《コ二ンブリガはローマ遺跡》
今日から冬タイムになった。
時計の針を1時間戻す。(日本からの時差、9時間が8時間になった)
1時間ポルトガルにいられる時間が増えて得した気分になる。
相棒の感想は違っていた。1時間ゆっくり眠れるで、あった。
コニンブリガ行きのバスは9時05分発を前日確認し、モーニングを早
めにしてもらったのに、10月29日(日)のコニンブリガ行きのバスは、
何故か9時40分発だった。それも、日曜日は午前中は1便のみ。1.9
ユーロ(ガイド本は1.5ユーロ)だ。0.4ユーロ(60円)の違いでも
ショックだった。旅の羅針盤の「地球の歩き方」が頼りだったからだ。
(1年先までの07年版ガイド本だが、時の流れは歩調より早いのは知っ
てはいるが・・・)
コインブラの町からからコニンブリガの町までは相棒と二人旅だった。
観光客が少ない時期にしても貸切りバス状態だ。
車窓には、青空が広がっている。
40分もかからないでコニンブリガに着いた。小さな広場は自家用車ば
かり。バスで来たのは我らだけだが、真夏を思わせる太陽が迎えてくれた。
そして、かつてローマ帝国の都市であった〈コニンブリガの遺跡〉が目
の前に展開した。
都市が築かれたのは1世紀だったという。リスボンとブラガを結ぶ交通
の要だったが5世紀に滅びたという。オリーブの木々の間に、建物の門や
柱の跡などが掘り起こされたポルトガル最古のローマ遺跡を歩き回った。
(紀元前2世紀に造られ、紀元前25年に最盛期を迎え5世紀に滅びたと
いう資料もあるが・・・)
ポルトガル最大規模のローマ遺跡コニンブリガは現在も発掘中であった。
広さ13ヘクタール。広かった。浴槽や水道施設などが発掘されている。
モザイクの床の、その模様絵図の繊細さに息を呑んで見ほれた。
文明の質の高さを堪能できた。(日曜日の午前中は無料。だから、行った)
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルのローカルバスは、土日祭日運休のことが多い。
走っていても極端に本数が少なくなる。
今回行く予定のブサコ行きのバスは休日運休だった。
コニンブリガまで、平日なら9時のバスで行き、13時のバスで帰ることができる。
日曜は、9時半のバスで行くと、18時のバスまでない。
よっぽどの遺跡好きでない限り、遺跡しかないところで、8時間も時間をつぶすことはできない。
途中のコンデイシャまでは、数本のバスはある。
2kmくらいのの距離らしいので、歩いて行くことにしていた。
地図もないので、バスが走っていく道順を覚えるしかない。
寝てなんていられなかった。
《天使に出会ったコンディシャ》
ヘルメットをかぶった母親が5歳くらいの娘にもヘルメットをかぶせ自
転車で仲良く二人乗りで帰って行った。ここから帰るバスは夕方までない。
隣り町のコンディシャまで行けば、帰りのコインブラ行きのバスはある。
コインブラのバス停で昨日調べ済みだ。だから歩くしかない。タクシー
という手もあるが4ユーロ(600円)がもったいない。
太陽は容赦なく照り続けている。
来るとき停まったコンディシャの町まで3キロほど。来るとき車窓から
見届けてきた道を相棒の〈犬〉感触を頼りに歩いた。
高速道路みたいな道路に出た。走ってくる車に注意しながら横断し、歩
道もない路肩を相棒は平然とポーは冷や冷やしながら歩き続ける。
『あっ、ここよ、ここから、この高速道を左折した道よ!』
500mも歩きその道に入ると、民家が点々と見え出す。太陽に照り輝
く道は焼け付くように白かった。
歩けど歩けど、コンディシャの町が見えない。相棒が間違えたかとポー
が思った時、教会の鐘が見えた。あそこに行けば町の中心だ。まさに相棒
は犬だった。
「けいの豆日記ノート」
行きのバスの中から、道順をしっかり覚えたつもりだ。
コニンブリガから、まっすぐの道を歩いていくと、車道にぶつかった。
歩道はついていない。
ここは、高速道路なのだろうか。
コンデイシャの町の曲がり角の看板がみえた。
とりあえず、そこまで、高速道路を早足で歩くことにした。
だれかが通報しないうちに・・・
高速道路をぬけて普通の道を歩くとほっとした。
あとからよく見ると、高速道路の下に歩行者専用のトンネルが作ってあった。
バスの走った道しか知らなかったのでしかたないことかも。
