「ポー君の旅日記」 ☆ 対岸にロープウェイのできたポルト14 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・17≫
=== 第六章●ポルト起点の旅 === ロープウエイに乗ってポルトセラーのポルト14
〜【さて今回は、同年5月12日(日)昼12時頃からの〈続編〉ポルト旅日記である】〜
《貴婦人の揃踏(そろいぶ)み》
首都リスボンから北300キロメートル程にあるポルトガル第二都市[ポルト]には、ポルトで一番大きい[アズレージョ(装飾タイル画)]がある。
バロック様式の大建造物である[カルモ教会]の側面壁に描かれた聖母マリア信仰を描いた修道女たちの姿だった。このアズレージョ壁面は、1912年の作品だという。
青いアズレージョの装飾タイル画を見つめていると、30分間の時の流れは一瞬にして過ぎていく思いだ。
今まで太陽光線に照り焼かれ、風雨に厳しく打たれ、歳月をしのいできた外壁に飾られたアズレージョだった。
だが、青い色彩はあせることなく堂々と目を引く大きなアズレージョが、おいらは好きだった。
今回の取材旅でも、ポルトガル各地でアズレージョを凝視続けてきたが、このカルモ教会のアズレージョは、おいらの手と足の20本の可愛い指の総動員が必要だった。
なぜ、10本の指と書かなかったのか。
13年間、どれほどの[ポルトガルアズレージョ]を堪能してきたことだろうか、という思いがある。
一冊の本が書けそうなほどアズレージョの傑作に出会えた。
だから、手の指10本では足りなかったのだ。
そのカルモ教会の前で、劇的な出会いを目撃した。ポルトには、[1番・18番・22番の路面電車]の3路線がある。
その路面電車18番と22番の出発点であり終着点であるステーションが隣同志であった。
と言っても、プラットホームがあるわけではない。石畳道路が〈駅舎〉だった。
相棒が、カルモ教会のファサード(正面玄関)を撮影中に、そのフレームの中にツートンカラー(薄黄色と薄ベージュ)の車体が品よく左手から18番が入って来て、カルモ教会を背景にして右折して正面を向いて停まる。
そして、ひと呼吸の間があって、あのポルト最大の壁面アズレージョをかすめて、正面から22番が18番と同じ色調で遠慮気味にまっすぐ突入して止まった。
ポルトの路面電車18番と22番の揃踏(そろいぶ)みに偶然遭遇したのだった。
相棒は歓喜した。
偶然とはいえ、この18番と22番の貴婦人のようなツーショット映像は予想もしなかった出会いであった。
ふたりの路面電車は、まるで中世からタイムスリップして来た貴婦人たちのようだった。
晴れ晴れした貴婦人たちは、カメラをかまえる相棒にそっとウインクしたように思えた。
「けいの豆日記ノート」
前回のポルト13でも書いたが、1日乗車券の乗れる乗り物には、路面電車が含まれていなかった。
リスボンの1日乗車券と同じだと勘違いしてしまったのである。
ポルトの路面電車の3車線を乗る予定を変更して、1回だけにした。
30分に1回の間隔で、路面電車は町の中を走っている。
カルモ教会前に2台が並ぶのは、30分に1回である。
1台でもすてきなショットなのに、2台並ぶとは、嬉しい限りである。
《昼食は時の流れの中で》
ポルトガル撮影取材旅で今まで13年間、12時きっちりの昼食を食べたことはなかった。
昼飯は午後2時頃までに食べられればいい通過点に過ぎなかった。日本の日々の生活に密着している『コンビニ』なんてこの地にはない。
24時間営業で、しかも世界的にも有名なシャワートイレもない。素直に日本って、すごい国だと思う。
我らは観光ツアー会社の時間割に縛られた旅ではなかった。13年間、気ままなふたり旅であった。
でも、ツアー旅の時間割りがガンジガラメの旅であっても、個人旅では経験できない素敵なホテルや部屋、適度の温度のバス湯やシャワー、この国の美味い料理がふんだんに待っているはずである。
つまり、本来のお金持ちとケチケチ族の温度差であった。
我らは後者。ポルトガルの人びとの日常を撮ることが目的のポルトガル行脚旅(あんぎゃたび)であった。
貴婦人を撮った後、大学の近くのレストランに入る。日曜日なのに開店していた。大学生が多いためであろう。
