「ポー君の旅日記」 ☆ イスラム風の闘牛場のあるリスボン14 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・19≫
=== 最終章●リスボン起点の旅 === バイブル『深夜特急』と明日は旅立ちの首都リスボン14
《約束のレストラン》
16時過ぎと言う遅い昼の食事をした。
オムレツ(6.0ユーロ)、ポテトフライ(1.5ユーロ)、プリン(2.9ユーロ)、生ビール(1.5ユーロ)、コーラ(2.4ユーロ)で、計14.3ユーロ(2002円)。
いつも一人前頼む主食。量が多いから半分ずつで充分。
ポルトガルで初めて食べた半部ずつのオムレツは、美味かった。
コーラより安いサグレス生ビールは冷え冷えで、のどを鳴らした。
ぷッは〜ッ!と声が出た。
「ゲップ!」ではない「ぷッは〜ッ!」である。しかし、ポルトガルでは〈ゲっプは、ご法度!〉である。
おいらは、炭酸物を飲むと、ゲップが出る。
そのゲップが快感であったが、ポルトガルの大学の町[コインブラ]に住む女性は「すぎさん!駄目です。気をつけてください!」と、手厳しいのだ。
彼女は、カメラマンの相棒の友人、KIMIKOさんであった。
食事後、レストラン店主に相棒は千代紙で折った折鶴をプレゼントした。
千代紙の絵模様と色彩の美しさに感動した店主のおじさんは、世界的に名高い折鶴をぜひ目の前で折って欲しいと、相棒に哀願した。
食事料金を無料にするからとも言う。
そして、強引に大きなポスターを渡された相棒は一瞬の思考後、裏地の白を利用して折鶴を作るために、長方形を正方形にしようとハサミを借りて切る。
その様子をひょうきん者の店主は、孫娘のために折鶴製作過程をビデオ撮りしてもいいかと撮りながら聞いて来た。
その顔は喜びで弾け、興奮気味であった。いやで〜す!と、言えない迫力であった。
この迫力と熱意で、何十年もここでレストラン商売を続けて来たに違いない。
目の前がケルース宮殿広場に面したこのレストランは、2階建の大きな建物で壁面がピンク色。
正面2階には赤字に白抜き文字で、RESTAURANTE。よく目立った。
見学が終わりケルース宮殿から広場に出れば、いやがうえにも看板文字が目に飛び込んできたし、巨人の作家・伊集院静さん似の白髪親父がニカッと深く笑って我らを店に引き込み歓迎してくれた。
茶目っ気があり、ひょうきん者であったから、我らは安心してこのレストランに立ち寄った。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルに行く際には、かならず、千代紙を持って行く。
ちょっとしたお礼をしたい場合に、オブリガータ(ありがとう)の言葉とともに、折鶴を折ってプレゼントするためである。
その時に折ると、人数が多かったり、時間がない場合も多いため、待ち時間などに作っておくのである。
バスの停留所や、電車の中などで折っていると、近くにいる人が興味を持ち始めてくる。
作りたての折鶴をあげたり、教えながらいっしょに作ったりして、なごやかになるのである。
千代紙は、安くて、かさばらず、きれいで、喜ばれる、ラッキーなお勧めアイテムである。
《ポルトガルの神さま》
今朝は、北の第二都市[ポルト]から首都[リスボン]まで300キロメートルを特急列車で3時間30分南下し、オリエンテ駅で下車。
重い旅行バック2個のためタクシーでリスボン北部にある闘牛場近くのホテルへ。
ホテルで荷を解き15分後には、地下鉄カンポ・グランデ駅からグリーンライン線に乗り、ロシオ駅で下車。
エスカレータで国鉄駅ホームに行き、車体にスプレーで落書きされた列車に乗り変え、6つ目のケルース駅で下車。
この一連の流れの演出はすべて相棒の警察犬並みの記憶で成立した。
というのも、2004年5月にケルース行ってから9年の月日が経過していた。
にもかかわらず、メトロの駅の地図が頭の中で描かれ、何処で乗り・何処で降り・何処で切符を買うか、その素晴らしい記憶力においらは完敗である。
まさに、〈恐れ入谷の鬼子母神・おそれいりやのきしもじん・恐れ入りました〉だった。
ケルース駅から徒歩でケルース宮殿に向かう。そして、青空の下に、広々とした広場に出る。
広場の美しさを堪能する前に、身体のでかい白髪の店主が店頭に立ち声をかけて来た。
帰りに寄ってね、セニョーラと相棒に向かって、二カッと笑った。
