「ポー君の旅日記」 ☆ サンタ・イザベル王妃のエストレモス2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・14≫
=== 第四章●エヴォラ起点の旅 === サンタ・イザベル王妃のエストレモス2
《10年の流れ》
国境の町[エルヴァス]からバスで30分もかからずに[エストレモス]の野外バスターミナルに着く。
5月31日(木)の朝8時である。小さな平屋がバスターミナルの事務所。相棒は、狭い吹き抜けの室内で時刻表を調べる。
明朝の[エヴォラ]行き発車時刻の確認だ。常に先々を読んでの気配りが、身に沁(し)み込んでいる。
『明日はもったいないけれど、タクシーを使うね』と悔しそう。
エヴォラの手前の町[アザルージャ]に住む、ガバチョ夫婦と会う約束の時間に折合うバスがないようだ。
エストレモスに初めて来たのは、2002年2月12日。
数字の2が並ぶ、冬場だった。もう10年が過ぎていた。当時は撮影にフィルムを使っていた。
20日間ほどの旅に130本のフィルムを用意してきた。
フィルムはかさ張る。デジタル化された今は、天国のよう。気兼ねなく本数を気にせずシャッターが切れる。
フィルムの残量計算をしながらの、20日間の撮影取材は難儀だった。なにせ、スタッフはふたりだけ。
荷物の量を極力少なめにした。それでも、フィルムの本数や現像・焼き付け、宿泊・食事・交通等の経費切り詰めは、いつも前頭部で渦巻いていた。
土産など買ったことのない、ケチケチ旅であった。
「けいの豆日記ノート」
エルヴァスから、エストレモスのバスの時間は朝7時30分発の後は、午後1時しかなかった。
午後便だと、エストレモスの撮影時間が半日しか取れないので、午前便で行きたかった。
7時30分発の便だと、ホテルのモーニングが食べれない。
ホテルを7時には出ないと乗れないのである。
エルヴァスから、エストレモスまで、タクシーで行く方法もあるが、50ユーロくらいかかってしまうだろう。
考えた末、モーニングを捨てて、バスに乗ることにした。
(安いペンサオンのモーニングなら、パンとコーヒーくらいしかないのだが、4つ星ホテルのモーニングはおかずが豪華だったので、ぜひ食べたかった。)
《カフェ・アレンテジャーノ》
バスターミナルは10年前とすっかり変わっていた。
バスターミナル前には、かつて活躍していた鉄道の線路が残っていたが、今は広いバスロータリーになっていた。
バスターミナルはエストレモスの町の東端にあり、町は西に向かって広がっている。その西方の小高い丘の上に、カステロ(城)が見えた。
目の前に広がるとてつもなく広い石畳の広場に向かった。青空の下の、ロシオ広場である。
広場の周辺が駐車場で、車がきれいに円周上に張り付くように並んでいる。規則を守る市民の心根が感じられた。
左手に市庁舎とトゥリズモ(観光案内所)のマークが見え、その前に露天商の塊(かたまり)がある。
そして、街路樹の向こうに<アレンテジャーノ>のカフェが見える。そこが、今夜の10年振りの宿泊先だった。
店の前に赤い丸テーブルとイス、赤いパラソルが迎えてくれていた。
朝8時過ぎ、赤いテーブルでエスプレッソを飲むハンチングが似合うおじさん達がいた。
都市部では少なくなったが、地方部ではハンチング姿が多い。
宿泊フロントは、カフェの中のケーキが入ったガラスケースの上だ。店内は、10年前の雰囲気そのままである。
ノートパソコンに見入る中年男性がパンを食べている。新聞を読む背広姿の男性が、ガラオンを飲む。
職場に向かう人びとの、朝のひと時を過ごすオアシスがカフェ・アレンテジャーノだった。
