小さな画面をクリックすると、大きな画面&コメントのページになります!
トマール2の説明 (写真の上をクリックすると大きな写真&コメントのページになります)
|
1983年に登録されたポルトガルの世界遺産(文化遺産)で、首都リスボン北東に位置する。 12世紀末に十字軍のテンプル騎士団が建設した、町の丘の上にあるトマールのキリスト教修道院は、 増改築を重ね、400年後に完成した。 12世紀の礼拝堂にはロトンダと呼ばれるドームがあり、16世紀に造られたキリスト騎士団聖堂の集会室は、 マストやロープ、鎖といった大航海時代をモチーフにした美しい装飾のマヌエル様式の窓に特徴がある。 これらが人類の歴史上、重要な時代を例証するものとして、世界遺産に登録された。 |
「ポー君の旅日記」 ☆ キリスト修道院のトマール2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕 ≪2012紀行文・4≫ 《リスボンからトマール車窓旅》 〈来ポ〉3日目の5月23日(水)朝7時、屋上にある部屋で2泊した安宿の色黒の背の高い青年に、 3階フロントから一直線に急勾配の階段を1階の出口まで、1個25キログラムもある旅行バック2個を運び降ろしてもらう。 その青年の手の中に、チップ替わりの折鶴を相棒は2羽飛ばせ、礼を言った。 ポルトガルには強制的チップ制度がないためだった。 折鶴を見つめた青年の真っ白い歯並びが、美しかった。 モーニングが付かない宿を出て、重い旅行バック2個を左右でごろごろと転がし5分先のサンタ・アポローニャ駅に向かう。 今朝も、青空が似合うポルトガルの空だった。 『切符を買うから、先に行ってるよ!』と、相棒は一言残し先を急いだ。 石畳にバックの小さなコアが食い込み、5〜6メートル転がしてはひと休み。 なにせ、右手の指に25キロ、左手の指に25キロがずっしりと重く痛く積み重なって行く。 悲鳴を上げては、休む。 右手の間口の狭いカフェからは、焼き立てのパンとエスプレッソのコーヒーの香りが鼻先をかすめ、腹にはパンの香りが沁み込む。 手が痛いは、腹は減っているは、駅は見えているのに少しも近づかないし、情けなくなる。 でも、重いバックの中には今後お世話になる2家族分のお土産が詰まっている。 2001年に初めてポルトガルに来た時は、旅行バックの重みを少しも感じなかった。 あれから12年、時の流れと歳の重みをずっしり感じないわけにはいかなかった。 トマール駅終着の準急に近い7時48分発の列車がサンタ・アポローニャ駅を出発すると、オリエンテ駅で止まり各方面から来た客を乗せ、 昨日行ったサンタレン駅を過ぎ、エントロンカメント駅を通り、目的地トマール駅に9時50分に着く予定の、2時間ほどの車窓旅である。(運賃9.75ユーロ) 出発してすぐ、ガラガラの車中で朝食だ。 昨日は飛行機の中で貰ったおにぎりを1個づつ食べたが、今朝は持参の魚肉ソーセージ、サツマイモの干しいも、醤油味の胡麻煎餅、タラの棒状干物に特製ステック麦茶であった。 あ〜、なんてセコイ朝食か。焼きたての香りあふれたパンも、暖かいコ―ヒ―も駅舎売店で売っているのに、だ。 でも、これが我ら流私的旅である。我らは気にならないが、きっと車中は魚肉と胡麻煎餅の醤油の臭いと胡麻の香りで満ち満ちているに違いない。 『あ〜、お腹いっぱい。車窓はきのう見たから、寝るよ』3人掛けの席にリュックを枕に相棒は横になる。 朝日が車中に差し込んできた。オリエンテ駅で乗り込んできた観光客は5人。車中の臭いで怪訝な表情が走る。 やがて、遠目右手にテージョ川に架かる全長17.2キロメートルのヴァスコ・ダ・ガマ橋が見える。 