「ポー君の旅日記」 ☆ 放し飼い孔雀とコウノトリと十三夜のエヴォラ5 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2012紀行文・17≫
=== 第四章●エヴォラ起点の旅 === 放し飼い孔雀とコウノトリと十三夜のエヴォラ5
《孔雀の園とコウノトリ》
『エヴォラの休日』の二日目が始まった6月2日(日)の朝。快晴だった。
昨日は朝霧のため撮影をあきらめた、あの城壁の南出入り口にある公園に向かう。放し飼いの孔雀に会うためにだ。
城壁内で朝日の中を孔雀たちが堂々と胸を張り闊歩する姿は息を飲む。
その姿を気のすむまで撮影するのが相棒だ。
2メートルもあるインドクジャクの雄姿はたしかに美しかった。
頭から首、胸にかけて輝く吸い込まれるほどの碧い色、背の波模様の若草色、豊富な緑羽に丸い目ん玉模様を幾つも付けた宝をなびかせ、散歩する人の姿を恐れることなく、悠然と公園を歩きまわる。
時には求愛ポーズの、大きな扇子のように円形に緑羽をおしげもなく広げるサービスもある。
陽射しに輝く美しさは、一日得をしたような気持ちにさせてくれる。
18世紀の城壁と石積みの建物跡(マヌエル1世の宮殿)が、彼ら60羽ほどの放し飼い孔雀の王国であった。
狭い裏路地を折れながら坂道を上る。列車のようにつながった民家の白壁が朝日の反射で眩しい。
この一帯は、壁巾木や窓枠は黄色で縁取られていた。色にはいろいろ意味があり、それを守り続ける風習が残る。
家紋のような感覚かも知れない。裏路地を抜けると何処からか、カタカタと音がした。『ネツ、あの音・・・コウノトリかも』と相棒が吐き、空を仰いだ。
『いた!あそこ!』。もう、走っていた。サン・ヴィセンテ教会の鐘楼脇の十字架塔に、何十本もの小枝で作ったこんもりした巣を発見。
長い足と長いくちばしは赤く、長い首とふっくらした白い大きな身体に、黒い羽が走るコウノトリ。
飛ぶと、その姿はまるで鶴のように優雅である。
ポルトガルでコウノトリを初めて見たのは、2003年に南部アルガルヴェ地方の首都ファーロに行った時だ。
ここはコウノトリが多い町で、高い教会はもとより町中の街灯にも巣をつくっていた。カタカタの音を聞き、その発信元がコウノトリだと知った。
そうか、コウノトリってカタカタ鳴くのだと思った。
しかし、そのカタカタは鳴き声ではなく、長いくちばしを合わせる時の音だったと知るまでには時間がかかった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルではじめてコウノトリを見たのは、3回目の撮影取材のファーロであった。
コウノトリのことなど、ガイド本など見てもどこにも記載がなかった。
なので、ポルトガルにコウノトリがいることすら知らなかったのである。
はじめて、ファーロの教会のてっぺんの十字架に止まっていたコウノトリを見たとき、観光用の作り物かと思った。
そのコウノトリが羽根を動かしたり、向きを変えたりするのは、電動式のコウノトリの作り物かと思った。
(日本だと宣伝用によくある光景かもしれない・・・)
そのコウノトリが飛ぶのを見て、はじめて本物のコウノトリだとわかったのである。
町の中をコウノトリが飛ぶ風景を見るのは、はじめての経験であった。
《ディアナ神殿の前で》
前回報告したように、エヴォラの中心地ジラルド広場から東に延びる狭い10月5日通りを抜けると、ミゲル・デ・ポルチュガル広場があり、目の前に飛び込んでくるのがカテドラル(大聖堂)だ。
昨日、カテドラルの屋上から観たエヴォラの街の景観は、城壁に囲まれた世界遺産の古都を堪能できた。
その要塞のようなカテドラルを右手に見ながら進むと、白い2頭立て観光馬車が客待ちしている。
そこがエヴォラ美術館で、その北側にコンデ・ヴィラ・フロール広場があり、その真ん中にディアナ神殿(ローマ神殿)が浮かぶ。
2〜3世紀にかけてローマ人が建てたコリント様式の神殿だ。
