「ポー君の旅日記」 ☆ 晴天のコメルシオ広場のリスボン16 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・22≫
=== 第8章●リスボン起点の旅 === これが〔ポルトガルブルー〕の首都リスボンだった
《テージョ川を渡る》
広大なアレンテージョ地方の〈エヴォラ〉は、ローマ人によって築かれた城壁で囲まれた古都だった。
その中の〔歴史地区〕はポルトガルに15か所ある〔世界遺産〕のひとつとして相棒のカメラマンも野老(76歳)も大好きな撮影場所であり、取材スポットだった。
その〈エヴォラ〉の郊外、20kmほどにある農業地の片田舎〈アザルージャ〉に住みついた我が愛しの〔ドン・ガバチョ画伯夫妻〕に2泊お世話になり、
今朝も日本以外では考えられない白米に、生卵ぶっかけご飯を相棒は2杯も旨そうに頂(いただ)き、更に〔エヴォラバスターミナル〕まで自家用車で運んでもらい、
朝9時45分発の高速バスに乗り込んだ我らに、ドン・ガバチョ画伯夫妻は惜しみない弾ける笑顔で見送ってくれた。
我らふたりは涙の粒を膨(ふく)らませ首都〈リスボン〉に向かった。
プラシニエスと呼ばれる穏やかな大平原に広がるコルク樫の林やオリーブ畑、牧草地帯などを眺めていたほぼ満席の乗客は20分ほどで全滅。
眠りに落ちていた。当然その一番手は相棒だった。
バスの揺れは、揺り籠(かご)のようである。
持参の文庫本にも草原の景色にも厭(あ)き、野老にも睡魔が忍び寄ってきた。
そんな時、野老の眠さに潤(うる)んだ目ん玉に、車窓右手風景から巨大なキリスト像が両手を広げて飛び込んで来た。
それはテージョ川右岸の丘の上に立ち、対岸に広がる首都リスボン全体を見渡している高さ110mのキリスト像だった。
これは、かつて15世紀に始まり世界の海を制覇したという〔ポルトガルの大航海時代〕があり、
その時の領地だったブラジルにある〈リオ・デ・ジャネイロ〉の〔リオ五輪〕映像でもお馴染みになったコルコバードの丘の上に立つあの巨大なキリスト像に誘発され、
1959年5月17日に除幕されたものだった。
高速バス前方フロントガラス越しに赤く塗られた吊り橋状の幅広い架橋が近づいて来る。
上段が車で下段が鉄道専用の1966年に開通した全長2277mのつり橋〔4月25日橋〕であった。
両側6車線の右側3車線は、首都〈リスボン〉に吸い込まれる色取り取りの忙(せわ)しい車でいっぱいだ。
ポルトガル東部からリスボンに入る橋がもう1本ある。
テージョ川上流にある欧州最長の全長17.2km〔ヴァスコ・ダ・ガマ橋〕だ。リスボン万博前の1998年3月に開通している。
この橋の長さを知った時、野老はテージョ川の川幅の広さを数値的に再認識させられた。
海みたいなテージョ川の川面が太陽光線で輝き、行き交う観光フェリーが小さく見えた。
隣国スペイン中央部のクエンカ山脈に源を発した〔タホ川〕は、ポルトガル国境線を越すと〔テージョ川〕と呼ばれ、
〈リスボン〉で大西洋に流入するイベリア半島最長1120km(因みに、910kmをスペインで流れ、ポルトガルでは210km)の大河である。
この大河〔テージョ川〕を懐に収めたのが、小さな日本の4分の1の大きさの国家〔ポルトガル共和国〕であった。
15世紀からの〔ポルトガル大航海時代〕の先陣を切ったのは、このテージョ川に接した〈リスボン〉の川岸からだった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルに限らず、日本以外では基本的に生卵を食べない。
