「ポー君の旅日記」 ☆ 占領された町のリスボン3 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2006紀行文・14≫
=== 第五章●リスボン起点の旅 @ === リスボン3
《今日から11月・その朝》
大学の町コインブラの朝、6時に目が覚めた。目が覚めたらもう一度眠
り返すことがポーにはできない。特に朝はできなかった。それが昔からの
習性だ。
ポルトガルに来て11日目の朝は薄暗かった。モーニングまで1時間も
ある。日本から持参した文庫本の続きを読もうと頭上のスタンドを点けた。
高村薫の《季歐》306頁を開いた。読み終えたとき何時もその頁を覚
えておくのも読書の習性だった。
モーニングのあと宿泊費の精算をし、荷は宿に預けコインブラ駅に向か
う。
今日は月はじめの水曜日。なのにバスや乗用車の行き来が少ない。今ま
での朝は道を渡るのにも注意したほど混み合っていた。
『なんか何時もと雰囲気が違うな−ァ』
相棒の呟きが耳に入った。写真家の観察力だった。
駅舎前の石段には今朝も飲みつかれた黒服の学生達であふれ、駅舎に入
るのに苦労した。
切符売り場も満員だ。この駅で初めて見た長蛇の列にポーも驚いた。
首都リスボンに移動するため切符を買いに来てまさかの人込みに遭遇だ
った。
時刻表を眺めていた相棒が長蛇の列の最後尾に並びながら、9
時12分発で行けそうだと判断した。
予定では切符を買った後、1時間ほど散策してから宿に戻り荷物を持っ
て列車に乗りこむ手筈だった。
ポーは長蛇の列に相棒を残し、歩いて5分程の宿に戻った。
部屋から大きな旅行バック2つと中型コロつきバック、それに2つのリ
ュックを3往復して階下に運び出し、宿の母娘に別れを告げ駅に向かった。
もう、へとへとのよろよろだった。
宿の狭い階段を下ろすのに旅行バックは重すぎた。
石畳にはコロは素直ではない。まっすぐ動いてくれないし、ポーの旅行
バックはコロが一つ壊されているのでなおさらだ。
5分のところを20分以上もかかってしまった。
「けいの豆日記ノート」
はじめの予定では、10時頃の列車に乗ろうと思っていた。
調べていた時刻表では、急行列車がその時間だった。
切符だけ買って、町を少し散策してからリスボンに向かおうと思っていた。
だが、コインブラ駅にいって、びっくりした。
こんなに満員の駅は、見たことがない。
とりあえず、長い列に並んだ。
列車の時間が表示されていて、アルファ(特急列車)が9時過ぎにあった。
早くリスボンにつくなら、少し高いがアルファにしようと思った。
荷物をいっしょに取りに戻ろうとも思ったが、並んでいないとキップが買えない。
次の列車まで、1時間も駅で待つのは・・・
《万聖節の祝祭日だった》
両肩にリュック、右手に相棒の旅行バックに中型コロバック、左手にポ
ーの3コロ旅行バックを転がしてやっと駅舎の石段にたどり着く。
その姿は想像しただけで滑稽であったが夢中だった。だが石段にぎっし
り座りこんでいる学生達の視線は避けたかった。(避けれる筈はない)
相棒が待つ切符売り場に行くためには、まずこの荷物を石段の上に運ば
なければならない。
ポーは絶望だった。
そんな時に思うのは「まっ、いいか!」だ。なるようになる、ではなし
に、なるようにする、それしかない。
まず重い相棒の旅行バックを運ぶことにした。汗が頬を伝わった。両肩
に1つづつリュックを背負いながら石段を一つ一つ登った。
その時だった。
黒いスーツを着た女性学生が石段から立ちあがって叫んだ。
昨夜、折り鶴をあげた〈口裂け女〉であった。その一言が起爆剤だった。
黒いマント姿の男達があっという間に3つの重いバックを運び上げ相棒が
並ぶ列まで運んでくれた。まさに〈鶴の恩返し〉であった。
勿論、ポーは〈口裂け女〉に駆け寄り握手した。頬にキスしても良かっ
たが、かろうじて押さえた。心からの感謝を込めて、だったが・・・。
その娘が一輪の白い菊を差出し「今日は、☆△※」と言った。
ポーは、☆△※の発音の意味が判らなかった。ただ市場で抱えきれない
程の菊を買いあさっていたおばさん達の姿が浮かび上がった。
その時ポーは、「オブリガード!ありがとう!」しか云えなかった。
ポーはその娘にメモ紙を渡し、☆△※のスペルを書いてもらった。
メモ紙には小さな字で〈Dia de Todos os Santos〉と書いてあった。
相棒の勘で予定通りの9時12分発の列車に乗れた。
車内は満員。コインブラB駅まで座れなかった。
10分後、コインブラB駅で降り、予定のリスボン行きの列車に乗れた。
9時22分発の特急だ。6号車56番と58番席。乗車券と特急券、座
席指定券でひとり3000円。それで南下した。日本で言うと距離的には
浜松〜東京間だろうか。
ポーは早速リュックからポ日辞書を出してメモ紙に挑戦した。