1998年に開通し、アレンテージョ地方にある隣国スペイン国境に近い魅力的な町や村、それにスペインに行く主要幹線道路の華である。 ウトウトと睡魔に襲われ、気付くと車窓が一変していた。腕時計の針は9時を過ぎている。 小さな無人駅で止まり、また動きだすと車窓が逆転した。つまり、右に動いていた風景が左に動き出す。 オリーブ畑の坂を上っていた。しばらく走り、止まる。更に小さな駅だ。また逆に動き出し、急な坂道を喘(あえ)いで登って行く。 スイッチバック方式だ。直線的に上れないのでジグザグして山道を上っていたのだった。きっと蒸気機関車時代の線路をそのまま使っているのだ。 昔むかし、母の故郷である信州茅野市で夏休みの1カ月を過ごすために、11歳の少年は初めて新宿駅から中央本線の蒸気機関車列車に乗った。 茅野駅に着くまで55か所のトンネルを抜け、韮崎駅でスイッチバックを体験し、石炭の煙とその臭いと粉塵で目をこすりながらの8時間ひとり旅を、ポーは思い出していた。 オリーブ畑を上り切るとトマール駅があった。 9時50分、予定通りに着いた。トマールの街は、高地である。 「けいの豆日記ノート」 《8年振りのトマール》 今夜の宿ホテル・トロヴァドールは、終点駅舎の道向かいにあった。旅行バックの運搬を考え相棒が予約したごくごく近場の宿だった。 前に来た時は街中にある、築100年を越す宿ウニアオンで泊った。20分以上も旅行バック2つを転がした苦い経験がある。 タクシーを使えばいいものをケチケチが優先していた。 駅舎から2分で着いた宿は親切であった。 チェックインまでは早すぎる時間帯ではあったが、部屋の掃除が終わっていたのですぐ4階308号室(こちらでは1階が0階なので3階になる)のキ―を渡してくれた。 荷を解き、トイレをすませ街に飛び出した。トイレは日本と違って不便である。 だから、利用できる時はしたくなくてもする。それが旅の鉄則である。ともかく、1度は便座に座ってみることだ。 笑ってしまうが、これが不思議に、出る。 トマールは、水量があるナバオン川畔にある緑の多い美しい街で、心を癒してくれる雰囲気に満ちていた。 この地は2004年の4回目の旅から8年振りであったが、すんなり街中に溶け込めた。少しも変わってなかった。 前あったところにトゥリズモ(観光案内所)がなかったぐらいで、大きな変化は感じられない。 街の中心にレプブリカ広場があり、広場を両側から挟むように市庁舎と、とんがり屋根のサン・ジョアン教会がある。 15世紀に建てられたゴッシク様式の教会内部の装飾は品格がある。ごてごてした飾りがなく心が洗われる。 祭壇の天井だけ繊細な彫刻装飾がほどこされ、目を引いた。 この街は、テンプル騎士団がイスラム教徒軍に対する備えとして、12世紀に築いた城塞の城下町として発展してきたという。 (「テンプル騎士団」については、前回の3回目を参照してください) 黒と白のひし形模様で埋め尽くされた石畳が美しいレプブリカ広場から、駅舎に向かう路地に入るとお目当てのレストランがある。 腹が、昼時を告げていた。腕時計は11時40分。レストラン内部は8年前と同じであった。 カウンター背後の棚にはウイスキーの瓶が並び、テーブルは大小合わせ15席。8年前より更に頭髪が後退した店主も健在だ。 10人ほどの地元大学生が賑やかにビールとワインを飲みながらの昼食中だった。 現在EU諸国のうち財政が危機状況にあるのは、ギリシャ、アイルランド、スペイン、イタリア、それにポルトガル。 EU諸国は、財政破綻をなんとしても阻止しなければならないのだ。そんな真っただ中にあるポルトガルである。 この大学生たちは国の現状をどう考えているのだろうか。話を聞きたかったが、無理だ。ポーは、喋れなかった。 無念であり、情けない。