「ポー君の旅日記」 ☆ コルクのアザルージャ&夕日のエヴォラモンテ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・11≫
=== 第四章●エヴォラ起点の旅 === コルクと夕日のアザルージャとエヴォラモンテ
《昨日27日の夜の別れ》
[ペネラ]の〈ペネラ城中世祭り〉を楽しみ、KIMIKOさんの[コインブラ]にあるマンションに戻ったのは、まだまだ明るい19時30分だった。
宿に送ってくれてもよかったが、KIMIKOさんが夕食を食べて行って欲しいと言ってくれたからだった。
疲れているだろうからとご辞退したが、3日前初めて訪れたKIMIKOさんのマンションで初めて会った中学生のマリアンヌさんが、
相棒にスナップを撮って欲しいから夕食を用意して待っているという。
我らも別れの挨拶がしたかったので、喜んで受けた。その時のKIMIKOさんの安堵の表情が忘れられない。
心底から心やさしい人であった。
一昨日、KIMIKOさんの義母が経営する幼稚園を撮影させてもらった時、義母宅の大地で収穫したばかりの空豆を義父から土産でもらった。
その晩ポーがゆでた空豆が冷蔵庫に保存してあるのを思い出し、KIMIKOさんに食べたいと願う。
「ソラマメ君!」と呼ぼうかなと言って出してくれた。ポーは食べまくる。
皆に笑われたが、赤ワインには空豆がよく似合う。ポーは、空豆が大好きだった。
そして、KIMIKOさんにハグして別れの挨拶をしたが、背丈の高い彼女にハグされた形になってしまい、オブリガード!ありがとう!であった。
22時、途中までKIMIKOさんに送ってもらう。手が千切れんばかりに手を振ってKIMIKOさんに感謝し別れた。
相棒の眼にうっすら涙が光っているのをポーは見逃さなかった。それが、嬉しかった。
そして、夜のコインブラの町を撮影しながら宿まで30分ほど歩いた。大学の町コインブラは怖くなかった。
「けいの豆日記ノート」
マリアンヌさんは、中学生ともえないほど、大人びていた。
背も高く、顔立ちも大人とかわらない感じだった。
写真を撮りたかったが、年頃の娘さんなので、いやがるかなと思い、遠慮していた。
なので、撮ってほしかったといわれて、とてもうれしかった。
また逢うことができてよかった。
写真は、室内より外のほうがいいと思い、テラスに出て撮ることにした。
やはり、自然光が1番である。
普段から写真に撮りなれているのか、こちらからポーズとかいわなくても、シャッターごとに違うポーズをしてくれた。
自分をアピールする方法を知っているのだと思う。
あっという間に100枚近くを撮ってしまった。
すぐにデータをパソコンに移す作業をした。
プリントして部屋に飾ってくれているとうれしいなあ。
《高速バスに乗って》
何処までも広い青空であった。5月28日(月)の朝、ポーはガラガラと、重い旅行バック2個を両手振り分けで転がす。
9時30分発[エヴォラ]行きのチケットを買うため、コインブラバスターミナルに急ぐ相棒の姿が遥か先に見えた。
バスターミナル内は意外と人の姿が多い。
持ち物から察し、みな旅行客のようだ。白い車体に赤い帯が横に1本走る洒落た高速バスRede Expressosに乗った。
エヴォラまで18.5ユーロ、4時間のバスの旅が始まる。窓ガラスは広く視界良好。
座席はゆったり、背もたれも優しく包み込んでくる。
乗り物に乗ると、その振動に魅せられたように眠ってしまう相棒。期待に応え、20分も持たなかった。
高速道路並みの2車線道路を快調に南下。東名高速道路のように高い防音壁はない。車窓風景はパノラマだ。
目(ま)の当たりに草原が飛んで行く。まるい形のオリーブの木が、大きなボールのように何百と転がり去って見える。
青い空に恐竜の骨模様の白雲が浮かんできて遠ざかる。
車窓は見ていて飽(あ)きない。なのに、眠るお人がいた。
南下した高速バスは30分後、聖母マリアの奇跡が起こった聖地として、巡礼の人びとで賑わう[ファティマ]のバスターミナルで5分停まる。
トイレに行く間もない短時間だ。ここで、リュックを背負った若い男女が乗車してきた。
大学生かもしれない。45分後には[サンタレン]のバスターミナルで停まる。