食べないというより、食べられないのである。
スーパーに売っている卵は新鮮でないことが多い。
保存食品であるので、新鮮である必要がないからである。
数日前の卵かもしれないし、何週間もたっている卵かもしれない。
なので、しっかりとした加熱が必要である。
アザルージャで朝食に食べた生卵は、友人宅で飼っているニワトリが朝に産んだ卵をもらってきたものである。
鮮度が保障されているので生で食べれるのである。
ご飯に生卵という日本ではメジャーな食べ方だが、ポルトガルで食べれるとは思ってみなかった。
ポルトガルで旅をして早2週間が経ち、そろそろ日本食が食べたくなった頃ではないかと、見計らってくれたやさしい心遣いがうれしかった。
《5月30日》
腕時計を見る。11時10分。
〈エヴォラ〉から1時間25分、後(あと)20分も乗れば〔セッテ・リオス・バスターミナル〕に着くはず。
高速バスは途中何処(どこ)にも止まらず、野老は切羽(せっぱ)詰まっていた。
トイレが近い按配(あんばい)の容量ぎりぎりだ。
11時30分、動物園が間近のバスターミナルに着く。
高速バスの車体(腹)から我らの重い旅行バック2個を野老は引きずり出す。
その間に相棒はターミナル内の有料トイレに走って行った。
取りあえず、荷物6個の取っ手すべてに防犯守り紐(このひもの名は野老が付けた)を通し、荷物番担当野老は任務遂行し相棒を待ったのだった。
15分が過ぎたのに相棒は戻ってこない。有料トイレに我が高速バス乗客たちは殺到したに違いない。
みんな堪(こら)えていたのだ。野老だって、びんびん耐えていた。
荷物番をしてくれていた相棒は笑顔で『間に合った?』と問う。
野老は真顔で「熱を奪われ、身体がガタガタ震えるほど放出」したと、〔耐え忍んでいた不安と恍惚〕を科学的かつ文学的に返答した。
タクシーに乗って今夜の宿〔ホステル4U〕に向かう。
その途中、〔ポンバル公爵広場〕にある巨木並木のジャカランダの木々を薄紫色に染め上げた満開に咲く花姿を車窓から目撃。
相棒は歓喜に震える。今年の5月は何処に行っても肌寒く、雨も多かった。
〈リスボン〉に5月17日(火)に入国し、例年ならジャカランダの花の見ごろ時なのに見られなかった。
〈リスボン〉を留守にした2週間の旅は、北東のスペイン国境間近の巨岩の村〈モンサント〉や標高1056mの山間の要塞の町〈グアルダ〉、
〈アルメイダ〉など政府認定の国境を守り続けた現在人口100人にも満たない程の「歴史的な村」巡りを敢行し、
大草原を走り回る名作【駅馬車】のジョン・ウエインみたいなタクシー運転手に世話になりと、2度と経験できない旅を続けて来たのだった。
そんな、あさっては帰国の日にジャカランダの満開に間に合った相棒は車窓から1カット撮る。
路肩に車は止められなかったが、ここが首都リスボンのお花見どころ。5月30日(月)の昼前だった。
「けいの豆日記ノート」
トイレは、行ける場所であれば、必ず、行っておくのが鉄則である。
バスターミナルのトイレは、以前は無料であった。
でも無料のトイレは汚いし、トイレットペーパーもないことが多い。
有料であっても、ちゃんと管理されたトイレは、掃除されているし紙もあり使い心地がいい。
バスターミナル内のトイレは掃除中なのか、工事中で使えなかった。
外にある有料トイレに行くように言われ、(もちろんジェスチャーでである)そちらに向かい、列に並んだ。