さらりと、話すことができれば旅の面白さは倍増するのに、だ。まっ、いいか!無理は、無理なのだから。 相棒が注文した。アサリのバターいため(4.5)、タコのオリーブ油(4.5)、サラダ(3.3)、サグレス生ビール(0.95)、 サイダー(1.5)、計14.75ユーロ。 アサリの貝模様は白一色。 貝の蝶つがいに、さっとひと刷毛の黒が走る。アフリカ産だそうだ。 日本のアサリの味を知っている者にとっては、なんとも情けない味だ。 タコのぶつ切りになんかの細かく切った葉っぱが混ざり、あとはこれでもかとオリーブ油がかけてある大盛りだ。 ぶつ切りの足は、8本分はある。まさにタコのオリーブ油漬け状態だ。ポーは塩を掛けて食べた。 サラダはさらした玉葱、輪切りの胡瓜、細切りの人参、薄切りのトマト、レタスにオリーブの実、くるくる巻いたチーズ。これも大盛りであった。 それに、サグレス生ビール。うまい。サイダーを飲む相棒に目配せしてから、もう一杯、追加した。 「けいの豆日記ノート」 《キリスト修道院に向かう》 『タコを食べすぎたよ、ポーが一寸しか食べないから、残したらもったいないし、タッパーの器も持ってないしさ』 12時20分、相棒の呟(つぶや)きを聞きながらレストランを出て、丘の上のキリスト修道院に向かった。 陽射しは容赦なく照りつけていた。 この暑さの中、いつも長袖姿の相棒、暑くないのだろうか。 『暑いに、決まってるよ! 日焼けで真っ赤になって、ヒリヒリ痛くなるより、マシ!』 8年前の経験で、セテ・モンテス国立森林公園脇の坂道を歩いて行けば20分で着ける。 ポーは忘れていたが、相棒は一度通った道を忘れてはいなかった。まるで、犬である。この臭覚(記憶力)は、旅人の財産だ。お宝である。 登って行くと老夫婦が降りてきて、両手でバッテンを作る。 この先は工事中で行けないとスエ―デンから来た老夫婦は、登る道を聞いたからご一緒しましょうと言ってくれた。 相手の表情と手ぶりと優しさで察知する能力に長けた相棒は、まさに犬であった。これも、お宝なのだ。 国立森林公園の門前に立つエンリケ航海王子像を見上げ、門扉を潜(くぐ)ると、広々とした公園が奥の奥まで拡がり、バラが咲いていた。 右手に丘に登る細い道が遥か先に見える城壁に向かって延びていた。 老夫婦は、お先にどうぞと言った。相棒は折鶴2羽を渡し、『オブリガード』『ありがとう』と感謝をこめて言う。 木々に囲まれ細道は、鳥の声で満ちている。 涼しい風も木々の葉っぱを伝わって吹いてくる。でも、坂道はきつかった。 30分も登ると急に視界が開け、水道橋に出る。更に進むと、工事中の先に出た。 前に来た時は、展望台になっていた駐車場だ。 そこにレストランでも造ろうとしているのか、そんな工事であった。 そこから臨時的に造られた細い道を上ると、幅3メートルほどの石畳の道に出る。 道沿いに石積みの城壁があり、沿って歩いて行くと広場がぽっかり開け、その先にポルトガル建築の粋が集約されているという [世界遺産・キリスト修道院]の城塞が青空の下で異彩を放っていた。 「けいの豆日記ノート」 《6ユーロと3ユーロ》 10メートル進むにつれ、建物がどんどん大きく見えて来る。 12世紀の初めにテンプル騎士団が建造を始めたというキリスト修道院は、外観は修道院というより要塞そのものだ。 100メートルほど歩き石段を上ると、30メートルはゆうにある石積みの壁面が圧(の)しかかってくる。 その壁面を手で、触れてみる。太陽の陽射しで焼きついていると思ったがひと肌の暖かさであった。 きっと石積みの隙間が熱を吸収してしまうに違いないと思う。 その壁面伝いに右に歩いて行くと入り口があり、チケット売り場がある。思ったより観光客が多い。 