「ポー君の旅日記」 ☆ 夕刻のファドライブのポルト16 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・16≫
=== 第6章●ポルト起点の旅・3 === 〈アマランテ〉から〈ポルト〉ファドコンサートと夜景満喫であった
《ポルトガルの『優しい粋な振る舞い』を日本は忘れかけてはいまいか》
今朝(けさ)5月25日(水)の8時30分。
ポルトガル第2都市〈ポルト〉の宿〔ホテルジラソル〕からピンク色のヤッケに身を包み〔テルテル坊主〕姿で現れた相棒は、小雨で濡れた石畳の坂道をのぼり、バスターミナルの乗車券売り場で買って来た〈アマランテ〉往復券9時丁度発の高速バスに乗った。
乗車時から大きなフロントガラス表面を華麗に舞い踊り、吹き落されまいと必死に右往左往(うおうさおう)に張りつき滑り捲(まく)り、スピンをかけて霧散していく小雨の妖精たちを眺め、1時間ほどの睡魔を無意識に堪能し〈アマランテ〉のバスターミナルに着く。
縁結びの神様・守護聖人ゴンサーロを祀(まつ)る〔サン・ゴンサーロ教会〕前にある花崗岩を積み上げた町のシンボル眼鏡橋〔サン・ゴンサーロ橋〕。
その川幅100mほどを水量豊富に滔々(とうとう)と流れる〔タメガ川〕を眺めていると、『さみだれをあつめて早しタメガ川』と思わず一句口を突き詠(よ)みたくなってしまう水郷の里〈アマランテ〉であった。五月雨(さみだれ)の季語は夏。
〈アマランテ〉の5月は、ぴったり〔五月雨〕が似合っていた。
その小雨降るタメガ川沿いの広場に白いテント張りの露天市場があり、常設市場の建物を通り抜けた途端の土砂降り。
機転発揮の相棒は、咄嗟(とっさ)に目の前の〔アマデオ・デ・ソウザ・カルドーゾ美術館〕に避難した。
入館料は一人0・5ユーロ。本当は一人1ユーロだが、パスポート提出で年齢確認され65歳以上は半額であった。
なんと粋な、雨宿りではなかろうか。
ポルトガルでは、入館料金を支払う観光施設(美術館・修道院・博物館・宮殿・城・モニュメントなど)は、ほとんどが65歳以上は半額の所が多い。
しかし、日本の観光地の入館料金は高い。
例えば、奈良の東大寺にしても、法華堂(三月堂)や春日大社でも入館料は一人500円。
しかも、65歳以上の半額サービスがない。
ここだけではなかろう、日本各地の入館料金の高齢者65歳以上には、〔パスポートや後期高齢者医療被保険者証〕などの確認で、優しくて粋な半額料金を実地すべきだと野老(76歳)は思う。
そうすればもっと海外からの観光客も増えるだろうし、日本の高齢者の喜ぶ顔も見えるではないか。
日本は65歳以上の爺さんや婆さんに冷たい。
国はその弱弱しい爺さん婆さんにお伺いもなく勝手に制度を決め、爺さん婆さんの年金から勝手に搾取(さくしゅ)。絞(しぼ)り取って行く。
乳牛だって勝手に新鮮な乳を絞り取られたくはない。
お前ら政治家や高級官僚には、父母(爺婆)は居(お)らぬのか。お前らがきっと陰でやっているに違いないうまい方法があるに違いない。
即刻、公にすべきである。
のうのうとした『我利我利亡者(がりがりもうじゃ)ども』つまり〔自分の利益しか念頭にない者たち〕よ、今に思い知るがよい、と野老が声高に吐いても、それは『空威張(からいば)り』か。
まッ、何はともあれ、爺の頭は怒りで張り裂ける思いである。
日本もポルトガルのように国民や海外観光客に〔優しい粋な振る舞い〕を実行すべきだ。
野老は、切々と爺婆の行く末を案じているのである。
「けいの豆日記ノート」
リスボンでは、毎月1週目の日曜日は指定の美術館、博物館、修道院などが無料である。
以前は、毎週日曜日の午前中は無料であったので、そのときを狙って見に行ったものである。
月1回になってしまったので、日程を合わせるのがむずかしくなった。
