「ポー君の旅日記」 ☆ アルコバサ修道院のアリコバサ2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・5≫
=== 第二章●ナザレ起点の旅 === 世界遺産・アルコバサ修道院のアルコバサ2
《ランチ》
世界遺産であるバターリャ修道院の外観をすっぽり眺めながら、小さなレストランでランチを食べた。
13時50分だった。身体から力が抜けていた。2時間以上も修道院の中を、隅から隅まで2往復ほど歩き回った。
その疲れと150年以上もかかった建造時間、それにポルトガルのゴシック・マヌエル様式の職人技に堪能し感嘆し感動した、その心地よい疲れでもあった。
バカリュウ(干し鱈)料理一皿とサグレス生ビール、セブンナップで11.3ユーロ(1449円)。
バカリュウ料理は干し鱈を戻し、玉ねぎをオリーブオイルで炒め、千切りのフライドポテトを合わせ、卵でとじたポルトガルの家庭料理だが、一人前の量が多いので一皿で充分だ。
ケチケチ旅なので、食と宿賃を押さえてもいた。観光旅行ではない、撮影取材旅なのだとケチっていた。
そんな、ポルトガル8回目の撮影取材旅の途中だった。そして、5月2日(木)の午後2時28分、バターリャのバス停からアルコバサの町に向かった。
「けいの豆日記ノート」
町の小さなレストランでのランチを決めたのは、外に貼ってあった料理の写真であった。
文字だけの看板は、料理の内容がわからないので、適当に頼むのでなにが出てくるのかがわからないことが多い。
写真を見て、バカリュウ・ア・ブラス Bacalhau a Bras があることがわかった。
以前にも食べたことがあるが、ポルトガル料理の中で好きな食べ物である。
《ランチの思い出》
2002年1月末にポルトガル2回目の撮影取材旅で、アルコバサに行った。その時のランチの紀行文がある。
【昼食一回分の料金が、タクシーのタイヤの回転と共に飛んで行った。
バターリャからアルコバサに行く、バス停を間違え乗り遅れ、次に来るバスまで3時間もあった。
仕方なくタクシーを使った。その車窓には真っ青な空が広がっている。
2002年1月末の午後、バターリャからアルコバサにタクシーで向かった。
アルコバサはアルコア川とバサ川の合流点にある川の名を合体した名前の町だった。タクシーは4月25日広場で停まる。
午後2時前、腹ぺコだ。
もしかしたら、めったに乗らないタクシーを使ったため、昼抜きになるだろうなと思ったその時、
『お腹空いたね〜え』と吐いた相棒の一言で、目の前のポルトガルで初めてのピザ店に入れた。
一番安いピザ1枚とファンタ1本を注文。よほど貧乏旅行者だと思ったのか、小太りの可愛い女主人は粋(いき)だった。
注文した1枚のピザが半分に切られ一皿ずつに盛られ、ファンタ1本には2つのコップが。
1番安いピザだったが、端っこはカリカリと焼け、全体はもちもち。噛みしめて、頂いた。女主人は、満面の笑みで美味しそうに食べる我らを見つめていた。
2人分の昼食代は、5.74ユーロ(745円)。お金を払う時、相棒は女主人の配慮に感謝をこめ、千代紙の折鶴2羽を添えて差し出した。
その時の、女主人の優しい慈愛の笑顔が忘れられない。】
われらのケチ旅姿には、11年たっても進歩がなかった。
「けいの豆日記ノート」
前回、バターリャを訪れた時、バターリャ修道院に行きたい思いが先走り、バス停の場所を確認しなかったことが災いした。
アルコバサに行くバス停がわからなくなったのだ。
人々が並んでいるバス停で聞いてもアルコバサ行きのバス停ではなさそうであった。
そのうち、バスの時間は過ぎてしまった。
トリズモ(案内所)に戻って時間を聞くと3時間後にしか、バスは来ないらしい。
泣く泣くタクシーを使ったのである。
《ここに来た目的》
バターリャのバターリャ修道院を堪能してきたが、実は小さな町アルコバサに来たのは、ここにある1153年から建設が始まり、
1222年に完成した後も歴代の王によって増改築が行なわれ、建てられた世界遺産の[アルコバサ修道院]であった。
この修道院を参考にして、バターリャ修道院が建造された、と知ったからだった。知った限り再度見ておきたかった。
アルコバサバスターミナルまで3.15ユーロ、30分、着いたのは、15時だった。
バスターミナルからコンバテンテス通りに出てアルコア川を渡れば、歩いて10分もかからないで[アルコバサ修道院]の広々とした石畳の広場にでる。
