「ポー君の旅日記」 ☆ ポルトガル誕生の地のギマランイス2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2013紀行文・14≫
=== 第六章●ポルト起点の旅 === ポルトガル誕生の地のギマランイス2
《ポルトガル映画》
2013年9月14日から東京・大阪・名古屋・京都と全国の各都市で次々に上映されるポルトガル映画のロードショーが始まった。
上映作品は【ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区】。
2001年にポルトガルの世界遺産になった古都[ギマランイス]を舞台に、ヨーロッパ映画界を代表する4人の監督が共作したオムニバス作品である。
この映画を見た俳優・辰巳琢郎さんは『こんなオムニバスは見たことがない。
身震いするようなサウダーデ。世界一多様なポルトガルワインのごとき、この余韻(よいん)の長さは何だろう』と、この映画を評した。
その言葉は、相棒が撮った写真が使われた映画パンフレッドに載った文面である。
実は、今年(2013年)の4月30日から5月16日まで、8回目のポルトガル撮影取材旅を続け、その帰国後に映画配給会社から、我が事務局〈オフィスpo〉にメールが入った。
要約すると、「ギマランイスの映画のチラシ・パンフレットに使うギマランイスの写真を提供してもらえないか。
東京の在ポルトガル大使館に電話をしたら、ポルトガルの写真なら愛知県知多半島の大府市在住の、ポルトガルの写真しか撮らない山之内けい子さんがいい。
それもポルトガルの撮影取材から帰国したばかりだし、今回はギマランイスにも行って来たはず」と、紹介されたという。
で、配給会社の希望する写真を10点ほど送り、その中ら何点か使っていただく。
チラシ・パンフレットができ、名古屋での試写会にも招待され、その映画も観た。
「けいの豆日記ノート」
正直、ギマランイスの映画は、よくわからなかった。
私の単純な脳では、理解できなかったのだと思う。
でも、パンフレットやポスターに写真を使っていただいて、光栄だと思う。
この年にギマランイスに行かなければ、10年前のフィルムの画像しかなかった。
やはり、フィルムをスキャンするのと解像度がぜんぜん違うのである。
それに今回は晴れであったので、空が青いのである。
空が白いのと青いのとでは、印象がぜんぜん違うものである。
《白霧のち快晴》
さて、そんな出会いが待っていようとは、想像もしていなかった、5月10日・金曜日の[ポルト]の朝だった。
サン・ベント駅の壁面いっぱいのアズレージョ(装飾タイル画)の駅舎ホールから、改札口もないアーチをくぐり、プラットホームに止まっている始発列車に、切符も買わず乗り込んだ。
相棒流乗車だった。途中駅から切符なしだと罰金刑があることは知っていたが、始発駅だし車掌もすぐ検札に来てくれるから問題はなかった。
8時20分発の走り去る車窓風景は、まっ白な霧の中だった。朝霧は心配ない。晴れた青空の下でギマランイスを堪能できるだろう。
相棒が調べたギマランイス着は、9時39分だ。1時間19分の乗車時間を相棒は、無駄にはしない。
発車10分後には、ガラガラの対面座席に身体を折り曲げて、沈んだ。名古屋からポルトガル旅に出て14日目である。
疲れのピークか。いやいや、そのご心配は御無用。特にバス移動時は、寝つきが早い。次が列車。満員の路面電車に乗ってもウトウト状態の相棒。
揺れる乗り物の振動周波数が眠り脳細胞と共鳴し易い体質だとすれば、一度病院で診(み)てもらう必要がありそうだ。
宇宙人かも知れない相棒は、しっかり1時間は寝てギマランイス駅に着いた。
「けいの豆日記ノート」
ポルトのサン・ベント駅からアヴェイロ行き、ブラガ行き、ギマランイス行きなどの近郊列車が出ている。
リスボンからの特急列車が止まるカンパニャン駅まで行かなくても、引き込み線であるサン・ベント駅から乗れるので便利である。
この引き込み線というのが曲者で、今まで何度か失敗している。
リスボンまでのアルファ号に乗ろうと思って、時間までサン・ベント駅で待っていて乗り過ごしたりということもあった。
リスボン、ポルト、コインブラなど、大きな都市には、引き込み線があるので、始発駅はしっかりとチェックしたほうがいい。
《遥かなる坂道》
2004年4月16日に、ポルトガル4回目のフィルム時代の撮影取材旅でギマランイスに来ていた。
