「ポー君の旅日記」 ☆ 露天市場と陶芸のカルダス・ダ・ライーニャ2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・6≫
=== 第二章●ナザレ起点の旅 === 毎日ある青空朝市のカルダス・ダ・ライーニャ2
《目が覚めた時》
ポルトガル写真取材旅の朝は、いつも腹が減って、目が覚めた。餓鬼(がき)でもあるまいし、73歳を過ぎていた。
昨日も万歩計で20617歩を歩く。ポルトガルに来ればなんなく1日二万歩は毎日軽く歩けた。
愛知県の知多半島にある新舞子海岸通りはおいらのホームグラウンド。
伊勢湾に面した海岸通りには、早朝から高齢者夫婦の散歩やジョッキングをする人びと、犬の散歩をする女性の姿が途絶えない遊歩道がある。
海岸沿いに高層マンションがこの10年間に5か所もできた。海辺の遊歩道が気に入って入居を決めた人も多いかもしれない。
それに、伊勢湾の対岸三重県四日市市の鈴鹿連峰や御在所岳などの山々に、四季折々の夕日が沈む景観が見られるのも気に入っているかも知れない。
おいらも、写真を撮りに海岸通りに足を踏み込むがジョッキングをしたことは一度もない。
海岸通りに出てスーパーマーケットや仕事に出かけ、その帰路も海岸通りを通る日常だ。当然、万歩計も付けたことがない。
なのに、ポルトガルに来れば、歩き回れるし万歩計も毎朝付けて宿を出た。
5月3日(金)の早朝6時、目が覚めたら7時半のモーニングタイムまでの、二度寝ができない日々の習性のおいらだった。
昨夜、疲れ果てジーパンのまま倒れ込んだベッドから起き、着の身着のまま早朝のナザレ海岸通りを散策することにした。
その時、『待って!』と、相棒の声。15分後にふたりして宿を出た。
宿の目の前が大西洋の早朝のナザレ海岸通りだった。ナザレの海岸は遠浅だ。
砂浜が100メートルほどもあり、その先に青い大西洋の海があった。
大西洋にカメラを向ける相棒の背後の朝日で、砂浜に相棒の影が長く延びていた。
大西洋の波打ち際まで一歩一歩砂浜を歩く。砂浜の粒子は、細かい石粒だ。砂浜ではなかった。
手ですくうと、宝石のような丸い粒子の色取り取りの石の結晶であった。
持参のビニール袋(日本のスーパーマーケットで吊るされているビニール袋・魚売り場のビニール袋がいい)の中に、手ですくって詰め込む。
そのナザレの砂の粒子を、ポー君の妹優子さんから貰ったドイツで生活していた時集めた透明の洒落たワイン瓶に入れ、今もおいらの部屋の本棚で宝石のように輝き生きている。
「けいの豆日記ノート」
カルダス・ダ・ライーニャまでのバスの時間はネットで調べておいた。
8時30分発と10時35分発のどちらかに乗りたいと思っていた。
(その間がない・・・)
ネットの情報が古いこともあるので、前日にバスターミナルに行った際に、確認しておいた。
係り員は、なぜか、10時35分発のほうだけに印をつけてくれた。
曜日などにより、バスの運行状況はかわってくる。
バスの時刻表は、けっこう見方が難しいのである。
10時過ぎのバスなら、朝のナザレの町を見て歩けると思った。
ナザレの常設市場に向かう路地に写真屋があった。店の前面にモノクロのナザレの昔の風景が何枚も飾られていた。
モノクロ写真1枚3ユーロと記されていた。ナザレの海岸で地引網を引く漁師や馬を使って漁船を引きあげる様子など興味深い写真ばかりだ。
店の中に入った相棒がポルトガルのファドの歌姫アマリア・ロドリゲス(1999年・79歳で死去)のCDを9.95ユーロ(1393円)で買った。
毎年暮れのポルトガル写真展会場で、会場を盛り上げ来客が喜んでくれるために歌声を流す投資であった。
ナザレの早朝の市場は活気があった。いろいろな獲りたての魚が魚売り場で迎えてくれた。
幅広い肉厚の銀色の太刀魚や烏賊、鯛。金目、イワシなどが山盛りに並べてある。
刺し身で食べたかったほどの生きの良さが目の前にある。ピクピクと生きがい。
