「ポー君の旅日記」 ☆ 要塞を思わせる大聖堂のグアルダ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・9≫
=== 第5章●グアルダ起点の旅 === この地は、標高1056mにある国の守り神だった
《日曜日は、のんびりバスの旅》
今日も、30℃を越すに違いない。〈カステロ・ブランコ〉バスターミナルで、おいらは〈グアルダ〉行き高速バスの腹に大きな旅行バック2個を押し込む。
他に旅行バックは見当たらない。
ガラガラな腹の中だった。スペインとの国境近くの寒村に行く観光客は稀(まれ)か。
道路からの反射が眩しい、そんな日差しの強い朝だった。
こんな日は特に、高速長距離運転にはサングラスが必需品だ。
頭髪を短めに刈り込んだ40代の運転手は洒落者だ。サングラスが良く似合う。
相棒のカメラマンは運転席前のタラップを上り、『グアルダまで2人』と切符を笑顔で差し出す。
「ジャパオン?」と聞かれ、『Sin!ジャポネーザ!』と応え、運転手の左肩寄り最前列シートに『よっ、こらしょ』と陣取った。
高速バスは9時00分ぴったりに出発。
50座席はあるのに我らの後から乗り込んで来たのは、リュックを背負った若い男と女の旅行者、髪の毛がふっさり真っ白な品の良さそうな老夫婦、
それに『ボン ディーア』と朝の挨拶を運転手に投げかけ、タラップの手摺りを力強く握りしめ這(は)い上がって来た小柄なおばあちゃんだけだった。
フロントガラス越し走行前方風景が開放的に楽しめると最前列に陣取ったが、一段低い運転手座席用の日除け装置でフロントガラスが半分も覆われ目隠し状態。
見えるのは、装置に切り開かれた小さな長方形の横サイズ覗き窓。
そこからは、青い空と流れる白い雲が忙(せわ)しく見え、その下のフロントガラスからは、コンクリート路面が急流のごとく流れ去る。
♪あ〜らら、こららで、目が回る♪と、うしろ座席のおいらにイントロし、ガラガラの中程座席に移った。
しかし、無駄だった。車窓風景を眺めていた頭が、がくりと崩れた。相棒は、睡魔に負けた。
高さ40cm程度のコンクリートで仕切られた中央分離帯。
その高速道両サイドは草むらの草原が広がる。追い抜いて行く自家用車もオートバイもなかった。
走行タイヤの摩擦音と軽やかなエンジン音の単純明快な長閑(のどか)さを縫(ぬ)って、魔王睡魔殿が襲いかかって来る。
ウトウトさの眠りを破ったのは、寒さだった。車窓を流れる岩場の牧草地に、白い羊の群れを発見。
目が覚めた。日本とポルトガルの時差は9時間。その時差修正も簡単だし、腕を見れば何処でもすぐ現地時間の確認ができる便利さの腕時計。
日本を発つ前、安売り店で税込1000円の購入腕時計は正確無比。
午前10時30分だった。
よく眠ったものだ。1時間半が過ぎている。
ごろごろした岩が多い登り坂の高原牧草地帯を走っていた。
足元からにじり寄る寒気が信じられなかった。出発した時の暑い陽射しは夢の中だったのか。
その15分後、〈グアルダ〉バスターミナルに着く。
〈カステロ・ブランコ〉から1時間45分。百均で買ってきた温度計を見る。17℃だ。
30℃の地から2時間足らずで17℃は、体感温度的には涼しさを越した寒さである。
「けいの豆日記ノート」
カステロ・ブランコからグアルダまで、地図では列車が走っているように見える。
昔はつながっていたのかもしれないが、今は、グアルダの手前までしか走っていない。
列車は、乗り降りの際の荷物を運ぶのが、苦労する。
日帰りなどの手ぶらなときはいいが、荷物を持っての移動はバスのほうが楽なのである。
高速バスの車窓風景は単純で睡魔がすぐにやってくる。
《寒さで目覚めれば》