順番を待つ。当然、金庫番の相棒が買い手だ。『ポー、パスポート出して!』と、ニコニコ顔だ。 入館料は6ユーロだが、65歳以上は半額の3ユーロ。 ふたりで9ユーロ、ケチケチ笑顔が弾(はじ)けていた。 修道院の中を見る前に持参のガイド本に目を通した。8年前に来た時は工事中で、ほとんど印象に残っていない。 [マヌエル様式の窓]ぐらいか。8年前から今回で、ポルトガル旅は3度目、12年前からだと7回目だ。 目も肥えてきているし、ポルトガルの知識も、ポルトガルで生活している仲間との交流も増えている。 観光客から、より旅人になっていた。ポルトガル各地の紀行文も100編を超えた。視点の置きどころも変わって来た。 しかし、概要を知って観るのと、知らずして見るのでは経験上、楽しさに雲泥の差がある。 「けいの豆日記ノート」 《世界遺産・キリスト修道院とは》 ガイド本『地球の歩き方・ポルトガル編』の「キリスト修道院」概要を、ポー流に描いてみた。 【昨日行った、ガイド本にないリスボン北東の[サンタレン]をイスラム教徒から奪回した功績で1147年、 ポルトガル王アフォンソ1世からこの地[トマール]を与えられたテンプル騎士団。 テンプル騎士団は武力だけでなく、石工技師にも長けていた。ユダヤ社会やイスラム世界に伝えられた高度な石造技術を学び、 それをヨーロッパに持ち帰り、石造建築のレベルを上げたことでも知られている。 テンプル騎士団は、トマールの丘の上に頑強な城塞と聖堂を築き上げ、ポルトガルでの拠点とした。 だが、1312年にフランス、ドイツ、スペインなどのテンプル騎士団は、フランス国王フイリップによって弾圧、逮捕、処刑、解散に込められる。 しかし、ポルトガルのトマールのテンプル騎士団はディニス1世により、キリスト騎士団と名を変え引き継ぎ、エンリケ航海王子も団長として活躍。
12世紀末から16世紀まで5世紀に渡り増改築が続き、ポルトガル最大の修道院となる。
初期のムデハル様式からゴシック様式、マヌエル様式、ルネッサンス様式とポルトガル建築の変遷が[世界遺産・キリスト修道院]には、宿っているのだ。
15世紀の初めこの組織は、テンプル騎士団の財力によって黄金期を迎える。
それが、エンリケ航海王子によるポルトガル大航海時代の幕開けである】 《5つの回廊》 キリスト修道院には、大きく分けて5つの回廊と2つの聖堂があった。 チケット売り場の脇から中に入ると、まず奥行きの深さ、その広がりに圧倒させられる。これからどう見ていけばとポーは迷う。 だが、地図に強い犬がいるから心配することはない。 それにしても、100人以上の観光客が入館しているというのに、人影はちらほら状態だ。きっと、とてつもない広さに違いないと思う。 回廊の壁にぐるりと貼りめぐらしてあるアズレージョ(ポルトガル装飾タイル画)が目に飛び込んできた。 そこは[墓の回廊]と呼ばれ、15世紀前半にエンリケ航海王子が増築したひとつで、修道士たちの墓地を囲んだ回廊である。 と言っても中庭に墓石があるわけではない。 アズレージョは17世紀に改築した時、付け加えられたものだという。 [沐浴(もくよく)の回廊]も航海王子の依頼で、かつて修道士たちが髪や体を洗ったという貯水池を囲んで造った回廊である。 ここも回廊の壁まわりにアズレージョがあった。 [ミシャの回廊]は、1543年に完成。回廊の西側にはパンを焼くかまどがあり、貧しい人々に配ったそうだ。 [カラスの回廊]は、ジョアン3世によって増築されたひとつ。1階の北側に台所、東側に食堂があり、修道士の憩いの場であった。 どの回廊も広い中庭になっていて、回廊をひと回りすると東西南北で陽射しの変化を楽しめた。 なかでも圧巻は3階建の[主回廊]の中庭にある大きな燭台状の噴水だ。 