イベリア半島に残るローマ神殿の中では、保存状態が良いらしい。この神殿を中心にして世界遺産地帯が城壁に囲まれているエヴォラであった。
ここで、相棒が捕まった。
神殿を背景に30人程の観光客ご一同様が記念写真を撮っていた。こんな光景を発見したら相棒の血が騒ぐ。
当然、走り寄って、撮る。30人程がみな笑顔だ。悲しい顔より笑い顔の方がいいに決まっている。
おじいさんもいればおばあさんも、子どもを抱く母親にお父さんたち、若い女性群に頑強な青年たち、野球帽をかぶった少年たちに髪にリボンを付けた少女たちと多彩なご一同様であった
撮っている相棒に、ご一同様にカメラを向けていた大柄な女性が近づいた。
不味(まず)い、許可なく撮っていた相棒に抗議か。その女性は笑顔だった。
この(自分の)カメラで私も一緒に撮ってくれないか、という願いのように見えた。
相棒は、撮った。大柄の女性に向かって相棒はシャッターを押した指でOKサインを投げた。
その時、ご一同様から拍手が沸き、歓声が飛んできた。捕まった相棒は笑顔を添えて、手を振った。
何処から観えた人たち?と聞くと、『Poderia tirar uma foto?って、言っていたから、ポルトガルの人たちじゃないかな』と相棒。
ポルトガル語で(写真を撮っていただけますか?)と聞いたと言うから間違いないだろう。でも、少年たちの野球帽が気になる。
ポルトガルで野球をしているところを見たことがない。
とすれば、ブラジルから来たご一同様ではなかろうか。
で、自分は、日本人だと言ったの?と聞くと、『カメラを返した時、彼女が言ってくれたよ、Japonesa Obrigada!(ジャポネーザ オブリガ―ダ!)って』と、相棒は嬉しそうに笑った。
「けいの豆日記ノート」
団体さん、発見。
記念撮影には、撮る側で参加するのが常である。
撮られるほうとしては、急に子供のような小さいおばさんが出てきて、「変な人がいるよ」状態で、びっくりとおもしろさで笑顔を越えた爆笑の嵐となる。
1眼レフのカメラを持っているので、腕はまあまあだと思われるのか、自分たちのカメラで撮ってくれるように頼まれることも多い。
団体写真では、全員が映りたいものであるからだろう。
《カダヴァル公爵邸》
神殿の北側に芝生の公園がある。ここは高台で眺めがいい。
眼下の住宅地は白壁とオレンジの屋根が新しいのか色彩がひと際、冴(さ)える。
その公園の一番見晴らしの良い所に、日本人の造形作家・北川晶邦さんの大きな大理石作品「波立つ海の中に光る満月」がある。
観光スポットにもなっているこの作品を知ったのは、2008年に来た時の宿のオーナーであるおばあさんにぜひ見て来るように言われたからだった。
その右手に高い白い塀がある。カダヴァル公爵邸はこの中にあった。
何度もエヴォラに来ているのに初めて寄ってみることにした。
白いとんがり帽子のアーチを潜ると、広い中庭があり山型の白いテントが張られ、白い肘当ての洒落た椅子とテーブルが並ぶ野外テラス式のレストランになっていた。
カダヴァル公爵邸はレストランになっていた。
『看板があったよ〜っ!』の声。
狭い外階段の下に矢印と共にCADAVAL VISITA(カダヴァル 見学)の文字があった。
急勾配の外階段を上って行くと、高い白壁の向こうにディアナ神殿の上部が見え、眼下には中庭の白いテントやパラソルの花園が華麗に広がり、
隣にはかつてロイオス修道院だったが今は、ロイオス ポザーダ(国営ホテル)になっていた。
カダヴァル公爵邸は、16世紀末の建物だという。狭い階段を2階まで上るのにも難儀したほど高い。
今風の日本の建物なら天井まで3メートルもあれば高いと思うが、5〜6メートルは有にあった。ジョアン1世が当時のエヴォラ市長のために建てたものだったという。
1階はレストランなっていたが、2階のギャラリーには、カダヴァル公爵家ゆかりのものが展示されていた。
銅製の鍋釜や陶磁器、絵画の数々、ピストルから刀剣などが広い洒落た廊下や部屋の中に飾られており、今日の散策目標のゆったり感覚で一品一品を堪能できた。
「けいの豆日記ノート」