左手に高さ10メートルほどの白い外観2階建にオレンジの屋根をのせた建てものが、目測200メートル以上もあろうか遥か先まで伸びていた。
ここで『オーッ!』と、相棒が吐きシャッターを押した。ここに来た11年前はフィルムだったが、今回はデジタルで映像を残しておきたかった。
正面に進むと、長い建物の中央にバロック様式のファサード(正面入り口)がある。
ファサードは高さ10メートルくらいだが、シンメトリー(左右対称)になっているファサードの塔は高さ20メートル以上充分にあった。
相棒は修道院の全景を撮るために広場の後ろに下がる。振り向いて下がること5回目、『もう、広場の端っこだね〜』と吐き、シャッターを切った。
ポルトガルブルーの空の下に、アルコバサ修道院は凛(りん)として建っていた。
広々とした広場を挟んだ対面は、レストランや土産物、住宅地などがすぐ目の前にあった。
修道院の全景を見渡すためには、これだけの広場の幅が必要なのだと知った。
「けいの豆日記ノート」
前回のバス停事件をふまえ、今回はバス停と時間をしっかり確認した。
予定通り、アルコバサ行きのバスに乗ることができたのである。
バスターミナルから、アルコバサ修道院までの道のりの途中に水色の建物(幼稚園)があった。
以前、幼稚園の子供たちの笑顔を撮ったことを思い出した。
子供たちのはじける笑顔は好きな写真の1枚である。
《想い》
全景をカメラに収めた相棒は、広場の石畳を踏みしめ、一歩一歩ファサードに向かった。半円形になっている石段を登る。
3方から修道院に入れる計算された石段だ。入場料は相棒6ユーロ、おいら65歳以上はパスポートを見せ半額の3ユーロ。
財政に追い込まれているヨーロッパ圏なのに、文化に優しいのに安心した。
大好きなポルトガルは、第二次世界大戦に参戦しなかったために、どの地に行っても戦争の傷跡はなく、15世紀からのあの大航海時代の富で築いた建造物が、そっくり残っていた。
つまり、ポルトガルは日本の4分の1しかない国だったが、国中がまさに世界遺産と言ってもいいほどの宝庫であった。
2001年9月のあの決して忘れられない〈9・11ニューヨ―ク同時テロ事件〉があった11日後、初めて訪れたポルトガル。
その時の感動が尾を引き、日本のかつての人びとの心の優しさ、素朴さがポルトガルには残っていると感じ、その翌年から通い始めた。
人びとの親しみやすさが心に沁(し)みこみ、それにポルトガルの大航海時代の宝の山が、大切に残されているポルトガルに心を委(ゆだ)ねてきた。
1985年世界遺産になったアルコバサ修道院は大航海時代まえに建てられていた。69年以上もかけた修道院であった。
その財力は王家にあったが、その財力の源は市民の汗と血の努力であったはずだ。
つまり、国民が建てた世界遺産だったかもしれないと、ふと思った。
「けいの豆日記ノート」
アルコバサ修道院の正面は、西を向いている。
なので、午前中は、正面が影になってしまうのである。
バターリャを午前にして、アルコバサを午後にしてよかったと思う。
バスターミナル方面からの道に沿うようにある北側の壁は、太陽があたらないせいなのか、黒ずんでいた。
冬になるとコケでも生えそうな感じである。
《アルコバサ修道院》
○ ゴシック様式の格調ある表玄関を抜けると、細長い教会があった。
高さ20メートル以上もあろうか、高い丸天井の身廊(教会堂の入り口から祭壇にかけての中央部)は、全長110メートルもあるという。
天井も柱も壁も飾りがない。質素、清楚、清貧に満ちていた。
主祭壇には十字架とキリスト像のみだ。とてつもない大きさの教会で、こんな質素な主祭壇は初めて見た。
○ 18世紀に建設された王の広場には、修道院創設の物語を描いたアズレージョ(装飾タイル画)が目を引く。
○ 修道士の太り過ぎをチェックするための狭い扉口がある厨房には笑った。
○ 1000人いたという僧の広間はゴッシク様式のホールだった。
15世紀末から16世紀末にかけて修道僧たちの宿泊場として使い、のちにワイン貯蔵庫として使ったという。
○ 参事会堂は修道院の運営を話し合う部屋で、1180年には修道院長たちをここに埋葬していったと聞く。
○ ディニス王によって14世紀初めに造られた沈黙の回廊とも呼ばれたドン・ディニスの回廊。
青空が広がる中庭を囲んだ2階部分は16世紀に増築されたマヌエル様式だ。繊細なアーチや柱の装飾は見応えがあった。
どこも広い施設ばかりだった。2002年に来ているのに、外観は鮮明に記憶しているのに、内部はほとんど覚えていなかった。