ヨーロッパでは、美術館など、日曜日は無料の国が多い。
それだけ、芸術関係に関心が高いということなのでしょうか。
日本でも都市によって交通費や施設が、そこに住んでいる65歳以上は無料になったり、安くなったりすることもある。
(たとえば、名古屋などで・・・)
他の地域の人には、やさしくないのは税金の関係でしかたがないことなのかもしれない。
《和菓子の技が生きる〈アマランテ〉だった》
イベリア半島北西端にある【スペイン】の〈サンティアゴ・デ・コンポステーラ〉は、〈エルサレム〉、〈ローマ〉に次ぐキリスト教〔3大聖地〕のひとつで、
今でもヨーロッパ各地から数多くの巡礼者が訪れ賑わっていると聞く。
古来よりヨーロッパ各地から〔聖地〕に向かう街道の一つが、〈アマランテ〉にも巡礼街道として町中の狭い石畳の路地に生き継(つ)がれていたのだ。
そして、ポルトガルの歴史的に名高い〈ギラマンイス〕〈ブラガ〉〈バレンサ・ド・ミ―ニョ〉から国境の鉄橋を渡れば、スペインの〈トゥイ〉の町だった。
そこからイベリア半島北西端に向かって北上すれば〔聖地〕にたどり着く。
〔聖地〕までは大西洋沿いを北に向い、ポルトガルとスペインの国境である〔ミーニョ川〕に架(か)かる鉄橋を歩いて渡り北上すれば、
〈アマランテ〉から200kmちょっとの距離でたどり着く。
直線で200kmだから、実際は高い山越えあり、深く厳しい谷底ありの苦難が待っているに違いない。
基本は歩いて聖地に行かねばならぬが、現在は自転車や馬車は許されているらしい。
信者は決して、鉄道やバス、自動車、はたまたヘリコプターは使わないと信じたい。
その聖なる〈アマランテ〉の狭い巡礼街道にあるカフェに雨宿りで飛び込んだ。
そこで神がお与え下さった偶然に感謝した。というのは、日本の京都の和菓子屋で修業したオーナー夫人に出会えたのだ。
洋菓子店カフェオーナーは82歳の美女。
かつて京都の和菓子屋さんで2年間の修行をし、和菓子造りの秘伝を伝授されたという、その〔和菓子風アマランテ洋菓子店〕のオーナーおばあさんと意気投合。
不思議な出会いをしたのだった。
アマランテ洋菓子作りの基本は、和菓子の技だった。
その〔見栄え美味しさ〕が評判となり、この町はもとよりポートワインの港町〈ポルト〉や首都〈リスボン〉にも知れ渡り、
丁度リスボンの雑誌社の取材が入りフラシュの閃光が瞬(またた)いていた。
〔和菓子風洋菓子〕の撮影の〔ブツ撮り〕に立ち会っていた老夫人が、我らの入店時姿を目撃していたのか、
奥のタメガ川景観が大きなガラス窓越しに見渡せるテーブルにやって来て『日本から来た方ね。
すぐ済むから、待っていてください』と言って、撮影現場に踵(きびす)を返した。
野老は生ビール、相棒のカメラマンはコカコーラ。
共に1.5ユーロ。相棒は、コーラをグイッと飲み店内の撮影現場に顔出しだ。
野老は大きなガラス窓越しの、滔々と流れるタメガ川とその上空に広がる〈アマランテ〉の広々とした大空を流れる雨雲を眺める。
その時だ、雨雲が割れた。その裂け目から小さな青空が散らばり、広がり始めたのだった。
旧知のように仲良くオーナーおばあさんと相棒が、野老のテーブルに笑顔を運んで来た。
そして野老の顔を見詰め『Keiko ト―サントポルトガル イッショ ヨカッタネ〜』。
これが、オーナーおばあさんの恐れ入った第一声だった。
この後で知ったのだが、京都修業2年間で日本語がちょっぴり喋れた。
更に修業が、40年前だと知ると、日本語のおしゃべりもたいしたものだと感心した。
相棒がお礼だと千代紙を肩掛けバックから取り出し折鶴を折りだす。
オーナーおばあさんは『オーッ sentir saudade de TIYOGAMI!』(ま〜ッ、千代紙 懐かし〜!)と相棒の折鶴作りの手元ではなく、
千代紙の美しい絵柄模様に目が輝き、指先は千代紙に向かった。