相棒が声をかけた。眼鏡をかけたご夫婦が応対だ。当然10年前の相棒の顔を覚えているはずはない。
用紙の束をめくり、日本からの客かと聞く。
103号(2階がこちらでは1階だ)が希望だと送ったファックス紙を見つけた主人は、ニコンカメラを胸に下げた相棒をしげしげと見つめ、オ〜!と声を上げた。
そして一瞬考え、10年ほど前に泊ってくれた日本人・・・KEIKOさんか!と目を張って聞いてくれた。
『シン!(はい!)』と、相棒が頷いた。顔を満面赤らめ、嬉しさをオ〜オ〜!と吐き、103号室の鍵を渡してくれた。
主人はいっぱい言葉を吐いてくれたが、ポーにも判らない。まっ、喜んでくれたことだけは感知した。
カフェ横の扉を奥さんが開けてくれた。宿泊部屋やレストランなどがある階段を上った。大理石をふんだんに惜しみなく壁も柱も階段にも使われた宿である。
大理石には、白、ピンク、クリーム、灰色や黒の筋が入ったものもあるが、ピンクは需要が高いと聞く。
ポルトガルはイタリアに次ぐ世界第二の大理石輸出国なのだ。エストレモスはボルバやヴィラ・ヴィソーザと共にポルトガル産大理石発掘地として世界的にも知られているのだ。
リスボンの〈ジェロニモス修道院〉や〈ベレンの塔〉、それに〈バターリャ修道院〉、〈アルコバサ修道院〉などにもこの地方から産出された大理石が使われているという。
部屋に入る。あ〜、ここだったと思う。天井が高く清潔感で申し分なし。10年前そのままだ。
ベットカバーの模様も色も同じに見えた。荷を解き、出発準備もそこそこに、階下に降りた。
8時半、カフェで朝食にした。サグレス生ビール(0.89ユーロ)、ガラオン(0.85ユーロ)、パイ(0.90ユーロ)、ケーキ(1.00ユーロ)計3.64ユーロ(440円)。
今朝、エルヴァスの宿でモーニングが食べられなかったので腹が減っていた。
朝から生ビールとは不謹慎かもしれないが、水はビールと同じか高い。だから当然、サグレス生ビールである。
「けいの豆日記ノート」
以前にエストレモスに来たのは、2003年のことである。
当初は、エヴォラとエルヴァスだけで、エストレモスに寄る予定はなかったのである。
本屋で「ポルトガル朝、昼、晩」というおもしろい本を見つけた。
二人旅の女性たちが、エストレモスで、2週間暮らしてみるという話である。
マンガで描かれており、笑える話ばかりであった。
なので、エストレモスにも行ってみたいと思った。
このカフェの上のホテルは、この二人が泊まったホテルでもあった。
《上の町へ行く》
広大なアレンテージョ地方にあるエストレモスは、[エヴォラ]の北東45キロメートルほどの緩やかな丘陵地帯にある。
かつて、下の町は庶民が住み、上の町は貴族が住んでいた。
特に、上の町は中世の城と城壁が残り、しかも13世紀以来ほとんど変わっていないという。その、〈上の町〉に向かった。
幅4メートルほどの石畳を上る。両側は薄汚れた白壁民家が連なる。
「VENDE(貸し家)」の張り紙が幾つも目にとまる。10年前にはなかった。
いや気がつかなかったのかも知れない。でも、30メートルも歩いていないのに多すぎると思う。
その先に城壁が突然現れた。美しい石組の内城壁だ。〈上の町〉に入るアーチが見え、その門に入る20段ほどの石段がある。
そのなだらかな石段は一段一段大理石で仕切られ、その踏み面は大理石の石魂が敷き詰められていた。さすが、大理石発掘産地であった。
城門のアーチをくぐる。内城壁の中は13世紀以来ほとんど変わっていない、というが鵜呑みにはできない。
門に入る前と同じような白壁の家並みが続く。ここでも、「VENDE」の文字が揺れていた。
「けいの豆日記ノート」
上の町は、きっと保存するのに規制があるのだと思う。