若者たちが入って行くので我らも引き込まれた。
注文する前に、観察だ。何を食べているのか、その鑑識は相棒が担当である。
今までほぼ鑑識の眼力通り、間違いがない美味さであった。勿論、写真家であり鑑識係りである相棒が、注文役でもあった。
ハーフチキン焼きに大盛りポテト炒めとバター炒めライス添えの1人前(4.9ユーロ)。生ビール(1.4ユーロ)。水(1.0ユーロ)。プリン一皿(2.85ユーロ)。
二人で、計10・2ユーロ(1430円)が我らの、昼食代であった。
「けいの豆日記ノート」
日曜日でもレストランとカフェは開いていた。
午前にいって閉まっていたマジェスティックカフェは例外であったが。
これから、ドウロ川の対岸のゴンドラに乗る予定だったので、歩く都合もあり、ランチを食べることにした。
カルモ教会の向かいのカフェの横にレストランがあった。
中に入って、すぐのところに座ろうとすると、奥の部屋に案内された。
きっとどこかの観光客が豪華なランチを食べるだろうと期待したのかもしれない。
でも、期待にそえず、1人前のみであった。
デザートのプリンを注文して食べたので許しておくれ・・・
《魔女の宅急便》
レストランからクレリゴス教会の脇を通り、急な坂道を下り、サン・ベント駅舎まで石畳を踏みしめ25分もかけてくだった。
老体73歳には快適な下り坂道であった。「サン・ベント駅」の地下にメトロ(地下鉄)のプラットホームがある。
やっとこ、相棒の努力によって手に入れた「ポルトカード」を使いメトロに乗った。
薄暗い車中からすぐに太陽光線が照りつける外に出た。
そこは、鉄の塔のフランスのエッフェル塔を設計したエッフェルの弟子テオフィロ・セイリグが設計し、1886年に完成したドウロ川に架かる[ドン・ルイス1世橋]のてっぺんだった。
てっぺんからの車窓はポルトを堪能できた。200メートル程をメトロに乗って緩やかに走った。
ポルトの町の景観とドウロ川の雄大さを楽しみながらゆっくり渡るのもいいものだった。
川面から高さ70メートルはあろうか、その橋のてっぺんを徒歩では何度も川風を顔面に受け、帽子を押さえながら渡ってポルトの情感を相棒と楽しんだ。
天空に向かって段々状にはい上がって行く、オレンジ屋根と白い壁面の色鮮(いろあざ)やかな家並み俯瞰(ふかん)は、いつ見ても心をざわめかす景観であった。
首都[リスボン]より景観の艶(あで)やかさは[ポルト]の方が情緒豊かで好きだった。
毎年暮れに名古屋栄の「名古屋市民ギャラリー栄」で開催している『愛しのポルトガル写真展』にご来場の高齢S画家は何時も優しく言ってくださる。
「脳裏を揺さぶるかつて見たポルトの景観を、あんたが撮って来てくれる写真で思い出し、楽しませてもらっている」と。
2001年から始まって定例になった12月展示の[名古屋市民ギャラリー栄]での写真展を、「冬の栄の風物詩」になったと喜んでいただき、我らは恐縮し感謝いっぱいであった。
日本の世界遺産的な宝物である、宮崎駿監督。その製作作品のヒントの一つになったのが[ポルト]の景観だと聞いている。
それが、映画『魔女の宅急便』の世界だと伝えられている。
宮崎監督の映像世界は、監督の世界行脚(せかいあんぎゃ)旅の蓄積の中で練り込まれた〈複雑怪奇な夢と冒険と人間愛あふれた宮崎ワールド〉の宇宙観ではないだろうか。
作品誕生までどれ程の思考錯誤を何度も貫通して来られたことか。その監督の苦渋の頭脳生命力が、おいらは好きだった。
作品は、苦悩の蓄積の中から、ふわっと、生まれてくるものなのだ。
悩まずして簡単に人の心を打ちのめす作品は生まれないと思う。
おいらはハリ―ポッターになれなくても、相棒にはポルトガルブルーの空を駆け巡(めぐ)る箒(ほうき)に乗った魔女になって欲しいと、この地に立つと強烈に感じる。
「けいの豆日記ノート」
1日乗車券を買ってしまったので、歩いてでも行ける隣の駅までメトロに乗ったのである。
メトロといっても、地下を走るのは、街中の中央部分だけで、後は地上を走るライトレールである。
2階建てのドン・ルイス1世橋の上は、地上より、ゆっくりと走っている気がした。
すぐ隣を歩行者が歩いているからかもしれない。