『あれっ?サンタレン!リスボン経由でエヴォラに行くと思っていたのに・・・』 相棒の寝起きの声だった。
サンタレンは6日前【今回の紀行文・2】に来た町である。ということは、今日で一週間か、早いなとポーは思う。
それだけ日々、充実した旅を過ごしている証(あかし)であった。
「けいの豆日記ノート」
高速バスは、ネットで時間を調べておいた。
さすがに本数が多くてうれしい。
ほとんどのバスがリスボン経由か、乗り換えであった。
まだバスの時刻表の見方がいまいちで、経由なのか、乗り換えなのかわからないでいる。
以前、エヴォラからポルトに行くときに、リスボン経由かと思いゆっくりしていたら、乗り換えらしく下ろされた。
今回もリスボン経由だと乗り換えの可能性が高いなあと思っていた。
でも、サンタレン経由なので、リスボンに行かず、乗り換えがなく、とてもラッキーであった。
サンタレンのバスターミナルは、町の中心近くにあり、便利がよさそうであった。
数日前、サンタレンに鉄道で行ったので、40分ほど山道を歩いたのである。
鉄道駅のアズレージョを見たかったのもあって、鉄道を使ったのだが、次回訪れるときには、バスを使おうと思う。
《思い込み》
延々と続く農業地帯を更に2時間50分ほど走り抜け、[エヴォラ]に着いたのは13時45分。
コインブラから4時間15分で、城壁に囲まれ旧市街地エヴォラの城壁の西外にあるバスターミナルに入る。
今夜の宿〈ドン・フェルナンドホテル〉は城壁の南外だ。
歩けば1キロメートルだが、重い旅行バックがあるので仕方なしにタクシーを使った(5.95ユーロ。旅行バック2個分の料金込み)。
洒落た美しい大型のホテルであった。
中庭に芝生で囲まれた大きなプールがあり、それを白い壁の3階建てが囲んでいる。
各部屋にはバルコニーが付いているので、どの部屋からもプールが見渡せる。
それに相棒がこのホテルを予約したのは、鉄道の駅が歩いて5分の所にあり、しかも料金が安かったからだ。
でも、計画性がある相棒であったが、弱点もある。思い込みだ。
ホテルに着き、旅行バックを運んでフロントに行くと、相棒が頭をぺこぺこフロントの女性に下げていた。
その原因は、思い込みであった。5月28日なのに6月28日で予約していたのだ。
すでに宿泊料金は予約と同時にクレジットカードから引き落とされている。
部屋が空いていたので5月に書き変えてくれ、泊まれた。
折鶴が相棒の手から、フロントの女性の掌(てのひら)で、感謝で舞っていた。
「けいの豆日記ノート」
今回泊まるドン・フェルナンドホテルは、ネットから予約した。
今まで宿泊したエヴォラのホテルは、城壁の内側にある所であった。
ペンサオンであっても、けっこう高かった。
このドン・フェルナンドホテルは、格の高いホテルなのに、すごく安かった。
城壁の外側にあるのが観光には、多少不向きだったのかもしれない。
バスやタクシーでくるには、入口前につけることができるので、便利だと思うのだが。
城壁の中は、石畳であるし、車の入れないところも多くてガラガラを引きながらの移動はたいへんである。
安くていいホテルを予約したつもりであった・・・ところが、
フロントで予約をつげても怪訝な顔をされた。
印刷した用紙をみせるとフロントの女性が日付の場所を指さした。
「あ〜〜〜5月と6月をまちがえている〜〜〜」
何度も紙を見たのに、全然、気がつかなかったのである。
私の落ち込んだ顔を見て、かわいそうになったのか、日程を取りかえしてくれた。
よくあることだが、思い込みとは、恐ろしいことである。
《アザルージャに向かう》
我らは、エヴォラの町が好きだった。城壁に囲まれたエヴォラは、すべて世界遺産である。
古代、中世、近代で築きあげてきた文化遺産が凝縮されていた。
最初は2002年2月、2回目が2003年2月、3回目が2008年6月、そして今回、2012年5月が4回目になる。
ポルトガルが好きで今回7回目の〈訪ポ〉だが、そのうち4回もエヴォラに来てしまった。
エヴォラは歩けば歩くほど、心を擽(くすぐ)る魅力あふれた古都である。
今回エヴォラに宿をとったのには、もう一つ理由(わけ)があった。