〈すべての聖人を祝う日〉と読めた。そうか、今日はすべてのカトリッ
ク聖人をお祝いする日なのだ。ポルトガルでは97%がカトリックだった。
11月1日はポルトガルの祝祭日〈万聖節〉だと気づいた。
日本の〈お彼岸〉みたいな日なのだろうか。だから娘が菊1輪くれたの
も、抱えきれない程の菊の花束を買っていったおばさん達の姿にも納得で
きた。
また、祭日を利用して学生達は家路にと切符を買うので、満員の意味も
判った。ただ不思議なのは、ポルトガルでもお盆の花が菊だったことだ。
明日は死んだ祖先を迎える日だという。日本と同じだ。仏壇にいっぱい
菊をお飾りしてだ。(ポルトガルには仏壇はないけれど・・・)
「けいの豆日記ノート」
コインブラの駅は、都市によくある引き込み線である。
リスボンから、ポルトまでの本線は、郊外のコインブラB駅に止まる。
町にあるコインブラ駅に行くには、乗り換えなくてはならない。
大都市のリスボンでもポルトでもこの引き込み線である。
だから、終着駅である町の中の駅で待っていても、いつまでたっても目的の列車は来ないのである。
このことを知らなくて、以前にポルトで失敗したことがある。
気がついて次の駅に行った時には、すでに特急列車に乗り遅れてしまったのだった。
《なつかしのリスボン》
2時間ちょっとで首都リスボンの終点駅サンタ・アポロ−二ア駅に着く。
普通列車だと3時間。特急の3000円が効いた。でも、安い。
曇り空の中に青空が張り出してきたリスボンだった。
荷物が多いので予約しておいた宿まではタクシーしかない。5ユーロ。
800円。荷物代も含まれるので、宿まで3000m以上もあったが日本
に比べれば格安だ。
リスボンはポルトガル語で「りシュボーア」と発音。大西洋に注ぐテージョ
川河口に開けた町で、ヨーロッパ大陸最西端の首都だ。
7つの丘の都と呼ばれるほど坂の多い66万人都市であり、世界遺産が
静かに眠る古都であった。
相棒とポーにとっては5回目の訪問。珍道中の思い出が散りばめられた
町だった。
宿は、レシデンシャル・アレグリア。
ポルトガルで最も有名なりベルダーデ通りにある地下鉄アヴェニ
−ダ駅を西に入った警察署の隣りにあるさほど大きくはないが小綺麗なホテルである。
相棒がガイド本「地球の歩き方」で捜した安ホテルだ。FAXで予約しておいた。
目の前には小さなアレグリア広場があり大きな木が茂り、その木に咲く
赤い花が散り始めていて駐車している車のフロントガラスを花びらで山積みにさせていた。
荷を解いた。まだ昼前の11時半だ。10分後には宿を飛び出していた。
「けいの豆日記ノート」
リスボンの町は、ポルトガルに行く時には、かならず泊まらなければならない町だ。
行きの飛行機は、夜中に到着し、帰りの飛行機は早朝である。
リスボンには、ホテルはたくさんあるが、他の地域に比べて高い。
リッチなホテルに泊まるなら、迷うほどたくさんある。
だが、なんせお金がないので経済的なホテルしか泊まれない。
ホテルより格下のペンサオン(ホテルより小規模な宿泊施設)、
またはレシデンカル(レストランのないペンサオン)で探している。
同じ値段なら、場所を考える。
やはり、地下鉄の駅に近いところのほうが、なにかと便利だ。
毎回、違うホテルを探すようにいている。
部屋やサービスや朝食内容は、泊まってみないとわからないからだ。
宿から大樹の花咲く公園を右に湾曲して下り、りべルダーデ通りに出て
南下した。ポルトガルのシャンゼりゼと呼ばれているらしいが、相棒もポ
ーもフランスに行ったことがないから知らない。(あった!来るときフラ
ンスのドゴール空港で乗り換えた。あの3時間ほど)
1775年のポルトガル大地震の後造りなおされた大通りだとガイド本
で知る。幅90m、長さ1500mの通りはプラタナスが生い茂り、中央
が公園になっていて、大樹のプラタナスの太い幹は空をおおう。緑の伸び
やかな葉を楽しめるようにいくつものベンチが置かれ老人たちの憩いの場
にもなっている。
葉陰の間に青い空が垣間見れ、そよぐ風が大木の葉をゆったり動かして
いた。今日から11月だと言うのに、まるで春を感じさせるそよ風が頬を伝
わり過ぎ去っていくのが、ポーには心地よかった。
この通りにはオフィスがあり、日本大使館が入っているビルもある。
5回も帰国する前に立ち寄って係の女性に資料をもらい、残り物のゴマ
煎餅やイカの燻製、柿の種などをもらっていただいた。でも、彼女達は2
〜3年ほどで転勤してしまうので悲しかった。せめて、その国の大使館に
日本から派遣されたのなら、5年は根を張ってほしいとポーは思う。
でないと、せっかく現地の人々と知り会え心が通じた矢先の帰国では、
彼女達若い者の芽〈希望と友好と夢〉を摘んでしまうのではないかと感じた。
外務省の担当係のおじさん達、そこんところ! よろしく頼むぜ!