13世紀以来ほとんど変わっていないと言っている以上、建てなおすのは、むずかしいだろう。
いろいろな設備も昔のままで、変えることがむずかしいだろうし。
家の中身だけ、現代風に変えることは、ものすごくお金がかかるのだと思う。
なので、郊外の新興住宅地に引っ越す人も多いだろうし、わざわざ、不便な上の町を買う人もないのだろう。
《カステロ&ポザーダ》
緩やかな大理石の石畳を上って行くと、25メートルはあろうか高い主塔が青空を突きあげていた。
上部を飾るデザインは気品に満ち、城のイメージとしては温かさ、優しさがある。
13世紀の建造だという。主塔は、アフォンソ4世・ペドロ王・フェルナンド王の時代を経て造られた。
そして、ディニス王はスペインから王妃としてイザベルを迎えこの城に住む。
また、日本でもお馴染みのヴァスコ・ダ・ガマは東方への航海に先立ち、ここでマヌエル1世にお目通りをしている。
その城が今、国営ホテル〈ポザーダ・ダ・ラィーニャ・サンタ・イザベル〉になり、豪華さではトップクラスのポザーダでなかなか泊れない人気のホテルになっている。
ちなみに、我らが今日泊まる宿賃の5倍はした。
ポザーダの中に入る。広い。壁も丸みを帯びた高い天井も真っ白。
床は大理石が敷き詰められ、調度品もシャンデリアも華々しくなく、品格があった。
そう見えてしまうほどの雰囲気に満ちていた。大きなフロント・デスクに眼鏡の似合う女性がいる。
『ボン ディーア(おはようございます)』と相棒は声をかけ、撮影のお願いをした。
了解が得られた後『オブリガーダ(ありがとう)』と千代紙で折った折鶴を、お礼を込め渡す。フロント・デスク嬢の嬉しげな笑顔が美しかった。
30分も撮影させていただき、「オブリガード」の一言で辞退しては男がすたる。
赤い皮椅子が並ぶゆったりした喫茶コーナーでサグレス生ビール(2.4ユーロ)とペプシコーラ(3.3ユーロ)、計5.7ユーロ(684円)を頼む。
撮影料として身内で納得した。運ばれてきた。『コーラに氷が入っている』と相棒が声を上げる。
日本では当たり前のように、おしぼりと氷入りの水がサービスで出て来るが、高級な国営ホテルであってもそれはない。
生ビールより0.9ユーロも高いコーラは、氷代の差か。水道水で作った氷ではなく、ミネラル水で作ってあるからか。
宿で持参のウイスキーをオンザロックで飲みたいが、頼んだ氷が信用できない。
なので、冷やした炭酸入りのミネラル水を買ってきて、炭酸水割りで飲む。
しかし、氷入りで飲み続けてきたため、氷がないと落ち着かないポーだった。
「けいの豆日記ノート」
コーラはあんまり好きでないので、カフェで注文したことがあまりなかった。
セブンナップのようなサイダーの類を頼んでいた。
カフェで注文すると、缶入りのサイダーにグラスを添えて出てくる。
日本の自動販売機の前のベンチで、サイダーを飲んでいるようなイメージである。
これが、レストランでも缶のまま出てくるのである。
コーラの場合、コーラの缶と氷の入ったグラスが出てくるのである。
コーラの値段は、サイダーより多少高い。(といっても2〜30円くらいであるが)
暑い日、やはり、冷たい飲み物が飲みたい。
缶入りの飲み物は、じきに生ぬるくなってしまうのである。
早く飲んでしまえばいいのかもしれないが。
それよりも、氷が食べたいのである。
日本では、山盛りのかき氷が好きなのである。
氷が水道水であるだろうとは想像がつくが、それでも食べたいのである。
《サンタ・イザベル王妃像》
ポザーダを出ると広場の向こうに白い像が青空の下で輝いている。
眉毛、大きな瞳、鼻筋が通った下にきりりと柔らかい唇だけを出し、白い衣装で全身を包み込み頭に冠を乗せたサンタ・イザベル王妃の白い大理石像である。