持参のキンギョ型容器の醤油で、喰って見たかった、だが、魚を生の刺身で食う文化がない。
ナザレの人々に魚の活きの良さを、新鮮な生きの良さの美味さで食べてもらいたかった。
だから、このナザレの海辺の町の市営市場に来ると、胸が弾む。ワクワクするのだった。
宿に戻り、ただのモーニングを腹いっぱい押込め、ナザレの仮設バスターミナルに行った。
どう見ても目に優しさが宿る日本人の女性が一人いた。相棒が近寄り声をかける。神奈川県から来た女性ひとり旅だった。
岡田さんと名乗る若い可愛い娘だった。岡田さんが乗るバスが来るまで15分ほど相棒は話していた。
彼女は北にあるポルトガル第二都市ポルトに行って日本に帰るという。
彼女を送ってから20分も遅れて来たバスに乗って、カルダス・ダ・ライーニャに向かった。
バス賃3.55ユーロ(497円)、50分で着いた。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルで日本人と会うとうれしいものである。
特に一人旅をしている女性は、すばらしいと思う。
ポルトガルを選んでくれたこともそうだが、行動力もすごいと思う。
知らない町で知らない人とコミュニケーションをとって旅ができるなんて素敵なことだと思う。
それなりの苦労も多いだろうが、それ以上の喜びがあるのではないかと思う。
《懐かしの青空市場》
人口2万人程のカルダス・ダ・ラィーニャには、ポルトガル撮影取材旅の2回目の2002年1月に来ていた。
11年振りだった。11年の歳月が流れていたが相棒のカメラマンはおいらに言わせれば警察犬だった。
昨日来たようにスイスイと歩を進める。おいらは方向音痴症候群だ。相棒を信じて後を追った。
レプブリカ広場が路地の向こうの青空の下に生きていた。毎朝の市民生活の場があった。
近郊の農地から運ばれてくる野菜や果物、花を中心にチーズやオリーブ漬け、陶器などの市民の台所である。
ここに来なければ、一日が始まらない日常生活の場だ。青空の下に何千人と市民が必ずやって来る日常生活の糧(かて)の場であった。
それに観光客が加わり、熱気あるこの雰囲気がおいらは好きだった。
おいらが住む町にはなかったが、隣町の焼き物で名高い常滑市には1と6の日には何十年と続く青空市場がある。
常滑焼の器から、野菜、鮮魚、花の苗、おばあさんが作る1尾100円のあんこたっぷりな鯛焼きなど地元の生活から生み出した小さな市場が今も生きている。
この1と6の朝市が好きでおいらは30年も通っていた。つまりポルトガルでも、どの町に行っても朝市や常設市場には必ず寄る。
食文化が確認でき、人々の生き生きとした表情に出会えるからだった。
「けいの豆日記ノート」
カルダス・ダ・ライーニャに行きたいと思った理由は、温泉でも陶器でもなく、露天市場であった。
11年前に露天市場を目的に訪れ、すっかりとファンになった町である。
青空の下、色とりどりの野菜や果物、そして、売り手に買い手が盛りだくさんの市場は、楽しいのである。
建物の中にある常設市場とちがった開放的な空間は、魅力的である。
《老婆の手》
相棒がもう少し撮りたいと言うので、レプブリカ広場沿いの路地にならぶベンチで待つことにした。
この市場なら安全だと認知したから放し飼いである。撮りたいだけ気のすむまで撮ってくれ、という心境だ。
しかし、時間は区切った。20分だよ、と。もう、40分も撮っていたし、暑いし、73歳には堪(こた)えた。
ポルトガル撮影取材旅を続けて12年目だ。おいらの足も草臥(くたび)れていた。情けないが年々、古くなっているようだ。
しかし、路地のベンチは建物が陽射しをさえぎり涼しく、市場に行く人帰る人の観察ができ楽しかった。
来る時は買い物袋を持たない人々が、帰りには大きなビニール袋を両手にいっぱい下げ、子供も大きな袋を引きずって太った母親の手を握り去って行った。
家に着いた時は袋がすり減(へ)り破れ、中身がなくなっているのではないかと心配した。