トイレ用の小銭も用意しておくと便利である。
《登山靴と赤い帽子のリスボン散策》
1泊58ユーロの〔ホステル4U〕は、狭い石畳の急な坂道の途中にあった。
急いで荷物を下ろし、タクシー料金12ユーロを相棒が払う。
坂道は狭いため我らが乗って来たタクシーの後ろに3台も車が待っている。
〔7つの丘〕と呼ばれる〈リスボン〉は、坂道が兎に角多い都会だ。
宿はその通り沿いにあった。緑色の鉄扉の戸を押しても引いても開かない。
横にスライスしたらカラカラと開く。中に入ると事務所みたいな小さなカウンターに大きなパソコン。
相棒が声を掛けると、瞳が大きな黒人系の可愛い女性が、パソコンの陰から顔を出しほほ笑んだ。
宿の雰囲気はなかった。質素な会社の受付カウンターである。名前からして〔ホステル4U〕は味気ない。
相棒が2泊分の116ユーロを〔クレジットカード〕で支払う。
チェックインは14時。荷物は預かってくれるという。
相棒はカメラバックを肩に掛け、手には一眼デジタルカメラ。
野老は背に18年使っている古びたリュック。貧乏たらしいのが安全だ。
今まで一度も怖い目にあったことがない。肩に小さなバック。
登山靴の紐をギュッと締め直す。石畳を歩くには登山靴は楽だった。
ポルトガルの旅人となって16年間で2足目の登山靴であった。
夕日が落ちるのは21時前、後9時間もある。〔撮影取材旅〕開始だった。
赤い帽子は釣りの時の赤い浮(うき)のよう。ポルトガルでは最高の目印になった。
現地では、赤い帽子を日常生活の中でかぶって歩く姿を見たことがない。
そのため、何処に相棒がいても目立つ赤い帽子は2回目の2002年から定着した。
「けいの豆日記ノート」
ホテルは、旅の数か月前から日本でネットで予約するようにしている。
現地でも探せるだろうが、大きな荷物をかかえて、うろうろする時間的ロスを避けたいからである。
泊まる当日であれば、値下がりしたお得なホテルがあるかもしれない。
でも、逆にどこのホテルも満員で泊まれないかもしれない。
そんな賭けとも思えるような心配事は避けたいと思う。
バスターミナルから降りたら、すぐにホテルに直行して、荷物を置いてから目的地に行きたいのである。
リスボンのホテルは年々高くなっているような気がする。
毎回、ホテルを変えているのだが、なかなか安くて便利なホテルが見つからない。
今回は、リスボンのアルファマ地区との境界線近くのホテルにした。
地図では、わからないが、坂道の途中のホテルであった。
車が一方通行であり、1台が止まると、後ろの車は待っていなくてはならない。
急いでトランクの荷物を降ろし、さよならしようとしたとき、助手席にあった荷物に運転手が気が付いた。
あわてて、その荷物も降ろし、ほっとする。
大事なお土産のタバコを置き忘れたばかりなのに、またやらかすところだった。
《アウグスタ通り》
『3年振りでコメルシオ広場に行ってみようか』
宿を出た目先の急坂な狭いマダレーナ通りを下りながら相棒が言う。
野老には異存はない。地図と土地勘に滅法(めっぽう)強い相棒は頼りになる。
まるで警察犬のように一度通った道は何年過ぎても判別出来た。方向音痴の野老は、子犬(老犬)である。
〈リスボン〉のへそとも呼ばれ、地元の人びとに親しまれている〔ロシオ広場〕。
正式名は〔ドン・ペドロ4世広場〕と言うように広場中央の円柱のてっぺんには初代ブラジル国王となったドン・ペドロ4世のブロンズ像がある。