しかも、20枚ほどの中から1枚引き出したのが、金色の〔招き猫〕の絵柄だった。
『Keikoサン マネキネコ クダサ〜イ!』 Keikoに、サン、がついた。おねだりの時には、「サン」を付ける術をオーナーおばあさんは忘れてはいなかった。
相棒も野老も、これには声を出して笑った。オーナーおばあさんも、可愛い声で笑った。
この後、招き猫の右手と左手の使い方でユーロ(お金)が〔ガバ!ガバ!ゴボ!ゴボ!〕懐に転がり込んでくる話を、野老が身ぶり手ぶりで演じた。
その仕草が可笑(おか)しいと、オーナーおばあさんは大笑いしてくれた。
〔 sentir(感じる、味わう) saudade(懐かしさ、ノスタルジア) 〕の『サウダーデ』は、オーナーおばあさんが何度も口にした言葉であった。
例えば、ポルトガルの首都リスボン(リスボア)を紹介するガイド本には、必ず〔サウダーデ〕の連発である。
かつて誰かが吐いた〔サウダーデ〕が不死鳥のごとく生き継がれて来たに違いない。
手を振って見送られ別れを惜しんでくれたオーナーおばあさんに『サウダーデ!』に『オブリガーダ!』を添えて、相棒は手を振って石畳の狭い巡礼街道を後にした。
「けいの豆日記ノート」
いつも折鶴用に和紙の千代紙を持って行く。
和紙のほうが普通の折り紙より、手で持って折るには折りやすいのである。
それに、柄が和風であり、それだけでもきれいなのである。
花柄のことが多いが、たまに鳥や動物や人形などの柄も混じっていたりする。
鶴を折るには、いまいち不向きな柄であるので、残しておくことが多い。
《ティッシュペーパーは日本の宝物》
予定通り〈アマランテ〉15時35分発の〈ポルト〉行き高速バスに往復券で乗った。
大きなフロントガラスからの走行景観は、午前中の小雨模様の五月雨(さみだれ)から五月の晴れやかな青空に変わっていた。
小一時間(こいちじかん)相棒は、午前中のカメラ事件で心身喪失もあってか、ガラガラのバスの座席で全身睡魔に抱かれていた。
〈アマランテ〉に着いてから小雨模様の中を5時間以上も散策していた疲れかもしれない。
いや、乗り物に乗るとすぐ眠りに落ちる習性はあった。
しかし、中部国際空港(セントレア)から〔リスボン空港〕までの飛行滞空時間16時間ほどは一睡もしない。
途中ドイツの〔フランクフルト空港〕で乗り換え時間があるため、日本とポルトガル間は、20時間はかかる。
相棒が眠られないのは、飛行機に乗るのが怖いからではない。
むしろ、ずっとビデオで映画を見ていられる長い長い飛行時間が嬉しいのだった。
「けいの豆日記ノート」
アマランテからポルトまでのバス時間は約1時間である。
実際は、アマランテから30分走り、ポルトの町に入ってからが長く、Rodonorteバスターミナルまで30分かかったのである。
ポルトの町中の道路の混み具合はすごいと思った。
それにバスターミナルとは名ばかりの小さい建物は、狭い路地をバスがギリギリ通り、そしてバックする。運転手の技術のたまものである。
〈ポルト〉のRodonorteバスターミナルから乾き切った石畳をくだる。
朝方のピンクの〔テルテル坊主〕姿は消え、凛(りん)とした大和(やまと)の女性に変身していた。
〔ホテルジラソル〕の階段を登り、カウンターで鍵を貰い部屋に直行した。
相棒が撮影機材準備をする間に野老はトイレを済ます。
『旅の鉄則』は、〔部屋を出る前にはトイレを済ます〕。したくなくても便座に座ってみることだ。
習性で、必ず出るものだ。
その鉄則を守らぬために野老は、2度死ぬほどの思いをした。恥ずかしながらぎりぎりレストランに飛び込み用を達した。
何もオーダーすることなくこっそり出て来たあんな辛い思いはご免こうむりたい。
日本のように無料トイレは簡単には見つからない。