2002年の紀行文を読んでみた。一行も書いていなかった。11年前が遠くなっていた。記憶の鏡が曇っていた。70歳を過ぎていた。
「けいの豆日記ノート」
アルコバサ修道院の内部の記憶がないのは、当たり前のことである。
なぜなら、内部は見ていないからである。
以前の写真を見ると修道院の入口のドアが閉まっているように見える。
休館日であったのかもしれないし、内部より町中を見るほうを優先したのかもしれない。
とにかく、内部は見ていないのである。
そんなこともあり、今回では、内部もしっかりと見ようと思っていた。
《ふたつの棺》
このアルコバサ修道院(サンタ・マリア修道院)で、特に印象深かったのはふたつの棺(ひつぎ)である。
ひとつは、修道院を築いたディニス王から繁栄の時代を引きついたアフォンソ4世の王子ドン・ペドロ1世であり、 もう一つは、妻のイネスである。
実は今も語り継がれている、ご両人の悲恋の物語があった。
ドン・ペトロ1世は隣国カスティーリャから妃コンスタンサを迎える。
しかし、ペドロ1世は妃に同行してきた従女イネス・デ・カストロと激しい恋に落ちる。
父王アフォンソ4世が激怒。隣国に対し顔がたたぬ。ふたりを切り離しにかかる。
妻のコンスタンサが亡くなると、ペドロ1世はイネスとの仲を公然とし、3人の子供もできた。
隣国カスティーリャ王国の圧力を警戒した父王と重臣たちは1355年コインブラにある涙の泉で、イネスを暗殺。
2年後父王が死すとペドロ1世は即位し、即、亡きイネスを正式に妻として教会に認めさせたという。
この史実を下敷きにして、考えた。
≪ペドロ王子とイネスの恋≫=================================
第一幕。アフォンソ4世の子、ペドロ王子は父のすすめでカスティーリャ王国の妃コンスタンサを妻として迎えた。
ここまではハッピーな話だが、悲恋が隠されていなければ悲恋物語に進展しない。
実はこの結婚は政略結婚だったという。
昔も今も、よくある話だが、妃コンスタンサがお供に連れてきた従女イネス・デ・カストロにペドロ王子は恋焦がれてしまったのだ。
従女イネスは《ローマの休日》のオードリーみたいに可憐で気品があったのか。
しかし、妃コンスタンサも可愛そう。
政略結婚とはいえ、妃にも、国に恋しい人がいたかもしれぬ。
しぶしぶ親の頼みをうけ、泣きながらこの地に来たかもしれない。悲しさの余り、その顔は打ち歪んではいなかったか。
また、従女イネスは思いもしなかった王子の甘いささやきに戸惑い、苦悩したに違いない。
彼女は己が立場をわきまえていた。そんな女性だったかもしれぬ。しかし、王子の熱き瞳に、負けた。恋に落ちてしまった・・・。
だが、父アフォンソ4世の激怒でふたりの仲は引き裂かれてしまう。もう、オペラの世界だ。
ふたりの甘く悲しい恋歌は、やがて別離の絶叫となり、暗転。
王子は妃と結婚。でも、妃は産後の経過が悪く、若くして亡くなったという。妃は知っていたに違いない。
王子の心の中には、イネスが住み着き離れられないでいたことを・・・・。
そして、ペドロ1世は周囲の反対を押し切り、イネスを側室に迎える。 ふたりは3人の子供をさずかる。
ふたりにとっては幸せな日々であったに違いない。だが、ペドロ1世に思いも寄らぬ幕が切って落とされた。
イネスと3人の子供の暗殺だった。亡くなった姫の里、カスティーリャ王国の圧力を恐れたアフォンソ4世とその重臣たちが暗殺に走ったのだ。
第二幕。ペドロ1世が王位を継承。彼の心中には、怒りと憎しみの炎が燃え枯れてはいなかった。
暗殺に関わった重臣たちを処刑した。 関与した重臣たちの中には察知して逃げた者もいたかも知れぬ。
そして、アルコバサのサンタ・マリア修道院で亡きイネスを王女であることを教会に認めさせたのだ。
イネス暗殺から10年後、ペドロ1世もこの世を去る。
彼の遺言でふたりの棺はサンタ・マリア修道院で、今も並んでいる。
ふたりが再生して起き上った時、お互いの顔が正面に見えるように配慮して、棺は置かれてあった。
ふたりが再生した瞬間===================================幕
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2014年6月に掲載いたしました。
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