そのレストランで、この親父が、帰路にいっぱいの歓びを素直にくれるとは想像もしていなかった。
底抜けに親切な白髪の店主の親父さんに会えたのも、ご縁としか考えられない。
食事代は無料だと言った親父さんも、相棒が支払った昼食代は素直に受け取った。
そして、その料金を「セニョール オブリガード!」と、店を出る時セニョールであるおいらに渡してきた。
当然、セニョーラにすぐ渡す。セニョーラはひょうきん店主に向かって、『オブリガーダ!』と、笑顔で叫んだ。
白髪の親父は、得(え)たりと、嬉しそうに笑った。この親父は、我らにとって、ポルトガルの神さまのひとりとなった。
2001年9月から始まったポルトガル撮影取材ふたり旅を継続しての2013年5月旅であったが、ポルトガルの神さまはその8回目の旅を慈愛の眼差しで見守り続け、素敵な出会いを与えてくれた。
相棒が折った40センチメートルの大きな真っ白な折鶴は、入り口脇の飾り棚で今も羽ばたいているに違いない。
「けいの豆日記ノート」
リスボンのメトロは、毎回乗っているし、色別になっており、わかりやすいと思う。
駅の壁には、アズレージョ(装飾タイル)で、その駅周辺の特徴が描かれており、それを見てまわるだけでもおもしろいと思う。
駅の間隔が短いので、3駅くらいなら、歩いて移動している。
シントラやケルースは、ロシオ駅からの近郊列車で行けるので、気軽に訪れることができる町である。
数年前まで、駅のホームまで自由に入ることができたが、今は、自動改札がつけられていて、切符を購入しないと入れなくなっている。
無賃乗車を防ぐためには、しかたないことかもしれない。
《深夜特急は、今も生きている》
「私は神に会ったことがある」「君は神の愛を信じるか」と、やつぎばやに話しかけられる。
難儀してやっとスペインからポルトガルに入国し、城塞都市[エルヴァス]から首都[リスボン]行きのバスに乗る。
日本からバスだけで移動しイギリスまでのひとり旅を始めた26歳の日本人旅人も、旅途中で27歳を過ぎた。
その彼がバスの中で途中の小さな町から乗り込んだ一人の青白き青年にからまれ、一瞬戸惑う。
作家・沢木耕太郎さんの『深夜特急・第三便』の中の挿話である。
日本からイギリスまでバスだけで一人旅を続けた単行本『深夜特急・第三便』が発表されてから21年になる。
その単行本『深夜特急・第一便、第二便、第三便』は、世界旅行をしたいと望む日本の若者だけではなく、アジア諸国の青年の聖書・バイブルとして、今も綿綿として強烈に生き続けている。
その後、発刊された新潮文庫『深夜特急・1〜6』は、今でも読み継がれているベストセラーである。
単行本・第二便から第三便が発刊されるまでの10年間余りの長さに、やきもきした。第二便までは、今まで知ったこともない旅本だった。
その面白さに痺れ、堪能していた。そして、沢木耕太郎さんという男に惚れていた。
『第三便』が、なかなか我ら愛読者に届かなかった。10年間待った。
その『第三便』にポルトガル旅が入っていた。おいらは痺れた。そして、最高に面白かった。バスに乗り込んで来た若者は言う。
「なぜ君は生きているのか」「なぜ君は旅をしているのか」「神の愛を信じる時、なぜ君が旅をしているかわかるだろう」と。
この旅と彼の神とが結びついているとは思えなかった。
単行本『深夜特急・第三便』を初めて読んだとき、この画面描写が強烈過ぎて21年たった今でもふとしたことで映像的に浮かび上がる。
坂を下り、長い橋を渡ると、そこがリスボンだった。
その時、私は、彼が墓地の前から乗って来たのをおもいだし、冷たいものを感じた。
作者の、この落ちが好きだった。
もう、ふたつある。そのひとつ。
作者は1年半近くのバスの旅に終止符を打ち、ポルトガルのリスボンから日本に帰ろうと思う。
それはサン・ジョルジェ城からの眼下に広がるリスボンの町並みを見て、ユーラシア大陸のどの町より太陽の光の量の多さが違っていると思い、大砲が飾ってある城の展望台のベンチに座る。
そこで、置きっぱなしのリスボン発行の英字新聞にふと目が止まる。
出港が一週間後のリスボンからケープタウン経由で神戸・横浜に向かう貨物船が乗客を募(つの)る〈船の動静欄〉を見て、作者の心は突然揺れ出す。
乗れば、51日後に日本に着く船旅だった。
