「ポー君の旅日記」 ☆ 歴史的な城砦の村イダーニャ・ア・ヴェリャ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・5
=== 第4章●カステロ・ブランコ起点の旅 === イダーニャ・ア・ヴェリャ迫力満点のコウノトリたちだった。
《モンサントのジョン・ウエイン》
スペイン国境近くの大地12か所ほどに、ポルトガルの国境を厳守してきたかつての村々がある。
ポルトガル政府が認定した[ポルトガルの歴史的な城砦の村々]が、何世紀も経(へ)た今もなお消滅することなく人里離れた地に大切に残されている。
その12か所ほどの『歴史的な村』はすべて、ベイラ・バイシャ地方の中心地〈カステロ・ブランコ〉北東のスペイン国境近くに点在していた。
我らはその〈カステロ・ブランコ〉からその日、一日2便あったバスで5月19日に巨岩巨石の〈モンサント〉に入り「歴史的な村」のひとつを堪能した。
そして、今朝20日は、我らの宿『女人の館』で紹介してもらったタクシーが約束の10時ぴったりに迎えに来てくれた。
そのタクシー運転手はモンサントの裾野に住む25年のベテランドライバーで、〈モンサント〉はもとより近郊の村々からのお呼びがかかれば、国境の原野を走りまわる人気者であった。
その彼がモンサントの裾野の一本道をまっすぐ東に向かって疾走。
お願いしたスペイン国境真近の村に90km/hで飛ばした。
すれ違う車も人もいない荒野の草原だ。疾走しても白い土埃は巻き上がらない。
運転するがっちりした背中が後部座席に座るおいらの眼前を支配する。
そんな体格の彼の背中を見ていて、不意に妄想が走る。
じゃじゃ馬カメラマンと76歳の怪しげな旅人をのせ疾走する駅馬車。
その疾走する馬車を操(あやつ)る御者(ぎょしゃ)が、主人公ガンマンのジョン・ウエインだ。
アリゾナ州トントからニューメキシコ州ローズバーグまで様々な人びとを乗せて走る西部劇、ジョン・フォード監督傑作【駅馬車】が、瞬時に映画好きなおいらの頭脳を支配した。
大学時代、30回は幾度も映画を見て、そのカットカットのつなぎまで記憶していた。
だから、彼を〈モンサント〉のジョン・ウエインだと即決できた。
15分で、ドッ、ドドッ!と、手綱を思いっきり引き、目的地〈ぺーニャ・ガルシア〉に着く。
相棒が、ジョン・ウエインに待機時間の1時間を告げた。
『朝食のハムサンドを喰っているから、慌てなくてもいいぜ、じゃじゃ馬さん!』と、おいらには運転手の吐いたセリフ回しの発声が、ジョン・ウエイン調の重厚味を帯びて聞こえた。
〈モンサント〉は硬い花崗岩(かこうがん)だったが、〈ぺーニャ・ガルシア〉は赤味がかった崩れやすい珪岩(けいがん)を使った家並みの「歴史的な村」だった。
城砦からの展望には息をのみ込む。青いダム水が岩盤の深い谷間に流れ落ち小さな川を造る。
その水で生活してきた村人の生活が垣間見えた。
国を守り、日々の生活を築いていた厳守の歴史。人口はどの村も旧市街地に50人住んでいるだろうか。
旧市街地の裾野に開かれた新興住宅地人口は、徐々に徐々に、増えていた。
そして、メータ表示を[走行から待機]にして、1時間待っていてくれた「運転手モンサントのジョン・ウエイン」は、次の「歴史的な村」〈イダーニャ・ア・ヴェリャ〉に我らを運んでくれた。
そして、ジョン・ウエインは我らにハグしながら『パセ ウン ボン ディア,ファサ ウマ ボア ヴィアジェン!』
(Have a nice day,Have a nice Trip!)と、まるで昔からの友達のように優しかった。
「ムイント オブリガーダ!」と相棒、「チャゥ!」とおいら。
大きな身体をタクシーに押し込み、オリーブ畑の細い野原の道をゆっくり進み、自動車道に出ると広い草原を疾走して行くのが映画シーンのようにワンカット長尺で堪能できた。
実は、モンサントのジョン・ウエインは、〈モンサント〉の裾野の大地でオリーブ畑と葡萄畑に囲まれ、オリーブオイルを製造し、また、この地のポルトガルワインを製造販売する農夫であった。
タクシードライバーは農業が軌道に乗るまでのつもりで始めたが、ここ数年で〈モンサント〉が観光ブームに乗り、国内はもとより隣国スペインやフランスドイツなどEU圏、日本からの観光客もと人気スポットになっている。
