「ポー君の旅日記」 ☆ 復活したポニャオン市場のポルト15 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・14≫
=== 第6章●ポルト起点の旅 === 2002年からの想いが詰まる【ボリャオン市場】だった
《吃驚吃逆の〈グアルダ〉から港町〈ポルト〉へ》
ポルトガルで最も高い標高1056mの山あいの町〈グアルダ〉のけさ(今朝・5月24日・火曜)は、5月の中旬を過ぎているのに、14℃の肌寒さ。
そのスペイン国境に近い〈グアルダ〉で2泊を過ごした夜は、室内暖房で救われた。
ここに来る前に過ごしたこの地方の中心地〈カステロ・ブランコ〉では、30℃の真夏日並の暑さであった。
その太陽で輝く大空には、全長2mもあるコウノトリが白い大きな羽を黒いエッジで飾り、カタカタ、カタカタと長い赤い嘴(くちばし)を打ち鳴らし飛んでいた。
コウノトリは成長すると声帯が退化し、鳴き声が出ない。
そのため頑強な上下の赤い嘴を打ち鳴らしコミュニケーションをとっている。
そんな真夏日の地から100kmほど北の標高1056mの山間の町〈グアルダ〉に高速バスで1時間45分、
グアルダバスターミナルに着く前には車中に暖房が入り、着いてみれば町を歩く人びとは、皮ジャン姿の冬仕度ではないか。
半袖姿の野老(おいら)は吃驚(ビックリ)し、吃逆(シャックリ)したのだった。
その〈グアルダ〉のバスターミナルを、今朝9時40分発の5分前ぎりぎりに高速バスに乗り込んだ我らは、
標高1056mの山間の町から坂道を下り北西(大西洋側)にある人口およそ23万人のポルトガル第2都市〈ポルト〉に向かう。
流れ去る車窓風景は、ほとんど白い雲に包まれた濃霧の冬景色のよう。
寒さのためバス車内には暖房が入っていた。
その温かさで〈ポルト〉に着くまでの2時間45分、相棒のカメラマンは暖かい揺りかご状態を睡魔(すいま)で楽しんでいるように見えた。
「けいの豆日記ノート」
グアルダから、歴史的な村々を回ることができて、今回の旅の目標をひとつ果たした。
交通機関がないということで、タクシーでの1日貸切という今まででは考えられない日程であった。
ポルトガルのタクシー代が安くてよかったと思う。
きっと、タクシー運転手のマヌエルさんも内心ホクホクであったと思う。
普通だったら、2〜3日分の売り上げを1日であげてしまったのだから。
家族とおもしろい話ができたと思う。
帰りのホテルからバスターミナルまでのタクシー代もまけてくれた。
それに、荷物のスーツケースをタクシーから降りて、バス乗り場まで運んでくれたのだった。
《隣が牛串焼店のホテル》
高速バスは、まず10時40分に小雨の〈ヴィゼウ〉のバスターミナルで8人を拾い、11時35分の小雨の〈アルブゲリア〉バスターミナルでは、10人近くが乗り込んで来た。
そして、12時25分〈ポルト〉のバスターミナルに終着。途中で乗り込んで来た乗客の目的地は〈ポルト〉である。
雨が降りそうなちょっぴり涼しいお天気だった。
高速バス代は、@14・4ユーロだ。バスターミナルからタクシー(6ユーロ)で、13時05分〔ホテルジラソル〕に着く。
ポルトガルに来るといつも思うのだが、交通費が日本と比べるととても安く、ケチケチ旅を続ける我らにとっては、大歓迎だ。
港町〈ポルト〉での定宿はいつも【サン・ベント駅】に徒歩1分の〔ペニンスラール〕だったが、
今回は【TEATRO SA DE BANDEIRA劇場】のほぼ正面で、隣が牛串焼きのお店だ。夕食が楽しみな初宿の〔ホテルジラソル〕であった。
ホテルのフロントは1階。こちらでは建物の階数は、0階・1階・2階・3階と数える。だから、日本で言う2階が1階である。
そのため、重い旅行バックを持ちあげ、1階にあるフロントまで階段を登らなければならない。
高級ホテルではフロントが0階でベルボーイが荷を運んでくれるからいいが、我らケチケチ旅族にとっては、ひと苦労する宿にしか泊れない。
では、0階は何に使っているのか。