そして、だらりと下げた両手の中には、薔薇の花束があった。
台座には、〈RAINHA SANTA ISABEL 1271 1336〉と刻まれている。
サンタ・イザベル王妃は城からパンや金貨を持ち出し、貧しい人々に施(ほどこ)していたという。
ある日、その包みを見とがめられ、包みを開けさせられた。だが、パンや金貨は薔薇の花に変わっていたという・・・。
大理石の薔薇の花を数えてみた。20本あった。
(なぜ、20本なのか?この数に何か意味があるのだろうか?ないわけがない。ポーの推測推理癖が騒ぐ・・・騒いだだけだった・・・)
・・・・ここで、簡素に『サンタ・イザベル物語』をポー流劇場で、一席・・・・
【序章】
1271年〜1336年、65歳まで聖女として生きて来た。
イザベルは、スペインのアラゴン王ペドロ3世とシシリー王女コンスタンスの王女であった。
イザベルの名は、大伯母にあたるハンガリー王女聖エルジェーべトにあやかって名付けられた。
【一幕】
イザベル12歳の時、10歳年上のディニスと結婚。ディニスは詩人であり、農業王であった。
広大な地に松の森を作り、それが後のポルトガル大航海時代に、松の木が勇壮なカラベル船となり世界進出に役立つ。
また、ディニスは王であり、コインブラ大学の前身になった大学をリスボンに設立してもいる。
【二幕】
イザベルは結婚後も信仰を追い求め、病人や貧しい人々に身を捧げる。
イザベルの献身ぶりは貴婦人の域を超え、それが原因で家臣(かしん)の嫉妬や非難を招く。
【三幕】
ふたりの間に生まれたのが、王子アフォンソン。王子は父王が庶民にばかり好意を注ぐので嫉妬激怒し反乱を起こす。
1323年には親子の間で、宣戦布告までに。イザベルは、2人を和解させた。
その功績で、彼女の存在感を世に知らしめる。
【四幕】
1325年、ディニス王が死去。
王子アフォンソがアフォンソ4世として即位すると、イザベルはコインブラに設立したサンタ・クララ修道院に入る。
(サンタ・クララ修道院は、現在の旧サンタ・クララ修道院である)
そして王妃時代同様に貧しき人や病の人に尽くし余生を送る。しかし・・・。
【終幕】
アフォンソ4世の王女マリアは隣国カスティーリャの王アルフォンソ11世紀に嫁ぐ。
だが、王には妾がいてマリアを病人扱いにし遠ざける。
怒り心頭の父、アフォンソ4世は隣国カスティーリャ(スペイン)に進軍を計る。
そこで、身体が弱っていたスペイン生まれのイザベルは無理を押してエストレモスに駆けつけ、争いを止め和平させた。
この騒動が原因でイザベルは病にかかり、1336年、エストレモス城で死亡。
そして遺体はコインブラのサンタ・クララ修道院に移される。
(現在はコインブラの〈新サンタ・クララ修道院〉に棺が移され収められており、ここにもイザベル王妃の大理石像が建っている)
サンタ・クララ王妃は、エストレモスの母として今も〈下の町〉の人びとを思い、青空のもとバラを両手に握りしめ慈愛の瞳を見開き、立っている。
(まりっぺさんのお気楽読書・参照)
《サンタ・イザベル王妃礼拝堂》
〈サンタ・イザベル王妃礼拝堂〉には、或るおばあさんに会わなければ入れないと聞いていた。
相棒は教会に入って行く。誰もいない。内部はがらんとして広く、柱が高い天井に向かってヤシの木のように伸びている。
しかし祭壇も含め意外に質素だった。相棒は写真を撮っていたが、ポーは長椅子に座り待った。それにしても殺風景な教会だと思う。
入り口の扉が少し開き、開いた分だけ陽射しが流れ込み広がり、花束が見え、麦わら帽子をかぶった老婦人が入って来た。
相棒が駆け寄り、頭を下げ、カペラ(礼拝堂)を見たい、と老婦人にお願いする。ジャポネーザ?と聞いた。