その時は第二都市[ポルト]からバスで来て、ギマランイス大型ショッピングセンターに隣接するバスターミナルで降りて、石畳の坂道を登り、モレイナ・デ・サ広場に入った。
その、2年前の2002年もバスで来たが土砂降りであった。バス停近くの常設市場で雨宿りをして、とんぼ帰りでポルトに引き返していた。
正確には3回目のギマランイスであるが、今回はギマランイス2回目とした。
[ギマランイス]の鉄道駅舎は、小高い丘の上にあった。相棒は駅舎を出て左手に歩き、一つ目の角を右手に曲がった。
まるで昨日来た道を曲がったようにだ。おいらは、後を追いながら聞いた。「どうしてこの道だと分かったの?」
『読んでおきなよ、ガイド本(地球の歩き方)をさ。前に来た時はバス、今度は鉄道だよ!』。
相棒は寝起きが悪かった。黙って付いて行こう、とおいらは思う。
右に曲がると、急な石畳の坂道だった。そして、遥か坂下にギマランイスの古都がぎっしり詰まって見えた。
坂の両サイドには見知らぬ奇妙な街路樹が青空に高く伸び、道の左右には遥か下まで自家用車が連なって駐車していた。
ポルトガルの駐車場は道路端である。この狭くなった石畳の道路が坂下の遥か先のギラマンイスの町まで延びていた。
坂道を下ればきっと今日も素敵な触れ合いが待ち受けてくれているに違いないと、相棒とおいらは直感した。それが、旅の醍醐味だった。
「けいの豆日記ノート」
過去2回、ギマランイスまで、バスを使っていた。
その時は、鉄道が工事中であり、途中までしか行かないのでバスを使ったほうがいいとガイド本に書いてあったからである。
ブラガとアマランテも工事中であったので、バスを使った。
正確な時間が必要だったので、前日にバスターミナルまで行って明日の時間を確認した。
1時間に1本あればいいほうなので、乗り遅れることは避けたかった。
帰りのバスは、時間をつぶす場所があるため、大丈夫であった。
ギマランイスのバスターミナルが大型スーパーであるためである。
《世界遺産の歴史地区》
坂の途中右手に鏡を使った斬新なオブジェの素敵な噴水公園があった。
噴水と大きな一枚鏡とイラスト人物画を組み込んだ、初めて見る大型アートだった。
流れ落ちる水飛沫(みずしぶき)が大型一枚鏡に映像化され、その水飛沫の中に女性人物イラスト画が浮き上がる仕掛けである。
幻想的な動画世界であった。財政危機のEU(欧州連合)に加盟するポルトガルを旅しているのに、目にする現実のポルトガルは今回も我らを楽しませてくれた。
坂を下って行くと、街がどんどん大きくなり古都の香りもしてきた。甘酸っぱい香りであった。
おいらは方向音痴であったが、臭覚は自画自賛ではあるが優れていた。
その香りの源は街中に入ってから知った。駅舎から坂道を600メートルほど下ると広場に出た。
トゥリズモ(観光案内所)で地図と資料を貰う。係員が広げた地図を見ながら相棒は説明を受ける。
広場は2004年に初めてバスターミナルから坂道を登って入ったモレイナ・デ・サ広場だった。
その先のレストランやカフェなどで賑わい、人びとも多いトウラル広場に行く。
ギマランイスで一番賑やかな広場である。この広場に桃色の八重桜の花が咲いていた。
『八重桜かな〜?』と相棒。おいらにもそれしか浮かばなかった。
この広場から旧市街地に入る城壁に【AQUT NASCEU PORTUGAL(ここに ポルトガル 誕生す)】の文字が白く青空のもとに刻まれていた。
ギマランイスは、人口わずか2万人ちょっとの地だが、初代ポルトガル国王アフォンソ・エンリケス生誕の地であった。
(前述したオム二バス映画にも、この地の現在の映像がふんだんに出て来た)
「けいの豆日記ノート」
今回、初めてギマランイスまで近郊列車を使うことにした。
ガイド本には、地図の中に列車の駅の記載がなかった。
町からかなり外れているためである。
ギリギリ地図に入っていた大型スーパーのあるバスターミナルより、田舎なのだろう。
方向が南側にあることだけがわかっていたので、ひたすら北を歩けば町に着くに違いないと思った。
始発から終着のため、ゆっくりと安心して寝られるのがいいと思う。
《サントス・パトス教会》
トウラル広場から東に延びた細長い公園を相棒は進む。9年前に来た記憶が蘇ったに違いない。
おいらは、ついて行くだけ。公園の中には、赤いベンチが点々と置かれた植物豊かな美しい公園だった。
