「ポー君の旅日記」 ☆ コインブラ4 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・9≫
=== 第三章●コインブラ起点の旅 === 新旧コインブラ大学のコインブラ4
《6年振りの落日》
今回の撮影取材旅の目的の一つ、人口179人が石積みの家に住む山奥の[隠れ里・ピオダン]を、コインブラ在住のKIMIKOさんの運転で、
朝から夕方まで11時間の長きにわたり、一日中案内して頂いた。
そして、ホテルまで送ってもらう。KIMIKOさんとは、明日午後2時ホテル前で再会を約束して別れた。
もう身も心もずたずたにくたびれているに違いない。本当にお疲れさまKIMIKOさん、ありがとう。
[コインブラ]に来たのは、ポルトガル撮影取材旅をはじめて2年目、2002年1月27日、石畳を洗う小雨が降る日曜日であった。
北にあるポルトガル第2都市[ポルト]からバスで入った。
2回目は、2006年10月28日、今度は列車で[ポルト]から入った。
この日は偶然「鉄道150周年記念日」で、列車が全線無料だという幸運日であった。
相棒が大好きな、タダの日に大感謝した。ありがとう!ポルトガル!粋な、計らいの日であった。
ひょっとして、10年後の2016年10月28日は160周年になる。
ひょっとするだろうか。日本でも、こんな日をお願いしたいものだ!海外に莫大なお金を簡単に提供するにっぽんだ。
国内にも粋な心を投げかけて欲しい。
にっぽんを旅する外国からの旅人に、思わぬ歓喜の声を与えてやって欲しい。
せめて、新幹線の東京〜博多間だけでもお願いしたい。
3回目は、2012年(今回)5月24日、テンプル騎士団の町[トマール]から列車で入った。
「けいの豆日記ノート」
今回の宿のホテルアルメディナは、以前にも泊まったことがある。
移動にバスを使いたい場合は、このアルメディナが便利である。
ネットの格安ホテルのサイトから予約をした。
初め、3泊を予約した。その後、KIMIKOさん宅に泊めてもらうことになり、1泊分をキャンセルした。
キャンセルしたのは、1か月以上前のことである。
なのに、料金が戻らなかった。
このサイトは、予約すると、すぐにカードから引き落とされてしまう。
1度、引き落とされたお金は戻らないらしい。
そのこと、サイトに記載がなかった。
英語で書いてあったらしいが、わからなかった。
このことをKIMIKOさんに話すとカウンターの人にかけあってくれた。
熱戦1時間後、払ったお金は、戻らないが、1泊タダで泊めてくれるという。
しかし、次に行く町もホテルも決まっているので、泊まることができない。
支配人と相談して後日連絡してくれる話になった。
せっかく、安く泊まれる予定だったに、定価どおりの値段になったのである。
安いサイトを使うときには、気を付けなければと思う。
(後日、結果を知らせてくれたが、2013年の4月まで1泊分有効らしい・・・が、たぶん使えないだろうと思う。)
ホテルで荷を解き、大学の町[コインブラ]の町に飛び出す。夕方が始まった5月26日(土)の20時だった。
4年振りのコインブラ市街散策である。
もう、今日は11時間ほど旅を続けてきたが、相棒の「ケチケチ旅ごころ」は、健在であった。ポーも異存がなかった。
頭の隅で、お年を考えたら・・・の思考回路が反応していたが、ワクワクしてコインブラの町に飛び出したのだった。
ホテルアルメディナのミラーガラス張りの外観に、夕方の気配が反射している。
エストレラ山脈を源とするモンデゴ川を右手にし、300メートルほど歩くと鉄道のコインブラA駅に出る。
駅舎は閑散としていて人影一つない。
駅舎の大時計の針は、20時15分を指している。
差し込む光は町全体を薄黄味色に染めているが未だ空は青く、街路樹は長い影を石畳に投影している。
モンデゴ川沿いに建つコインブラでは老舗のホテルアストリア。
我らが泊るホテルより30ユーロは高い。でも、一度泊まってみたい宿である。
モンデゴ川に映える夕陽を、最上階の部屋から張り出す円形テラスから見たいものだ。
