「ポー君の旅日記」 ☆ 世界遺産バターリャ修道院のバターリャ2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・4≫
=== 第二章●ナザレ起点の旅 === 世界遺産バターリャ修道院のバターリャ2
《再会》
バターリャのバス停を降りると、目の前にもう一度会いたかった世界遺産のバターリャ修道院が高々と異彩を放って迫ってきた。
真っ青なポルトガルブルーの大空の下で待っていてくれた。
ナザレの町外(まちはず)れにある仮設バスターミナルで、首都リスボンから来た遠距離バスに乗ったら1時間でバターリャに着いた。
もっと時間がかかると思っていたが、直通であった。唖然だった。
実は、同じコースを12年前に体験していた。まだポルトガル旅に慣れていない2002年1月31日、2回目のポルトガル撮影取材旅だった。
ナザレの市民の日常を支える市場前にあるバスターミナルからバスに乗って、バターリャに向かった。
そのバスは30分でアルコバサという町のバスターミナルに着く。乗りかえて行くらしい。太った運転手は優しかった。
乗りかえバスまで我らを連れて行き、そのバス運転手に「この日本人は、バターリャに行きたいらしい。頼むよ」と、言ってくれたようだ。
細身の運転者は大きく頷き、「さッ、乗りな」と微笑む。「オブリガード!(ありがとう!)」と乗りこんだ。
15分走って農道みたいなさみしいバス停で降ろされた。
運転手は指差して、「あそこで待て、来たバスに乗ればバターリャだ。」と言って走り 去った。そのバス停は、今にも崩れそうな小屋だった。
四つ角に取り残されたバス停で待てば、本当にバターリャ行きのバスは走って来るのだろうか。不安を背負って近寄った。
1月31日、空は青空から太陽が輝いていたが、肌寒かった。待つこと10分が過ぎると、不安が増した。
その時、黒い衣装の50代の女性が、頭から身を包み停留場に歩いて来た。小柄であったが顔は彫があり美しい婦人である。
相棒が聞いた。「バターリャに行きますか?」と。女性は、コクンと頷く。でも、不安は去っていかなかった。
更に待つこと10分、小さな古ぼけたバスが走って来た。2時間に1本のバスだった。
若い運転手に、バターリャに行くかと相棒が聞く。
「Sim(はい)」と大きな声だった。高齢者が5人乗っていた。
8人の乗客を乗せた♪田舎のバスはオンボロ車♪は、のろのろ走って10分で着いた。
バターリャは、バスを待っていた時間で、充分歩いても行ける距離だった。
今回のスケジュールも相棒のカメラマンが企画した。フィルム時代に行った場所を、デジタル映像で残したい。
また、撮影OKだが、フラッシュ禁止の暗い室内をデジタル映像に残しておきたい。それが、この旅の目的であった。
ナザレからバターリャのバス賃は3.8ユーロ、しかも直通だった。腕時計の針は、11時50分を指していた。
「けいの豆日記ノート」
バターリャの町は、以前に訪れているので2回目である。
前回の旅のとき、乗り換えが多くて、とても不安であった。
今回は、バスの時間をちゃんと調べてから乗ろうと思った。
ナザレからアルコバサまでは、本数も多いが、バターリャ行きはとても少ない。
ネットから調べた時刻表をバスのチケット売り場の係りの人にみせて、どのバスが運行するのか確認した。
ネットの時刻表だけみると、本数が多そうだが、曜日によって走るバスがちがうので、実際に乗れるバスは非常に少ないのである。
《まず、凄い外観に酔う》
バターリャのバス停に12年振りで降りた。まず、次に立ち寄るアルコバサ行きの時間を相棒が確認した。
12年前は旅に慣れてなく、運転手がくれた帰路時間のメモを頼りに降りた。
だが、帰り時間にバス停に向かったが、バスは来なかった。
バス停が別の場所だと後で知った。
ふたり旅には思い違いのミスが多かったが、それが撮影取材旅の糧(かて)になっていた。
トゥリズモ(観光案内所)でポルトガル美人から地図と資料を貰い、目の前に迫るバターリャ修道院の全景を仰いだ。