水は噴き出ていなかったがオリンピックの聖火台に見えた。 この回廊は、ジョアン3世時代の16世紀にルネッサンス様式で造られているという。 「けいの豆日記ノート」 《マヌエル様式の窓》 回廊を廻っている間に犬と、いや相棒とはぐれる。 1階をうろうろしている間に、螺旋階段で2階に抜けていたようだ。 はぐれたらスタート地点で待つが、約束になっていた。 ここでは、チケット売り場だ。 でも、入館して30分もたっていない。 見学2時間の予定である。後1時間半も残っている。 戻ることもないし、野放しにしてしまったが暴漢に遭うこともないだろう。 ここは世界遺産、警備も整っている。 相棒の習性からすれば前に来た時、工事中だった[テンプル騎士団聖堂]で撮影取材に時間をかけていると踏む。 8年前はフィルム撮影時代で、薄暗い聖堂ではフラッシュも使えず、また持参フィルム150本も日々の予想カット数を計算して撮らなければならず、 ひと駒ひとコマの撮影に心配りをして無駄なシャッターは切れなかった。 8年の時間は、カメラも急速に変化していった。デジタルカメラが主流となる。 150本のフィルムを持ち運ばずに済む。 これはいろいろな面で、撮影取材旅を楽にしてくれた。 撮影費用の面でも、撮影作品の確認の面でも、また精神的な面でも、デジタルカメラ時代到来は、ケチケチ撮影取材旅の我らにとって幸運であった。 迷った方向音痴のポーは、サンタ・バルバラの回廊通路を歩いていた。空は真っ青。 陽射しは強い。その照りつける外壁に[マヌエル様式の窓]が目に飛び込んできた。 これだけは、ポーの記憶にも鮮明に焼きつけられていた。 高さ3メートル近い窓にこびりつくような装飾がほどこされている石造りマヌエル様式の窓だ。 上部にキリスト騎士団のマルタ十字があり、その下にポルトガル国の紋章、その両脇にポルトガルの大航海時代を象徴する初めて未知の世界を制覇して行く地球儀がある。 それにロープや鎖、サンゴなどが立体的に刻まれている。見ていて飽きない。 その立体的な模様に囲まれ格子状の窓が収められている。 この繊細な細工は、マヌエル様式の最高傑作と言われているが、陽射しや風雨で色あせ朽ちていかないだろうかと老婆心が騒いだ。 でも、当時から500年以上もたっている現実に気付く。 ポーの心配することではなさそうだ。 このマヌエル様式の窓は、[キリスト騎士団聖堂]の西壁にあった。 「けいの豆日記ノート」 《2つの聖堂》 その[キリスト騎士団聖堂]は、この後に紹介する[テンプル騎士団聖堂]とつながっていた 簡素なキリスト騎士団聖堂であったが、高い半円形の天井を見て思わず感嘆の声が出てしまう。 縦8か所、横6か所、計48か所に海藻模様の絵柄があり、その中に一枚キリスト騎士団のマルタ十字が刻まれていた。 それを発見した時、ポーはキリスト騎士団と名を変えたテンプル騎士団の一員になった感覚に痺れていた。 [キリスト騎士団聖堂]は、マヌエル1世の命で16世紀初めに建立されたと知る。 西側部分は2層の聖歌隊席になっていた。 前回見られなかった[テンプル騎士団聖堂]は、12世紀にテンプル騎士団によって造られたビザンチン風ロマネスク様式の聖堂である。 中央にアーチ状の窓が開いた八角塔で、まわりは高い天井の16角のシリンダー状の塔になっている。 共に柱には騎士の彫刻が刻まれていた。 16角形の円堂になっているのは、テンプル騎士団が騎乗したままミサができるように設計されたといわれている。 柱と天井の装飾は目を見張った。 何時までも観たい衝動に駆られるほどだった。 ここで、迷子になった?犬(相棒)を発見。 あっちから、そっちから、こっちからと、こまめに動きシャッターを押す相棒は、勿論ポーの姿は視界にも入っていなかった。 