パタパタとモンデゴの川風が、サンタ・クララ橋の欄干に並ぶコインブラ市旗をやさしく揺する。
橋を渡った対岸から見るコインブラ大学の丘が黄金色に塗り替えられていった。
1290年ディニス王によってリスボンに創設された大学が、コインブラに移転され今日の大学になったのは1308年で、
ヨーロッパでもパリ、ポローニャ、サラマンカと並ぶ古い大学である。
太陽が黒い影絵のように縁取られた建物群の中にゆっくり沈んで、ひと息大きく眩しく呼吸して、す〜と消えた。
大学の丘の裾野にあるバイシーニャと呼ばれる下町の、旧市街地の狭い路地裏が魅力的だ。来るたびに、あてもなく歩きまわってしまう。
安ホテルやレストラン、カフェ、食堂、パン屋、ブッチック、時計店など、首都リスボンの路地裏とは違い、大学生たちの青春裏路地の香りと温かさがある。
つまり、徘徊する楽しみの風情が残っていた。
夜は何処の町に行っても21時過ぎは出かけないが、今夜はその路地裏で夕飯にした。
6年前に立ち寄った中華店・豪華飯店は、まだ健在だった。白い壁にかかる大きな山水画はそのままである。
焼きそば・炒飯・サラダは各一人前、それにサグレス生ビール・茶で、11.45ユーロ(1145円)。
一皿の量が多いので、一皿ずつで充分である。ただし、日本の中華味を期待してはならぬ。
どの町に行っても、中華店は料理に当たり外れがなく、しかも安いのがいい。
寝る前に万歩計の数字を0に戻す前に見た数字は、22392歩だった。車に乗っていた時間も長かったが、よく今日も歩き回ったものだ。
相棒は、26000歩以上は歩いているはずだ。決して足の長さではなく、行動範囲の差である。撮影するどん欲さは、不可欠なのだ。
「けいの豆日記ノート」
日が長い今の時期は、昼にしっかりと歩くので、夜から町に出ることはあまりない。
疲れていることもあって、次の日のために寝たいのである。
なので、夜景がほとんど撮れないのである。
ほんとは、夜の町も撮ってみたいのである。
今日は、歴史的な村々のピオダンと近くの村を車で連れて行ってもらった。
いつもより、かなり楽をしている感じである。
コインブラの町の夜景を撮りたいと思った。
夕日も撮りたいが、なかなか、赤くならないので、あまり期待はしていないが。
《朝のサンタ・クルス修道院》
5月27日(日)は、早朝から快晴である。
モーニングを食べすぎたよ、という相棒の声を聞きながら、8時10分に宿を出た。
眩しい光が斜めに射しこむ狭い路地を抜けていくと、5〜6分で〈5月8日広場〉に出た。
この広場は四季を問わずいつも人々であふれているが、太陽が昇って間もない時間か、人の姿は開店準備をする土産店のおばさんや散歩する老夫婦、
新聞スタンドで列をつくる5人ほどしか見えない。
5月8日広場に沿ってひときわ目立つ〈サンタ・クルス修道院〉が左手に見え、真正面にメインストリートの〈フェレイラ・ボルジェス通り〉があり、
その先は〈ポルタジェン広場〉に通じ、その右手にあこがれのホテルがあり、正面にはモンデゴ川の対岸に渡る〈サンタ・クララ橋〉がある。
教会や修道院には、必ず入り込む相棒、ポーもそうだった。今朝も当然サンタ・クルス修道院に潜り込んだ。
人口10万人都市コインブラの名所〈サンタ・クルス修道院〉は、1131年にアフォンソ1世の命で建立。
16世紀にマヌエル1世により改築。白壁のアズレージョ画、パイプオルガン、マヌエル様式の柱、ルネサンス様式の説教壇は見逃せない。
何度見ても、飽(あ)きないのだ。明りは天窓から差し込む朝日の柔らかさで満ち溢れ、30人ほどが物音ひとつ立てず両手を組みこうべを垂らしている。
その静寂さの中を忍び足の子猫のように移動し、シャッターを切る相棒がいた。
「けいの豆日記ノート」
昨晩、KIMIKOさんから電話があり、「日曜日にペネラという町で中世祭りがあるので、いっしょに行きませんか?」という話があった。
「予定もあるでしょうから無理にとはいいませんが・・・」と遠慮がちに話してくれた。
もちろん、即、OKしたのである。お祭りと聞いて、行かないはずはないのである。