りベルダーデ通りを更に南下した。
大木が消え、大きな広場に出た。レスタウラドーレス広場だった。
16世紀末からスペインに支配された60年の屈辱の広場だ。その広場
を、1640年に再独立し勝ち取ったという広場に来た。
レスタウラドーレスとは〈復興者たち〉という意味だ。広場には30m
のオべりクスの像が立っていた。相棒のシャッターが鳴っていた。
広場からチキンの丸焼きの香りが漂って来た路地に入った。
石畳の路地に張り出したレストランのテーブルに相棒が座りこんだ。
もう、お腹が待てなかった。相棒が嬉嬉として店から飛び出してきたお
じさんに注文だ。
『チキン、半分! 1人前よ!』
おじさんの顔が怪訝さでゆがむ。(2人で半分だって、それも1人前だと)
1人前5・5ユーロ(880円)だった。
美味しいチキンの香りが来た。半分の焼きたてチキンだけだった。
米も揚げたポテトもついていなかった。普通は揚げポテトが山盛りで付い
て来るはずなのに・・・。
相棒の想定外の皿の上のチキン半分だった。
2人で半分のチキンをかわるがわる食べる姿に周りの客の視線が焼きつく
のを2人は感じた。
『まっ、いいか!』 相棒の一言で食べ続けた。
美味かったが、当然お腹には〈満足感〉がなかった。切り裂いて食べるチ
キンの姿が小さくなるほど、ケチったことを後悔したがポーの目の合図で満
足満足!の日本語で、2人は平然さを交わし思わず声をあげて笑った。
周りの客も判ってくれたのか、声をあげて笑った。
その笑いを裏づけてくれたのが隣りのアメリカ人の老夫婦の仕草だった。
そっと、婦人が夫の焼き立ての1羽を相棒の皿に瞬間移動してくれたこと
だ。
よほど、貧乏な日本人だと思ってくれたに違いない。感謝感謝!の昼食で
あった。つまり、相棒とポーは1羽半の美味しい焼きたてふっくらチキンを
満喫できたのだった。(みっともないと、いわんといてくださいませ)
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルに住んでいる日本人に聞いた話である。
食事は、1人前を取って食べるのが常識とのこと。
半分に分けるということはしない。
だから、チキンの1匹を半分ずつ食べるのでなく、チキン半分を二つ頼むのである。
たくさんの種類の料理をみんなで少しずつ食べることはしないのである。
いろいろな味を楽しめたほうがいいと思うのだが・・・
まあ、チキン半分を半分ずつ食べるというのは、ラーメン1杯をふたりで食べるようなもので、
変に思われてもしかたがないかもしれない。
《首都リスボンで中村俊輔コール》
レストランが並ぶ狭い路地の先に、ロシオ広場がある。
「ナンジャ、これは!」ポーの一声だった。
何百人もの白とグリーンの縞模様Tシャツ姿の、背丈もある頑強な男達が
大きな紙コップビールをあおっていた。そんな群がる男達の群集に遭遇した。
このロシオ広場の男達の世界は異様だった。
深入りするなと相棒に忠言したポーだった。だが相棒はそんな世界が好き
だった。小さな身体が報道カメラマンに変身していた。恐れを知らないジャ
ジャ馬だった。ポーは恐る恐る相棒の後を追う。
ブレーキのきかない馬をこの男達の群れの中に放ち見失っても赤い帽子を
かぶせることで何とか気休めの目印にはなる。
それが海外でも、撮影をする時の標的印にしていた。
相棒がTシャツ群集の中に潜りこんでも赤い帽子は目立ち、ガードが出来
た。
《ナカムーラ! ナカムーラ!》の歓声の中に、何時も相棒の姿があった。
頑丈な男達は2008年開催のヨーロッパサッカー選出予選のためにイギ
リスのスコットランドから来た「セルティック」応援軍団であった。
だから、相棒が群れの中を撮影しながら歩く度に、ナカムーラ!(中村俊
輔)コールが起こった。俊輔はイギリスのスコットランドでは英雄だった。
何度も俊介の活躍で勝利に導いていた。
【中村俊輔(28)セルティック所属は、オシム・ジャパン2度目の合流に
向けて「自分の色を出すためにはどうしなければいけないのか分かった」と
語っていると、2007年5月28日の新聞で決意を述べている】
その俊輔さんが所属するセルティック応援団がポルトガルとの今夕ある選
抜試合のためにやってきたのだ。これだけの人数の応援団が自国チーム敗退