歩道と線路との間には、何もない。
柵があるわけではないのである。
線路のすぐ横を歩けるとは、日本では考えられないことである。
《天空のロープウエイ》
ポルトのドウロ川岸にあるレストラン街[カイス・ダ・リベイラ]は、何時も市民は勿論、観光客で賑わっている。
ドン・ルイス1世橋を渡ったその対岸の[ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア]には20ほどあるポートワイン製造会社(セラー)の町である。
その上空を、オレンジ色に埋め尽くされた屋根瓦を眼下に眺めながらゆったりゴンドラに乗り、箒(ほうき)に乗った魔女みたいに天空からのドウロ川のポルトの町が楽しめた。
2010年から11年にかけて造ったロープウエイだと聞く。それにしても、ポルト市はよく建造費を捻出したものだ。
と言うのは、ポルトガルは、残念ながらEU圏内で経済危機に迫られている国の一つである。
でも、観光で生きていくためにも投資は大切なことだ。日本だって海外からの観光客を頼りに生きているのだから。
でも、13年間ケチケチ旅を続けている我らにとっては、その危機感は伝わってこなかった。決して、疎(うと)いわけではない。
適度な観察眼は、常識程度には持っていると思う。町中の食堂で出合う市民の中で昼食を食べていても、笑顔が絶えない食事風景であった。
人の良い日本人気質に似ているポルトガルの人びとは、日本魂いやポルトガル魂に満ちている黒髪の皮膚感は感じていた。
子供たちの瞳の美しさは、恥らいに満ち、愛くるしい。
子供が集まれば相棒の鶴の折り紙が始まる。千代紙を一人一人に渡しての街角「折り鶴教室」であった。そして、子供たちは礼儀正しかった。
自分の折った折鶴を嬉しそうにかかげ、男の子は「オブリガード!」、女の子は「オブリガ―ダ!」と『ありがとう!』の声を残し相棒に笑顔を投げかけ、家路に散って行った。
それが、13年間ポルトガルの人びとの日常生活を追い求める旅の切っ掛けでもあった。
『ちょっと、高いよ』「?」『ゴンドラの高さじゃないよ、料金がさ』と相棒。
でも、一度は乗りたかった片道5ユーロ(700円)の遊覧距離600メートル程の天空ゴンドラロになぜ、乗ったか?相棒の頭脳は繊細であったが、ケチケチ精神は単純でもあった。
それは、特権があったからだった。眼下の工場で、そのポートワイン製造工程の見学ができ試飲もできる特典であった。
各国の観光客は只(ロハ)で飲めるのは、大好きだった。
下るゴンドラの中から振り返って見た。
左に青いドウロ川、右にオレンジの屋根の波。その上流に出発点のドン・ルイス1世橋が見えた。
その川岸に、かつて上流から絞った葡萄の原酒の樽を運んで来た帆船が浮かんでいる。今は、各セラーの名前がついた広告帆船である。
その川岸は緑の芝生が延々と延び、露天の店とレストランが並んでいる。
『お洒落で素敵!』と相棒が素直に吐くのが判る川岸であった。おいらも好きな川岸散策通路であった。
芝生でごろり寝ころび、一日対岸の旧市街地が雛壇状(ひなだんじょう)に青空に向かって伸びていくポルトの景観を眺めていたいものだった。
それが、旅の醍醐味ではなかろうか。
「けいの豆日記ノート」
ポルトにゴンドラができたと聞いて、1度は乗ってみたいと思っていた。
高い所には、1度は登ってみたいものである。
5分で5ユーロは、高いと思うが、これが最初で最後になると思った。
ゴンドラは新しいので、ガラスがきれいであったが、数年すれば、汚れてくると思う。
バスや列車の窓ガラスを見ていると、きれいに掃除もするとは思えないので、ガラス越しに撮れる写真は今しかないと思うのである。
《世界に通じるポートワイン秘話》
ロープウエイは、ドン・ルイス1世橋際(ぎわ)の建物から右手のドウロ川岸に細長く伸びるオレンジ屋根瓦のセラー上空をゆったり川下にくだって行く。
繁栄の大航海時代後の苦境を乗り越えて来られたのは、この地で製造した[ポルト]の【ポートワイン】であった。18世紀初めにはすでに国際的商品で名を馳(は)せていたのだ。
ではなぜ、それほど美味いポートワインの[名前と味]が、世界に知れ渡らなかったのか。それには、わけがあった。