広場の周りにはレストランやカフェ、みやげ店が並び、バスやタクシーの乗り場もあり一日中人びとで賑わっている。
この広場からやや南東のテージョ川に向かって真っすぐ伸びる広めで一日中賑わう〔アウグスタ通り〕がある。
その石畳通りに白いテントに白いテーブルと白いイスが並べられ、客が座るや否や、通りの左右のレストランやカフェから、
フットワーク抜群のウエイターが飛び出し客の注文を受ける。
見ているとミュージカル舞台のワンシーンを彷彿させてくれる。
動きが良い、笑顔が良い、その動作の躍動の華麗さが楽しめる。
石畳のアウグスタ通りの先に白いアーチが見える。
3年前に来た時は修復工事でテントに覆われ見られなかった白い大理石の凱旋門〔勝利のアーチ〕だ。
アーチの中央頂点には勝利の女神像があり、ポルトガル王室の紋様(もんよう)の両脇に〔ヴァスコ・ダ・ガマ〕や
震災後の復興を指揮した〔ポンバル侯爵〕の彫像などが飾られている。
このアーチを潜ると広い広い〔コメルシオ広場〕が眼前に広がる。
空には真綿のような真っ白い浮雲が長閑に流れ、広場の中央にジョゼ一世の騎馬像が見え、その遥か先に海のようなテージョ川が滔々(とうとう)と流れ、
川下の対岸にあるアルマダの丘に高さ85mの台座の上で両手を広げる巨大なキリスト像がこっちを見ている。
その手前に横たわるリスボンに入る時渡った全長2277m、高さ70mの吊り橋〔4月25日橋〕が10艘ほどの白い帆のヨットを配し優雅な曲線を描いていた。
「けいの豆日記ノート」
チェックインができるまでの間、近場を散策しようと思った。
コメルシオ広場まで歩いていった。
途中ですれ違う路面電車は、どれも満員であった。
リスボンの路面電車は観光客の人気になってきて、だれもが乗りたがるのである。
人気になるのはいいが、こんなに混んでいては乗るのも一苦労である。
コメルシオ広場の勝利の門は、修復工事が終わり、真っ白できれいになっていた。
画家の人にいわせると、真っ白できれいなのは、味気ないらしい。
汚れて黒ずんでいたほうが歴史を感じさせていいという。
《初めて見た〈リスボン〉の空》
リスボンの空は、久し振りに見た〔ポルトガルブルー〕だった。
この空の色はどの漢字の【あお】〔青・葵・碧・蒼・?・葱・藍〕を押し当てたら表現できるだろうかと野老は考え悩んだことがある。
その時々の、空の色の感動が蘇(よみがえ)る。
2001年の9月11日に起こった【9・11ニューヨーク同時多発テロ事件】の11日後、
初めて首都リスボンの地を踏みしめた22日の夜のリスボン空港。
その翌日の23日、ドン・ガバチョ画伯に連れられ、初めて〈リスボン〉の景観を目(ま)の当たりにしたのは〔サン・ジョルジェ城〕の城壁から
観た首都〈リスボン〉の大パノラマだった。
屋根瓦のオレンジ色と壁の白さのコントラストが波のような模様でヒタヒタと遥か先から打ち寄せて来るような陶酔感。
その波間の向こうに海と見間違えたほど広いテージョ川。そ
れらをすっぽり包み込む大空の〔あおい〕色に心が弾け、悩み悩んだあの日が忍ばれた。
その時、野老(76歳)、否(いな)おいら(62歳)の9月23日は若かった。
その脳裏に浮かび上がって来た初めて見た空の色は〔ポルトガルブルー〕の7文字のカタカナだった。
「けいの豆日記ノート」
コメルシオ広場の海岸近くで、日本語の入れ墨をした男性をみつけた。
なんと「あぶく銭」と彫られていた。
こんな言葉、日本でも聞くことは少ない。
英語で何と訳すのだろうか?