都会ではレストランとかスーパーマーケットの上が、ホテルや住居になっている場合が多い。
ほとんどが、0階は店舗である。
部屋番号202号室(日本では3階)は狭い通りに面し、窓を開ければ港町の裏通り風情の騒音や隣の牛串焼き店の香が申し分ない。
それに、昔ながらの劇場看板が目前に迫って来るのも、乙(おつ)であった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトのホテルは、ほとんどがペニンスラールを使っていた。
サン・ベント駅から近いし、料金も安い。
フロントが0階にあり、そこからエレベーターがついているのも助かる。
以前は、木製の年代物のエレベーターであったが、2013年の時には、新しいエレベーターに変わっていた。
今回の旅もこのペニンスラールにしようと思ったのだが、ネットでの注文は満室であった。
あちこち探し回り、多少割高だがモーニングのついているホテルジラソルにしたのである。
安いペンサオンでは、モーニングが別料金であったり、ついていない場合が多いのである。
《円形オペラ劇場【ボリャオン市場】の昔と今》
荷を解き13時30分、2002年来通い詰めている〔常設市場〕に向かう。
〈ポルト〉に来ると必ず寄る我らにとっては、日本にいても気になる〔撮影現場〕であった。
その常設の【ボリャオン市場】に初めて来たときの売り子さん達の印象が強烈で、素敵だった。
今から14年前、我らはその活気さに酔った。
お店の数、売り子たちの数、買い物客の数に圧倒された。
その爆発的なエネルギーがこの常設市場【ボリャオン市場】にはあった。だが、「一寸先は闇(やみ)」のことわざもある。
我らは14年間で「一つの生命線」を垣間(かいま)見た。
つまり、生きるか死ぬか物事が成り立つか成り立たないかの分かれ目で、絶対に守らなければならない地点や限界を知らされたのだった。
ここに来たのは、ポルトガル撮影取材旅2回目の〈寒い寒い真冬〉のことである。
初めて〔常設市場〕を訪ねた時は、野老も若かった。
62歳の冬である。ポルト市民の台所である【ボリャオン市場】は、日々の生活に欠かせない食のすべてが整っていた。
しかも、売り手も買い手も、およそ98パーセントが働き者で名高い『ポルトガル女』の世界だった。
2階建の売り場が周囲を囲み、囲まれた中央の広場は平屋の店が幾筋もの通路で仕切られている。市場全体の屋根はない。青い空が屋根だった。
しかも、この世界は女の声が美しく反響するエネルギーで満ち溢れた「円形オペラ劇場」のようだった。
その時、撮影させてもらった【ボリャオン市場】の人々が、今も輝いて忘れられない。
お茶目な八百屋の家族、売り声明るいきっぷのいい魚屋の姐御肌、果物に囲まれ微笑むおばあちゃん、
路地の角で丸椅子に座りお手製の刺繍クロスを売る小奇麗なおばあさん、
美味そうな燻製売りの艶っぽいおばさん、七面鳥の山積みを前に威勢がいいおばさん、
色とりどりのオリーブの実を漬けた樽を並べる可愛い姉妹、香り満点・微笑み満点の花屋の母娘、
生きた兎やニワトリ売りの慈愛あふれたおばさん、香ばしさいっぱい焼きたてパン屋のおばあさんと娘さん、
頭にパンツを幾重にものせ片腕にパンストを何十本も下げ市場通路を歩き回って売り歩く愛想(あいそ)がいいおばさんなど、
100人近くの女性たちが働く天国みたいな寒い寒い真冬の〈2002年1月23日〉の職場であった。
その翌年〈2003年4月〜5月〉、野老63歳の春に〈アマランテ〉の帰りに〔市営市場〕に寄った。
2002年8月5日発行の【山之内けい子〈愛しのポルトガル〉写真集・2002ポー君のポルトガル旅日記】の本を持参し、
その写真集に載せた2002年撮影の【ボリャオン市場】の人びとに会いに来たのだった。
写真集でのタイトル『人気の魚屋さん』親身に話をしてくれた気風のいい姉御。
『私の売り場はここよ』市場の角の丸椅子指定席で手作り刺繍を売っていた品の良いおばあさん。
『彩やかな店頭』沢山の色とりどりの美味しそうな燻製を売るおばさん。
『下着売りのおばさん』赤いマントがお似合いのおばさん。
