「ポー君の旅日記」 ☆ 星型の要塞都市のアルメイダ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・12≫
=== 第5章●グアルダ起点の旅・3 === スペインとの国境線総距離数は、1234kmだった
《折鶴とコウノトリ》
ポルトガル共和国が認定した「歴史的な村」である〈カステロ・ロドリゴ〉は、小さな村であった。
トゥリズモ(観光案内所)の係員の美女たちと土産品売り場のおばさん達は、相棒のカメラマンが目の先で折る千代紙の折鶴を見詰め感嘆し、
撮影のお礼にと差し出されると「オリガミ」と言葉に出し歓喜した。
「オリガミ」は知っているが「折鶴」は知らなかった。ポルトガルの人びとは、鶴という鳥を知らないという。
鶴はこの国に飛来しないため、子供の時から観たことがないのだ。
持参した日本の【現代ポルトガル語辞典 白水社】を見ても、〔鶴のツの字もない〕。
でもポルトガルの青い空には、鶴にそっくりな白い羽根に黒いエッジの羽根を2mも広げ、長い脚も長い嘴(くちばし)も赤い色をした〔コウノトリ〕が、嘴をカタカタ打ち鳴らし飛んでいる。
5月の今頃は、町中の教会の屋根や民家の廃墟跡の煙突の上に2mもある小枝で造った大きな巣で子育て中である。
そう言えば、昨日(22日)ポルトガルで最も高い標高1056mの山間の町〈グアルダ〉に入り、泊る。
今日(23日)早朝6時30分起床、寒い。部屋には暖房が入っていた。
約束の9時00分に迎えに来てくれた几帳面なセニョール・マヌエルさんのタクシーに乗り、マロファ山地の砦村「歴史的な村」めぐりを続けて来たが、どの村にもコウノトリはいない。
カメラマンも運転手も野老もみなほぼ冬支度、つまり標高1000mほどの草原山地は5月なのに寒い風が吹く。
コウノトリの住む世界ではないのだ。
〈グアルダ〉から高速バスに乗れば1時間45分で、30℃のコウノトリの楽園である〈カステロ・ブランコ〉でも、
「歴史的な村」〈カステロ・ノーヴォ〉や〈イダーニャ・ア・ヴェリャ〉でも、大きな大きな鶴みたいなコウノトリがポルトガルブルーの青空を悠然と飛び、
嘴の先に銜(くわ)えた絹の布に包まれ眠る赤ちゃんを運ぶ。
野老はしっかり勇壮なその夢の世界を白内障気味の目ん玉に〔白・黒・赤〕三色の舞いともども焼きつけた。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルに行く際に必ず持って行くのが、オリガミである。
千代紙の折り紙は、そのままでも日本風の柄がきれいであるし、折鶴を折ると一段ときれいである。
それを撮影のお礼にあげるととても喜ばれる。
目の前で、千代紙を折ると、マジックを見るように不思議な顔から、驚きの顔に変わる。
かさばらず、手軽で喜ばれるお土産は、折り紙に限るのである。
教会でも、寄付はしないが、折鶴を置いていくようにしている。
マリア様といっしょに天国に飛んで行けたかなあ。
《腹の虫》
ごみ一つ落ちていない崩壊した石積要塞跡をぐるりひと回りし、50人程が住んでいると言う石組住宅地も2周目。
小さな石積教会の石畳路地を相棒は根気よくカメラを向け撮り続け、運転手のセニョールさんも案内役を買って出てくれ、野老は民家の石積壁に添えられた石造り長椅子に座り腕時計を見る。
予定の12時出発まで15分もあったが、相棒に声をかけた。餓鬼でもあるまいし76歳の腹がきれいな旋律で鳴った。野老の腹の虫が騒ぎだす。
健康な証拠だと自賛し納得。皆んな腹も減り、喉も乾くころだと親心。〈カステロ・ロドリゴ〉から予定より10分早目の11時50分、N332号線を〈アルメイダ〉に向かって南下した。
車窓から見えるのは、青い空と緑の起伏に富んだ大草原だけ。
5月中旬の爽やかな草原を吹き抜ける冷たい風は容赦なかったが、昼12時の強い陽射しで緩んだような気もする。
5月の中旬から6月中旬は、ポルトガルは薄青紫色のジャカランダの咲き誇る、季節的にも夏期前の清々しいジャカランダの花咲く日和模様である。