中世の姿をした人たちのお祭りなんて、はじめてであった。
とても嬉しかった。
午後2時すぎにホテルまで、迎えに来てくれるという。
なんて、ありがたいのだろうか。
《坂道の点描》
新聞スタンド前から、石畳の坂道になっている路地を相棒は選んだ。
大学に行くには、坂道の路地を上って行けば何処からでもいける。コインブラ大学は、丘のてっぺんだ。
石畳は朝日で輝き、朝の冷えた空気が下から上に通り過ぎていく。登った先は2路に分かれ右手は更に急坂。
左手眼下に円筒の奇妙な形をした黄色い建物が5基見える。
サンタ・クルス修道院に付属した〈マンガ庭園〉と呼び、4基は礼拝堂になっている。
マンガ庭園の先に見える丘は、マンション群が這(は)い上がり、高層ビルディング住宅も5つほど青空に延びていた。
その住宅群の中に5階建ての薄ピンク壁の建物を相棒が発見。
KIMIKOさんが住むマンションであった。
バタバタ羽音を立て100羽ほどの鳩が天空を舞う。
その影がオレンジの屋根と白壁に走る。猫が足を止め、じっと見つめて来る。
微々とも、動かない。ニャ〜ゴとポーが鳴くと、プイと顔をそむけ長い尾をゆっくり振って歩き去る。
馬鹿にしおって。落書きだらけのレンガ塀沿いの坂道を上る。
白い剥げ落ちた壁が連なる路地を、更に上る。この一帯は大学の寮や施設のようだ。
15分もうす汚い路地を歩いたころ、ポッと視界が開いた。
「けいの豆日記ノート」
ピンクのマンションは、KIMIKOさんの家では、なかったこと後からわかった。
その時は、あのへんかなと思っていたが、地図を見ると、もっともっと東方面であった。
高台には、マンションが並んでいたので、間違えてしまった。
到着時には、タクシーを使ったし、ピオダンの帰りは、車であったので、距離感がわからなかった。
《新カテドラルとドン・ディニス広場》
広くて急斜面の階段だった。相棒のカメラが鳴りだし、階段を駆け上がって行く。
ホテルのただのモーニングを腹いっぱい食べたエネルギーを発散するようにだ。
強大な権力を誇ったイエスズ会の教会〈新カテドラル〉がそびえていた。バロック様式のファザード(正面入口)はうつくしい。
厚い扉を押して中に入る。内部には、3人しか姿がなかった。
カトリック教徒が90%以上を占めるポルトガルも、若者の宗教離れが問われている昨今、学生の町にもその兆候があるのだろうか。
そんな気がした、ポーだった。
1598年に建設を開始し、完成まで1世紀もかかったという大聖堂である。
半円ドームの高い天井を支える太い大理石の両脇の柱は重厚だ。
また左右の古典的パイプオルガンが目を引き、祭壇背後の飾り壁が荘厳に迫ってくる。
17世紀末の彫刻家ジェロニモ・ルイスの作品だという。
その金泥細工の細やかな作業で飾られた祭壇は、見事と言うしかない出来栄えであり、美しかった。
また、祭壇脇の通路に展示されている絵画や種々の作品に見射る。取り分け、左右の黄金の腕には、目を張った。
パワーを貰った気持になった。(入館料1ユーロ)
新カテドラルを出て南下するとすぐ右手に〈国立マシャ―ド・デ・カストロ美術館〉があったが、KIMIKOさんとの約束の時間もあり、
その先にあるコインブラ大学校舎を見ながらドン・ディニス広場に向かう。
広場に観光バスが1台走り込み、30人ほどの人びとが降りてきた。
〈旧大学〉がある〈鉄の門〉にかけ足だ。時間に追われているようだった。
ツアーの鉄則は、組み込まれたスケジュール通り立ち寄る先に遅れないことだ。秒刻みの観光は忙しい。
〈ドン・ディニス広場〉は、コインブラ大学に入る正門である。
といっても大きな門があるわけではないが、広場の中央にコインブラに、1290年リスボンに創立された大学を移転させたディニス王の大きな像が立っている。
王の像が、正門であった。
王が見る先は、視界が開け朝日で川面が光るモンデゴ川であり、サンタ・クララ橋を渡った対岸の、1286年に建てられたコインブラの守護聖人であったイザベル王妃が眠る〈旧サンタ・クララ修道院〉ではなかろうか、とポーは思う。
「けいの豆日記ノート」