必ずある便利な〔コンビニ店・パチンコ店・スーパーマーケット・マクドナルド店・ケンタッキー店・デパートメント・公園〕など只(タダ。ロハ)で利用できる国はないのだ。
あ〜、日本ッて、なんと素晴らしい国であろうかと〔トイレ事情〕に関しては常ずね思う、野老だった。
それに、あの軽さ、柔らかさ。あの持ち運びの便利さ。
将に世界に類を見ないあの心が込められた優しさこそが、魔法の【ティッシュペーパー】である。
これこそが、〔日本の技が生きる宝物〕だと絶賛されている。その宝物を駅舎出口通行中に無料配布され、外国の方々はただただ驚かされるらしい。
帰国時の最高のお土産物として買って帰るのは〔ティッシュペーパー〕が一番だという。
いや日本人が海外に行く時の土産物に持っていくのは、その〔日本の宝物〕が多い。喜ばれるからだった。
その〔魔法のティシュ〕は、決して忘れず何時も身近に持参し、習慣づけることが肝要である。
レストランやカフェ、空港のトイレだって、ロールトイレットペーパーが空っぽ、なんてことは通常であるから御用心ご用心。
それに、トイレの扉の鍵が問題だと相棒が言う。
野老にはその経験がなかったが、その経験をした者でしかその恐怖は語れないと、相棒は口を尖らせる。
トイレの扉の鍵が壊れている所が多いらしい。
そのため、壊れた鍵のノブをがっちり押さえ、引っ張り開けられぬように渾身込めてあらん限りの力を、握るノブに集中し用を足す。
滑稽なほど命がけだというのだった。
そう真剣に訴える相棒を、野老は信じている。
重要度格言【 『開けないで〜! 入って、ま〜す!』のポルトガル語を覚えてから、トイレに入りましょう 】。
「けいの豆日記ノート」
ポルトに着き、急いでホテルに戻る。
1眼レフカメラにバッテリーを入れて、準備する。
アマランテでのこの失敗は、2度と起こさないように心に誓った。
1眼レフカメラを持っていたのに、バッテリーを入れ忘れて撮影ができなかったということ、ほんと情けないことである。
《ドン・ルイス1世橋》
ホテルの階段を下り、そこでお会いした浪花夫婦。腕時計は、16時55分。大阪から来たという。
ほんの5分ほどのご挨拶で別れ、我らは石畳の坂道をくだるとすぐの〔サン・ベント駅〕に用もないのに駅舎に吸い込まれる。
天井の高い駅舎ホールの壁面を飾る見事な〔アズレージョ〕(ポルトガル建築の内装、外装に敷き詰められる装飾タイル画アート)が美術館みたいな構内に、
ジョアン1世のポルト入城などの歴史がアズレージョで充分楽しめるため、ついつい寄って見上げ、首が痛くなる。
でも、何度観ても飽きない。
〈ポルト〉の列車の玄関口と呼ばれるサン・ベント駅舎を出ると、目の前を観光客満載の路面電車が通り過ぎ、
坂の向うの丘の上に〔クレリゴス教会〕の76mの塔が威風堂々(いふうどうどう)と存在感を示す。
そしてここから斜め右下に700mほど南下すれば〔ドウロ川〕沿いのレストラン街〔カイス・ダ・リベイラ〕に出て川風と航行する船を眺め、
おいしいポルトガル料理に〈ポルト〉ワインの〔ポートワイン〕が楽しめる。
東の空、つまり上流の空を見上げればドウロ川に架かる1886年建造の二重構造橋〔ドン・ルイス1世橋〕が迫り、その川面から68mの鉄の芸術作品に見惚れてしまう。
上層の上に鉄塔が延びれば、フランス〈パリ〉にある〔エッフェル塔〕ではないか。
それもそのはず、〔ドン・ルイス1世橋〕はエッフェル塔を建てた高架橋技師エッフェルの弟子テオフィロ・セイリグが設計した橋だった。
似ていて当然であった。
〔下層〕は長さ174mで人と車でごった返す橋を渡れば、対岸は世界に誇るポートワインセラーが製造販売する〔ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア〕地区だ。
そして、巨大アーチが美しいドン・ルイス1世の〔上層〕は、長さ395mもあるメトロ(地下鉄)の路線と歩行者用道路である。