高速バスが止まるや速(すみ)やかに移動した相棒が運転手に『オブリガーダ!』と挨拶。
運転手は笑顔でドアを開ける。相棒は『ウォッ』と息を飲みタラップを降りた。一気に冷たい外気が車内に流れ込む。
タクシー乗り場に向かって走る赤い帽子がスローモーションで見えた。
「旅は道連れ、世は情け」のフレーズが脳裏を過(よぎ)る。
旅をするときのおいらの心根だった。[旅では道づれ同士が助け合い、世渡りでは互いに同情をもって仲良くやるのがよい]
乗客が降りた後、運転手と二人で旅行バックが収まる腹に向かいながら聞いた。
ポルトガル語と日本語と片言英語のハーモニーが合致した。ここは、標高1056メートルの山間の町だ、と教えられた。
寒いわけだ。日本だって夏場ケーブルカーで急速に登った山頂の寒さに震えた経験がある。
寒さで目覚めれば、そこは未知の世界であった。バスの腹から重い旅行バック2個を引っ張りだした。
運転手はバスの腹の扉を閉め、鍵をかける。
高地の〈グアルダ〉バスターミナルは想像以上に大きいターミナルだ。
ここを中心にあっちこっちに交通路が伸びていた。
大学の町〈コインブラ〉やダン・ワインで名高い〈ヴィゼウ〉、それにスペイン国境まで37kmと近いため高速バスは国境を越えスペイン最古の大学がある町〈サラマンカ〉にも行くと、サングラスが似合うバス運転手は饒舌(じょうぜつ)だった。
鉄道列車の便もあるという。
首都〈リスボン〉から〈コインブラ〉を経由し、ここ〈グアルダ〉まで4時間20分の列車旅もあった。
ご機嫌で運転手は情報をくれた。日本人が珍しいこともあったようだ。
勿論、別れ際「ムイント オブリガード!」と頭を下げ、「チャゥ!」と握手で別れた。
ポルトガルはいつ来ても新鮮で楽しい旅をくれた。
「けいの豆日記ノート」
グアルダは、以前から気になっていた町であった。
地図にはグアルダの地名が太字で記載されているが、町の説明がないのである。
大きな町のはずなのに、説明がないのは不思議であった。
いつものガイド本でない違う本で、歴史的な村の情報を知った。
グアルダの近くにたくさんあるという。
なかなか行けない村だと思い、今回訪問することにした。
グアルダが起点となるが、もちろんバスなどない村である。
《470年のお付き合い》
ポルトガルは日本の国土の4分の1の大きさではあるが、お互いちっぽけな国同士だし、鎖国だった日本にユーラシア大陸最西端から一番乗りしてくれたのは、ポルトガル共和国だった。
1543年、種子島にふたりのポルトガル人が漂着して以来の鉄砲伝来はもとより、両国の歴史的交流が始まって470年が経つ。
ポルトガルとの南蛮貿易で日本の文化や暮らしにも多大な影響を与えてくれた。
そんな国に魅せられ我らは、ニューヨーク同時テロ事件があった2001年の、あの「9・11」の11日後から偶然撮影取材旅を続け、
2016年の暮れには[名古屋市民ギャラリー栄]で【山之内けい子 愛しのポルトガル写真展part25】開催も決まっている。
話が一寸ばかり思いがけない方向に逸(そ)れてしまって、ご勘弁。
タクシー乗り場で相棒が笑顔で大きく手を左右に振り、そして早く来いと手招いているのが見えた。
商談が上手(うま)くいったに違いない。重い旅行バック2個を左の手と右の手で転がし、タクシー乗り場に急ぐ。
左手の新品の赤い大型バックは素直に動くが、右手の傷だらけのバックは石畳の凹凸に小さいコアが踊らされまっすぐ転がらない。
ポルトガルに行き始め二代目のこ奴も2回ポルト空港でロストされた兵(つわもの)だ。
しかし、もう10年もケチケチ使っている大型旅行バックも大きなコア付きに替え頃かも知れない、と思った。
「けいの豆日記ノート」
旅には、かかせない旅行カバンであるが、何度も失敗をしてる。
