「ポー君の旅日記」 ☆ 絵本の世界のカスカイス3 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・2≫
=== 第一章●リスボン起点の旅 === 絵本の世界のカスカイス3
《カイス・ド・ソドレ駅》
テージョ川沿いにカイス・ド・ソドレ駅はある。昔から首都リスボンに活気を与える大切な陸と川の交通の要の地であった。
海と見違えるほど広い川幅のテージョ川を船で渡り対岸のカシーリャスの町などに渡るフェリーの渡船場(とせんば)があり、何時も行く人来る人びとで賑わっている。
来た人たちは地下鉄に乗り換え、都心部の職場までふた駅だ。
路面電車に乗れば都心にも、世界遺産があるテージョ川岸の《ジェロニモス修道院》などがある市の西部地区にも近い。
また、駅前にある《常設市場》は市民の台所として親しまれ、早朝から豊富で新鮮な果物・野菜・魚・肉・チーズ・ワインや焼きたてのパンなど、ここに来れば日常生活には困らない。
何より楽しみなのは売り子(おばさんが多いが、若い美人もいる)さん達の親しみに満ちた笑顔と賑やかなおしゃべりが待っていた。
残念ながらこの日、5月1日はメーデーの祭日で休みだった。
今朝は、相棒の予定通り7時10分に早朝のフィゲイラ広場に面した宿から発着駅のカイス・ド・ソドレ駅に向かう。
地下鉄を利用すればふた駅で行ける所を、早朝の首都リスボンの姿に興味深々だった。当然、撮影したいがために1時間40分もかけ歩いて来た。
そして、相棒の計算通り9時発の列車に乗って、終点のリゾート地であるカスカイスに向かったのだった。
「けいの豆日記ノート」
リスボンのロシオ広場でえ行われる5月1日のメーデーのイベントが午後からだろうと思い、午前中はカスカイスに行くことにした。
数時間で帰ってこれる場所は、リスボンのテージョ川向かいのカシーリャスか、カスカイス、エストリルくらいしかないのである。
あとの地域は数時間で戻るのは、もったいない場所である。
前回の旅の最後にカシーリャスのライトレールを見に行ったばかりなので、今回がカスカイスにすることにした。
列車の終点であることは、降りる駅の心配をしなくてもいいので、楽な場所である。
《ポルトガルの運賃と窓ガラス》
カスカイスまで片道2.4ユーロ(320円)、45分ほどの乗車である。ポルトガルは運賃が安い、といつも思う。
例えば、首都リスボンから北にある第2都市ポルトまで300キロメートルほどの距離がある。
日本の東京〜名古屋間ほどの距離だが、時間的には特急列車に乗って2時間45分で24.30ユーロ(3640円)だ。
日本の新幹線では1時間半ほどで1万円以上はかかる。スピードでは敵(かな)わないが、我らには早さは必要ない。
安さが命だ。その命がポルトガルには沢山あった。ポルトガルは列車やバス、地下鉄に乗っても運賃料金の安さで助かった。
日本の乗り物は高すぎるとポルトガルに来るたびに思う。特にケチケチ旅を遂行(すいこう)する我らにとっては、早いより安いがいい。
だが、安さに反比例?して列車もバスも、車窓を楽しむ窓ガラスの汚れのひどさには何時も愕然(がくぜん)だ。日本では信じられない汚さである。
窓ガラスを清掃したのは一週間前か一か月前か。それほど、汚い。車窓を楽しむ旅人にとっては、毎日コツコツ磨かれた窓ガラスが欲しい。
一日の締めは車体清掃で終わるのが、日本人の真心、「オ・モ・テ・ナ・シ」である。その、当然の配慮がないのが残念至極。
ポルトガルが観光で生き抜くためには、基本的精神である窓ガラスの清掃だ。これをできないはずがない。
「おもてなし」の心が、国の経済を救うかもしれない。
「けいの豆日記ノート」
バスに乗る場合、前の風景がよく見える1番前の席に座ることがある。
だが、ガラスが汚いので、とても写真は撮れない。
ひびが入っているガラスの場合もある。
列車など、側面がラクガキでいっぱいなことも多い。
そのラクガキが窓までかかっていて、車窓からの風景を撮るのにじゃまになる。
ラクガキのない窓を探すのが苦労であったりする。
ローカル列車は、ガラガラなことが多く、経営状態もよくないのだろうが・・・
《カスカイスまでの車窓》
活気があるカイス・ド・ソドレ駅から列車に乗った。
住宅地の間を走り抜け2つ目のアルカンタラ・マール駅を過ぎると、車窓左手にテージョ川の景観が楽しめる列車だ。