日本で言えば桜のお花見のそんな時期のポルトガルであった。
野老が住む新舞子海岸通りでは、4月の春欄慢の桜のお花見も終わり、5月5日のこどもの日・節句も過ぎた17日(火)午前9時45分、
知多半島常滑市沖のセントレア(中部国際空港)を発(た)ち、9時間の時差もあってポルトガルのリスボン空港目前21時、機内の小窓からユーラシア大陸上空の夕焼けを見、
ドイツ・フランクフルト空港乗り換え時間も入れ首都リスボンの安宿に着いたのは23時。
日本からおよそ20時間余り、まさに遥か遠くに来たものだ〔ポルトガル撮影取材旅〕の9回目であった。
我らが今、タクシーで走っているのは5月23日(月)のポルトガルの標高1000mほどの高原道路だった。
高原道路といえば山並みの間をナイーブな曲線を描き走り抜けるハイウエイを思い描くでしょうが、我らの高原道路は岩場の草っ原に片側一車線の右側通行の山道で、
しかも薄寒さが車内に沁み込んで来た。
運転手のセニョール・マヌエルさんは皮ジャン姿だし、相棒のカメラマンもモコモコ羊姿、野老に至ってはジャンバーの下に下着長袖2枚重ね着の爺姿である。
この地から2時間南下した30℃の世界から昨日(22日)に標高1056mの山あいの町〈グアルダ〉に来たばかり。その寒さは想定していなかった。
今日23日は朝から「歴史的な村」巡り。その3か所目の村に、我らの案内人タクシードライバーのセニョール・マヌエルさんは
物静かに70km/hの速さを崩さない運転に『まッ、いいか』のゆとり心で車窓をカメラマンは眺める。
グ〜と、野老の腹がまた鳴った。バックミラーの中のセニョールの顔が二カッと笑う。
腹が鳴った音を聞き、悪戯少年のような微笑みをした52歳。この笑みはポルトガルでも日本と共有の意味なのだと野老は納得した。
草原にはジャカランダの木は残念ながら見られない。あってもこの寒さでは咲けない。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルの撮影取材に行きだしたころ、冬場に行くことが多かった。
航空運賃が安かったからである。
だんだん、春になり、夏の初めになってきた。
6月のお祭りを見たかったり、5月の卒業イベントを見たかったり、その時に行かないと見ることができないからである。
それに、5月中旬から、6月初めごろまで咲くという、ジャカランダの花を見たいからでもある。
花もその時期に行かないと見ることができない。
その年によって、早かったり遅かったりして見れないときもあり、残念であるがしかたがない。
ジャカランダの花は、もともと南の国の原産であるためにポルトガルの南半分方面でしか見たことがない。
自宅でジャカランダの花を咲かせようと思い、庭に苗を植えて、10年がたった。
葉っぱはよく茂ってきれいなのだが、花はまだ咲かない。いつか、咲く日を楽しみにしている。
《思い出》
今まで立ち寄って来た村景色と一味違うだだっ広い村が見え、その村の周りには堀が廻(めぐ)らされていた。
日本の城だとお堀が付きものだが、「歴史的な村」では堀は初めてである。
掘には水面はなかった。
そこが「歴史的な村」の中でもスペインとの国境線まで12kmという一番近い戦略防御地点としての重要な星型要塞都市〈アルメイダ〉だと、今朝7時のモーニングタイムのミ―ティング(と言ってもスタッフはふたりだが)で相棒のカメラマンから説明があった。
モーニングミーティングは〔ポルトガル撮影取材旅〕の慣例で、企画立案者がその日の撮影プランを、パンを食べ、絞りたてジュースを飲み、
もうこの先食べる場所がないのかと不安にさせられるほど食べ、ふ〜と一息吐き『と言うことで今日もよろしく〜!』で、ミーティングは終了。
〈アルメイダ〉が星型要塞都市であり、スペイン国境まで12kmと知った時、野老はそっくり同じコメントを書いた町を思い出した。
この地方よりぐっと南下したアレンテージョ地方の〈エルヴァス〉だ。