新カテドラルは、以前にも来たところである。
フィルムカメラの時代であったので、カテドラルの内部の撮影がほとんどしていなかった。
(荷物の関係で、枚数の制限があったので、なんでも撮るわけにはいかなかったのである。)
今回で、内部もしっかりと見ることができ、しっかりと撮ることができた。
今までに訪問した場所でも、再度撮りなおす必要があるなと思っている。
《旧大学・チケット売り場》
ここに来たら〈旧大学〉を見ないと帰れない。
旧大学に入るには入場券を買わなければならない。ポルタ・フェレラ広場(旧大学入口前)にある左手の総合図書館にチケット売り場がある。
2012年5月現在では、料金は大人1人7ユーロだが、65歳以上は5.5ユーロ。150円安くなる。
パスポートが必要だ。支払いはすべて相棒が担当。帰国後、相棒から宿泊・交通・食事・入場など折半した料金の明細な請求書が来る。
12年前からこのシステムである。
暗算力・記憶力・犬力(犬のように1度通った道は何年たっても忘れない)、それに地図読解力、交通手段理解力、スケジュール立案力などがあるので、ポーは大助かり。
では、ポーの旅の役目は?ハイ、ボディガードと荷物運びである。
「けいの豆日記ノート」
入場料の高い施設(3ユーロ以上くらいかな)の場合、学割や年齢割があることが多い。
以前は、気が付かなくて正規の値段を払っていた。
たぶん、入場料の看板のところには、割引の値段が書いてあったのだと思うが、わかるはずもなく・・・
その辺が、言葉がわからなくて悲しいところではある。
半額近くになるので、使わない手はない。
身分証のパスポートが必要である。
コインブラのチケット売り場でもパスポート提示で1人分安くなる予定であった。
なぜか、2人分が安くなっていた。
ラッキーだったが、私も65歳以上に見えたのかと思うと複雑な気持ちである。
《鉄の門と中広場》
入場券を握りしめポルタ・フェレア〈鉄の門〉に立つ。
1634年に建てられた門には、医学・法学・神学・司教学などの学部を代表する彫刻が埋め込まれている。
チケットを見せ、門を潜ると、広い中広場がコの字型に囲まれ、南面がスコーンと抜け広い青空に白い雲が流れ、その下にオレンジの波が打ち寄せて来るような屋根が連なり、モンデゴ川の蛇行も見える。
その南端に大きな石像がある。〈ジョアン3世像〉だった。
ジョアン3世は1537年に今のコインブラ大学を創設した王である。
中広場を囲む建物は、1290年ディニス王が創設した旧コインブラ大学なのだ。
中世から生きながられてきた建物群は物静かで品があり、輝いて見えた。
コの字を書く3本の線はすべて連なる建物だが、内部は幾つもの重要な間(ま)で構成されている。
コの字の書き順で言うと、東面はジョアニア図書館・サンミゲル礼拝堂・美術館、角に鐘楼(時計塔)、北面外観は東西面とは違う造りの開けたテラス様式で、旧大学のメインになっており試験の間・大広間・ラテン回廊があり、西面に鉄の門・校舎と連なる。
「けいの豆日記ノート」
大学の町というだけあって、コインブラ大学が丘の頂上にドンと座っている感じである。
他の町であれば、城壁に囲まれた城がある場所である。
大学が城のかわりなのかもしれない。
そういえば、コインブラにコインブラ城があるという話を聞いたことがない。(この文を書いた時点では、知らなかった)
後日、KIMIKOさんから聞いた話だが、コインブラ大学の建物はかつては、宮殿であったという。
デニス王は、大学を始めたばかりのころ「じゃ、教育の場所としてここを使ってくれたまえ」と自分の住んでいた宮殿を提供したらしい。
ただ、もともとはお城もあったみたいで、大学構内に「かつての城門の跡地」などと書いた案内板があったりするらしい。
それで、豪華な造りの大学なのだと納得である。
《ジョアニア図書館》
ここを見たら後はどうでもいいか、と思ってしまうほどである。図書館はポルトガル一級品の文化財だった。
コインブラの印象を決定的にする魅力あふれた図書館であった。