ロイオス教会の入口で、ロイオス教会とカテヴァル侯爵邸のセットのチケットを買ってみた。
今日は、時間があるので、ゆっくりと建物の中を見てまわれると思ったからである。
ロイオス教会はアズレージョ(装飾タイル)の美しい教会である。
エヴォラには、4回も来ているのに、内部まで見たことがなかった。
フィルムの時代が、暗い内部の撮影より、光あふれる街中の人物が撮りたかったこともある。
ロイオス教会を見て、横のカフェをのぞいて、カタヴァル侯爵邸の場所を探した。
地図では、隣のはずなのに、入口が見当たらない。
入り口は裏側なのかと、坂道を下って行ったが、入り口らしきところが見つからなかった。
しかたないので、ロイオス教会の場所に戻ってみた。
うろうろしていると、教会の入り口にいたおじさんが、教えてくれた。
なんと、さっき見たカフェの場所であった。
カフェの横の白い階段を登ったところらしい。
階段があることはわかっていたが、登ってはいけない場所だと思っていた。
また、思い込みだ・・・
ここまできて、入口の場所がわからないとは・・・なさけない・・・
《恐れ入谷の弾丸撮影員》
今日は、ゆったり散策と決めていたが、しかし、そうはいかなかった。なにせ、弾丸(だんがん)のような相棒がいる。
ダヴァル公爵邸を出てすぐに、50メートル先のディアナ神殿に向かって、弾丸が飛んで行った。
今度は何を探し当てたのか?それは、黒いタキシードに真っ白いウエディングドレスだった。
10人程に囲まれた新婚さんの記念撮影隊のようだ。近づいてみると、神殿を背景にスチールカメラマン2人とビデオカメラマン2人がこれから結婚式を挙げるお二人さんを撮っていた。
平日は休めない会社勤めなのだろうか。
でも、今日は日曜日。記念撮影日かもしれない。一日、エヴォラの世界遺産廻りで、てんてこ舞い記念撮影日に違いない。
そんな故郷エヴォラの世界遺産前での記念映像作りの日曜日なのだ。今までポルトガル各地で結婚式に7回ほど遭遇してきたが、今回は特に贅沢な記念撮影風景である。
あれっ!撮影隊の中に混じって、赤い帽子の弾丸が堂々と撮影に加わっていた。撮影許可を取っただろうか?その心配はなさそうだった。
笑顔で女性ビデオカメラマンと口を聞き、撮影隊の一員のようにシャッターを切っていた。
この弾丸相棒の状況を、ことわざ辞典風に言えば「朱(しゅ)に交(まじ)われば赤くなる」。いや違う。
「恐(おそ)れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしもじん)」、これだ。つまり「恐れ入りました」であった。
ポルトガルの結婚式で印象的だったのは、スペイン国境に近い標高660メートルにあるブラガンサ。
その城壁に囲まれた旧市街地の教会前での撮影風景だった。集合記念写真が変わっていた。日本では見たこともない光景であった。
まず、花婿さんを囲んで並んだ記念撮影の光景。囲んだのは、すべてドレスアップした女性たち20人程。圧巻だ。
そして、花嫁さんを中心に囲んで並んだのは、すべて男性30人程。しかも、ほぼ全員サングラス姿。
これには魂消(たまげ)た。<所変われば品変わる>、または、<所変われば水変わる>というが、まさにそれであった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルの撮影取材の旅の中で、結婚式に出会うと、とてもうれしい。
結婚式は、ガイド本にも載っていないイベントであるからだ。
時間がずれても、撮影のチャンスがないのである。
その時の運としかいいようがない。
2回目のポルトガル撮影取材の旅で、ポルトのカテドラルの結婚式を見たのが初めてである。
カテドラルを見学していると、結婚式が行われている最中であった。
教会の中は、暗いため、遠くからでは、撮影はむずかしい。
式が終わるのを待つことにしたが、神父様のお話がすごく長く、かなり待たされた。
そして、やっとカテドラルの入口を出る新郎新婦の姿を撮ることができたのである。