おばあさんが隣りに座った。おいらをジーと見つめる。「ボア タールドゥ」こんにちはと、挨拶した。
そして、日本から?と聞いて来た。小柄な可愛い80歳近い老婦人だ。毎日、市場に?と聞いてみた。
「ナオン」、いいえ、と首を横に振った。不可解だった。でも、おいらは、市場は楽しいですからね、おいらも好きです、と言った。
すると、彼女はくッくッと、息を吸って泣き出した。驚いた、気の触ることでも言ったのか。慌(あわ)てた。
『エンジョアーダ?』ご気分でも悪いんですか?と、思わず、知っていた単語を発していた。
夫を10年前に亡くした。
ここの市場が好きな人だった。貨物船に乗っていた夫は何回も日本に行った。船に乗らない休日は、毎日2人して朝から来ていた。
日課だった。でも、この10年、ここに来られなかった。ふたりで過ごしたここでの思い出が大きすぎた。
10年振りに来たら、あなたに会った。私を必ず連れて行くと言った日本。その日本の方に偶然お会いできるなんて・・・泣いて、ごめんなさい。
そう言った老婆の手を、思わず握っていた。おいらの母は98歳だった。ポルトガルに来る前に、母の手を握ったあの感触だった。
ほんのり温かい痩せた骨筋(ほねすじ)の老いた手であった。奇遇の出会いだ。おばあさんの名前は、マリアさんと言った。
あなたのお名前は、と聞かれた。『すぎさん・・・』と、マリアさんの手を握りながら、答えた。
マリアさんは「オブリガーダ!」ありがとうと微笑(ほほえ)んで、言ってくれた。
「けいの豆日記ノート」
露天市場は、どの町に行っても楽しみである。
バルセロスの週1回開催される露天市場のように、町の中心の広場にぎっしりと出る大掛かりなものもある。
駅前に数店だけでているものもある。
焼き栗やイチゴやアイスの移動式の店もある。
最近、郊外に巨大なスーパーができて、常設市場も元気がなく閑散としていたり、存在自体もなくなっていたりする町もある。
以前あった市場を訪ねるとなくなっていたりしてとても寂しい。
とても残念に思うが、それなりの事情があるのだろうからしかたないことなのかもしれない。
なので、露天市場がこんなににぎわっているというのは、すごいと思う。
ずっと、続けていってほしいと思う。
《カルダス・ダ・ラィーニャ駅に向かう》
相棒がベンチに戻って来た時は、12時40分。腹が減っていた。鉄道のラィーニャ駅をみたいという。
広場から北西にある駅に向かった。その途中、ピザ店に入る。
ラージサイズ4分の1(1.8ユーロ)、生ビール(1.1ユーロ)、コーラ(1.2ユーロ)計4.1ユーロ。
なんとお昼は、2人で574円だった。日記に記すのも恥ずかしい。サグレス生ビールは、コーラより安く水より安かった。
でも、4分の1サイズのピザは、でかかった。ふたりで食べて、満足するほどの大きさだった。
こんなケチケチ取材旅に同行したいと、写真展のたびに言ってくださる相棒フアンも多いが、このケチさで足がすくむに違いない。
生きて日本に帰れるのか、不安が増すばかりではないだろうか。
鉄道駅までは意外とあった。カルダス・ダ・ラィーニャの町の中心地は、朝市の広場から600メートルも北西にあった。
市庁舎の周りは新興都市のように高層ビルが立ち並ぶ建設ラッシュの熱気があった。
11年前に来た時は、旧市街地を見ただけだったと知った。この2万人ほどの町は、大きく変貌する過程にあった。
経済危機で揺れ動くユーロ圏が、これほどのエネルギーに満ち溢(あふ)れているとは想像もしていなかった。
それが、なぜかおいらは嬉しかった。歩いてみなければわからない。それが、旅であった。
ラィーニャ駅の駅舎外壁の装飾タイルであるアズレージョも、ポルトガル各地で見届けて来たアズレージョ愛好家のおいらも気に入った。
この国は、15世紀から始まった世界の海を駆け巡った大航海時代のエネルギーが、今もなお脈々と生き続けていると思った。
「けいの豆日記ノート」