17世紀に築かれた塁壁(るいへき)に囲まれ、1801年ナポレオン軍のスペイン侵入戦争の舞台となった時も、この塁壁が要塞となり〈エルヴァス〉の町を守った記録が残る。
我らが訪れた2012年5月30日、その1ヶ月後2012年6月30日にポルトガル14番目のユネスコ世界遺産に〈エルヴァス〉が登録された。
町はずれにある星型サンタ・ルジア要塞ともどもの受賞である。
この情報はホテルフロントの女性たちが新聞片手の歓喜状況で知った。
ついでながらの記憶、この年の翌年は〔日本ポルトガル友好470周年の記念年〕であった。
「けいの豆日記ノート」
アルメイダは星型要塞都市で、村というより町らしかった。
6角形なのかと思っていたら、案内所からもらった地図を見ると12角形であった。
6角形の周りにまた6角形の城壁を造った頑丈な構造になっている。
この形を空中から見れれば、おもしろいだろうに残念である。
《守り神ポー君》
堀を渡る20mばかりの石橋の先にトンネルが見え、タクシーは橋の手前で停まる。
セニョールの計らいだった。カメラマンは一言『オブリガーダ!』と礼を言い、タクシーを降りる。
セニョールはトンネルの先の広場で、先ほど打ち合わせた時間に待っていると、橋をゴロゴロ音たてて渡り、トンネルに吸い込まれるように車体が消えていった。
この地に着く前に車中で、今・・・12時15分だから、集合は13時30分にしましょうと、弁当持参のセニョールに相棒は言った。
〈アルメイダ〉滞在は1時間15分と刻まれたが、この後もう一か所〈カステロ・メンド〉の「歴史的な村」が控えている。
一日4ケ所廻りは撮影する方も忙しいが紀行文を書く野老も骨を折る。
流暢な言葉での取材ができれば楽だが、なにせ口下手(くちべた)だから・・・いや、その、喋れないから聞き取り取材に時間がかかるのだ。
ご心配なさるな、野老には吸収力抜群なジャンボな「心の耳」がござりまする。
その耳一つで、今まで150編ほどのポルトガル紀行日記を残して来た。
ここでちょっと紹介したい奴、いや、スタッフの中に守り神がいたのでございます。
相棒は肩掛けバックから赤いサンタ帽子をかぶった〔ワンコの人形〕を取り出し、左手に握りしめ、石橋を渡り、星型要塞のトンネル城門に向かった。
旅には必ず同行する知る人ぞ知る彼は【愛しのポルトガル】ホームページで人気の『ポー君の豆日記』コーナーを担当し、
ここで毎月ポルトガルのご案内〜風景と食べ物の紹介〜で、今や320回を越す貢献度。
野老も敵(かな)わぬ勢いである。
カメラマンは写真展のための撮影の合間に、「ポー君の豆日記コーナー」撮りもする忙しさだった。
〈エルヴァス〉のような星型要塞に囲まれている〈アルメイダ〉の城門のトンネルに入って行くと、明りが灯るトゥリズモに出くわしびっくり。
城門のトンネルの中のトゥリズモ(観光案内所)は初めてである。
「けいの豆日記ノート」
ワンコのポー君は、ポルトガル撮影取材の旅の2回目から参加している。
なんと、8回もポルトガルに無賃乗車している愛嬌のある顔のワンコである。
ポルトガルだから、ポー君という安易な名前である。
ホームページを作るときに遊びのページもほしいと思い、ポー君の豆日記というコーナーを作った。
ポー君を入れ込んだ景色にコメントをつけたものである。
月1回のペースで作っている。
ポー君の撮影はコンパクトデジカメを使うようにしている。
なんせ、片手で撮らなければならず、ホームページ用なので、データも小さくていいのである。
《アルメイダの今》
トンネルを抜けるとそこは樹木が多く家の窓辺やテラス、カフェの店先に咲き誇る花々に燦々と照りつける陽射しの温かさに
今まで見て来た「歴史的な村」からは想像すらできなかった人びとののどかな生活空間があった。
白いワイシャツに黒いカーディガンの野老と同年輩の爺に手招きされたカメラマンが野老にも来いと呼ぶ。
カメラマンが撮影する納屋の中に驚く。何百と錆びた鍵が白い壁一面に整然と飾られていた。洒落者爺はコレクターだった。