コンディシャの町は小さかったが中世の雰囲気が残っていた。
万歩計を見た。6828歩も歩いていた。50分間の早足だった。
バス停は見つからなかったが、疲れたし、腹が減っていた。1時過ぎだ。
公園前の小さなレストランに入った。内部は小奇麗で意外と客が多い日曜
日の昼食どきだった。
料理注文は相棒にまかせポーはバス停捜しで店を出た。時間を有効に使
いたかった。歩いてきたおじいさんにバス停を聞いた。100m先にバス
停があった。バス停で3人の女性が待っていた。
おばあちゃんと孫娘2人の笑顔が素晴らしい。姉は12歳、妹は7歳だ
と言った。その姉がバス停についている時刻表でコインブラ行きは2時だ
と教えてくれた。
『オブリガード! ありがとう!』とポー。
笑顔の妹が『ありがとう!』と口真似た。ボン!(グッド!)というと
少女は嬉しそうにまぶしく微笑んだ。
レストランに戻ると料理が来ていた。揚げジャガに焼肉とライスが一皿
に山盛り。冷えたビンのサグレスビールが嬉しい。咽喉越し最高だった。
肉は豚肉だと思うが、何の肉かわからない。相棒と美味くなかったが腹
に収める。
バス出発5分前にバス停に行くと、あの姉妹とおばあちゃんがいた。
1時間も前からこの暑い日差しの中で待っていたのだ。
相棒には食事をしながら可愛い姉妹との出逢いを話していた。
『ポー、この子たちね!』 ポーは頷いた。
姉妹はまた素晴らしい笑顔を返してくれる。相棒はふたりに〈折り鶴〉
を1羽づつあげた。姉妹の瞳が更に大きくなって輝いた。
少女達もバスに乗りこみコインブラまで一緒だった。おばあちゃんと孫
娘達は日曜日を利用しておばあちゃんの故郷に遊びに来た帰りなのだろう
か。聞けば判ることだがそこまでの会話に自信がなかった。
3時05分、コインブラのモンデゴ川沿いのバス停に着く。
バスを降りた時、おばあちゃんと姉妹が折り鶴を手にかざし待っていた。
そして、妹が言った。笑顔いっぱいに『ありがとう!』と。
まさに、弾けた微笑みの天使だ。
その瞬時、相棒のシャッターが鳴っていた。
生涯忘れられないであろう、天使の微笑みだった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルに行くと、ポルトガル語が話せればいいと思う。
何を言っているのか、何を伝えたいのか、わかるといいと思う。
ポルトガルでは、日本に帰ってから、ポルトガル語を勉強しようと思う。
でも、日本に帰ると、忙しさにまぎれてすっかり忘れてしまう。
また行く間際になってあわてることになる。
今まで、わからなくも、なんとかなってきた。
それだけ、皆さんが親切なのだろうと思う。
言葉がわからなくても、行けてしまうポルトガルだから、いつまでたっても覚えないのだろうか。
《コインブラのシンボル 旧大学》
あのメインストリートは日曜日ですべて閉店だったが、あのアルメディ
−ナ門から大学に向かった。石段の門をくぐると白い背中がまぶしい女性
が絵葉書を店先で選んでいた。北欧の観光客に違いない。
この時期、素肌を惜しげもなく太陽にさらすのは北欧の観光客だ。
4年前、若い夫婦にシントラのムーア城跡で会ったことを思い出させて
くれた。長袖を着込んだ相棒が素肌丸出しの2人を撮り、アドレス交換を
した。太陽はありがたい恵みだと夫が言った。
そんな太陽が天空に輝く午後3時、10月末のポルトガルのコインブラ
だった。
4年前、軽々と昇った石畳の急坂を行く。キツイ。4年間でこれほど脚
力が落ちてしまうものかと思い相棒の後を追った。
靴を替えたせいかも知れない。石畳は登山道と同じだと2回目のポルト
ガル紀行から登山靴にしたが、3年間使った登山靴の靴底がすりへってし
まい急きょ最新のジョッキング靴を購入した。それが足肌に合わなかった
のかも知れない。
打ち鳴らす相棒のシャター音がはるか先の路地で聞こえるほど静かだ。
旧カテドラル当りかもしれない。
足が弱っていることを感じて登る。腰のあたりに痛みが走る。それほど
の急坂の狭い石畳であった。
真っ青な空を背景に浮かぶ旧カテドラルは、初代ポルトガル国王アフォ
ンソ・エンリケスが1162年に建立したロマネスク様式の大聖堂だった。
かつては要塞も兼ねていたと言うだけあってどっしりしたたたずまいだ。
ファサード(正面入り口)の曲線景観が美しく、ポーは好きだった。
そのファサードの前を過ぎ、更に坂道を登ると〈鉄の門〉にでる。