ジョン・ウエインはタクシー業をやめたくても、農業が忙しくなったからと言って簡単にはやめれれない。
いままでお世話になって来た村の人びとの大切な脚だった。
今でもジョン・ウエインは高齢化した村の唯一の交通網だ。
村人は自家用車は持っているが、若者はこの地方の中心都市〈カステロ・ブランコ〉や西の大西洋海岸沿いに栄える都市へ働きに出ている。
そんな情報をくれたのは、今日で2泊目になる我らの宿のお世話になっている76歳・68歳・25歳のおんな衆たちである。
もし、TVからドキュメント番組の依頼があれば、1年間の取材を通し、おいらは、ポルトガル国とポルトガル人気質を、オリーブ造りとワイン造り、それに、このスペインとの国境で生きて来たタクシードライバー人生を通して[ポルトガルのジョン・ウエイン]で取材したいと思う、おいらがいた。
そんな粋な番組スポンサーなどいないのは判っているが、ドキュメント映像作家としての自負は、76歳の今でも残っている。
「けいの豆日記ノート」
今回の旅で、モンサントに2泊して、しっかりと村を見ようと思った。
そして、ポルトガルの朝日や夕日も見たいと思った。
町では、建物が多くて、なかなか見れないのである。
それに天候のかげんもあり、夕日が出るとは限らないのである。
せっかくモンサントまで来たのなら、その近くにある歴史的な村にも行ってみようと思った。
イダーニャ・ア・ヴェリャは、ローマ時代に繁栄した都市ということを知り、ぜひ、行ってみようと思った。
タクシーでしか行く方法はなかったが、ケチケチの旅でも、ここは、お金を使うところでもあるのである。
日本に比べれば、タクシー代は安いのもあるが・・・
《気持ちが通じるポルトガルの人たち》
33℃程の暑さの中、農夫のタクシー運転手は心優しさを我らに素直に与えてくれる。
おいら好みのポルトガル人であった。
[歴史的な城砦の村々]の一つ、巨岩巨石だらけの宿泊地〈モンサント〉から、スペイン国境に近い〈ぺーニャ・ガルシア〉まで、東の国境に向かって我らを15分で運んだ。
1時間の待機待ち時間の後、20分かけ草原を悠々と走る。
南東のスペイン国境の村〈イダーニャ・ア・ヴェリャ〉に、草原道路から左に折れ、細い緑の道をゆっくり曲がりくねって進む。
まるで、運転手の【おもてなし】みたいな心使いがあった。
80km/hの早さが、20km/hで、しずしずと小川に架かるローマ方式半円橋を渡り、静かな村に入り、大樹の日陰で止まった。
何処からか、カタカタ鳴る音が響いて来た。
相棒は『ゥ、ム!』とにっこり笑み、運転手に言う。『1時間30分後の13時に迎えに来てください。お忙しいでしょうから、遅くなってもかまいません。
今日の目的地はここまでですから、ごゆっくりどうぞ』と。
走行距離料金と待時間料金で、お願いしてあった。
相棒と運転手のこの契約は、25歳の宿のイザベルさんと何時も利用している間柄の運転手で決めてもらっていた。
農夫の運転手は家に帰って、家族と昼飯が一緒に食べられるのが嬉しいと言った。
相棒の粋(いき)な計らいのように思えた。
スペインとの長い歴史の中、日本では感知できない国境意識に敏感なユーラシア大陸のヨーロッパ民族。
国家が地続きの歴史が無い我ら日本。あるのは海境。
単純に考えると国境には実線が描けるが、海峡には実線が描けない。
隔(へだ)てる思いの線が海水で揺れている。
1543年【種子島にポルトガル人が漂着、鉄砲伝来】。
1549年【鹿児島にフランシスコ・ザビエル来航】。
1569年【宣教師ルイス--=フロイスが織田信長に謁見(えっけん)】。
島国のために鎖国で国家・時代を300年も守り続けてきた日本に、1番乗りしたのはポルトガル人であった。
ポルトガルの人は日本人に優しかった。ちょっと、げすだが『縁は異なもの味なもの』か。
「けいの豆日記ノート」
新しい町や村に行くと、まず、トリズモ(案内所)を探す。
無料の地図がもらえるのである。
親切な担当の人に当たると、名所やポイントなどを地図に印をつけながら、説明してくれるのである。
言葉はわからなくても、地図に印をつけてくれるので、そこにいけば、間違いはないだろうと思う。
ガイド本に載っていない村など地図があると、後から教会や建物の名前がわかるのでとても便利である。
そして、折鶴を渡すと、とても喜んでくれるのである。
こんな小さな村に日本人が訪れることはめったにないことだろうと思う。