修道院は街中で見る高さ30メートルほどもある大きなビルディングだ。
しかし、外観は石組で繊細な凹凸で仕上げられ、細長い明りとりの窓が幾筋も延び、すべてステンドグラスがはめ込まれている。
前に来た時は1時間ちょっとのせわしさだったが、今回は2時間30分もあった。ゆっくり堪能する時間の余裕があり、心にゆとりがあった。
まず、外観を一周しようと決めた。撮影しながらだったが、20分もかかった。
途轍(とてつ)もない大きな岩に繊細な模様を人間が刻み込んだ石の塊のように思え、外観だけで圧倒され、その美しさダイナミックさを堪能できた。
バターリャ修道院の建設は1388年に始まり、何代もの王位が継承し、16世紀の初頭まで引き継がれたという。
壮大、かつ華麗なこの修道院は、ポルトガルのゴシック・マヌエル様式を代表する建物として、1983年に世界遺産になった。
「けいの豆日記ノート」
前回の失敗を繰り返さないためにバスの時間だけは、ちゃんと確認するように気を付けた。
バス停の場所も重要である。
前回、バターリャ修道院に急ぐ一心でバス停の場所がおぼろげになってしまったことが、後になって困ることになった。
次のバスまで2時間以上も待たなくてはならず、しぶしぶタクシーを使ったのである。
それと今回、計画段階で、アルコバサを見てからバターリャを見るか、バターリャを見てからアルコバサを見るか、とても迷った。
本数の少ないバスの時刻表とにらめっこしていた。
結局、バターリャを見てからアルコバサを見ることにした。
もし、バスに乗り遅れたりして、アルコバサを見る時間が無くなったとしても、ナザレから遠いバターリャを見たほうがいいと思ったのである。
《修道院建立の切っ掛け》
地名のバターリャとはポルトガル語で[戦い・戦場]を意味する。つまり、この地はかつて戦場だったのだ。
ポルトガルのフェルナンド1世が亡くなると、王位継承を奪おうと隣国カスティーリャ1世が3万もの大軍を率いてポルトガルに攻め込む。
独立を守るためジョアン1世は、戦勝を聖母マリアに祈祷。
それが効したのか、奇跡的な勝利でポルトガルの独立を守る、それはポルトガルの歴史に残る戦いであった。
ジョアン1世は、聖母マリアに感謝を込めて華麗で壮大な「勝利の聖母マリア修道院」建立に着手した。
1388年のことだったという。それが今日、世界遺産になったバターリャ修道院であった。
この修道院には、150年以上の長い建設期間がある。その間に時代の流れもあり、建設技術も変わる。
その技術がのこされ、ポルトガルのゴシックやマヌエル様式の真髄が堪能できる空間が収まっている。見れば見るほど、目を楽しませてくれる修道院であった。
そのやわらかい繊細な模様に、ただただ痺れる。何時間も眺めていたい石灰岩の絵模様が、濃縮されていた。
その柔らかさは、石のレースだった。まるで、そよ風に揺れ動くような石灰石のカーテンが、柔らかく舞う美しさがあった。
「けいの豆日記ノート」
何百年もかけて、建物を造る歴史はすごいと思う。
何代にもかけて、建物を造り、完成を見る前に世代交代である。
きっと、自分の名誉だけでなく、後世にも残したいという気持ちが続けさせたのかもしれない。
いろいろな物語も生まれているに違いないと思う。
《無料の教会と礼拝堂》
洒落たファサード(出入り口)を入ると、左手にチケット売り場がある。まず、チケットを買う。大人6ユーロ。
パスポートを見せれば65歳以上は半額、3ユーロだ。おいらは当然半額チケットだ。
相棒はチケットを握りしめ、チケット売り場の先に歩きながら『チケットを失くさないように』いう。ここはすでに無料の教会内部であった。
修道院の南側は無料の場だった。薄暗い[教会]は神秘的であった。奥行き80メートルほど、高さは32メートルほどだという。
細長い明り採りの窓から16世紀のステンドグラスを通した明りが、暗いフロアーに絵模様を描く。
まるで、楕円形のブルー、ピンク、オレンジ、レッド模様の絨毯である。踏みつけてしまうのが可愛そうナほど綺麗であった。