〈ポルト〉の〔メトロ路線〕は、色別6路線が走っている。もう1路線増やせば、〈七色の虹路線のメトロが走るポルト〉でさらにアピールできるのに・・・。
緑色車体にガラス窓縁(まどぶち)に黄色い太い線が走るライトレールは目立つ。
写真写りもいい。〔上層〕からの眺めは天下一品。
古くから港町で栄え、1415年にエンリケ航海王子の指揮のもとドウロ川河口の港町〈ポルト〉を出港し、大西洋に乗出した船が北アフリカのセウタを攻略。
それが切っ掛けでヨーロッパの他国に先駆け、ポルトガルは〔大航海時代〕の先陣を切ったのだ。その情感溢(あふ)れる歴史的な港町〈ポルト〉の〔サウダーデ〕が、
〔上層〕68mから大俯瞰で涼しい川風に飛びそうな帽子を片手で押え片手で撮影するのは至極。
でも、その経験を堪能できる快感は、他に類を見ない嬉しさであった。
「けいの豆日記ノート」
以前、ポルトの乗り放題パス(アンダンテツアー)を買ったことがある。
メトロ・市バスが乗り放題のパスであり、1日券(24時間)7ユーロである。
リスボンでは、いつも利用しており、最終日は路面電車を乗り放題するのである。
ポルトの路面電車も3線に増えたことだし、乗り放題したいと思った。
しかし、ポルトの乗り放題パス券は路面電車が含まれていなかったのである。
ガ〜〜〜ン!!
それにメトロもゾーン(2〜9まである)が決められており、そのゾーン内でしか使うことができず、ぜんぜん乗り放題でないのである。
切符の自販機もポルトはわかりにくく、買うことができず、窓口で買うことになった。
リスボンの切符販売機では、操作ができるのに、ポルトではできないのは、どうしてなのか。
もう少し、やさしくしてほしいなと願うのである。
《地下鉄が天空を走る》
午後6時から7時までの1時間、美味しい〔ポートワイン〕つきの〔ファドコンサート〕を、一人10ユーロで予約してあった。
その開演20分前、そろそろ戻ろうかと橋の〔上層〕中央あたりで遥か下68mのドウロ川水面を下流12kmの大西洋から這い上がって来た海風が我らを襲う。
欄干をしっかり握り、帽子を飛ばされないよう握り締める。
そんな状態の中であってもカメラマンの目は野獣のごとく鋭く、乗り物に乗るとすぐ眠ってしまう同じ人物とは思えない鋭さが、眼光から消えない。
〔上層〕から〈ポルト〉旧市街地に残る長く連なる城塞跡があることは、城砦に平行して作った年寄りには便利なケーブルカーが
〔ドン・ルイス1世橋〕の〔下層〕前で乗り降りできることで、知っていた。
しかし〔上層〕のこんなに近くから撮影出来ようとは思っていなかった。
青い空を背景に城塞跡を忍者のごとく観光客男女が張り付くように歩いて行くのが悔しそうだった。
相棒は高い所が好きな忍者の里・伊賀生まれであった(これは、冗談。伊賀すまん、あいすまん!)。
その時、サン・ベント駅から地下を走って来たメトロ電車〔ライトレール〕がトンネルから橋の〔上層〕に飛び出して来た。
スピードはゆっくりだ。乗客に車窓景観サービスだった。トンネルにメトロが吸い込まれる情景に巡り会えたりと、楽しさ倍増である。
先ほど〈アマランテ〉から戻り、トイレを宿で済ませ、宿を飛び出し、〔サン・ベント駅〕に吸い込まれ、17時に〔サン・ベント駅〕を出るまで20分。
その後、〔地図勘〕抜群の相棒の指示通り石畳の一寸ばかり急な〔アフォンソ・エンリケス大通り〕の坂道を右手斜めにくだらず、まっすぐ坂道を登りドウロ川〔上層〕に向かう。
その右手高台に、歴史的な大航海時代の幕開けのドウロ川河口港町景観を見下ろせた12〜13世紀建造の〔大聖堂・カテドラル〕を仰ぎ見て、
さらに〔ヴィマラ ペレス大通り〕を250mほど進むと〔ドン・ルイス1世橋〕の〔上層〕に直結だ。