《ポルトガルブルーの想い》
「歴史的な村」である〈イダーニャ・ア・ヴェリャ〉の空も[ポルトガルブルー]だった。
頭の芯が蕩(とろ)けてしまいそうな、日本でもたまにしか見られない程の、美しく鮮明で奥深い究極の[空の色]である。
「あおい色」には、[青・藍・蒼・藍]などの文字が浮かぶが、ポルトガルの『空』を初めて見たとき、驚き迷った。
どの漢字を使えば、ポルトガルの空を表現できるかと。
我らが2001年の9月に初めてポルトガルに来た翌朝、首都リスボンの空を見上げた時、その空の色は将に[ポルトガルブルー]だった。
我らが付けた、ポルトガルの空の色だった。
歴史的な村〈イダーニャ・ア・ヴェリャ〉の村を撮影しながらの1時間半は、余裕の散策になるだろう。
この狭い国境の村だ、30分もあれば充分だろうと思う。赤味が強い40cmほどの石魂と黒味がかった平板状の石板石を、幾重にも根気よく積み込んだ石壁民家。
その家並み壁を飾る色取り取りのバラの花が目を引く。荒削りの石の家々とバラの花は文句なく似合う。
不思議な調和だった。その美しさで包まれた石の家を、カメラレンズを通してアングルやサイズを模索していると、ここに住む人たちの心根が判るよな気持ちになる。
祖先代々何世紀も引き継がれてきた忍耐力と生命力、使命感と優しさが伝わって来た。その苦渋の重さを気張ることなく、そっと感じさせてくれた。
青色に塗られた木製ドアをノックしてみたが、応答はなかった。
お昼どきの33℃もある外に出てくる気配はなかった。整然と敷き詰められた石畳みを、太陽は白く遠慮なく焦(こ)がす。
一石の欠片(かけら)もないこころ配りあふれた村に足を踏み込み、時間の止まった村とは、軽々しくも、おいらは言えない。
かつてこの『歴史的な村』である〈イダーニャ・ア・ヴェリャ〉は、トゥリズモ(観光案内所)で貰った資料によると、キウィタス・イガエディタノ―ルムと言う古代ローマの都市であったと言う。
あのイベリア半島の大街道筋だった6〜7世紀の西ゴート族の時代には、王国のほとんどの金貨がここで造られていたらしい。
もっと驚くことがある。
8世紀〜12世紀のイスラム支配の時代には、強大に発展し、現在のポルトガル首都リスボンに匹敵する勢いがあったと言う。
しかしそう言われても、その頃の日本では、1185年『壇の浦の戦い(平家滅亡)』頃に当たる。
2016年の今、撮影取材班は歴史の重さどころか、この地の100年前すら散策している景観からは想像もできないでいた。
【100年前頃のポルトガルでは、1917年の「ファティマの奇跡」であり、日本では1914年の「第1次世界大戦勃発」である。
『ファティマの奇跡』とは、第1次世界大戦中のポルトガルで、1917年5月13日、当時はオリーブの木が点在する荒れ地の〈ファティマ〉に奇跡が起こる。
丘の上で羊番をしていた3人の子供の前に突然、空が輝き聖母マリアが現れ、3つの予言をする。
よくある奇跡の筋話だが、3つの予言はすべて的中した。
その話が全世界に伝わり、現在カトリックの聖地となり、特に毎年5月13日には30万人以上の巡礼者が、ポルトガルはもとより世界中から集まって来ると言う。
今回の旅は5月17日の22時に首都リスボンに着いたが、バスで1時間半で行ける〈ファティマ〉の4日前の5月13日、
バジリカが建つ広大な広場はどれ程の巡礼者で埋め尽くされたであろうか。】
「けいの豆日記ノート」
トリズモ(案内所)の横は博物館になっていて、無料で見ることができた。
ローマ時代の彫刻された石が飾ってあった。
近くのサンタマリア教会の横には露天の博物館になっていた。
こんな雨ざらしでいいのかとも思うが、意図して露天なのか、博物館を作る予算がないのかはわからない。
先に村の中を見て、後から、また露天の博物館を見に来ようと思った。
全部を見るのには、時間がかかると思ったからである。
《コウノトリ考察》
カタカタ鳴る音にひかれた相棒は、笑顔全開でぺロリーニョが建つ石畳広場を通り抜け教会に向かう。
小さな教会であったが、ファサード(正面入り口)前面の壁面は、石の塊を城壁の石のように整形され美しく石積みされていた。
小さな鐘楼には、円錐形のとんがり屋根がのり、とんがりの先で風見鶏が風で舞っていた。