『看板娘』スーパーモデルを夢見てポーズする愛くるしい八百屋の娘。
(小学生になっていて会えず。でもお母さんとお父さんは本を持つ相棒を挟みこみ、野老に写真を撮れと喜んでくれた)。
『寒い朝』ミカンを売る青い毛糸のショールで身を包んだ白髪のおばあさん達にお会いして、写真集をプレゼントした。
しかし、刺繍売りのおばあさんにはお会いできなかった。売り場通路の角っこには、丸椅子が消えていた。
そして、3年後の〈2006年10月〉に寄った時は、野老は8月の誕生日が過ぎていたため67歳になっていたが、〔常設市場〕の雰囲気に愕然とした。
女たちの売り声が消えていた。2階建の建物が老朽化して補修工事が必要となり、その工事費で市庁舎ともめていると魚屋のおばさんが教えてくれた。
あの気風良さが消えた姉御はしぼんでいた。
さらに、7年後の〈2013年4月〉、市場内をぐるり廻るように乱立する鉄パイプの足場群に、野老(73歳)は打ちのめされる。
物悲しさと不気味さが、圧迫して来る。修理工事の進展がない状態であった。
足場の陰で目に着くのは閉まったシャッターの店舗が目立つことだ。何十年と売り子の声が響いていた「円形オペラ劇場」も終演か。
これで〔常設市場〕が消えてしまうのか。そんな不安だけが、胸を締め付けて来た。
「けいの豆日記ノート」
どこの町にも郊外には大型スーパーマーケットができている。
郊外に建ち並ぶマンションといっしょに、巨大なスーパーができていて、昔ながらの市場や商店街は廃れつつあるのかもしれない。
まあ、これは、ポルトガルに限ってのことではないが・・・
常設市場はあまり活気がなく、なくなっていってしまうのかと残念である。
《ドクドク波打つ心臓》
〔ホテルジラソル〕から200mの石畳の坂道を登るカメラマンの相棒も野老も心中穏やかではない。
あれから更に3年の月日が過ぎた今日、〈2016年5月24日〉の【ボリャオン市場】に、ドクドク波打つ心臓の音を静めながら我らは向かっていた。
宿を出て50mも歩いていない時、目先が効くカメラマンが呟(つぶや)いた。
『あのさ〜、変、・・・よッ』と。視力も脳も鈍り気味な野老は石畳が連なるなだらかな坂上を見すえる。「どうした?」。
『門が・・・市場の鉄扉が、開いているよ!』と異変を感知した。
目的地〔常設市場〕まで150mはある。相棒は敏速だった。カメラマン根性に火がついたかッ。野老は取り残された。坂道を100m以上も走る根気が失せていた。
常設市場【ボリャオン市場】の大きな鉄製の門扉が開いていた。近年は閉まった大鉄扉に付いている「くぐり戸」しか開いていなかった。
その解放された大鉄扉の出入り口で、着飾った衣装の母娘が演奏していた。
物乞いをする母娘であったが、野老を待っていたカメラマンは一言『遅い、DM撮って』と小声で吐き、腰を沈め小銭入れに寄付し、写真撮影のお願いもする。
機転さに唸る、野老がいた。
毎年暮れの写真展に必要なDM写真は野老が担当だ。
市場内部の足場は残っていたが、全体的に明るさが戻り、豊富な果物と野菜売り場が〔常設市場〕の雰囲気を明るく引き立てる。
14年前に相棒が撮影した時スーパーモデルになりたいとポーズを作った八百屋の娘は結婚し、後を継いでいた。
プレゼントした写真集の本を覚えていてくれた彼女は、カメラマンとの記念写真を撮れと野老にせがむ。
野老の鈍い記憶が鮮明に蘇る。かつて、この子の母親に〔写真集〕をプレゼントした時、相棒との写真を撮らされた。
勿論、野老は嬉しく、快く応じる。
その時空(じくう)の流れが、嬉しかった。あの威勢の良い魚屋の姐御も、忘れずに声をかけてくれた。
60代に突入していたが、きっぷ気質の良さは変わらなかった。
店頭平板に鯵、鯛、鰻、平目、カンパチ、サーモン、マグロ、蛸、烏賊、海老などが溢れるように並ぶ。
見ているだけで、ワクワクする。
狭い通路にはビヤ樽を利用したテーブルが並び、〈ポルト〉産の名高いポートワインの赤やサグレス生ビールに、ここで買って来たチーズや生ハム、種々のオリーブの実、絶品燻製で盛り上がる。