300メートルも歩いた時、右手下に噴水が点在する、長い庭園に黄色い花が咲き、その長い庭園の両脇には満開の八重桜が咲き乱れていた。
八重桜は200メートル程連なり、その先のシンメトリーの鐘塔が天を突く美しい教会まで延びていた。サントス・パトス教会だった。
甘い香りの源は、ギラマンイス駅から町に下る坂道まで漂う香りだった、それが、ここの八重桜の花弁から流れて来ていたのだった。
公園の赤いベンチに座っていた我らは、サントス・パトス教会を見ていた。
『あのさ、ここには午後また来よう。太陽の位置が悪い・・・』と相棒が吐く。
おいらは腕時計を見た。針は、11時を指していた。『あのさ、話変わるけれど、このベンチ覚えている?』と、相棒に言われ、おいらは脳を振った。
言われてもすぐあふれ出てくる脳ではなかった。相棒に誘導され、やっとおいらは思い出した。
9年前の2004年4月15日に飛行機で深夜ポルト空港に着いた、その翌日だった。
「けいの豆日記ノート」
曇の天気のときと、晴れの天気のときと、こんなに風景が違うものかと思う。
空の色が白いと青いのとでは、印象がぜんぜん違うものである。
モレイナ・デ・サ広場にあるサン・ペドロ教会の中に入ってみた。
午前中ということもあり、ミサをしていた。
司教様の説教がはじまっている。
そっと教会を出た。
また、帰りに寄ろうと思う。
帰りには、順光になるので、教会と噴水がきれいに撮れると思う。
《おにぎり秘話》
その翌日である16日は、寒い日であった。サントス・パトス教会の景観をフィルムに収めたあと、この赤いベンチに座り昼飯を食べた。
相棒が肩掛けバックから紙に包んだおにぎり4個を出した。ちょっと硬くなっているかも知れない、でも我慢して食べてね。
コンビニがないから温かいお茶もなくてごめん、と優しかった。おいらはその優しさにおどろいていたが、もっと驚いたのが4個のおにぎりの出現だった。
あるわけがない海苔巻きおにぎりに仰天した。
昨朝、日本の名古屋の空港から12時間かけドイルの空港で乗り換え、昨夜遅くポルトガルの北の町[ポルト]の空港に着いた。
その飛行機の夜食で出たのがおにぎりだった。でも、2個ずつ出てきたおにぎりは、完全においらは食べた。
勿論、相棒も。ではなぜ、ここにおにぎりがあるのか。その理由(わけ)を聞かされ、おいらは納得した。
相棒が機内トイレに行ったとき、日本人のスッチーに呼び止められ、「余ったおにぎりですがいかがですか。」と聞かれ、相棒は大きく頷いた。
トイレの帰りに相棒はそのスッチーに、「できたら4つ頂けたら嬉しい。」と言うと、笑顔で4個紙に包んでくれ、「お早めにお召し上がりください。」と言われたそうだ。
おいらには、目の前のそのおにぎり4個が輝いて見えた。シャケと梅の〈昼メシおにぎり〉は、美味しかった。
それが、4回目の「ポルトガル撮影取材ケチケチ旅」のスタートだった。
「けいの豆日記ノート」
飛行機のおやつには、サンドウィッチかおにぎりが出る。
みんなが寝ている時間なので、おやつの夜食を食べる人は少ない。
飛行機の間は、しっかりとビデオを見ることにしている私は、寝ている暇などない。
12時間の飛行中に5本は見たいと思っている。
ビデオ発売前の新しいものもあり、日本語訳のものもあり、とてもうれしい。
日本では、ビデオは借りたことがなく、映画もテレビで放送するまでじっと我慢である。
タダで、ビデオが見れるなんて、なんとすばらしいことでしょう。
こんなところでも、ケチケチ根性が出てくる。
《旧市街地を歩く》
その時だ。『馬車が走って来た〜あ!』と、首から下げたカメラを右手で握りしめ、赤ベンチを蹴って相棒はすっ飛んで行った。
サントス・パトス教会の左手の道をこちらに向かって走って来る2頭立て馬車は逆光の中で映像的に美しく、中世の古都に溶け込んで見えた。
ゆっくり走って来た馬車は、撮影中の相棒の脇を通り過ぎ、観光客向け2頭立て馬車は、石畳の坂道を蹄鉄(ていてつ)の音も軽やかに響かせ登って行く。
相棒は追う。姿が消える。待つこと20分、笑顔で赤いベンチにご帰還だ。
2頭立て馬車は、サンパイオ美術館裏の広い坂道をギマランイス城がある北に向かって走り去ったと相棒が言う。
赤いベンチから歩いて5分もかからない所に、古都の中心と言えるオリベイラ広場まで撮影しながら歩いた。
この広場は中世の建物や教会に囲まれていた。