反対の白壁は錆びたひずめ・馬蹄が何百個と並ぶ。錆びたハサミ・置時計、ランプ・銅製大小の鍋など個人博物館である。
花咲く小さな公園の公衆トイレはきれいに掃除され、観光客用ではなく自分たちのためのよう。石畳にはゴミ一つなく制服制帽の郵便配達人が足元に小さな歩く影を連れ路地を曲がる。
星型要塞に外部から入城するには3か所しかなく、町の中ごろにおおきな広場があり駐車場にもなっていて、この広場は時計塔からまっすぐの左側にある。
街角の目立つ所の赤いポストが陽射しの中で浮かんで見え、小高い所にある鉄扉の中はお墓。
大理石の墓には生花が置かれ、眼下に延びる石畳の道にはぎっしり民家が連なり、反対側に小型自家用車も連なっていた。
星型要塞の中は、散歩するお年寄りしか見られないがレストランの扉の前にしゃがむ白い帽子に青い温かそうなジャケット、足元はふわふわスリッパの少女がカメラを向ける相棒に微笑む。
折鶴をあげたら家に飛び込みお母さんを呼んで来た。『折鶴』は知らねど『オリガミ』の言葉は知っていた。
薔薇の咲くカフェで水を飲む。水が冷たくオイシイと相棒。
野老は当然1ユーロサグレス生ビールを飲む。下着長袖二枚重ね着野老の五臓に沁み込む冷たさ美味さ。
ここを居住に生活しているのどかな町の息使いが伝わり知れた。
人びとの優しさに心打たれた出会いがあった。
我らはそののどかさに何故か一安心しホッとしていた。
「けいの豆日記ノート」
アルメイダの入口を入ってすぐくらいの家の車庫が開いていて、壁に鍵がならんでいた。
壁一面にいろいろな古い鍵がきれいに並んでかけてあった。
何だろうと思ってみていると、おじさんが出てきて、中まで案内していくれた。
骨董品集めが趣味のようで、広い車庫は、物であふれていた。
種類別に分けられていて、整理はされているようであった。
古い鉄製の鍋をもってきて、すごく重いことをアピールしていた。
集めるだけでなく、見せたいという気持ちが強いのだろうと思う。
《全長2500mの星型要塞のアルメイダ》
ここは中世の城跡の17〜18世紀に造られ世界でも有数の星型要塞。
13世紀ディニス王が支配下において以来、スペインとの領地争いが多くなり、その諍(いさか)い、つまり〔いざこざ〕に住民は耐えしのぶ。
19世紀にフランス軍に包囲され弾薬庫が爆発し城塞は破壊され、降伏。ポルトガルの国境の頑強な星型要塞であっても破壊されるポルトガルである。
この村のように侵入者に負ければ降伏するか逃げなければならない。
しかしユーラシア大陸の西の果てのポルトガルには攻め込まれても逃げ場がない。
逃げる先は大西洋しかない小さな国である。
ここで前回に引き続き、ポルトガル史年表を見ていて気付いた野老の【ポルトガルってどんな国?】をお楽しみください。
北側と東側のスペインとの国境線の総距離は、合わせて1234kmにもなる。
この、イチ・ニッ・サン・シッと、素直で判りやすい数値がスペインとの国境線距離であった。
この長い国境線が、ポルトガルの国境線近くの村々を縛り付け、長い苦痛の歴史を守りぬき、何代にもわたって人びとは生きて来たのだった。
この国境線の起源は、今から900年以上も前にさかのぼるかも知れない。
●【1139年・エンリケス(アフォンソ1世)国王に即位。ポルトガル建国。】
●【1143年・カスティーリャがポルトガル独立を承認。】[日本/1185年・壇の浦の戦い(平家滅亡)。]
●【1174年・エンリケス(アフォンソ1世)がイスラム教徒を排撃。】
●【1190年・ドン・サンショ1世の命でテンプル騎士団を統治下に置く。13世紀・ドン・ディニス王により城砦再建。】
4日前に訪ねた〈モンサント〉は、将に国境の村だった。
その城砦を頂点とし巨岩巨石だらけの中腹にしがみ付いて〈モンサント〉の人びとは生き抜いて来た。
しかし、〈モンサント〉はローマ帝国に続きイスラム帝国に支配され、隣国スペインにも国境を侵略された。