観光客の賑やかな笑い声で【ボリャオン市場】の苦しい状況での将来への明るい見通しがやや見えた。
一筋の光明(こうみょう)が相棒の顔にも走り、嬉しげな笑みが消えなかった。賑やかさは観光客だけで、〔常設市場〕としては20%も機能していない。
14年前のあの店の数、売り子の数、客の数、これから幾年(いくとせ)の辛抱と夢を重ねていけばよいのか思案する野老76歳の5月だった。
【ボリャオン市場】の出入口で、物乞いの演奏する母と小鳥を帽子にのせた娘に小さく手を振って相棒は外に出た。
野老は娘が両手で挟む小さな小銭入れに幾ばくかの小銭を落とした。
娘は顔をあげて野老を見詰めた。清んだ茶色の瞳だった。小雨が舞って来た。
雨具は持参してきたが、遥か南800mほど坂下に流れるドウロ川から吹き上げる風が冷たい。
カメラを守るためにも、フードの着いた防寒・防水用の上着、「ヤッケ」が必要だった。
ホテルの前で『サン・ベント駅で待って、トイレにも寄る、15分後』電報みたいな言葉を投げ残し、相棒はホテルに飛び込み階段を登って行った。
野老は雨傘を背負ったリュックから引き抜き、初宿〔ホテルジラソル〕から石畳の坂道を下りながら考える。
日常生活の中で[電報]っていう単語が、今も生きているかな〜と。
「けいの豆日記ノート」
もう、ボニャオン市場はなくなってしまったかなと心配だったので、最初に行ってみることにした。
入り口には、オルゴールにあわせて、歌を歌う親子がいた。
手動のオルゴールで、曲になっている穴のあいた巻物がカバンの中にたくさん入っていた。
入り口近くの果物店には、色鮮やかなグミが並んでいた。
両端の店は工事中であったが、中央付近のレストランは満席であった。
こんな状態を見たことがなかった。
ヨーロッパで1番行きたい町ナンバーワンに選ばれたのがポルトガル第2都市ポルトだという。
それで、観光客が増えて、懐かしのボリャオン市場がにぎわっているのであろうか。
ボリャオン市場は復活したのかな。なんかうれしかった。
《『大航海時代』の出発点と『ポルトガル発祥』の〈ポルト〉の港》
〈ポルト〉の鉄道の玄関口と呼ばれる【サン・ベント駅】は、野老の好きないつもワクワクする場所だった。
その広い乗降ホールの壁面いっぱいに飾られた〈ポルト〉にまつわる歴史的な出来事がアズレージョ(草木染め色の装飾タイル画)で描かれていた。
20世紀初め修道院の跡地に建てられたその【サン・ベント駅】の大きな建物を出ると、目の前が拡大的に開け、起伏に富んだ〈ポルト〉の町の情景に堪能させられる。
500mほど先の、右手急勾配の石畳を登って行く路面電車の坂の上に、18世紀に建てられたバロック様式の【クレリゴス教会】があり、その76mの塔が凛と見える。
2002年1月と2004年4月の2回、その塔のてっぺんまで、197段(野老が登りながら数えた)の狭い石段を螺旋状に登った。
2016年5月、76歳の今は、あの息も絶え絶えな苦行のような圧迫される石段登りには耐えられないのは明白である。
76mの展望台からは、〈ポルト〉の町が360度楽しめた。眼下にはオレンジ色の瓦屋根が打ち寄せる大海のように幻想的に広がる。
ドウロ川に架かる【ドン・ルイス1世橋】や川沿いに長いレストラン通り〔カイス・ダ・リベイラ〕、
その対岸〔ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア〕の川岸には世界に誇る〔ポートワイン〕のワイナリー(ポートワイン製造工場)が並び、各ワイナリーでは見学・試飲・販売もある。
現在のこの〔ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア〕地帯は、ローマ時代にカ―レ(Cale)と呼ばれる州で、港(Portus)の役割もしていたため〔ポルトゥス・カーレ〕と呼ばれ、
これがポルトガルの語源になったと聞く。
〈リスボン〉は、大西洋に注ぐテージョ川の河口からおよそ12km上流にある55万人程の人口だが、