ガイド本には、リスボンのセッテ・リオス駅から列車でも行ける町になっている。
本数が少ないので(1日5便)、候補にはあがらないが、駅だけは、見ておきたかった。
ポルトガルの鉄道駅は、アズレージョが飾られたきれいな駅が多いのである。
古い駅であれば、昔の面影が残っているにちがいないと思う。
《ボルダロ・ピニェイロ工場に向かう》
ここに来たら行きたいところがあった。『キャベツの陶器』としてヨーロッパ各地でも知られる陶器を作っている工場だ。
前回来た時は、休みだった。今回は期待して向かった。再び、朝市のレプブリカ広場を横切り南に下ると、レオノール王妃広場にある鉱泉病院の建物に出た。
リウマチ治療に効果があると1485年に、王妃が資金を集め建てた鉱泉病院であった。
ポルトガルはリウマチで難儀していた歴史があり、農民たちが入る温泉治療を知り、造ったのだ。
何故か、日本でも昔からあちこちで聞くリウマチ温泉治療の話である。今もなお日本でもリウマチで苦しむ人たちがいる。
かつて、テレビ番組でリウマチに苦しむ人々を追った。番組制作の意図は理解してもらっても、映されるのは拒否された。
当然だった。なんどもリウマチで苦しむ人たちの集会に出た。その中で、テレビ取材に応じてくださった婦人がいた。
その日々の生活を撮影させて下さった夫婦がいた。その夫婦と放送以来17年、今もお付き合いさせて頂いている。
ポルダロの陶器。1884年以来レモンやキャベツの形をしたコーヒーカップや皿などユニークな作風が人々の心をわしずかみにした時代があった。
しかし、時代が流れ、その奇抜な発想の陶器は高価な名品となり、日本の陶芸の世界にも通じるお宝になった。
芸術作品になると、日常生活では気楽に使う日常品にはなれない。限られた世界でしか生きられない運命がある。
そうなると、一般市民の中では生きていけない。当然、数が出ないと、売れないと、経営は成り立たなくなる。
ボルダロも今、この窮地に追い込まれてはいまいか。工場に行ったが、燃えるような呼吸が伝わってこなかった。
ボルダロ作品の博物館にも行ったが、撮影許可が許されなかった。世界の名品が消えて行くのが悲しかった。
経営方針のちょっとしたずれ。考え一つで、現状は急展開するものだ、と思わせた。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルは、ラクガキが多い国だとは思っていたが、カルダス・ダ・ライーニャは、特に多いように感じる。
列車や古い建物の壁や塀などには、ラクガキがいっぱいである。
芸術作品かと間違えるような高度な技術のラクガキもあり、イラストなのかわからなくなる。
狭い路地の両側に塀があり、ラクガキいっぱいの所があった。
おもしろいラクガキもあり、写真を撮っていた。
そこまでは、よかったのだが、壁ばかりを見ていて、足元がおろそかになっていた。
グニョという感触で、思わず「ぎゃ〜〜」と声をあげた。
踏んでしまったのだ。
帰りのバスに向かう途中だったので、急いでバスターミナルのトイレに駆け込みブラシで洗った。
ショックな出来事であった・・・
《ドン・カルロス公園》
広大な広さがあった。何百年と生き継いできた大樹が公園の中で静かに静かに呼吸していた。
池には白鳥がそよ風に流されるように滑(すべ)っていた。この広い美しい公園が、管理され維持されているのが不思議に感じられた。
市民の人影も少ない、これだけの広く美しい公園を日本でも見たことがなかった。ポルトガルはここだけを見ても優雅でゆとりがあった。
これこそが、大航海時代のポルトガル魂を国民が受け継いできた気品なのかも知れない。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2014年7月に掲載いたしました。
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