「イージーマニー?」と聞いてみると、青年は意味をわかっていて彫ったという顔をしていた。
笑顔の青年は、とてもすがすがしかったが、こんな言葉、だれが教えたのだろうか。
《1755年》
1755年のリスボンの大地震と大津波、それに大火でリスボン市街は埋没し、このコメルシオ広場があるこの場所には、
15世紀からのポルトガル大航海時代で築きあげた財力で〔世界の海の支配者〕となったマヌエル王が、
16世紀初頭にテージョ川に面したこの地にマヌエル一世の豪華な宮殿を建設。
そして震災で崩れるまでの400年間ポルトガル王室の輝かしい歴史の本拠地となり、
海外からの国賓は王宮の船着き場から上陸し宮殿に入る。
その船着き場が現在、テージョ川対岸と結ぶフェリーのターミナルになっている。
その1755年の〈リスボン〉震災から復興を成し遂げたのが、リベルダーデ通りの坂の上にある〔ポンバル侯爵広場〕でライオンを従え、
〈リスボン〉の町を見据(みす)えている公爵の立像がある。
公爵の指揮力がなければ今日のリスボン否、ポルトガル国家はこれほど栄えなかったとさえ言われている。
そのテージョ川の海のように打ち寄せる波の岸辺の砂浜で50羽ほどの鳩と子供たちが戯れ、
20人程の子供たちが4月25日橋をスケッチしている長閑なコメルシオ広場を眺めていると、この広場に積み込まれた歴史の重みや深さが忍ばれる。
「けいの豆日記ノート」
写真展などで、「ポルトガルは地震がないのですか?」とよく聞かれる。
250年前にリスボン大地震があり、4万人もの人たちが亡くなった。
リスボンから、かなり離れたコインブラ近くの町の、中世時代に造られた城もこの地震で崩れたという。
リスボンの町が壊滅するほどの大きな地震であったという。
日本で起こった東北大震災よりももっと大きな地震であった。
そこから再建できるのには、周りの国からの支援もあるだろうが、たいへんな決心と努力があったことだろうと思う。
《おにぎり》
15時、チェックインもあって一度〔ホステル4U〕に戻る。
歩きっ放しの3時間、登山靴は快調だった。だが、腹はペコペコ昼飯を食っていなかった。
相棒がバックの中から取り出した。おにぎりである。
説明を聞いて納得。ドン・ガバチョ画伯宅で朝食の「生卵かけご飯」を頂き、エヴォラバスターミナルまで自家用車で送って頂き、
その時ガバチョ夫人から渡されたお握りであった。
一口食べて嬉しさが込み上げた。ゆうべご馳走になった「ちらし寿司」のご飯で作ってくれた「おにぎり」は、愛情がこもっていた。
一粒一粒、よく噛んで食べた。パクパク食べたら後がない。
こちらには便利なコンビ二エンスストアーがない。
昼時を逃がすと食べられない。
こちらの落日は遅い。日本の夜9時前だ。従ってレストランは9時でないと開かない。
ポルトガルの街には中華店はある。
安くて一皿の分量は多い。一皿頼めば、ふたりで充分食べられる。
しかし、味は期待してはいけない。
3代4代目という店が多いが、初代は美味しかったと思う。代が変わるたびに味は風化する。
《リスボンの中心軸を行く》
21時前の夕焼けを期待して、トイレを済ませ16時に宿を出た。
太陽はまだ天空に輝く。コメルシオ広場のトゥリズモ(観光案内所)で地図と資料を只で貰う。
相棒がニコニコ顔だ。
ファドの女王、アマリア・ロドリゲスのCDが8.5ユーロだったので4枚クレカで買ったという。
普通彼女のCDは15〜20ユーロもしていた。
我らの散策は足の向くまま気の向くままである。
テージョ川の〔コメルシオ広場〕から再び凱旋門を抜け、バイシャ地区の商店街〔アウグスタ通り〕も昼時はどっと人出が多くなり路上の白い椅子は満員。
リスボン風景のスケッチ売りや路上演奏者、天才ミシン刺繍技を堪能し、〔ロシオ広場〕では〔サンタ・ジュスタのエレベーター〕には長い行列。
レトロなエレベーターは観光客に人気で、展望台からは〔サン・ジョルジェ城〕〔テージョ川〕も眼下だ。脚は坂の上に向く。
リスボンの中心軸〔リベルダーデ大通り〕。
その両側にはレストラン、劇場、会社、ポルトガル在日本大使館が入るビルなどオフイス街で、
ボンバル侯爵がおよそ250年も前に造ったりベルダーデ大通りは道幅が94m。
中央は街路樹が繁る遊歩道になっている。
1.5km続くモザイク模様の急坂石畳街路がたまらなく好きだ。