近郊を含めると240万人程の起伏が激しいヨーロッパ大陸最西端のポルトガルの首都である。
そして〈首都リスボン〉から、東京〜名古屋間300kmほど北にあるのが、人口23万人程のポルトガル第2都市〈ポルト〉だ。
〈ポルト〉も高低差が激しい港町で、大西洋にそそぐドウロ川上流5km程の河口に開けた良港の地であった。
ポルトガルの新時代到来の先陣を切ったのが1415年、〔エンリケ航海王子〕の指揮のもと〈ポルト〉を出港した船が北アフリカのセウタを攻略し、
それが切っ掛けとなりヨーロッパ他国に先駆けた『大航海時代』の先陣を切ったのが、ドウロ川河口にある〈ポルト〉の港が出発点であった。
またポルトガルの国土は、ローマ帝国の衰退後、11世紀にイスラム教徒から国土を取り戻したフランス貴族がドウロ川と北のミーニョ川に挟まれた地域を獲得、
その地名から〔ポルトカリア伯爵〕と呼ばれた。フランスからポルトガルに葡萄の苗を持ち込んだのも〔ポルトカリ伯爵〕である。
ポルトガルの国土は〔ポルトカリア伯爵〕の息子で、初代ポルトガル国王になる〔アフォンソ・エンリケス〕の進軍により領地が南に広がり現在の大きさになる。
この〔初代アフォンソ・エンリケス王〕の息子の一人が、あの『大航海時代』を築きあげ、生涯独身を貫き通した〔エンリケ航海王子〕である。
〈ポルト〉は将(まさ)に、大航海時代の幕明けを見守ったドウロ川河口の港町であった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトの町は、首都リスボンより好きな町である。
大きな町で、見どころがたくさんあるにガイド本の扱いが小さいと思う。
もっと、くわしい情報がほしいポルトである。
ポルトの町は、何度も訪問していて、見慣れているはずなのに、行っていない場所がいくつもある。
後から、ガイド本を見て、『ここも行っていない。ここに行けばよかった。』と思う場所が出てくる。
ポルトに泊まり、日帰りで行ける町に行ったりするので、ゆっくりとポルトだけを見ていないのである。
オープンカフェで、お茶でも飲みながら、ゆっくりと過ごしたいと思うこともあるが・・・。
《ピンクのテルテル坊主は雨の中》
小雨の中にピンク色のヤッケが近づく。『待った〜ぁ』。
ぴったりの15分後【サン・ベント駅】前にカメラマン登場である。
ポルトガル市民は一般的には地味な服装が多い。そこに、頭からすっぽりピンク色のテルテル坊主である。
目立った。相棒の持論であるが、旅先では目立つ服装の方が治安的にも安全。
皆んなが見るから、つまり目撃者が多いから暴漢予防になるという。一理(いちり)はある。
確かに、一応の理由には叶っているので野老は頷く。
相棒の発案で、カメラを濡らしたくないから気ままに歩いて早仕舞することにした。
傘もいらぬほどの小雨だがカメラの故障が怖い。
ポルトガル撮影取材旅の今回9回目でも予備カメラの持参はしている。
肩から下げているバックは撮影取材道具で重い。
なのに、一日2万歩は歩く。
こちらには便利なコンビニエンスストアがないため、昼抜きは日常茶飯事である。
だから、モーニングはしっかり食べておかなければならぬ。相棒は野老の2倍は食べる。
そんなモーニングは、只(ただ・無料)である。宿泊費に含まれている、と考えてもよいが、食べないと言ってもモーニング代は返ってこない。
高級ホテルでも、我らの安宿でも。しかし、安宿ではモーニングがない宿もあるから、事前確認が必要だ。
相棒は一考し、【サン・ベント駅】から〔新聞売りの少年銅像〕と赤い円筒形の郵便ポストが並んで立っている前を通り過ぎる。
そこは〈ポルト〉の中心となるグレりコス通りから〔市庁舎〕まで続く細長い【リベルダーデ広場】。
この地帯から南一帯はドウロ川を挟んだ旧市街地で、1989年【ポルト歴史地区】としてポルトガルの〔世界遺産(文化遺産)・現在15か所〕に認定されている。
カメラを肩掛けバックに収め小雨の中、市庁舎に向かう。
『こんな日は、天気の良い日には行かない、建物の中だね』ピンクのテルテル坊主は、仕方無し気に言う。
