでしょう。
うらやましい限りである。
《KIMIKOさんの手料理》
我らは、彼女にお世話になる礼を言った。
これで3回目の出会いだが、なぜか昔からの友達のように感じた。
そんな雰囲気を彼女は与えてくれた。
夕食ができるまで部屋で休んでいてくださいと、階段を上って2階に案内された。
中2階と言っても広いフロアーであった(まるで、マンションの4階だ)。
客室用のバス付部屋が2つあり、映画鑑賞もできる大型テレビが置かれた広い部屋には、ゆったりしたソファーが置かれていた。
広い部屋に相棒が、天井が斜めだが大きな天窓がある部屋にポーが泊めてもらうことにした。
ベッドで寝ながら夜空が見えるに違いない。気に入った。
それに南側にバルコニーがあり、東西南のコインブラの景観が楽しめた。
坂の上の高台であり目の前には高い建物は何もない。景観はすべて俯瞰だ。
まるで、展望台みたいなバルコニーだった。そこで、KIMIKOさんの美味しい手料理をポルトガルワインでご馳走になった。
20時半過ぎ、西の空が夕陽で紅く焼けてきた。
「なんということでしょ〜!」どこかで聞いたような声が、ポーの耳の中で響いていた。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2012年12月に掲載いたしました。
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