もうひとつは、ロシオ駅裏の石段を上がり、バイロ・アルト地区のファド・レストラン街に向かい、夕食を取るために食堂に入る。
ファド・レストランから流れ零(こぼ)れるファドの力強い女性の歌声を聞きながら、ひと癖あり気なおやじさんからビールをゴチになる。
セルベージャ(ビール)の小瓶のラベルに〈SAGRES〉とある。
[サグレス]とは土地の名であり、ポルトガルの南端である大西洋海岸沿いのその最西端にある岬がサグレス。
そこはイベリア半島の果てであり、ユーラシア大陸の果てでもあると知らされる。
そのサグレスにバスで、翌日行った。
色々あって、サグレスで1年半のバスだけの旅を終わりにしようかなとさえ思うのだった・・・・。
その後、フランスに行き、目的地イギリスのロンドンに行き、作者は日本に帰国した。
26歳から27歳にかけての、1年半のイギリスまでバスだけで行った、青春ひとり旅であった。
「けいの豆日記ノート」
最近は、本を読まなくなった。忙しくて、なかなか、本を読む時間が取れないからである。 (これは、言い訳かもしれないが・・・)
数年前に「テルマエ・ロマエ」という映画が公開された。ローマ時代の建築家(テルマエ技師)が現代にタイムスリップする話である。
その時は、さほど興味がなかったのだが、作者のヤマザキマリさんが、リスボンでこの原稿を書いたという話を聞いて、がぜん興味がわいてきた。
それから、ヤマザキマリさんの漫画やエッセイ集を探し始めた。
イタリア人と結婚して、風習のちがいなどに戸惑いながらも、腹が立つことも全部を笑い話にしてしまう生き方はすごいなと思った。
たまには、本を読むのもいいなと思ったのである。
《ロシオ駅》
日本の面積の4分の1の大地に、人口1064万人ほどが住むポルトガル共和国。
その首都リスボン(リスボア)は7つの丘の町と呼ばれ、その激しい起伏に富むリスボンの地形に48万人が住み、近郊も含めると240万人が暮らしている。
ケルース駅からの帰路、丘の上の住宅地を潜り抜けるトンネルを通過すると、そこがロシオ駅だ。
首都リスボンの中で最も歴史がある駅舎である。
3階建のさほど大きくない駅舎外観は風情があった。かつて、リスボン中央駅と呼ばれていた風格が残る。
正面入り口は蹄鉄(ていてつ)がイメージされたふたつの石組アーチが洒落ている。
3階の上には駅舎らしい時計塔が建ち健在だ。リスボンにはいくつもの歴史的に名高い広場がある。
16世紀末からスペインに支配されてきた屈辱の60年間だったが、1640年ポルトガル再独立を勝ち取り、その記念に造られた〈レスタウラドーレス広場〉と、
リスボンで一日中市民や観光客で賑わうドン・ペドロ4世のブロンズ像が建つ〈ロシオ広場〉のあいだに、ロシオ駅舎はある。
しかし、その機能も1957年に失う。
北に向かう大学の町[コインブラ]や第二都市[ポルト]、またスペインへの国際列車は、サンタ・アポロ―ニア駅やオリエンテ駅で発着。
ロシオ駅は近郊列車の発着駅になった。
しかし世界遺産の[シントラ]や宮殿の町[ケルース]などに行く観光者にはなくてはならない。
それにリスボンの大切な交通網メトロ(地下鉄)にもエレベーターでつながっている便利な駅舎であった。
「けいの豆日記ノート」
ロシオ駅やロシオ広場は、リスボンに来たら、必ず訪問する場所である。
何度来ても見飽きない場所である。
ロシオ広場や、隣のフィゲイラ広場のまわりには、ホテルとかも多い。
どこに行くにも、交通の便がいいし、にぎやかな広場である。
以前、たまたま通りがかった5月1日のメーデーの日にロシオ広場とフィゲイラ広場でイベントが行われていた。
ガイド本には、書いてないが、今年もあるだろうと思い、せっかくなら5月1日の前日にリスボンにつくように計画をしたのである。
予想通り、メーデーのイベントがロシオ広場で開催されていたのである。
ミーニョ地方の衣装が美しい民族踊りであった。
《ロシオ広場》
ロシオ広場からテージョ川に面したコメルシオ広場までの一帯は[バイシャ]と呼ばれ、リスボンで最も賑やかな繁華街だ。
ロシオ広場からコメルシオ広場に抜けるアウグスタ通りは道幅いっぱいにテーブルとイスが白いテントの下に並び、その椅子に座ると左右の店からウエイターが注文とりに飛び出してくる。
我らは、座ったことがない。一杯のコーラやビールを飲む時間が惜しい。