坂を登った先が〔ポンバル侯爵広場〕があり巨大な円柱の先っぽにライオンを従え、木々で繁るリベルダーデ大通りの先にリスボンの町並み、
その先には大きな船が行き来する船が見える大河テージョ川を見下ろしているのが、近代ポルトガルの礎(いしずえ)を築いた政治家であった。
その背後に斜面を利用した緑豊かなフランス式庭園〔エドゥアル7世公園〕がある。ジャカランダの木が青紫の花を咲かせていた。
ここで「本の市場」が開催中で思わぬ拾いものをしたと相棒は見物客が多いと喜んだ。
「けいの豆日記ノート」
6月13日はリスボンのサン・アントニオ祭りがある。
その2週間くらい前からエドゥアル7世公園で本の市場が開催されること聞いたことがある。
昼でなく、夕方から夜に開催されて、ライブとかもあるらしい。
2008年にサン・アントニオ祭りを見るのを目的で訪問した際に、早朝エドゥアル7世公園を歩いた。
箱型の仮設店舗がたくさん並んでおり、なんだろうと思っていた。
後から、本の市場であることを聞いて、夜に行って見ればよかったと思ったものである。
今回、6月前だったので、本の市場は期待していなかったが、ジャカランダの花が咲いているか見に行くことにしたのだ。
エドゥアル7世公園は、本の市場が開催されていて、にぎやかだった。
会場マップがあるくらいたくさんの店が出ていた。
途中、子供の遊ぶスペースもあったり、講演会も開かれていたりして、楽しい空間である。
お菓子店の女性2人に折鶴をあげるとうれしそうだった。
他の場所へ歩きはじめると、後を追いかけてきて、売り物のお菓子を2つくれた。
日本がとても好きで、行って見たいと言っていた。
お菓子のほうが断然高いのに申し訳なかったな・・・
《夕焼けを期待して》
19時、メトロの自動販売機で、一日乗り放題の地下鉄・路面電車カードを6.5ユーロで購入。
ポンバル侯爵広場のマルケス・デ・ボンパル駅からメトロでカイス・ド・ソドレ駅に行き、路面電車15番に乗り換え〔ベレン地区〕に向かう。
〔ジェロニモス修道院〕前で降りる。
月曜日は休館だが、開館していても閉館時間は過ぎていた。
鉄道線路を潜ってテージョ川岸に出る。
大航海時代を切り開いた偉人たちが1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して造られた〔発見のモニュメント〕。
大海に乗出すカラベル船を手に持ち先頭に立つのがエンリケ航海王子。
その後ろにインド航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマ。天文学者、宣教師、船乗りなどが並ぶ。
1520年に完成した〔ベレンの塔〕。〔クリスト・レイ〕〔4月25日橋〕が夕暮れで薄っすらオレンジ色にそまっただけだった。
「けいの豆日記ノート」
10年ほど前であっただろうか。
夕焼けを見たくて、ベレン地区のベレンの塔に行ったことがあった。
テージョ川の河口の大西洋に入る真っ赤な夕日を見ることができた。
西側の夕日もよかったが、反対側の雲に反射して、雲が真っ赤になった。
ベレンの塔の後ろの雲が赤くなり、燃えているようだった。
そんな、真っ赤な夕日を期待したのだが、季節によって、夕日の落ちる場所が違うことを考えてなかった。
前回見た時期は4月であった。
1か月半違うと、テージョ川河口に落ちなくて、丘の向こうに落ちてしまうのである。
せっかく、夕日の為に向かったのに、残念であった。
日が落ちると川風が寒く、マクドナルドの店まで戻り、トイレを借りて出来た相棒は『夜は路面電車が少ないね〜』と寒さも加味して悲しそう。
やっと乗ったと思ったら、4月25日橋の下で終点だと降ろされた。
降ろされた人が10人程、暗く寒い路面電車の停留場で佇(たたず)んで待った。
21時を30分ほど過ぎてやっと来た路面電車は窓ガラスが閉まらない。
寒さに痺(しび)れた路面電車の旅であった。
●漢字に(・・・)と読みを容れていますが、読者の中に小・中学性の孫娘達がいますので了承ください。(野老)●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2018年5月に掲載いたしました。
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