その円錐形の屋根に巾2m、高さ1m程の小枝を組み込んだ巣があり、青空に向かって上下の嘴(くちばし)で、カタカタ打ち鳴らすコウノトリは、子育て中の雌だろう。
大空からカタカタの音が鳴るや、広げた2mもあろう白い羽に黒い風切り羽根模様の雄コウノトリが飛来した。
赤い長い嘴に、赤い長い脚は、ポルトガルのコウノトリだ。
何度見てもポルトガルブルーの空にその雄姿は、よく似合った。
ひとつの巣にすくっと赤い長い脚で立つ2羽のコウノトリの足元には、白い元気な子供がいた。
子供は、グ〜と言うような鳴き声をあげた。鳴く声は子供の時だけで、発声器官が発達しないため大人は、鳴かない。
そのため上下の嘴を叩いて、威嚇(いかく)や愛情表現をする。
だから、カタカタの音をよく聞けば、何を言っているか?判る筈である。ちなみに、日本のコウノトリの嘴は黒で眼の周りが赤い。
サギやトキは仲間だ。食べ物は、水辺の生き物を好む。
小魚・蛙・鯰(ナマズ)・バッタ・蝗(いなご)・コオロギ。エビやザリガニなど。
1年間の生活模様は、1月・巣造り、2月・卵を産む、3月。あたためる、4月・ピ〜と生まれる、5月・どんどん大きくなる、
6月・巣立ち、7月・自分で餌とり、8月・親子で川あそび、9月・グングン成長、10月・親元を離れポルトガルブルーの大空に、11月・カタカタ、求愛、12月・餌探しに苦労。
『コウノトリ』は、日本の『鶴』にそっくりだ。
身体の形も、白い羽の色合いも、黒い風切り羽根模様も、まじで似ている。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルでコウノトリに初めて出会ったのは、2003年に訪問したファーロの町である。
ポルトガルは3回目の旅であり、はじめて南方面に行く旅でもあった。
町の中を歩いてると、建物の屋根の上に白い鳥がとまっていた。
動かないので、作り物のオブジェの鳥が飾ってあるのだと思った。
しばらく見ていると、羽根を動かし始めた。
それでも電動で羽根の動く置物なのかと思っていた。
よくできた機械だと思っていたら、空を飛んだのである。
作りものだと思っていた鳥が飛んだのである。
「え〜〜〜 本物だったんだ〜〜〜 」 びっくりであった。
ポルトガルのガイド本には、コウノトリのことなど、ひとことも書いていない。
なので、コウノトリがポルトガルにいるとは思ってもみなかったのである。
我らは大変な間違いを犯していた。
16年間、撮影させていただいたお礼に、日本から用意して行った千代紙で折った『折鶴』をもらっていただき喜んでくれた。
「折鶴・おりずる.クワックワッ」の鳴き声付きで渡していた。
しかし、ポルトガルの人びとは『折紙・おりがみ』は知っているが、『折鶴・おりつる』は知らなかったのである。
ポルトガルには[鶴]は飛んで来ないのだった。
子供は勿論のこと大人も鶴を見たことが無いらしい。
だから、『折鶴』と絶叫しても子供たちには判らなかったのだ。
我らの無知さ加減は、救いようがない。
この現実を教えてくれたのが、この後の25日、ポルトガル第2都市〈ポルト〉で、久々に会った在30年の優子さん夫婦から知った。
彼女はポルトガルの子供たちに、日本語を教えている教育者であり著述者である。
ご夫婦にレストランに誘っていただき、ゴチになる。
サグレス生ビールに憧れのポートワインで、ポルトガル料理だ。粗食に耐え忍んできた相棒は、アルコールが駄目なのでもっぱら、喰う。
その時、「歴史的な村」の話からコオノトリ・鶴の話になった時、ご主人のポルト生まれの医師は、ポルトガル人は、鶴なんて見たことがない。
だから鶴の単語もないよと言った。
おいらは『目から鱗(うろこ)が落ちる』(ちょっとした事が切っ掛けで、それまでの迷いが吹っ切れ、事柄が良く見えるようになる)であった。
『コウノトリ』は、ポルトガル語で、[Cegonha/セゴニャ]と言う。
しかし、【現代ポルトガル辞典・白水社】を見ても、『鶴』の単語は載っていません。
【辞典の和ポ索引】で『鶴』を引くと、[cegonha]とあった。『セゴニャ』はポルトガル語で『コウノトリ』である。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2016年11月に掲載いたしました。
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