細長い広場には企業や銀行、レストランやカフェがあり広場中央にブラジル皇帝だったペドロ4世の像が、雨で濡れていた。
「けいの豆日記ノート」
天気がよくないので、なるべく建物の中を見て歩きたいと思った。
人物撮影は、屋外でないとできないので、外を歩くことが基本であるが、雨模様なので、いつも見れない博物館など行こうと思った。
市庁舎は、毎回見る建物であり、リベルターデ広場からの風景には入っている建物であるが、中に入ったことがなかった。
市庁舎の裏にあるトリンダーデ教会も初めて入った。
たまには、天気が悪くてもいものである。
【市庁舎】の外観を間近で見たのは初めて。
〔リベルダーデ広場〕から観た正面は、左右から石段を登ると正面玄関口に入っていける。
建物は3階建に見え、中央に高い時計塔が建っている。近づくと1階は男たちの石像が両腕をたたみ腕と両肩で柱を支え、2階は女たちが支える石像がたくましい。
中に入ったが想像する市役所ではなかった。今日は火曜日。何処にも役所らしい事務風景はなかった。
市庁舎と市役所の違いが分からず、聞こうにも人はいなかった。
小雨は止み、カメラマンはバックからカメラを取りだし市庁舎の裏側の道を北に歩き、〔トリンダーデ教会〕から斜め南に下って行くと薄茶に肌色のポルトの22番路面電車とバッタリ会う。
当然相棒のカメラが目覚めて、鳴く。シャッター音は気持ちが良い。
総ガラスの店内にはゆったり配置された本が並べられ、若い学生風の客が多い。〔サント・アントニオ大学〕が近いらしい。
ライオンが噴き出す噴水の奥に【カルモ教会】が見え、側面の広大なアズレージョ壁面が美しかった。
壁面が美しく見えたのは雨雲のお陰だ。太陽が当たるとアズレージョのタイル画が飛ぶ。
アズレージョは雨模様で見るに限ると野老は思う。
〔カルモ教会〕の正面の停車場で、〈ポルト〉の路面電車18番と22番の揃踏みはなかなか見られない。
18番は〔カルモ〕から〔マサレロス〕まで18分、22番はポルトの中心街を走る。22番と18番の大きな違いは、18番の車体には広告が控えめに入っている。
首都リスボンの路面電車は、車体4面が動く広告塔である。
朝8時ごろから夜の日の入りの9時頃まで、30分おきに走っている。
〔サン・アントニオ大学病院〕の近くのミュージアムに向かったが通り過ぎ、〔クリスタル宮廷園〕のドームのある公園に出る。
放し飼いのクジャクに出会う。羽根が小さい。カットされている模様。
そこから、また戻り、1度通り過ぎた【ソアーレス・ドス・レイス国立美術館】@5ユーロ。
65歳以上は半額の2.5ユーロであったが、雨のお陰で貴重な作品に出会えた。
「けいの豆日記ノート」
ソアーレス・ドス・レイス国立美術館は、ポルトガルで最古の美術館であるらしい。
ぜひ、行ってみようと思った。
サン・アントニオ大学病院の裏のほうにあるはずなのに、気が付かず通り過ぎて、クリスタル宮廷園まで行ってしまった。
でも、クジャクを見れて、間違えてもよかったと思う。
ソアーレス・ドス・レイス国立美術館の入口が地味で帰りも通り過ぎるところだった。
美術館の中は、係員しか見当たらなく、貸切状態であった。
入場料5ユーロが高いかなと思ったが、あれだけの収集品があれば、安いくらいだと思った。
気がつけば昼抜きの19時〔ホテルジラソル〕の隣の牛串焼き店で夕食だった。
チキン半分を2つ11ユーロ。サグレス生ビール2.1ユーロ。セブンナップ1.4ユーロ。蛸のオリーブオイル揚げ6ユーロ。
多すぎて食べ切れずで、お持ち帰りパック2個1.6ユーロ。合計、22.1ユーロ。
3000円程になってしまったが、昼抜きだから、まッ、いいか。
腰に付けた万歩計を見た。2万歩に、5000歩ほど足りなかった。
●漢字に(・・・)と読みをいれていますが、読者の中に小・中学生の孫娘達がいますので、ご了承ください。野老●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2017年9月に掲載いたしました。
|