図書館の入り口はバロック風で、国王の紋章の盾で飾られ、その内部中央通路は赤い絨毯が奥まで延び、天井の高い吹き抜けの3部屋に分かれている。
各部屋の天井には着飾った英知の女性群像が描かれ、金箔で輝く紋章があり、きらびやかな彫刻で飾られ、天井に届く本棚には800年に渡り集積した蔵書が30万冊に及ぶらしい。
も、2度とこのような豪華絢爛な図書館には出会えないと思う。
勿論、撮影は禁止。確か6年前はフラシュ禁止で撮影できた。相棒は何をしていたのだろうか。
「けいの豆日記ノート」
図書館の撮影禁止は残念だった。
図書館だけでなく、帽子の間も礼拝堂も禁止であった。
数年前までは、大丈夫だったと思う。
以前に訪問したときには、OKであった。
フラッシュを使わなければ、痛まないと思うのだが、なにか理由があるのかもしれない。
以前、フィルムで写した画像が貴重なものになるかもしれない。
《狭い展望通路》
〈試験の間〉などを見たが、どこも撮影禁止。ならば、俯瞰景色を撮ろうと相棒は、試験の間の脇にある狭い展望通路に出た。
6年前に来たのに犬は、記憶していた。観光客は誰もいなかった。
眼下は、箱庭である。
モンデゴ川に架かるサンタ・クララ橋は手が届くほど間近に見え、対岸沿いの並木樹が川面に映り、オレンジ屋根に白壁のコインブラの家並みが陽射しに包まれ、青空に流れる白雲模様は一服の風景画を見ているようだった。
「けいの豆日記ノート」
展望台は、以前にも来た場所である。
建物の奥へ奥へ進むと、狭いテラスが展望台である。
コインブラの町並みや、モンデゴ川向かいの町並みが一望できる場所である。
午前中に見るのがいい場所である。
雲の間から、太陽が出たり入ったりしていた。
陽があるのとないのとでは、印象がぜんぜん違うものである。
真っ青な空の天気でなかったが、陽が当たった俯瞰が写せてよかったと思う。
《旧カテドラル》
旧大学の裏路地は狭い石段で、下って行く観光客で賑わっていた。12時前だった。観光客であふれる広場に出た。
〈旧カテドラル〉だった。かつては要塞を兼ねていたと言う大聖堂は、1162年にアフォンソ・エンリケスによって建てられたロマネスク様式の教会である。内部は天井が高く頑強な柱が建ち並び、城塞内部にいるような感じだ。
回廊はゴシック様式としてはポルトガルで最も古い13世紀の建造であった。
相棒のカメラが鳴っていた。
50名近い人びとが祈っている。今日は日曜日だからなのか。内部の壁に変わったタイル画を相棒が見つけた。
それは、スペインのセビーリャから運ばれたイスパノ・アラブのタイルで、昔は前面に飾られていたと聞く。
タイルの幾何学模様を見ていると、模様の並べ方に何か秘密めいた暗号が潜んでいるように思える。
ダン・ブラウンの小説の読み過ぎか。ファサード前の石段に母娘親子が座っていた。相棒がカメラを向けると2人が笑顔のカメラ目線で、両手を広げてくれた。
オブリガーダ!で、2羽の折鶴が母娘に飛んで行った。
「けいの豆日記ノート」
旧カテドラルでは、神父様のお話の最中であった。
邪魔にならないように、そっと、撮影をした。
イベントのときは、遠慮するべきなのかもしれないが、せっかく来たのだから、写せるところだけでも撮っておくのである。
次に来れるのはいつなのか、わからないのだから。
《アルメディーナ門》
旧カテドラルから石畳の坂道を下ってきたら、そこはイスラム支配の名残のアーチ〈アルメディーナ門〉であった。
門を潜ると、コインブラのメインストリート、フェレイラ・ボルジェス通りだ。だが、今日は日曜日、ほとんどの店が閉まっている。レストランだって、ブチックだって。
観光客で今日はいっぱいなのだから、古い慣習はかなぐり捨てなければいけない。
休みなんて何時でもとれる。開け、胡麻!だ。商売人が日曜日休んでどうする!天国にいる大沢監督に代わって、渇!である。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2013年3月に掲載いたしました。
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