テージョ川対岸の丘の上に、高さ110メートルの《クリスト・レイ》の巨大なキリスト像が両手を広げリスボン市街を見つめ立っている。
その足元から1966年に開通した全長2277メートルのつり橋が優雅に延びる。
その長いつり橋、《4月25日橋》が目の前に迫り、橋の下を一瞬に通り過ぎる。ひと息する間もないダイナミックな景観であった。
1974年4月25日、革新派軍人グループがクーデターを起こし新政府が誕生。
この事件をポルトガルの人びとは「リスボンの春」と呼び、革命を記念してつり橋を4月25日橋と改名したのだった。
橋の下を通過すると、ベレン駅に着く。観光客にとっては、目的地だ。混んでいた列車が急に軽くなった。
ここベレン地区はポルトガルの輝かしい15世紀から始まった大航海時代の遺産の宝庫であり、世界遺産が満喫できる痺(しび)れるような景観が待っている。
《ジェロニモス修道院》が右手車窓に、その白い大理石の世界遺産の雄姿が見える。
作家・司馬遼太郎さんが「街道をゆく」の中で、初めてジェロニモス修道院を見たとき、
《皮膚色の大理石が、よほど結晶粒がこまかいのか、うすぎぬを透かした女性の肌を思わせるように美しい》と記述している。
(朝日新聞社/文庫本・街道をゆく23)
ベレン駅をゆったりと列車が動き出す。
左手車窓にはテージョ川が見え、その川岸に今にもテージョ川に船出しそうな帆船のカラヴェラ船モニュメントがある。
1960年に建てられた高さ52メートルの《発見のモニュメント》だ。
ヨーロッパ大陸の最西端にある日本の4分の1ほどの小さな国が世界に向かって夢を託(たく)すには、大海に船出するしかないポルトガルであった。
その先陣を切って思慮したのがエンリケ航海王子である。その意志を継ぎ大航海時代を築き上げ、実行していった仲間たちがカラヴェラ船の両サイドに並ぶ。
1498年インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマであり、1543年の種子島鉄砲伝来の船員もいる。
また、1549年鹿児島に上陸しキリスト教を広めたフランシスコ・ザビエルである。ザビエルは織田信長にも謁見(えっけん)している。
学者、詩人、宣教師なども、アフリカ、ブラジル、東洋の果てジャパング日本まで、中世ヨーロッパの国々の常識を打ち破って大航海時代の幕開けをになったのがポルトガルであった。
勿論、モニュメントの先頭に立つ男は、大航海時代の基礎を築いたエンリケ航海王子だった。
更に、テージョ川に浮かんで、船の出入りを監視し、また世界の大海から帰還した勇者を出迎えたという世界遺産《ベレンの塔》が優雅に浮かぶ。
そのテージョ川下流12キロメートル先は、大航海に船出した大西洋である。
その大西洋に向かってテージョ川岸を走り抜ける列車。
その車窓いっぱいに、青い空と碧い海と白砂の海水浴場が迫ると、エストリル駅だ。
夏場はリスボンの若者たちや観光客で砂浜はパラソルの花園と化す。今日は5月初日。
でも、ちらほら白砂で陽射しを楽しむ人が見える。北欧の観光客かもしれない。
テージョ川はエストリル駅に着く前に、大西洋に溶けていた。
エストリル駅から終点のカスカイス駅までの海辺は、コスタ・ド・ソル(太陽海岸)と呼ばれる岩場に囲まれた美しい白い砂浜がいくつも続いている。
この海岸線を5年前の2008年6月、ぎらつく太陽の下をカスカイスのリベイラ海岸から大西洋海岸線のコスタ・ド・ソルを1時間20分もかけエストリルのタマリス海岸まで歩き、
エストリル駅から首都リスボンのカイス・ド・ソドレ駅に帰った記憶が蘇(よみがえ)った。
太陽光線に弱い相棒は、目印になる約束の赤い帽子のひさしを引き下ろしていたが、効果はなかった。その夜、ヒリヒリ泣いた。
「けいの豆日記ノート」
カスカイスは、リゾート地でもあるが、リスボンまでの通勤圏でもある。
リスボンまで、列車で30分ほどで近いこともあり、リスボンに住むより、カスカイスに住む人も多いのだろう。
列車の本数も1時間に4〜5本あるので、発車時間を気にしなくてもいつでも乗れるのが気軽でいい。
他の地域の場合、本数が少ないため、列車やバスの時間を念入りに調べないと、駅で何時間も待たなければならないことがよくある。
待てばくるのであればいいが、翌日まで来ない場合もあったりする。