この通りは旧市街地で左右の建物は古い。石畳通路は幅10mほどと狭いがカフェのテーブルとイスが置かれ観光客が占領しビールやワインを水代わりに飲んでいる。
その坂道を今度はだらだら下った先に〔ドン・ルイス1世橋〕の〔上層〕が長く伸び、橋を渡る人びとが眼下に流れるドウロ川景観を楽しむ姿が見える。
その〔上層〕の橋の中央をメトロがトンネルから走り出て、蛇みたいに去って行った。その時、野老が3年前に500円で買った腕時計は、17時20分であった。
「けいの豆日記ノート」
サン・ベント駅の上の丘からドン・ルイス1世橋にかけて城壁があることは知っていたが、上を歩けるとは知らなかった。
今まで、歩いている人を見たことがなく、通行止めだとばかり思っていた。
最近、ポルトがヨーロッパで行きたい町1位に選ばれたこともあり、観光場所を増やしたのかもしれない。
今度、ポルトに行ったら、登ってみたいと思う。
ここからのドウロ川の眺望は、角度が変わってきれいだと思う。
《偶然のファドコンサート》
17時25分、相棒がその建物を見つけたのは偶然だった。
〔ドン・ルイス1世橋〕の〔上層〕に踏み込む手前で、ふと振り向き出合った小さな建物。
その0階のこじんまりした店に〔CASA DA GUITARRA〕の文字を発見。
ポルトガルのギターラを売る店なら、ファドCDも売っているだろうと相棒は思い、ショーウインドウに飾られたいろいろな形をした〔ポルトガルギター・ギターラ〕に出会った。
相棒が『寄って行くよ』と野老に声かけして店の中に入る。
店内に入るとカウンターの女性と話し込む相棒が友人に頼まれたポルトガルの艶歌・ファドの永遠の歌い手『アマリア・ロドリゲス』CD購入の交渉中だ。
露天市場でも、小さな写真屋でも、煙草屋でも八百屋の隅っこでも、〔アマリア・ドロリゲス〕のCDは格安で売っている。
しかし、何百何千何億回も原型がすり減り消滅したような〔ファド女王のCD〕のコピー商品などの偽物が多いので注意したい。
ギターラ製作専門のお店なら、と勘だけで相棒は店に吸い込まれたのだった。
店内は奥行きがあり両サイドにギターラが40本ほど整然と並べられていた。
アマリア・ロドリゲスCDを3枚購入した。
こちらでもロドリゲスのCDは入手困難のようで、1枚12・5ユーロもした。
その後、許可を得て〔ギターラ〕を一本一本撮影する相棒を野老は観ていた。
撮影しながら野老に近づき相棒は平然と小声で吐く。
『あのさ〜、18時から19時までここで慣例のファドコンサートがあるんだって、しかもグラス一杯のポートワイン付きで、おひとり10ユーロだって、
入場券買ったからね、久し振りで生のファドもいい、じゃ〜ン!』とニヤリ笑む、じゃじゃ馬婆であった。
確かに生ファドは、2001年9月、生まれて初めて20時間もかけて遥々(はるばる)やって来たポルトガルの首都リスボンのその夜、
画家ドン・ガバチョさん夫婦にアルファマ地区のファドレストランに連れられ、夜9時から始まったお食事の後ポルトガルの
ポートワインを初めて飲みながら〔ファド〕の生歌(なまうた)を初めて聞いた。
その初めての経験は、相棒のカメラマンにとっても野老にとっても、衝撃的な〔リスボンの夜〕のデビューであった。
初めて聞いたファドの歌声は、日本の艶歌(つや歌・えん歌)だと野老は思い痺れた。日本での夜9時は決して夕飯タイムではない。
寝ようかなと爺婆のお眠りタイムである。〔所変われば品変わる〕違った土地に行けばそれなりに違った風俗習慣言葉がある。ことわざ通りであった。
そのリスボンの〔ファドタイム〕は、相棒にとってはファドを聴きながらの〔こっくりコックリタイム〕であった。
ポルトガル初訪問日の2001年9月22日は、〔アメリカ同時テロ事件発生の9・11〕の11日後であった。
「けいの豆日記ノート」
ファドを聞くためには、ファドレストランに行かなければならず、ファド込の食事代がかかる。