ケチケチ旅もあるが、人物を撮る撮影旅が目的の相棒は昼飯を食べる時間も惜しく、日本から持参の醤油胡麻煎餅をバリバリ食べる。
『何だ、この臭い!』はと、すれ違う人びとが振り返る程の〈醤油と胡麻の香り〉を撒き散らしながらの撮影である。
当然、おいらも昼抜きである。醤油ゴマ煎を食べながら紀行文の取材をする。
アウグスタ通りから勝利のアーチを抜けるとコメルシオ広場で、その先はテージョ川。海のように川幅が広いため、リスボンは誰しも海に面していると勘違いする。
おいらもそうだった。実は、リスボンは大西洋にそそぐテージョ川の河口から12キロメートル程上流の右岸にあり、ヨーロッパ大陸最西端の首都である。
そのリスボンを、ガイド本や記述本などは、サウダーデ(郷愁)の国と呼び、旅心を誘う地とキャッチコピーが舞い上がる。
何処が郷愁で、どこが旅心を誘い、どこか懐かしい不思議な地なのだろうかと思う。
ポルトガルの各地は我らにとっては何処も旅心を誘う。
しかし、郷愁という感情はなかなか湧きあがらない。
2001年の初ポルトガルの旅から、今回の2013年の旅で8回目になったが、リスボン14回旅でやっとおいらの心の中にも懐かしは芽生えて来た。
しかし、まだ郷愁の芽は育って来なかった。「サウダーデ」と言う素敵な言葉を、おいらも心底から言ってみたいものだ。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガル滞在の最終日のホテルは、カンポ・グランテ駅の近くにした。
早朝出発のため、モーニングが食べられないので、モーニングなしの安いホテルにした。
闘牛場は、工事中の時以来、しばらく見てないし、訪れてみたかったのもある。
闘牛は、開催日や開始時間が限定されるため、見るのは無理だと思っていたが、中を少しでも覗けたらいいと思った。
イスラム風の闘牛場の下がメトロと直結のショッピングセンターになっていた。
中央には、フードコートがあったのには、びっくりした。
フードコートとは、いろいろな店舗で注文した料理を自分で好きなテーブルに持って行って食べるセルフのコーナーである。
日本のスーパーなどでは、よくあるが、ポルトガルでのフードコートは初めて見た感じがする。
《闘牛場》
ロシオ駅のメトログリーン線の9つ目のカンポ・グランデ駅で下車した相棒はホテルに向かって明日帰国の旅行バックの荷づくりをするだろうと踏んでいたおいらの工程を無視した。
行った先は[闘牛場]だった。
確かに闘牛観戦は5月から10月と聞いていた。
スペインの闘牛は牛を刺し殺すのが売り物だが、ポルトガル闘牛は血を見ないのが売り物である。
素手で立ち向かう闘牛士が牛に投げ飛ばされるアクションが観衆を楽しませる。
最後は傷ついた雄牛が、迎えにきた数頭の雌牛と共に退場し大拍手が送られる闘牛だと、ポルトガルに住むドン・ガバチョ画伯から聞いたことがある。
今日は5月13日(月)。リスボンでは木曜日の夜が闘牛の開催日だった。
1892年に落成されたレンガ造りのイスラム風建物外観の赤いレンガ色が青空に似合う。
撮影する相棒の姿を、正面広場のベンチから眺めていた。19時30分、闘牛場上空は、まだ明るく青空である。
21時頃が夕方だった。正面から建物に向かって地下に通じる大きく口を開けた坂道を相棒が下って行くのが見えた。
ボディガード役のおいらは依頼者の行動に敏感でなければならない。
その瞬発力が求められる旅を続けて来た。
いよいよ明日の早朝8時35分発でリスボン空港から20時間余りの空の旅が始まり、ドイツのフランクフルト空港で乗り換え、名古屋のセントレア空港に帰国だ。
地下の中央が広い闘牛場になっていて、それを囲むようにスパーマーケットを始め、様々な店舗が囲む通路になっていた。
闘牛場を撮りたくて、ほんの少しの隙間から内部を相棒は撮っていた。
本物の闘牛を撮らせてやりたかったと思う。ポルトガルの旅の9回目は、何時になるか。
一日も早く、セントレア空港からリスボンに飛び立ちたいものだ。チャゥ!すぎさん。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
今回で、2013年の旅の紀行文は終了いたします。・・・・・・・今回分は2015年8月に掲載いたしました。
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