声をかけると、その第一声は『ポー、迷子にならず、よくここに来られたね』と言った。更に一言、吐いた。 『恐れ入谷の鬼子母神(おそれいりやのきしもじん)』だと。 「恐れ入りました」のしゃれ言葉を、相棒から言われるとは思ってもいなかった。 《23772歩》 トマールの街に降り、市庁舎前で30人ほどの子供たちの集団に出会った。 当然、相棒の眼が輝く。その子供たちはジーパン姿ではない。民族衣装らしきものを着ている。 相棒、獲物発見だ。その時、レプブリカ広場に馬の蹄の音が響いてきた。 手持ち小型カメラを回しながら子供たちに向かって、手をふれ〜!と叫ぶのは先生か。 どうも荒々しいドラマ撮影現場のようだ。 そのカメラが、2頭だて馬車に乗った赤いドレスを着た女の子に向けられる。 ポーは目の前の若い母親に聞く。手ぶりと単語で推察し判った。 子供会で毎年やっているキリスト修道院物語よ!と嬉しそう。 馬車は、群衆の子供たちに近寄って来る。 その周りには、子供たちの父母がデジカメや携帯カメラで、それもフラッシュの花が咲く。 どんなドラマになったのか、その映像を見たかった。 「けいの豆日記ノート」 夜景のトマールを撮って、昼食を食べた頭髪が後退した親父のレストランで、夜食のガラオンとサグレス生ビール、 それにエッグタルトを一つづつ食べ(計、4.15ユーロ)、宿に戻った。 22時であった。万歩計を、見た。23772歩だ。相棒は24000歩を越しているかも知れない。 今日も、よく歩いたものだ。 *「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 |
バックナンバーは、こちらからどうぞ・・・
2012−1話 Lisboa 10 |
2012−2話 Santarem |
2012−3話 Entroncamnto |
2012−4話 今回分です。 |
2012−5話 お楽しみに。 |
バックナンバーは、こちらからどうぞ・・・
2008−1話 Lisboa 5 |
2008−2話 Cascais 2 |
2008−3話 Estoril 2 |
2008−4話 Sintra 2 |
2008−5話 Sintra 3 |
2008−6話 Lisboa 6 |
2008−7話 Portalegre |
2008−8話 Castelo de Vide |
2008−9話 Portalegre 2 |
2008−10話 Portalegre 3 |
2008−11話 Portalegre 4 |
2008−12話 Mrvao |
2008−13話 Lisboa 7 |
2008−14話 Lisboa 8 |
2008−15話 Cristo Rei |
2008−16話 Cacihas |
2008−17話 Nogueira Azeitao |
2008−18話 Fresca Azeitao |
2008−19話 Evora 2 |
2008−20話 Beja |
2008−21話 Beja 2 |
2008−22話 Serpa |
2008−23話 Vila Vicosa |
2008−24話 Borba |
2008−25話 Redondo |
2008−26話 Evora 3 |
2008−27話 Arraiolos 2 |
2008−28話 porto 8 |
2008−29話 Aveiro 2 |
2008−30話 Costa Nova |
2008−31話 Braga 2 |
2008−32話 porto 9 |
2008−33話 porto 10 |
2008−34話 porto 11 |
2008−35話 Lisboa 9 |