それに夜9時すぎにスタートである。
初めてポルトガルに来た時に、リスボンでファド聞く機会があったのに居眠りをしてしまい、ろくに聞かなかった。
もう1度、聞いてみたいと思ってはいたが、条件が合わず無理だと思っていた。
ギター店で、ファドが聞けるということで、1人10ユーロは高かったが、聞いてみることにした。
明るいうちに開催していたので、きっと旅行者用のファドライブなのかもしれない。
それに撮影もできそうだし、今後も聞けるかどうかわからないしと思った。
《ポルトガル第2都市〈ポルト〉の夜景》
18時から19時の、一時間の50名限定〔ファドコンサート〕は、若い歌姫とロマンスグレーのギターラと禿げたヴィオラ演奏者で行われ、
途中15分休憩で大きなグラス一杯のポートワインが振る舞われた。野老は2杯。
相棒が飲まないので当然おいらが飲む。野老は失礼ながら歌姫に痺れなかった。
彼女が悪いのではない。夕方6時〜7時の時間帯の〈ポルト〉は、まだまだ太陽はギンギラ。
夜9時が夕焼け時間だ。ファドは夜が似合うのだ。ファドの歌声が夜の石畳路地に流れる。
歌声に引かれ吸い込まれ薄暗い酒場(レストラン)の小さなテーブルに運ばれる一杯のグラスワインを舐めるように飲む。
こんな雰囲気の中で、♪チャラらん チャラらん♪の楽譜が鳴り、八代亜紀さんが登場。
流れる♪の中から静かに『舟唄』の歌声が薄暗い空間に妖しく艶っぽく響き客の心を蕩(とろ)けさせる。
そんな雰囲気を生(なま)で味わえたら最高だろうと思う爺は多いに違いない。
そんな野老は、理不尽(りふじん)だろうか。
今日も一日、早朝8時に高速バスに乗り、小雨降る〈アマランテ〉の日帰り撮影取材旅を敢行し、楽しい思い出の人びとにもお会いできた。
帰路の高速バスで〈ポルト〉に戻ったのは、16時40分。ひと息つく間もなく、宿の階段を駆け下りて浪花夫婦に出会ったのが16時55分。
〈ポルト〉の撮影取材旅もこうして時計を意識すれば、まこと計画通りのスケジュールをこなしているようにお思いでしょうが、計画通り振る舞うのは、毎朝のモーニングタイムと出発時間。
乗り物の時間。何処をどう動くかは、相棒のカメラマン次第。
何時に何処へ行くことなんて野老は知らぬ。何時に昼食で何時に夕食なんて知るよしもない。
それは、それでいいのが。旅が、楽しければ。
今日だって、生ファドコンサートの鑑賞と美味いポートワインが飲めるなんて想定外。
こんな想定外は大歓迎だ。腰に付けた万歩計は19041歩。これから、夜景撮影に出かける。
1時間半ほど宿に帰り、残り物を喰い、夜9時10分に再び〔ドン、ルイス1世橋〕の〔上層〕の橋の上に立ち〈ポルト〉の夜景撮影をした。
眼下68mの大俯瞰の〔ドウロ川〕は闇夜に黒く沈み、両岸の建物の明かりは長い赤い光の帯となり、その赤い帯の中の街灯が均等に黒い川面に縦線状の虹色を作り、
大西洋に向かって蛇行して行く絵模様は、将に〔ファンタジー・幻想〕であり、〔ノスタルジア・故郷をなつかしみ恋しがる・望郷〕であり、
〈アマランテ〉の和菓子造り82歳おばあさんの千代紙を観た時に口を突いて出た〔(ポルトガル語)SAUDADE・サウダーデ・
郷愁(きょうしゅう)・望郷・ノスタルジア・懐(なつ)かしさ〕ではなかろうか。
闇夜の光の幻影は、何処の国で見ても幻想であり、望郷であり、郷愁であり、懐かしさを呼び起こすものなのだ。
●漢字に(・・・)と読みをいれていますが、読者の中に小・中学生の孫娘達がいますので、ご了承ください。野老●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2017年11月に掲載いたしました。
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