この門が見ものだ。ポルタ・フェレアと呼ばれ1634年に造られたさ
ほど大きくはないが品格を持った門で医学、法学、神学、司教学などかつ
ての学部を代表する彫刻が刻み込んだ美しい門であった。
〈鉄の門〉の中は広い中庭になっていて、三方が歴史的な旧大学の建物
がある。4年前、大学のシンボルと言うよりコインブラのシンボルである
〈時計搭〉の前で「折り鶴教室」を相棒が開いた。
偶然、社会見学できていた高校生の一群と出会い、引率していた女の先
生の要望から始まった。東京で3年間大学で日本の歴史を学んでいたとき
知った「折り鶴」が忘れられないから、ぜひ生徒達に折り方を教えて欲しい
と相棒が頼まれた。
手持ちの千代紙を20人ほどに渡し「折り鶴教室」が始まる。1時間近く
も根気よくだ。生徒達が1羽折れる度に歓声が起こる。笑顔の波が広がる
その光景は今も忘れられない出来事であった。
「けいの豆日記ノート」
以前にもコインブラの町には、来たことがある。
新しい大学のほうばかりをうろうろしていた。
教室にも入ってみて、黒板にも書いてみた。
タコの巨大オブジェも見つけた。
新カテドラルの入り口で結婚式のライスシャワーをみつけて喜んでいた。
観光では、行かないようなところばかり見ていた。
なのに、肝心の旧大学の中をぜんぜんみていなかった。
あんなに有名な図書館も見落としていた。
だから、今回は、ちゃんと見ようと思った。
その門を入って右側の建物の2階で入場券を買おうと思ったら係の人に、
門の後方にある建物で買えという。4年前とは違っていたが行った。遠か
った。なんでこんなに離れたところにしたのか。しかも6ユーロだという。
ガイド本を見た。4ユーロと書いてある。2ユーロも上がっていた。
『高すぎるよ、900円!だって!』
相棒の雄叫びだった。日曜日は無料のところが多いのに〈旧大学〉見物
はお金をとった。コインブラの唯一の観光スポットだから仕方ないかとあ
きらめる。
観光スポットと言ったが、ここは見ごたえがあった。2時間堪能した。
4年前に来た時は中庭で「折り鶴教室」だけで閉館になってしまったた
め何も見られなかった。で、再度来てみようと思ったのだ。
思ってもみなかった6ユーロは高かったが、それだけ撮影取材に価値が
あるものと信じ入場した。
門を入ると右手に扇形の石段があるラテン回廊という建物があり、その
左に大広間、試験の間、そしてあの時計搭が高く高くそびえている。そこ
がカタカナのコの字の一角で、美術館、礼拝堂、図書館と建物が連なる。
門はもう一方のコの字の下の角で、その横がかつての教室になっていた。
大広間は別名〈帽子の間〉といい、2階通路から大広間を見ると天井に
は100以上もの金銀で描かれた模様に圧倒される。壁は濃いピンク色で
その中に歴代の王の肖像画が整然と並び飾られている。この広間は大学の
儀式に使われていると聞く。その狭い2階の通路を進むと、バルコニーに
出た。ウオ−ッ!と思わず絶叫したくなるほどのコインブラ俯瞰図が眼下
に飛びこんできた。オレンジの屋根が連なる先にモンデゴ川の川面が空の
青さをそのまま吸収して真っ青であった。
圧巻は、1724年に建てられた図書館である。
国王ジョアン5世による図書館内部は黄金の絵画を見る思いであった。
天井の高い館内は暗く、明りは数少ない小さな窓から差し込む陽射しだ
けの神秘的な空間であった。3階ほどある空間には蔵書が整然と並ぶ本棚
が占め、息を潜めていた。まるで美しい造形物を見ている思いだった。
8世紀におよぶ30万冊が収められると案内人が説明する声が蔵書の中
に吸い込まれていくようだ。蔵書を開けるのは特別な人しか閲覧できない
らしい。古書のかびくさい臭いがしないのはどうしてなのだろうか。それ
が不思議であった。
石畳の坂道を相棒が急ぎ足でコインブラ大学の丘から下っていった。
夕焼けが迫っていた。4年前に出会ったモンデゴ川の対岸の丘の上にあ
る新サンタ・クララ修道院に沈む夕日を撮ったポイントに相棒は走ってい
たのだ。4年前のことなどすっかり忘れていたポーだった。
相棒の地理勘には敬意だ。4年前と同じ場所で夕日を相棒は撮った。
コインブラの空が真っ赤に染まっていった。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・2008年8月掲載