まず、ワインが出来ないイギリス風土の、その貴族の策略に軽々とポルトガル政府ははまってしまったふしがある。
特に、イギリス市場では[ポルト]生産のポートワインの70パーセントが占められた。
それはイギリスとポルトガルとの間で結んだ条約で、ポルトガル産ワインをフランス産ワインより三分の一の低価格関税でイギリスは輸入した。
それでポルトガルは大航海時代後の窮地をしのいだのだった。だが、いいことばかりではない。イギリスの策略にポルトガルは落ちた。見返りが当然待っていた。
イギリス産を大量に輸入させられる。当然、貿易赤字にきゅうす。
ポルトガルは、イギリスとの貿易赤字を埋め合わせたのは植民地ブラジルから入って来た金(きん)だったという。その金も、イギリスの産業資本になったそうだ。
ドウロ川上流のポルトガル各ワイナリーでワイン葡萄が採集され、絞られ、その原酒が樽詰めされ、下流の「ポルト」の[ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア]の[セラー]で、
どのセラーのポートワイン銘柄も発酵過程で【ブランデー】を加える。
すると、発酵が途中で止まり、甘さとコクを生む秘策のポートワインになるという。
ロープウエイを降りて、乗車券に刷り込みのセラーに向かう。狭い路地が連なり、どこからかセラー産のゆったりした甘いポートワインの香りが漂(ただよ)ってくる。
グラス一杯をちびちび飲む人、グイッと飲み干す人と様々な光景で賑わう。
我らはゆったり飲んだ。ポルトに来て、初めてのポートワインの味であった。只(ただ・ロハ)の美味は、格別にうまかった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルに行くのに、ワインがあまり好きでないのは、とても損していると思う。
アルコール自体が好きでないので、水より安いピールやワインが飲めないのである。
まあ、酔っ払いながらの写真撮影はできないので、がまんすることがないので、ちょうどいいのかもしれない。
ワインセラーの見学には、もちろん見学料がいる。
試飲もついているが、ワインが好きでないのであまり意味がない。
ドウロ川沿いのワインセラーは、人気があり、見学料がいるが、奥のほうのワインセラーは無料のところがあるらしい。
そこを探して、行こうと思っていたが、オマケのワイン無料券がもらえたので、こちらに行くことにした。
《日曜日も賑わうドウロ川両岸》
ドン・ルイス1世橋が2層になっている川面に近い自動車と人が行き来する混(こ)み込(こ)みの下面の橋を渡る。
ポートワイン製造(セラー)の町並み[ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア]から、対岸のレストランで日曜日の午後を楽しむ人々で賑わう[カイス・ダ・リヴェィラ]の川岸に渡るのも難儀(なんぎ)した。
ポルトガル語が飛び交う中を楽しみながら下流に向かって歩いた。勿論、相棒はフットワークも軽やかに人物撮影に集中した。
その川岸からケーブルカーもタクシーも使わず、急坂の石畳をサン・ベント駅に向かった。
足元が悪い工事中の坂道を、600メートル近くも息絶(いきた)えだえ登り、さっき乗った(14:30に)メトロのサン・ベント駅から、今度は16:30に反対方向の黄色路線に乗る。
相棒の閃き、もしくは深い計算で、先々の行動が決まる。その行動力をやさしく包みこみ、文句ひとつ言わず共に行動して行くおいらの身の軽さ。
73歳のこの頭脳フットワークは、ポルトガル限定である。
だってひとり、この地に残されたら帰国する術もない。
ポルトガルの青い空と空気と温かい人びとの笑顔に会いたくこの国のあっちこっちの生活空間に通いつめ、その集大成の13年間をポルトガル写真展で発表し続ける相棒の心の温かさと情熱に老体は賛同した。
相棒やドン・ガバチョ画伯に出会えなかったら、この世界観は共感共有できなかった。
そう、ポルトガルの神さまが見つめ守ってくれていたのだと、感謝感謝であった。
「けいの豆日記ノート」
日曜日だからなのか、ドウロ川の両岸は露天市場が開催されていた。