ポルトガルに行き始めの頃、1番大きいLサイズのスーツケースを持って行った。
荷物がたくさん入るからと思ったのが誤算であった。
帰りの空港で重量オーバーでロビーで中身を出すことになった。
手持ちで持てるだけ持ち、持ちきれなかったせっかく集めた雑誌など捨てて行かなければならなかった。
超過料金は驚くほど高いのでしかたがなかった。
何度か、これを繰り返し、Lサイズのバックでなく、Mサイズのバックに買い替えることにした。
バックそのものも軽い布製のバックにした。
最近、荷物を2つ預けられるので、1泊用に小さいキャリーバックも持って行くようにしている。
《使命と任務》
今、9回目のポルトガル撮影取材旅真っ最中である。最近はガイドブックに紹介されている地名はすべて廻った。
そのため、行ったが勝ち的、当たって砕けろ的精神の旅が多い。そう思っているのはおいらだけ。
今回の撮影取材旅のスケジュールもすべて相棒が綿密な下調べをし、企画した。旅では何時も大切な〔使命〕がおいらには、三つあった。
その一つ目は、【荷物番】。空港などで沢山の荷物を持ってトイレは無理。
つまり、それがおいらに与えられた重要な〔任務〕である。
荷物番の次が、二つ目の【見張り番】。眼光鋭く赤い帽子のカメラマン警護だ。
毎日、赤系着帽を守ってもらう。赤い帽子は群衆の中で動き回って撮影していても目立つ。
赤い帽子をかぶっている人は、ほとんどいないからだ。
もし、何かあれば『ソコ―ロ!(助けて〜!)』と『ラドラオン!(泥棒〜!)』の、ふた通りの雄叫(おたけ)びは学習していた。
しかし、いざとなればきっと、『助けて〜!!』と日本語で絶叫連呼し、『ラド!ライオン!』と怒鳴っているに違いない。
今のところ有難いと言うか、残念と言うか、叫ぶ機会がない。ポルトガルはヨーロッパの中でも、治安のよい国であった。
皆無(かいむ)なのが嬉しいし、恥をかかずにすみポルトガル共和国に感謝でいっぱいである。
バスターミナルからタクシーで、15分。タイヤがバリバリと急坂の石畳を噛むように登り続け、宿まで運んでくれた。
タクシーを下りると、さっきより更に寒かった。標高1056mの高地は流石(さすが)に寒い。ひゃっこい感触だ。
相棒と運転手の交渉は言葉に難儀したようだがすべて済んでいた。
交渉時、ポルトガル語に堪能であればその苦労はない。
タクシー乗り場に一人で駆けつけたのも、その交渉のためのロスタイム短縮にある。
ふたりで無駄なロスタイムを共有することはない。相棒は臨機応変に長けていた。手分けの行動力量は、阿吽の呼吸にあった。
我らにも少しばかり旅の徒然(つれづれ)に智恵が付いたのかも知れない。
相棒は明日のタクシーでの撮影取材旅をこの運転さんに託していた。
ゴマ塩頭の中年タクシー運転手さんの名前は、マヌエル・マルティスさん、52歳。【類(るい)は友を呼んだ】のだった。
おいらと同じ背格好で男前。
特に横顔には、誰も信じまいが「郷愁・哀切・思慕などの旅心を誘うサウダーデ」が滲み出ているところなんざぁ、おいらにそっくりだった。
(冗談もほどほどが大切!と、大向こうからひと声ありそう)
「けいの豆日記ノート」
多くの町は、鉄道駅は町の郊外にあり、移動するのは不便であるので、町の中心に近いバスを使うことが多い。
グアルダのバスターミナルは、町の中心から少し離れた場所にあった。
全部の荷物を持っての移動の場合、たとえ近くであっても石畳の道をガラガラを引いて歩くことは辛いのでタクシーを使うことにしている。
タクシー乗り場で並んでいるタクシーにホテルまで行ってもらうことにした。
よさそうな運転手さんだったので、明日行く予定の歴史的な村4つをタクシーで回ってもらうことにした。
見積もり料金でなく、メーターの料金で計算してくれるようである。