その奥に[未完の礼拝堂]がある。ジョアン1世の息子ドゥアルテ1世が建設を始め、没後マヌエル1世が引き継いだが、未完に終わってしまう。
首都リスボンのジェロニモス修道院に職人がごっそり移ってしまったからだと言われている。未完というのは、天井がすっぽりないのだ。
しかし、天井のまるい空間には、美しいポルトガルブルーの青空があり、白い千切れ雲が流れていた。
でも、礼拝堂に入るフレームを飾る浮彫の彫刻は見応えがあった。精巧なマヌエル様式の彫刻は緻密で精巧であった。見ていて飽(あ)きがこなかった。
チケット売り場の反対側に[創設者の礼拝堂]があった。15世紀に造られたジョアン1世の家族の墓所だ。
中央にジョアン1世と王妃フィリバ・デ・ランカスターの棺があり、周囲にエンリケ海港王子ら4人の王子が眠っている。
大理石の柱やアーチの彫で囲まれた棺は、気品に満ちた彫装飾で、それは見事であった。
「けいの豆日記ノート」
教会内部を全部みてから、教会の奥の修道院入口にいくと、チケットは教会の入口だと言われる。
また、教会入口に戻り、チケットを買うことになる。
広い教会の中を何度も往復することとなった。
ステンドグラスの光が床に反射してきれいだったこと、前回の旅でもそうだったと思いだした。
このステンドグラスの光は、太陽の位置のせいなのか、前回のほうが、映っている場所がよかったと思う。
《2つの回廊と参事会室》
チケットを見せ有料ゾーンに入った。太陽が燦々と降り注ぐ広い回廊が目に飛び込んだ。
1386年に建設を始め、1515年に完成させたという[ジョアン1世の回廊]だった。
初代建築家アフォンソ・ドミンゲスが作ったゴシック様式の回廊に、100年後にジェロニモス修道院を手掛けたボイタックがマヌエル様式の装飾をほどこし29年かかった。
つまり、129年かけてジョアン1世の回廊は完成した。ボイタックが手掛けたジェロニモス修道院とここバターリャ修道院は、共に世界遺産になっている。
四角い回廊は一辺が100メートルは充分にあろうか。なにせ、でかい。
アーチ型の天井廊下の中庭に面した回廊には、アーチ型に解放され、その上部には日本的に言えば欄間(らんま)を思わせる、レース細工のように繊細な狭間飾りがほどかされている。
その飾り細工模様は、ひとアーチごとに違う。見事というしかない。ポルトガルマヌエル様式の粋(すい)が凝縮されている。
相棒はこの回廊を3周はしていると思う。なにせ目印の赤い帽子を何度も見逃した。係員も防犯カメラもいき届いている。
それに観光客も多い。見張り番役のおいらも赤い帽子を視界から逃しても、街中とは違い不安はなかった。
もうひとつの[アフォンソ5世の回廊]は15世紀に造られたゴシック様式の回廊だった。しかし狭間飾りもなく回廊廊下にも陽射しが差し込み長閑であった。
中庭には2本の背高い糸杉が太陽を浴びていた。
帰り際、ジョアン1世の回廊を歩いていると、対面から銃を持った若い兵士が儀式めいた歩き方でやって来て、[参事会室]に入って行った。
『交代儀式だ!』と相棒は吐き、足早行動で追った。柱が1本もない広いフロアーに、20メートルは楽にある高い天井が広がり、何も置かれてないだだっ広い部屋であった。
あるのは壁に高さ5メートルほどに十字架にキリスト像があり、その下に白い大理石の上に大きな鉄製のオブジェ(実は、無名戦士の墓)を両脇からベレー帽に
ピンクのマフラーを首に巻き付けた銃を持った陸軍の若い兵士が守っていた。
この部屋は現在、第一次世界大戦とアフリカの植民地争いで命を落とした無名戦士の墓が置かれていた。
その左手の壁には4メートルほどのステンドグラスがあり、回廊の中庭からの明かりを取り入れていた美しい絵模様のステンドグラスがある。
それは、キリストの苦難の場面をあらわした16世紀の作品であった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2014年5月に掲載いたしました。
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