にでもなればどんな騒動勃発にならないとも限らない。公園の周囲を警察の
パトカーも息を潜め待機していた。
噴水の水飛沫が日差しに輝き、その回りは上半身裸の男達が声高に話し、
サッカーボールを蹴り合い、いつもなら観光客であふれるロシオ広場はスコ
ットランド人に占領されていた。
暢気なのは、相棒ただひとりであった。
「けいの豆日記ノート」
これは、すごい光景であった。
ロシオ広場でのイベントはよくあることだが、サポーターの集まりに遭遇するなんて、
なんてラッキーなのでしょうか。
サッカーは国民的スポーツでだれもが好きである。
日本の野球好きと同じようなことかもしれない。
それより、もっと情熱的かもしれない。
負けると暴動がおきたりすることもあるという。
応援チームが違うだけで、陽気な人がたくさんいることだけは、たしかだ。
ロシオ広場周辺は、ポルトガルでなく、スコットランドであった。
イギリスでない。(イギリスというと両方から、怒られるから注意である。)
よっぱらい集団が騒いでいた。
日本人でラッキーだったのかもしれない。
中村俊輔ってその時は知らなかったが、おかげでとても友好的であった。
(スポーツのことあんまり知らなくて申し訳ないです・・・)
ロシオ広場からテージョ川の川岸にあるコメルシオ広場に通じる500m
ほどのアウグスダ通りも、石畳にテーブルと椅子が並び、両サイドのレスト
ランから給仕のおじさんが忙しく大ジョッキを運んでいる。
客は勿論、白と緑縞のTシャツを着た応援団。レストランは悲鳴の歓喜で
てんてこ舞いであった。
チュウブ風船やのおじさんも思わぬ売れ行きにニコニコ顔だ。キュキュと
ひねって犬や鉢巻など色とりどり。盆と正月が一緒に来た忙しさだ。
小さな犬の首にコイン入れを下げさせアコーデオンを弾く少年もいた。
勝利のアーチをくぐるとコメルシオ広場だった。
広場の先に海と間違えるほど広いテージョ川がキラキラ輝いていた。
《路面電車を追う》
コメルシオ広場のバイシャ地区からサン・ジョルジェ城があるアルファマ
地区まで路面電車を追いかけ撮影することにした。
直線で500mはあるが路地から路地へ石畳の坂道を登り路面電車を追跡
だ。ポイントはいくつかあった。太陽光線の角度も計算した。
なにせ路面電車は狭い路地を走り抜けるため日陰で車体の色彩がつぶれて
しまう。だから、3000mは軽く歩くことになる。地図に強い相棒は太陽
の位置を確かめながら路地から路地を抜けていく。ポーは後を追っていけば
いい。でも、ちょっと油断すると相棒の姿を見失う。携帯がないので油断は
怖い。推理して後を追う。路地の先にちらり赤い帽子を目の端で捕らえると
ホッとする。
「けいの豆日記ノート」
リスボンの路面電車は何度見ても撮ってしまう。
同じようなカットなのに、また撮ってしまう。
電車が通るまで、待っていて、何台みてもきりがない。
なぜなんだろう。
それだけ、興味があるということなのだろうか。
世界遺産の建物は、すばらしいと思う。
でも、建物は、動かない。
何種類か撮れば、終わりである。
その点、路面電車は、動いているし、バックの風景もかわってくる。
同じように見えても違うのである。
最終日は、1日乗車券を買って、路面電車乗り放題の予定である。
遊園地の電車に乗っている感じだ。
いつものパターンで、乗り物に乗ると眠くなる。
せっかく路面電車に乗ったのに寝ていてはいけないと思うのだが・・・
カテドラルの左側から正面前を右折して下ってくる路面電車を撮る。
カテドラルに太陽が当り、日差しをいっぱい受けて下ってくる路面電車は
いい。シャターチャンスで、路面電車がカテドラルのファサード(正面入口)
から飛び出してきたみたいに撮りたいものだ。
フィルムなので現像してみないと分からないのがいい。デジカメでは、そ
の楽しみがない。(しかし、フィルムの時代からデジカメ時代に移行するこ
とになってしまうだろうとは思うが・・・・)
5時を過ぎていた。路面電車に乗って帰れば楽だが、歩かないといい出会
がない。相棒の撮影時の思いだった。
路面電車も長い影を引きずって坂道を下っていった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・2008年11月掲載
|