エヴォラから北東45キロメートル、コルク樫やオリーブの木が茂る荒野を抜けると丘陵地に[エストレモス]という城壁で囲まれた陶器で名高い町がある。
2002年2月に行った町だ。そのエストレモスに行く途中、20キロメートルあたりに[アザルージャ]という町がある。
旅人には、目にもとまらないちいさな集落である。
この集落に住んでいる日本人ご夫婦に会うのが、相棒がスケジュールに組み込んだ目的であった。
ホテルからバスターミナルまで歩き、そこでタクシーに乗った。
タクシーは城壁沿いの道を走り、16世紀に創設された〈カルヴァリオ修道院〉前を通り過ぎ、城壁内から外に続く高い水道橋の下を潜り、
ロータリーをくるりと廻りエストレモスの標識で北東に向かった。
振り向くとエヴォラの町が城壁ですっぽりと囲まれ、今日まで守り継げられてきたことを彷彿(ほうふつ)させた。
草原の中をまっすぐ伸びる片側1車線の道を、60歳代のおじさんは80キロのスピードで走る。
対向車はめったに来ないが、前座席の縁を思わず握りしめていた。
20分後、スピードを緩め右方向に見えてきた集落に入る。腕時計は、15時25分であった。
乗る時に相棒が渡した住所メモをチラリ見たおじさんは、2階建の白壁、外巾木と窓や入り口にオレンジ色の縁取りがある
パステラりーア(カフェ)と書かれた店頭で停め、店先の椅子でたむろしていたおじさん達に声をかける。
間髪、声を一つにして「ali!(あそこ!)」と、右方向に指差し合唱だ。
まるで芝居を見ているような舞台であった。
「けいの豆日記ノート」
エヴォラから、アザルージャまでバスがあることも聞いていたが、本数が少なかった。
タクシーに乗ることにした。
住所の書いてあるノートを見せて、あとは、タクシーまかせである。
アザルージャの町に入り、広場付近のカフェで家を聞こうとしたのだが、その前にわかってしまった。
いつもの馴染みのカフェで、住人達ともお友達なのだろう。
日本から友達がくること話していたのだろうと思う。
すっかり、この町の住人なんだなあ。
《再会》
おじさん達の指先方向には、細長い白壁平屋建てがあった。あそこ!に、相棒の幼馴染の奥さん夫婦が住んでいるのだ。
相棒は運転手に21.25ユーロと折鶴を渡した。おじさんは千代紙模様の赤い折鶴を気に入ってくれた。
玄関で相棒が、呼びスイッチを押す。髪の毛を引き詰めたカトリーヌ・ドモンジョが扉を開けた。
ポーは彼女を、カトリーヌと呼んでいた。ルイ・マル監督の映画〈地下鉄のザジ〉主演のカトリーヌ・ドモンジョ似だったからだ。
ポーは3年振りでお会いした。ポルトガル人のカトリーヌになっていた。
細長い廊下の左右にはいくつもの部屋があり、一番奥に大きなキッチンフロアーがあった。
大きな丸テーブルは食卓であり、憩いの場の主役にも思えた。
コルクで造った大きな器にはクルミが山盛りだ。ご主人の、ドン・ガバチョとは5年振りかも知れない。
ポーは、紙パック入り薩摩産芋焼酎を2パック差出し、重かったです、大切に飲んでくださいと渡し、日本の胡瓜は持参できませんでした、と付け加えた。
実はもう何年も前にスナックにご一緒した時、グラスの芋焼酎に胡瓜の輪切りを入れて飲み、胡瓜がメロン味になるんです、いけますよとガバチョさんに言われたのだ。
摩訶不思議、胡瓜が、なんとメロンになった。
なぜご主人をドン・ガバチョとポーは呼んでいるのか。
初めて焼き物のまち常滑(とこなめ)でお会いし話をした時、アッこの人はドン・ガバチョだとポーは思った。見かけではなく心根が似ていた。
〈ひょっこりひょうたん島の大統領〉がぴったりだ。
♪あしたがだめなら、あさってにしましょ・・・どこまで行っても明日がある♪大統領が歌うあきらめない根性魂は未来を信じていた。
(言っておきます。ご本人たちはポーに、カトリーヌ、ガバチョと呼ばれていることは知りません)
「けいの豆日記ノート」
エヴォラのホテルまで車で迎えにきてくれる予定だったという。
ホテルに電話しても私が泊まるという予約がなく、ちゃんとエヴォラに来るのか心配していたという。
予約がないはずである。
1か月も日付を間違えて予約していたのだから。