ジャパオンから来たと返事をすると、可愛い笑顔で、鍵束を取りあげ手招きした。
相棒が待っていたのは、このおばあさんであった。先を歩く麦わら帽子に陽射しが当たる。
彼女は、右手に大きな鍵束をぶら下げ大理石の石畳をしっかりした歩調で歩いて行く。
広場を通り抜け、鉄扉の門をくぐると白い壁の建物があり、大理石で囲まれた狭く細長い錆ついた鉄扉前で、ここが礼拝堂だよと彼女は言った。
どう見ても小教会(礼拝堂)には見えなかった。まず、一つ目の鍵で鉄扉をカチャリと開けた。
開ける時、扉を両手で押しながら左足で扉の下端を軽くポンと蹴った。そうしないと開かないのかも知れない。
ギギギッと軽い音をたて、厚い鉄扉が奥に開く。
狭い階段の両脇に幾何学模様のアズレージョ(装飾タイル画)が見える。狭い階段も狭い通路も大理石であり、壁はアズレージョで眩い。
また階段を上る。彼女は60歳を過ぎている筈だが、足腰は鍛え上げられていた。
階段を上り切った目の前の扉で、二つ目のやや大きめの鍵で木製扉を開けてくれた。中が、礼拝堂であった。
想像していた〈サンタ・イザベル王妃礼拝堂〉は、狭かった。
しかし、細長く狭い礼拝堂の奥に祭壇があり、壁には数々のイザベルのアズレージョ画であふれ、イザベルの絵画で満たされ、
特に半円の天井画は色鮮やか色彩で飾られ、絵画を囲む幅広いピンク色は、もしや最高級のピンクの大理石ではなかろうか。
入り口のアズレージョの前で丸椅子に座り我らの姿をニコニコ笑顔で見ている彼女に聞きたかったが、やめた。ここは神聖なイザベルの礼拝堂だ。
『話し声』は、似合わないと思った。
イザベル王妃で満ち満ちていた。まさに、イザベルのための礼拝堂であり、部屋であった。
ここで、イザベルはどんな思いで、祈り、思考し、行動していったのだろうか。
イザベルが世を去ったのは、ここエストレモスの地だ。病をおして、ひとり、この礼拝堂で祈っていた姿が偲(しの)ばれる・・・。
「けいの豆日記ノート」
以前に来た時には、サンタ・イザベル王妃の礼拝堂は、普通の教会のようなものだと思っていて、見つけられなかった。
案内人に申し込まないと、見れないこと気が付かなかったのである。
今回は、ちゃんと見ようと思った。
イザベル像の前のサンタ・マリア教会の横に、古代の生活用品の展示ギャラリーがあり、礼拝堂をみたいと頼んでみた。
その人が係りでなく、「もうすぐ時間になったら来るから・・・」というような話だった。
エヴォラの人骨堂のように、サンタ・マリア教会の奥の部屋に造られているのかと思っていた。
広場をぬけて、ボザーダの裏側まで行ったのには、びっくりした。
こんなところにあるとは、知っている人しか、わからない場所である。
通りすがりの人がわかる場所ではないのである。
《えっ、1ユーロ》
鉄扉の鍵を閉めた麦わら帽の彼女に、見物料はいくらかを相棒が聞く。ふたりで2ユーロだと言う。
一人120円。『そんな〜ぁ!』と相棒が吐き、30分以上も撮影し続けたお礼が安すぎる、と言っても2ユーロだという。
相棒はバックから折り貯めてあった色取り取りの千代紙折鶴を5羽、彼女の掌(てのひら)にのせ『オブリガーダ!』と頭を下げた。
彼女の可愛い笑顔が優しく弾けた。ポーもその笑顔が嬉しかった。留守番をする、97歳の母の顔が浮かんだ。
「けいの豆日記ノート」
麦わら帽子には、造花の飾りとリボンがついていた。
普通の麦わら帽子とちがって、おしゃれな感じである。
私がほめると、すごくうれしそうであった。
自慢の帽子なのかもしれない。
大切な人からのプレゼントかもしれないなと思った。
《散策》