良心的だなと思った。
《モコモコ de アップリケ》
マヌエル・マルティスさんが我らを運んでくれた【レシデンシャル フィリぺ】は、相棒渾身の苦渋の果てネットで、しかも勘で探し当てた宿である。
従って、どんな所にあるどんな外観の宿か、写真も見ていない。
見たのは宿泊費とモーニング付きか否か。相棒は6.5ユーロのタクシー代を払い明朝9時の迎えを再確認し別れた後、白い外壁に並ぶ洒落た窓のある風景を眺めた。
正面から観ると3階建で、登って来た石畳の坂道側面からは4階建。
宿のチェックインするフロントは、階段を登った1階にある。
日本で言う1階は、ポルトガルでは0階と呼ばれ商店として使われている所が多い。
つまり、この宿は正面からは1階・2階が、側面からは1階・2階・3階が宿になっている。
その1階に重い旅行バックなどをおいらが運び上げている間に、フロントでは2泊分の部屋代をカードで相棒が支払う。
2泊で79ユーロの部屋は意外に広く、シャワーと風呂が付き、モーニングも間違いなく付いていた。
荷を解き、町に飛び出す準備をする相棒にお手柄だね!というと、
『〈カステロ・ブランコ〉では宿はよかったが、狡(こす)からいオーナーには失敗だった』と口惜(くや)しげに泣く真似をした。
太ったね、と言うと、『厚着、厚着ッ!靴下は2足重ね。風邪引くなよッ!』真冬じゃあるまいし、モコモコだった。
窓から外を見た。
宿の前は登り坂の広めの石畳道路が開け、右手には白い建物のレストランなどが坂上に延び、
左手は・・・宿前の広めの路地を挟んだ目の前は、教会の白い側面壁で塞(ふさ)がれていた。
その坂道を登って行く人びとの多さに驚く。この寒さの標高1056mのポルトガルで一番高い山間で生活している町びとを観察した。
男、皮ジャンだらけ。女、厚手コートの冬仕度模様。地元の人も間違いなく寒いのだ。
でも、日曜の昼前の人の多さには唖然であった。
おいらは冬用生地の濃紺ジャンパーを着込んだが正解だった。それも25年も前にひと冬袖を通した番組5周年の記念品。
胸に着いたアップリケには[オイシイのが好き!]。まだ新品だし、物はいいし、軽く温かいし、何より外国だし。
こちら5月は、昼間は温かいが夕日が落ちた9時過ぎは寒くなることが多い。
そんなことが頭をかすめ、もしやと思いバックの隅に押し込んできた代物(しろもの)だ。早々、役立つとは思わなかった。
「けいの豆日記ノート」
ホテルは、日本からネットで予約をとっている。
ホテル予約サイトの会社がいくつかある。
その中で、条件のあったホテルを見つけるのに、何日も探すのである。
限定で安くなっているホテルなどもあり、でも安いとキャンセルできなかったりするし、いろいろと難しい。
ホテルの場所も重要なポイントである。
グアルダは町の観光地図がなかったので、グーグルマップだけでは位置関係がよくわからなかった。
グーグルマップには、バスターミナルの記載がないのである。
町の真ん中へんであったので、このホテルに決めたのである。
《記憶力は、プロの財産》
階段を下りて広場に出た。太陽に大きな白い雲がかかり、坂上からの風も寒く通り過ぎて行く。
『こんなに寒くなるとは、お釈迦様でも、ぁ、気がつくめ〜!』と、さらりと吐き捨て、教会の正面左隅に立ちカメラを構え仰ぎ見たカメラマン。
アングルがDM用立ち位置だったのでおいらは賺(すか)さずシャッターを切る。
DM写真撮影はおいらの大切な、三つ目の〔任務〕だった。シャッターを切った後、この教会とそっくりなのをどこかで見た記憶が浮かぶ。
何処かで見たよね、そっくりなの?と、おいら。『なにが〜?』。
決まっているだろ!目の前の教会だョ!『最近、多いんだよな〜』何が・・・?