滞在時間を有効に使いたいものには、切実な問題である。
《カスカイス駅》
初めてポルトガルに来た時、ドン・ガバチョ画伯がカスカイス駅前からタクシーでロカ岬に案内してくれた。
その時、『カスカイスは、勝海舟(かつかいしゅう)と覚えると忘れないよ』と言った。
そのカスカイスは大西洋に面した町だった。
古くから簡素な漁師町であったが、19世紀に王室の避暑地となったのがきっかけで、今ではお洒落なリスボンのリゾート地として観光客も多く訪れる海辺の町となった。
列車がプラットホームに滑り込む。だが、閑散としていた。5年前は、人で溢(あふ)れるプラットホームだった。
降りる人、迎えに来た人、乗る人で賑やかな避暑地のプラットホーム模様であった。原因はすぐ判った。
プラットホ―ムの端っこに、改札ゲートができていた。
今までは自由にプラットホームに出入りでき、笑顔と歓喜あふれた再会の抱擁が沢山見ることができたが、それがない。
感動の嬉々とした声がない、さびしい終着駅になっていた。乗って来た切符は何時もポケットの中だったが、しかし改札機に今回は切符が吸い込まれた。
終着駅の情緒を改札ゲートが奪ってしまった。
そういえば、かつてリスボンの地下鉄も改札口がなく、切符を買って、乗って、切符はポケットの中で降りた。
無賃乗車は出来たが、一斉検閲で引っ掛かると30倍もの運賃を支払うシステムだった。そんなのんびりした風情がポルトガルらしく好きだった。
「けいの豆日記ノート」
前回の旅で、リスボンのカイス・ド・ソドレ駅に新しい自動改札口ができていたのを見た。
シントラまでの列車の発着のロシオ駅にも自動改札口ができていた。
もちろん、カスカイス駅にも途中の駅にも自動改札口ができているのである。
もう、自由にホームに入れなくなったのである。
検閲する人件費節約なのか、必ず切符を購入させるためなのかわからないが、時代の波がきたようである。
経済的にひっ迫している状況もあるのかもしれない。
ちなみに長距離列車の発着する、サンタ・アポローニア駅やオリエンテ駅は改札口が設置されていない。
長距離の場合は、車中での検閲が徹底できるからからかもしれない。
《マルセイユから来た男》
駅舎前はロータリーになっており、迎えに来た自家用車が円形に連なっている。9時50分だった。目の前に見える白い壁の2階建に相棒が向かった。
その建物はマクドナルドだ。今朝は宿の自炊システムで、パンにコーヒーだけという超シンプルなモーニングを食べて来た。
昼には早すぎる。となれば、残るはトイレしかない。黄色いMマークが鮮やかだ。扉は閉まっていた。窓越しに見える従業員の女子たちには、準備で笑顔がない。
オープンまで10分ほどあった。その10分を惜しみ相棒は海岸に向かう。3分後にはヨットハーバーが青空の下にあった。
実は駅舎を出てすぐ左手が海岸なのだ。10メートルほどの崖の上に絵に描いたようなオレンジの屋根瓦に白壁のレストランがある。
白いテーブルに白い椅子が海辺の崖のふちまで並び、若者が白いパラソルを一つ一つ開いていた。
崖の下は指定席みたいな白砂の砂浜があり5つの白いパラソルが並び、その下にデッキチェアが置かれ、犬を連れたひと組の家族がいる。
右手岸壁の上にあるホテルの観光客かもしれない。浜の先はヨットが並ぶハーバーだった。
その崖の展望台で、薄汚れ使い込んだアコーディオンを背負った男が海を眺めていた。動かない後ろ姿が何故か寂しげだ。
思わず、男に声をかけた。おいらの、悪い癖(くせ)。勿論、ポルトガル語で「ボン ディーア!」。それに日本語で「おはよう!」と、呼びかけてみた。
振り向いた男は20代半ばの小柄で優しい瞳を向け「ボンジュール」と応えてくれた。
フランスの人だった。日本語の挨拶が効いたようだ。
肩のアコーディオンを切っ掛けにして、母国語と筆談絵談ジェスチャーを織り交ぜ語り合い、分かったのは男の旅模様であった。
フランスの港町マルセイユを発ち、得意のアコーディオンを頼りに街頭芸人を続け、徒歩でスペインを流し歩き、憧れのリスボンにやって来たという。
ポルトガルの民族歌謡ファド(日本的に言えば、艶歌だろうか)を直接、生で聞くのが目的だった。
ファドの女王アマリア・ロドリゲス(1999年79歳で死去)の歌声をCDで聞き、惚れ込んだのだと笑顔で語った。