国境の歴史的村々も、いや、ポルトガル国家が、60年間もスペイン領だった苦渋と忍耐の歴史があったのだ。
●【1580年・ポルトガルがスペインに併合される。】
●【1640年・ポルトガルがスペインから再独立した。】
「けいの豆日記ノート」
ポルトガル語とスペイン語はよく似ているといわれている。
国の場所も隣だし、気候的にも同じようである。
でも、言葉が似ているからといって、家の作りが似ているからといって、同じではないのである。
隣どおしであるがために、領土争いで国境を責めたり攻められたりの歴史があり、仲が悪いともいえる。
今でこそ、同じユーロ圏であり、買い物など、安いほうに行ったり来たりできるが、昔は大変であったと思う。
《ポルトガルの大航海時代、来る》
夢のような金色に眩(まぶ)しく輝く時代もあったポルトガルである。
15世紀初頭からはじまり、16世紀、17世紀のポルトガルの【大航海時代】は、ブラジルやアフリカ諸国、東南アジアなど世界各地に植民地を増やし、
その地の金塊や胡椒、胡麻などの香辛料、絹織物などの繊維や文化を吸収し、ポルトガルは一躍世界のポルトガル王国になる。
その下敷きには、ポルトガルの救世主がいた。
『陸が駄目なら海しかない』と、生涯独身を貫き通し、
1438年エンリケ航海王子はポルトガル共和国の南側最西端の岬〈サグレス〉に[航海学校]を設立。
着々と彼の描く国家のロマンを現実にと進めていたのだ。
航海王子の出現がなかったら今日のポルトガルは、存在していなかったかもしれない。
●【1415年・大航海時代始まる。】
●【1420年・エンリケ航海王子がキリスト騎士団長に任命される。】
●【1438年・エンリケ航海王子がサグレスに航海学校設立。】
●【1460年・エンリケ航海王子死去。】[日本/1467年・応仁の乱。]
エンリケ航海王子の雄姿は、首都リスボンのフィゲイラ広場から15番の路面電車で30分ほど乗って行けば、ベレン地区の世界遺産地帯に着く。
[ジェロニモス修道院]やテージョ川に建つ[ベレンの塔]、そのすぐ上流の[発見のモニュメント]。
これは、1960年・エンリケ航海王子500回忌記念モニュメントだ。大海に乗り出す帆船の先頭に立ち、当時活躍したカラベル船の模型を手にする人物像が、エンリケ航海王子である。
その後ろにいるのがインド航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマなど日本に来た人物もいっぱいいて楽しめる。
15世紀からのポルトガル海外進出の【大航海時代】は、日本にとって種々の歴史的衝撃に目を見張った。
この大航海時代でポルトガルは、1543年・種子島に漂着、鉄砲伝来だ。更に、1549年・鹿児島にフランシスコ・ザビエル来航。
1569年・宣教師ルイス=フロイスが織田信長に謁見(えっけん)。
1639年・江戸幕府が鎖国を完成。
ポルトガルでは、1755年・リスボン大地震。ポルトガルで航海術を習得したコロンブスが1492年・新大陸到達。1776年・アメリカ合衆国独立を生む。
時空は、流れ流れ、2010年・日本ポルトガル修好通商条約150周年。
その150周年記念【山之内けい子 愛しのポルトガル写真展part17】を名古屋市栄地下街の壁面100m・セントラルギャラリーで開催。一挙新作150点は注目された。
2013年・日本ポルトガル友好470周年。
その470周年記念【山之内けい子 愛しのポルトガル写真展part22】を名古屋市民ギャラリー栄で開催。
そんな時代背景が【後援 ポルトガル大使館】の協力で開催された。
時空は、我らのポルトガル撮影取材旅巡りをゆっくり刻んでいてくれていたのだった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2017年7月に掲載いたしました。
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