日差しは強い。広場の石畳に反射する光線が眩(まぶ)しい。陶器でも知られるエストレモスだ。
カステロの真向かいにある〈市立博物館〉に寄る。1.55ユーロ。礼拝堂より0.55ユーロ高い。
でも、安い。1階はエストレモス陶器の素朴な色合いの土人形を見、2階では木彫りの料理器具やコルク細工を楽しむ。
テラスから〈下の町〉が一望だ。町の後ろにはアレンテージョ地方の大地が広がる。緑の畑の帯が縦に横に幅広くパッチワークの模様のようである。
腕時計を見る。12時を回っていた。今夜の宿のレストランで昼食にしようと決めた。
レストランでの食事は何時だったかの記憶がない。
ボケではなく、本当に記憶にない。坂道を下り、内城壁を出て下の町に降りた。
何故か、サンタ・イザベルの印象が強烈過ぎ、ふぬけ状態になっていた。
宿のレストランで、マヨネーズ・アトム(7.5ユーロ)、サグレス生ビール(0.85ユーロ)、アグア(0.9ユーロ)、
チョコチーズクリームケーキ(2.0ユーロ)、計11.25ユーロ(1350円)。
生ビールよりアグア(水)の方が高かった。食事後、部屋で洗濯物をし、ロープを張って、干す。
この天気だ、2時間もすれば乾く。トイレをすませまた町に飛び出す。
まず目の前の、ロシオ広場の露天商を見る。15種類ほどのオリーブ漬けが壮観。食べてみるかと言われたが、ポーは笑顔で首を振った。
隣りの果物やはあまい香りでいっぱいだ。
ソフトボールくらいのメロン、赤いリンゴ、オレンジ、西洋ナシ、桃、スモモ、バナナ、トマト、クルミ、イチゴ、サクランボなどが狭しと並ぶ。
イチゴは両手を広げ山盛りしてこぼれる位で1.49ユーロだ。200円で釣りがくる安さ。これは皆、相棒の腹の中だ。
「けいの豆日記ノート」
宿泊ホテルであるカフェの上はレストランになっていた。
以前もここで食べたことがある。
カタブラーナというアレンテージョ地方の名物料理である。
魚介類が入った、鍋料理である。
カタブラーナ鍋を使うので、カタブラーナというらしい。
これが、ほどほど高かったので、今回どうしようかと思っていた。
迷ったときには、周りを見るのがいい。
近くで食べている人のと同じものを注文するのである。
マヨネーズ・アトムは、シーチキンとポテトのサラダが山盛りになったようなものだった。
マヨネーズ味なので、これを選んで正解であった。
トゥリズモ(観光案内所)では地図と資料を貰い、係りの美女三人と相棒の記念写真を撮らされる。そこは市庁舎。
中に入ってびっくり。通路の壁も、階段の壁も、エストレモスの歴史絵巻のようにアズレージョ画であふれ、品質の良い大理石の床や階段、手すりは見事であった。
かつての繁栄一途のポルトガルの財力で築き上げた市庁舎である。アズレージョを追い求め階段を上って行ったら、時計の針が見えた。
つまり、市庁舎の時計塔の間裏まで上って来てしまったのだ。
でも、市庁舎のアズレージョは拾いものであった。
市庁舎というより〈下の町〉のアズレージョ博物館であった。
ホントに素敵なアズレージョだ。藍(あお)の色合いも陽射しで焼けずに、タイル画の内容も素晴らしい。
アズレージョ愛好協会代表のポーが言っているのだ(冗談)。アズレージョの美しさは、その場にあってこその価値美なのだ。
はがして移してはならない。アズレージョの美が失せる。だからこそ、現状維持が大切になる。
エストレモスに行ったら、麦わら帽子のおばあちゃんを探し当てること。すごいイザベルのアズレージョに会えますよ。
もうひとつは、市庁舎のアズレージョを見てください。決してご損はさせません。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2013年7月に掲載いたしました。
|