『急に言うんだよな、主語ぬき。ちゃんと、主語を言ってから聞く、いい・・・他の人に迷惑だからさ、なんて返事をかえしていいか迷うからねッ』。
そう言われてみると、確かに会話が切れる場合が、多々ある。性急傾向にはあった。
76歳は青年Sの感性には戻れない。自分では、今でも青年Sなのに。否、青年XYZかも知れない。
ま、いいか、フランク永井の ♪XYZ♪ だもんな〜。えッ、話が通じないてか?そらッ、♪出た出た月が♪・・・。
しかし、カメラマンは優しかった。『〈ヴィゼウ〉の[ミゼリコルディア教会]のこと?』。
そ、その教会とそっくり、よく覚えているね、名前だって同じだよ。相棒はひと呼吸おいてから言った。
『違うな〜・・・名前は同じだけれど、違う!』と、考え深げに即座に切り捨てる。
そのセリフ回しは、テレビドラマ【臨場】の終身検査官の異名をもつ捜査一課調査官、倉石義男が事件現場で必ず吐くセリフだった。
『違うな〜』の一言に、己の人生と経験と展開を滲(にじ)ませた絶妙な間(ま)にあった。
男の孤独をさらり描き、これからのドラマ展開を楽しませてくれる伏線となる印象的なシーンである。
同じだって!とおいらも、我(が)を張る。『違うな〜、最新の〔地球の歩き方〕持って来た?』。
背負ったリュックの中からガイド本を取り出し、212ページ〈ヴィゼウ〉の[ミゼリコルディア教会]写真と目の前の[ミゼリコルディア教会]と比べた。
似てはいたが、違っていた。相棒の記憶は確かである。〈ヴィゼウ〉の教会には、ファサーダ・fachada(正面玄関)棟の両隣に鐘楼塔幅の建物が付いている。
その分、正面が広く見えロココ様式に華(はな)を添えていた。
『違うな〜』の発声には、[恐れ入谷の鬼子母神(きしもじん)]であったが、旅では思わぬ拾いものに出会う。
テレビドラマ好きな相棒だとは知ってはいたが、まさかドラマのセリフ回しまで披露してくれようとは思わなかった。
流石、[落研(おちけん)]じゅげむじゅげむ「小春」さんである。だから、旅はやめられないのだ。
「けいの豆日記ノート」
教会の名前は、各地で同じ名前が付けられている場合が多い。
セント・マリア教会や、アントニオ教会、テルロス教会など、どの町にもある教会である。
宗派や祀られている神様が同じだと教会の名前も同じなのか、建物の様式の差なのか、そのへんはよくわからない。
調べてみると奥が深いのかもしれない。
《巨大な黒いカテドラル・大聖堂》
目の前の〔ミゼリコルディア教会〕に入るとばかり思っていたその出鼻を『急ぎな〜』と挫(くじ)かれた。
『トゥリズモ(観光案内所)、時間ないよ〜!』と、走りだす。おいらは、石畳の坂道を駆け上がっていく気力がない。
足早のモコモコ羊について行けぬ。先に行って、て〜!と叫ぶのが精いっぱいだった。
昼休みに入ると1時間は閉鎖になってしまう〔トゥリズモ〕だ。なにしろ〈グアルダ〉の地図もなければ、資料もない。
取りあえず只(ただ)でくれる地図さえあれば何処へでも行ける。滅法、地図に強いおひとが傍(かたわ)らにいる。困るのは資料。
持参の「現代ポルトガル語辞典・白水社」を引き引き撮影取材は出来ぬ。
カメラマンが走り去った道路の先に、石畳の広場があった。
そのなだらかな登り坂広場はポルトガルブルーの青空に抱かれていた。
しかも、広場正面に見える黒っぽい頑強に見える建物は、この山間にある〈グアルダ〉の町を隣国などから守り続けて来た要塞だろうと思う。
その右手下の白い建物に「トゥリズモ」のマークを発見。おいらは取りあえず相棒が待つ「観光案内所」に急ぐ。
腕時計は、11時52分、後8分で閉鎖だ。モコモコ羊だけが、頼りであった。
ともあれおいらは、息も絶え絶えで着く。ポルトガル各地の「トゥリズモ」のお嬢さん方は美人揃い。
地図を指し示しながら丁寧に見どころを教えてくれる。相棒は頷き、笑みまで浮かべて地図を見射る。
ポルトガル語に堪能ではないが、地図の読解力は天才肌。方向音痴のおいらとは雲泥の差。12時を5分ほど過ぎていた。
相棒は地図と資料をおいらの分まで頂いたお礼に、ふたりのお嬢さんに千代紙で折った折紙の鶴をふたりの掌(てのひら)に飛ばす。
ふたりの瞳が一瞬、キラり輝くのが素敵だった。目を輝かせる瞳なんて知多半島の新舞子海岸通りでは見たことがない。
そう言えば、おいらの左目も最近白内障気味なのは知っている。帰国したら近所の眼科で診て貰おうとは思っている。
「けいの豆日記ノート」
旅には、地図はかかせないものである。
日本で調べるときには、グーグルマップなどで見たりもするが、道路が主流なので、建物の名前など記載されていない。
学校や病院などの記載があるが、名所である建物の記載がないのである。