いつもにぎわっているが、市場開催で、ずっと人出が多い。
1日いてもいいくらいである。
そのドウロ川を後にして、登り坂を歩くことにした。
このあたりの道は、いつ来ても工事中である。
順番に工事しているのだと思うが、いつになったら、工事が終わるのだろうか。
《地下鉄に乗ったらこんな駅》
[ポルト]のメトロは6路線ある。緑・赤・紫・青・オレンジの束になった5路線に、黄色路線が串刺したような〈ポルトメトロ路線図〉だった。
メトロのサン・ベント駅で、あのカードで乗り込み、束になって走る5路線のメトロ駅〈Trindade/トリンダーデ〉で乗り換えた。
ここからが、相棒パワーである。
『あのさ、5路線あるけれど、何色に乗りたい?』と来た。「ウ〜ン、赤路線にしようか」と、おいら。
『判った、青路線に、決めた!』お〜ゥ、まるでローラ嬢。決めていたなら、聞くなって。お遊び好きであった。
そのプラットホ−ムに移動して待った。
1時間ほど地下鉄(メトロ)は、地上を走った。
左手先に、広々と見える大西洋があり、石畳にちょびっと高くなっているプラットホームがあった。そこが青路線のメトロ終着駅だった。
駅名は〈Senhor de Matosinhos(セニョール・デ・マトジ―ニョス)〉。
駅舎の先は、なんということでしょう。行ってみたら、こんな駅舎模様であった。露天市場のお祭りにポルトガル近郊市民が大集合であった。
5月12日(日)のポルト近郊の生活圏は、明るさに満ち満ちていた。相棒の勘であった。
ガイド本にも載っていない地に、偶然出くわす歓喜は、旅の醍醐味であった。
1時間ほど相棒は行ったきりである。
この青空市場空間なら放し飼いにしても、安全で大丈夫だと思う。それはポルトガル13年間の、プロ?ボディ―ガ―ドマンの勘であった。
老体は、サグレス生ビール一杯をちびり飲みながら、相棒のご帰還をメトロ終着駅で待った。
「けいの豆日記ノート」
せっかく、1日乗車券を買ったのに、メトロに1回しか乗っていない。
路面電車には、使えないことが失敗であった。
それでは、あんまりもったいないので、どこでもいいので、メトロの終点まで行くことにした。
トリンダーデの駅には、5方向のメトロがくる。
途中まで同じ路線を走っているが、その先が5本にわかれているのである。
きっと、分かれている先は、住宅地なのではないかと思う。
当てがあるわけでもなく、どこ行きでもよかった。
なので、次にきたメトロに乗ったのである。
やはり、終点近くに来ると、マンションが建ち並ぶ、住宅地であった。
でも、終着駅はテントが並び、露天市場が開催されていたのだった。
メトロに揺られて眠かった頭は、急にさえてきた。
露天市場ほど、テンションが上がる場所はないのである。
市場の中心には、広く豪華なマトジーニョス教会があった。
時間がもっとあれば、教会の内部もしっかりと撮れたのにと思うと、残念ではあるが、市場の人々を撮ることができてよかったと思う。
《明後日は、空の人》
『一緒に来ればよかったのに〜!』と、帰還の第一声であった。
「メトロ駅舎で、サグレス生ビールを飲みながら待っているのも、乙(おつ)だよ」と、おいら。
『1時間を、「ポー君の豆日記」を撮りながらは、大変だったよ』と相棒。「ご苦労さま!アイス買ってくるから・・・」と、おいら。
18時を過ぎていた。空は、マッ青空(さお)。
太陽は、まだまだ天空で輝く。ポルトガルの夕方は。21時頃。日本では信じられない、夕方の時間割である。
ふと腰につけて旅を続けている、今日の万歩計の数値が目に飛び込んできた。19925歩。
今日は、2万歩を越すかと思う。
ポルトガルでは、2万歩は旅の瞬時の通過点の歩数であった。
では、日本での新舞子海岸通り住まいの日々のおいらの歩数は・・・。言うのも恥ずかしい限り。
ポルトのいつもの宿に戻ったのは、19時過ぎであった。
・・・ ああ、あさっては、日本に向かう空の人。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2015年6月に掲載いたしました。
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