この話をすると、フロントでよく変更手続きができたものだと感心された。
なんせ、ポルトガル語を話せないのだから。
シーズン中でないので、ホテルの部屋に空きがあってよかったと思う。
《コルクとの出会い》
カトリーヌさんが丸テーブル前に広がる料理台でゆったり料理作りをしている。
我らが15時過ぎにお邪魔することと、昼飯は食べずにいらっしゃいということは、カトリーヌさんと相棒の間では電話で連絡がついていた。
ガバチョさんが家の中を案内してくれた。バス・トイレ、衣装室、寝室が2部屋、書斎、秘密の部屋、作業室などが整然と並んでいる。
中でも最近、作業室にいる時間が多いとガバチョさん。
作業台の上には、大小のノコギリ、糸鋸(いとのこ)、トンカチ、彫刻刀、ナイフ、紙ヤスリ、布ヤスリ、
ボンドコークなどがコルク樫から生産された肉厚のコルク、コルクの切れっ端(ぱし)が戦場のように雑然と置かれていた。
作業室は、ガバチョさんの息抜き娯楽室のようだった。
そういえば、憩いの丸テーブルの上にコルクで造ったモノが、ポーは気になっていた。
クルミが山盛りされたコルク器、丸い柱状に細工されたコルクが円形に組まれ、その中に栓抜きが立ち、ワイン瓶状やワイングラス状に細工されたコルク、
使い捨てライターがすっぽり収まるコルクサック、壁に飾られたコルクのオブジェ、携帯電話の飾りはコルクのアルファベットなど、
すべてガバチョさんのコルク作品であった。
ガバチョさんの話によって、今この地に住むようになった根源が分かった。
4年前エヴォラの近くで仮住まいをしていた時、パステラりーアで知り合った男と意気投合。
家に来ないか、部屋が空いているから格安で住んでもいいよと。後日訪問、即決で借りた。
男はコルクを扱う仕事をしていたが、ポルトガルと言えば世界的にコルク生産で名高いが、昔のようにコルク業界も衰退しつつあった。
いまは引退しご隠居ぐらし。裏の倉庫に残ったコルクがあるから自由に使ってもよいとも言う。ガバチョさんは家具付きの細長い平屋が気に入ったのだ。
日本からカトリーヌさんを呼んで4年近くになる。今では近隣住民とも打解け、日々を楽しんでいるという。
久しぶりでお会いしたカトリーヌさんがポルトガル人になっているわけだ。
「けいの豆日記ノート」
玄関のドアを開けると、まっすぐな廊下があり、突き当りが台所であった。
思ったより奥行が長かった。
家具とかは、最初からついていたという。
冷蔵庫や冷凍庫は買ったという。
大きな冷凍庫は、遠くのスーパーで買いだめをしたときの食品保存用に必需品らしい。
冷蔵庫に冷凍室はあるようだが、小さいので足りないようである。
もちろん、日本の冷蔵庫のように氷を作ったりの機能はついていない。
あまり、氷を必要としていないこともあるのだろうが。
自動的に氷ができる日本の冷蔵庫ってすぐれものかも・・・
《現代コルク事情》
エヴォラを中心としたアレンテージョ地方は、コルク生産地である。
エヴォラの鉄道駅舎にコルク採取のアズレージョ(装飾タイル画)が飾られている。
コルクの木はコルク樫(かし)と呼ばれ、150年から200年の寿命がある。
コルク樫の樹皮を9年に1度表面を剥ぎとり、乾燥させ製品化する。剥ぎとった後に9年後のためにペイントで記録を残す。
採取時期は、6月〜8月の3カ月である。惜しい、もう少しで採取現場が見られるのに、と相棒は地団駄踏んだ。
コルク樫のドングリの実は、食用油に。それにイベリコ豚の餌として貴重である。
〈コルク日本・ポルトガル工業会〉によると、コルクと言えばポルトガルが独占市場を誇っていたが、今は世界で使用されているコルクの52パーセントを占めている。
次はスペイン、北アフリカ諸国、イタリア、フランスと続く。日本のコルク利用率は、3分の2がポルトガル産である。
ワイン王国ヨーロッパではワイン瓶の栓はコルクと決まっていたが、今や栓はコストの安いプラスチック時代だ。
ただし、高級ワインは長期熟成が必要。それにはコルク栓が欠かせない、という。
コルク製品はコルクボード、コルクコースターがポピュラーだが、今では傘、バック、帽子、ネクタイ、バンドなど多彩の商品がある。
ガバチョさんの作品は繊細で、ユニークだ。コルクアイディア商品界に旋風を巻き起こすかも知れない、とポーは期待大である。