なので、その町の地図はトリズモ(案内所)でもらうしかない。
トリズモの地図は観光用なので、名所の教会や建物の名前が記載されているので、後からホームページを作るときに役に立つのである。
昼の休憩時間は1時間半から2時間くらいあるので、休憩時間に入る前に行かないと地図をもらい損ねてしまうのである。
《要塞を思わせる大聖堂》
「トゥリズモ」の外に出た目の前に覆いかぶさる黒っぽい要塞と決めつけた建物こそが、〈グアルダ〉の象徴カテドラル(大聖堂)であった。
いろいろなカテドラルをポルトガル各地で見て来たが、眼前の黒々とした風格ある御影石(みかげいし)の威風堂々とした面構(つらがま)えには圧倒された。
どう見ても〈グアルダ〉を守ると言うか、国を守り抜く城砦としか感じられなかった。
見事なゴシック装飾の高く壮大な外観撮影にカメラマンは外壁を2周した。
それで分かったことがある。
このカテドラルに入るには3か所の出入口があった。
どの出入口も大聖堂でお祈りするためではなく国を守る戦いの城砦だと相棒もおいらも思う。
ではなぜ、高い山脈に挟まれた標高1056mに、1199年国王サンシュ1世はこの地に村を創設したのか。
目的はムーア人の監視役(グアルダ)であった。そんな理由で、村の名前を〈グアルダ〉としたという。
それから〈グアルダ〉はスペイン国境から37kmの防御の地となり、1390年から村の中心にカテドラル(大聖堂)の建設が始まり、
完成までに約150年が費やされたという。
この山間の地に高貴な黒ずんだ御影石を何処から運び込み、何処の建物を建設した人びとが建立を成し遂げたかを知りたいものだ。
内部の巨大で高いドーム天井まで30mはあろうか。その建設模様の簡素で力強い美しさは感嘆である。
完成してから今年で476年、着工時からだと626年にもなる。そのカテドラルを寒さに一寸ばかり震えて我らは見守っていた。
現在〈グアルダ〉の町だけで、42541人(2011年調べ)の人びとが生活していた。
そして今日は自家用車で正装した家族がやって来てカテドラルの中に吸い込まれて行く。
出入口3か所前の大小の広場には、ピカピカに磨かれた自家用車が100台近くはある。
大きなファサ―ダに縦40×横100センチの白い布に、「MISERICORDIOSOS」と書かれ、その下にやや大きめに、「Como o Pai」、とひっそり書かれてあった。
【情け深い我らの神よ】とでも・・・。内部では式典が始まっており、茶色い石に彫刻をほどこした巨大な祭壇前には、300人程の人びとがお祈りをしていた。
残念ながら参列者に聞く雰囲気ではなかった。
「けいの豆日記ノート」
カテドラルには、正装した家族がたくさん集まっていた。
今日は、祝日なのか、何かのイベントなのかは、わからない。
でも、たくさんの人々を撮るチャンスに恵まれたのである。
カテドラルは、満席であり、まわりに立って見ている人でいっぱいであった。
司教様のお話もあり、ずうずうしくも中央の通路の真ん中から写させてもらった。
この日を狙ったわけではないのに、こんな場面に出会うとは思ってみなかった。
《酉歳に寄せての取材旅》
今回9回目のポルトガル撮影取材旅の目的は、ポルトガルの「歴史的な村」を訪ね巡る旅でもあったし、来年2017年は【酉歳】なのでポルトガルの鳥といえば、〈バルセロス〉の雄鶏伝説【ガロ】とポルトガルの濃い青空を自由に飛び回る【コウノトリ】を、今年(2016年)の毎年暮れに開催しているポルトガル写真展で見ていただこうと思い、撮影を5月中旬に相棒が決めた。
コウノトリの子育て中がこの時期なので即決だった。
「歴史的な村」を訪ね歩くには交通の便が悪いため、ナポレオン軍に壊滅状態にされた〈カステロ・ブランコ〉を起点にしなければならず、
交通機関の脚はバスとタクシーをいかに効率的に使うかが鍵であった。
5月17日に、セントレア(中部国際空港)→フランクフルト空港→リスボン空港→首都リスボン。
18日に、リスボン→カステロ・ブランコ。19日に、カステロ・ブランコ→モンサント。
20日に、モンサン→イダーニャ・ア・ヴェリャ→ぺーニャ・ガルシア→モンサント。
21日に、モンサント→カステロ・ブランコ。今日22日に、カステロ・ブランコ→グアルダに入り、明日23日は、グアルダ→4か所の歴史的な村を走破する撮影が待っていた。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2017年4月に掲載いたしました。
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