《アグア・ダ・プラタ水道橋とカルヴァリオ修道院》
ディアナ神殿から再び北川晶邦さんの大理石像まで戻り、そこから北方眼下に見える水道橋のそのすぐ近くにあるカルヴァリオ修道院に向かう。
1度お会いして修道院内部を案内してくれた気品あふれた老シスターに再会したかった。
修道院の正面から左手の路地に回り込んだ小さな扉(とびら)脇のベルを押すと、少女のような老いたシスターが顔を出し迎い入れてくれた。
2003年の2月だった。9年前の出会いは今も忘れられない。
貧困やアルコールに苦しむ女性の援助活動を行っていたシスターの瞳は美しく輝き、慈愛に満ちていた。
心が痺(しび)れるほどの優しい瞳であった。あの瞳に、もう一度会ってみたかった。
城壁内部の石積み水道橋は建物の1階ほどの高さで、裏路地の民家に並行して走っていた。
そのため、初めは石積み塀とばかりに思っていた。
その塀を裏路地の石畳の坂道と共に下って行くうちにどんどん高くなり、しかもアーチ型空間が上から段々高く広くなって、
見慣れたあの高さ20メートルほどの水道橋になって城壁の外へ延び、アレンテージョの広大な草原地帯に消えていく。
つまり、高く頑強な石積み水道橋で運ばれてきた水は、城壁内では高さ3メートルほどの壁みたいな高さの水道橋になり、城壁内に分散配給されていたのだ。
ゆったり散策で、水道橋の実地学習をさせてもらった。
その水道橋が城壁内にあるぎりぎりのところのすぐそばに、カルヴァリオ修道院がある。
アライオロス方面やカトリーヌさんやドモンジョさんが住むアザルージャにバスや車で行く時は、正面に水道橋を見、この修道院を右手にとらえ左折し、しばらく水道橋と並行してアレンテージョの大地を走るのだ。
だが、カルヴァリオ修道院の裏路地の、あの小さなベルを何度押しても、扉は開かなかった・・・。
「けいの豆日記ノート」
カリヴァリオ修道院は、昼の休憩時間だからか、日曜日だったから休みだったのかもしれない。
以前、丁寧に案内と説明をしてくれた。
料金は無料だったが、心付けをもう少し多くあげればよかったと思っていた。
ケチケチの旅は、どれくらいのチップが適当なのかの標準がよくわからないところがある。
カルヴァリオ修道院の向かいに新しい5つ星ホテルができていた。
ガイド本にも記載がなかったホテルである。
ずうずうしく、少し見学をさせもらう。
新しいだけあって、なにもかもがピカピカである。
中庭のプールは、向こうに水道橋が見えていて、すてきである。
トイレを借りたが、ここもピカピカであった。
新しくても、ウォシュレット機能はなかったが・・・
(ウォシュレットだけは、世界の中で日本が誇るすばらしさである。)
《十三夜の月》
夕日が落ちたばかりの夜、9時過ぎ。今日の締め、ゆったり散策に残り物と持参の醤油味胡麻煎餅などをかじる夕食をすませた後、ディアナ神殿に向かった。
なんとも切ない夕食だが、これが当たり前だった。ケチケチ旅の鉄則だ。それが苦にならない取材旅でもあった。でなければ、12年間に7回も愛しのポルトガルに撮影取材旅行に出て来られなかった。
夜空に猫の鳴き声みたいな孔雀の鳴き声を聞きながら南門から城壁内に入り、ディアナ神殿に向かう。
白馬の馬車も帰宅だった。その先にライトアップされたディアナ神殿が闇夜の中にくっきりと存在感を示すように浮かんでいた。
計算通りの展開。これも、神殿の美を撮る相棒の計算であった。
ライトアップで夜空に浮かんだディアナ神殿は、月の女王とも呼ばれローマ時代にタイムスリップした美しさがあった。
その可憐な、円柱の美しさはエヴォラの宝として現存していた。その円柱の間に、十三夜の月がくっきり浮かんでいた。
ゆったり旅のご褒美のように。「ありがとう!」と、ポーは素直に声を月に向かって吐いた。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2013年10月に掲載いたしました。
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