《七面鳥と陽気な仲間たち》
カトリーヌさんのおごっつぉは、七面鳥料理であった。差し詰め〈ペルー・ア・カサドール〉だろうか。
ジャガイモやニンジンの上にカリカリに焼けた七面鳥を赤ワインとヴイオンを、オーブンで煮詰めたカトリーヌ風ポルトガル料理か。ポーは初めて食べた。
七面鳥とニワトリの味は区別できないが、皮はカリカリ、肉はふっくらジューシーだ。
ジャガイモも味が沁み込み、熱々で、ほくほく。美味しいな〜ぁ、と思わずつぶやいてしまった。
カトリーヌさんと相棒は積もる話に花が咲き、ガバチョさんとポーは黙々と食べ、赤ワインを飲んだ。
16時を過ぎた昼食である。腹が減っていたのでワインが身体を駆け巡る。煙草を美味そうに吸うガバチョさん。香りが甘い。
細巻きのスペイン産葉巻きだった。煙草の煙が窓の外に流れる。
中庭は広く、ロープを張った干場で真っ白いシャツが風で泳ぎ、16時過ぎの太陽光線が眩(まぶ)しかった。
昼食後、家の斜め前にあるパステラりーアに行く。さっき指差しをしてくれたおじさん達が、まだいた。
相棒の動きが機敏になる。ユニークな被写体が、ごろごろいる。ガバチョさんに、みんなの写真を撮っていいかと聞いてもらう。
みな友達だが、紹介しながら了解をとるよ、と言ってくれた。
ガバチョさんはもう20年以上もポルトガルを歩き回っている。ポルトガル語に堪能だ。
でなければ、隣町に来たように気軽に住めないだろう。仲間は、ガバチョさんの財産である。
店先の椅子には7人ほどが座り、たむろし、声をあげて笑い、喋(しゃべ)った。
パステラりーアにはめったに婦人の姿を見ないが、ここでは例外である。カトリーヌさんが皆の中で、輝いて見えた。
「けいの豆日記ノート」
夕日の時間まで、アザルージャの町を歩くことにした。
家の陽射しが強い昼間のせいか、町の路地には、人はほとんどいなかった。
お昼寝タイムなのかもしれない。
町を周り、家の前の広場に戻ると、ベンチには、おじさんたちが座っていた。
ベンチ1台に4人か、3人ずつ座っていた。
指定席のベンチに座るハンチング帽の人は、どの町でも見る光景である。
みなさん、気軽に撮らせてくれた。
いつも、ハンチング帽がポルトガルのおしゃれのひとつのような写真を撮ることが多い。
だが、ハンチング帽は、リスボンとかの都会の町では、ほとんどの人がかぶっていないのである。
田舎でしか見ない風景になってしまったのだなあ。
《エヴォラモンテの夕日》
20時30分。ガバチョさんの愛車であるワーゲンの中古車に乗り込む。
運転は当然ガバチョさん、助手席にカトリーヌさん、後ろの座席に相棒とポーだ。
北東10キロメートルにふたりがよく行く、夕日の穴場に案内してくれるという。観光客は皆無(かいむ)。
その穴場はカステロ(城)の城壁にあった。
城壁の縁(ふち)に立って眼下を見ると高さは20メートルもあり、その先は何処までも果てしなく続く広大な大地であり草原であった。
日本の4分の1の大きさしかないポルトガルに、これほどの太古空間があろうとは。想像を絶した。
21時5分前だ。その大地と青空の稜線を鮮やかなオレンジ色に染め上げ、落日前には朱色に塗り替え、白い太陽となって黒い大地の地平線に姿を消していく。
落日ショーが終わると、上空の青味がかった空にピンクの狼煙(のろし)が立ち昇り、左側が欠けた十三夜の月が存在感を示す。
拍手を送りたくなるほどの見事な宇宙であった。
夜の9時を過ぎても、街灯がなかったが真っ暗にならない。
さて、帰路にしようとガバチョさんがエンジンをかけたが、ガガガップスッ・・・エンストだ。
『押してエ!』 ガバチョさんが済まなそうにいう。3人で、押した。トトトッブルン!かかった。
『早く乗って』 の声で乗り込み、暗くなってきた夜道を走った。
さっきより大きく輝く十三夜の月が、右手車窓に追いかけ、ついてきた。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2013年4月に掲載いたしました。
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