そして、リスボンの下町バイロ・アルトやアルファマ地区にあるカーザ・ド・ファド(ファドを聴かせる店)にミニマムチャージ(最低料金)で通いつめ、
夜はファド、昼は街頭芸人の生活を続け3年になるという。
生のファドの歌声を求めて陸続きのフランスからスペインを通り抜け、ポルトガルまで歩いて来た青年に、羨(うらや)ましさえ覚えた。
ユーラシア大陸を街頭芸人で稼ぎ、ファドを聴くためにやって来られる距離感が羨ましかったのだ。
彼はカスカイスに来たのは初めてだという。
そして日本人から声をかけられ、8回もポルトガルを訪れ人びとの今の姿を追い求め、撮影を続けている執念に感動ですと言われた。
2001年9月11日のニューヨーク同時テロ事件の11日後に初めてリスボンに来て、
その翌日、ここカスカイスからユーラシア大陸の西の果てロカ岬に行き、140メートルの断崖に立ち大西洋の風を浴び、地の果てを体感した話もした。
彼に通じたかは定かではない・・・。
青年は、じっと目線を外さず、あなたは救世主かも、と言った。
「海岸の景色を見ていたらマルセイユを思い出し、そろそろ引き時かもしれない」と、はにかんだ。
男のたしなみは、足元。靴だ。新品の靴をはいて帰国だよ!とおいらが言うと、日本もそうか、マルセイユも同じだ。
新品の靴をはいて帰るよと。彼の目尻に涙の粒が膨(ふくら)んでいった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルに来て、最初のランチはマクドナルドであった。
それも日本でいう100円バーガーのような、1ユーロバーガーである。
カスカイスは、漁業の町なので、おいしい魚介類を食べさせてくれる店はたくさんあると思う。
なのに、食べない変なケチケチ根性は、なんなのだろう。
《絵本の商店街》
リゾート地のカスカイス商店街は、駅前広場から南西に向かって波が打ち寄せて来るようにも、波が引いて行くようにも見える不思議な石畳が広がっている。
それは敷き詰めた黒と白の石ころが帯となって、交互に波模様的に計算された石畳造形美だった。
その白と黒の石ころが一つ一つ平らに肩を寄せ合うように埋め敷かれ、気が遠くなる忍耐作業によって生まれた石畳だった。
石畳職人の執念の傑作石畳であった。商店街を波模様の石畳がどこまでも貫いている。
波模様の中を小舟に乗って右に左に揺れ動きながら楽しげに撮影している相棒がいた。
カスカイスの商店街は、左右の店の一軒一軒が絵本のように楽しませてくれる。
ワイン専門店には色鮮やかな赤い傘が並ぶイラスト画が飾られ歩く人々の心をくすぐる。
子供が離れないおもちゃ屋には、子供の目線に欲しがる世界に誘うおもちゃの数々の写真が貼ってある。
宝石店やブチック、土産屋にカフェ、本屋、レストランの料理写真が食欲を刺激し、コック姿の人形が笑顔で呼び込みだ。
ポルトガルブルーの空に白い雲がふんわり流れ、明るく心ワクワクの商店街の白黒波模様は、人びとの欲求を誘う魔法の絨毯かもしれない。
商店街の先は、白黒波模様と一緒に市庁舎広場に出た。左手にはリベイラ海岸があり、真っ青な大西洋が広がる。
観光客が海辺で鈴なりだ。更に南下すると、かつて貴族の館であった19世紀に建てられたカストロ・ギマランイス伯の館がある。
相棒はひと回りしてくると離れて行った。おいらは疲れた。門扉の前にあるベンチで本を読む。
目の前にとてつもない大きなヨットハーバーが見える。そんな風景を見ていると、日本の方が貧しく感じさせられた。
報道ニュースで知るユーロ圏の経済危機感は、微塵もなかった。それはリゾート地であり、観光地だからか。
でも、木々に囲まれた日陰の公園の指定席ベンチで座り、日がな話し込むハンチングに杖の年金親父たちは、また年金が削られたと嘆く。
日本だって、同じだぜ。どこにお金は流れどこにお金は貯まって行くのか。
削りやすい所から、くすねるように削る、国民が選んだ政治家が犯人。
そんな犯人を選出した国民が悪いとニュースキャスターがいう。
公園の真ん中にあったメリーゴーランドの音楽が急に鳴りだし動き出す。可愛い少女が母親に手を振った。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2014年3月に掲載いたしました。
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