広場は白いパラソル畑のようだった。パラソルの下では、サグレス生ビールやポルトガル産ワインを飲みながら食事を楽しむ観光客でいっぱいである。
小ぶりな広場だが、気品に満ち、落ち着いた中世の雰囲気に囲まれ、何時間でもいられそうだった。
周りの建物のどこのテラスにも、花咲く鉢植えが並べられ、目を楽しませてもくれた。
サンテイアゴ広場に抜ける狭い路地は、相棒の戦場であった。なかなか前に進めない映像の宝庫であった。
庶民が今も住む石造りの風情は、中世そのままの香りに包まれ、息づいているように思えた。
世界遺産に認定されたのは、ギマランイス歴史地区と呼ばれるこの旧市街地である。サンタ・マリア通りを北に上った。
路地の両側の14〜15世紀の石積みの建物には、今もギマランイス市民が生活する息使いや温かさが伝わって来た。
「けいの豆日記ノート」
以前に来た時には、馬車は見なかったような気がする。
冬場であったためにシーズンオフで観光客も少なく、馬車も営業してなかったのかもしれない。
たまたま、馬車を通る時間に出くわさなかったのかもしれないが・・・
馬車がくると、すぐに追いかける。
風景だけの写真より、馬車が入ったほうがすてきである。
馬車を追いかけるのに必死で、風景まで目がいかないというのが、本音であるが。
《城と教会と公爵館とアフォンソ1世像》
サンタ・マリア通りを北上すると、大きな樹木が生い茂り、緑一杯の芝生が輝く世界に導かれる。
途中左手に煙突がいっぱい立ち並ぶ大きな建物(ブラガンサ公爵館)脇を通りギマランイス城(カステロ)に向かった。
7つの塔が建ち並ぶ10世紀に建てられたギマランス城こそが、初代ポルトガル国王アフォンソ・エンりケスが1110年にこの城で生まれたのだった。
そして、歩いて来た左手の丘にポツリ立っていた小さな教会(サン・ミゲル教会)でアフォンソ1世は洗礼を受けたという。
城の帰りに煙突の館に寄ってみた。15世紀初頭に建てられた初代ブラガンサ公爵館は巨大な建物であった。
レンガを積み重ねて造った39本の煙突、内部回廊の重厚さ、鮮やかなステンドグラス、高い天井からつりさげられたシャンデリア、贅の限りを尽くした館であった。
今は改修し政府の公館として使われていると聞く。相棒は1時間近く克明に撮っていた。
館を出ると円形石段があり、そこにアフォンソ1世の像が立ち、その下で40人程の中年男女観光者が歌を歌っていた。
発音でフランスからの人びとだと知る。
その時、胴幅胸幅パチンパチンのご婦人が列から離れ写真を撮っていた相棒に近づく。
「日本人か?(頷く相棒)プロカメラマンか?(頷く相棒)」ご持参のカメラが3機。
「これで、撮って、日本のお嬢さん!」と微笑み、みんなに向かって、「さ〜ぁ、こっちを見て〜!笑顔笑顔だよ〜ッ!」と、どなる。
相棒は三つのカメラにフランスの人びとの笑顔を貼りつけた。パチンパチン婦人は、ありがとうと相棒をハグした。
そしておいらの顔を見て、「あなたはポルトガルの人ね、いい男よ!」と声をかけてウインクした。おいらは言う、「オブりガード!」と。
「けいの豆日記ノート」
ブアrガンサ侯爵邸の前に建つアフォンソ1世像の周りは、階段状になっている。
その像の前の階段に並んで歌を歌う集団がいた。
これは、絶好のシャッターチャンスだと思ったので、思わずカメラを構えた。
すると、その集団のカメラを数台渡されたのである。
「写真を撮ってください。」ということだと思うが、有無を言わさずカメラを渡されて、おばさんパワーにびっくりした。
コンパクトカメラあり1眼レフカメラありで、1台撮っている間に地面に置くカメラにも気を遣わなくてはならない。
アフォンソ1世像とブラガンサ侯爵邸を写しこむようにして、集合写真を数枚ずつ写した。
よろこんでくれているといいな。
《太陽の当たり良好》
2頭立て馬車がタイミングよく、館の横から街中に出発した。相棒が待っていた午後の光は、良好であった。当然、後を追う。
緩やかな石畳みの坂道に蹄鉄の響きにリズがあった。乗ってみたかったが、乗ったら仕事にならない。乗ったら昼飯抜きになりかねない。
くわばら、くわばら。サントス・パトス教会が青空を背景に浮かび上がって見えた。
午前中はくすんで見えたが黄色い花も噴水の水も八重桜も輝いていた。
遅い昼食を赤いベンチ前にある小さなレストランで食べた。生ビールにアグア。それにランチ一人前。
豆と米の雑炊(ぞうすい)に鰯のてんぷらにパンを相棒が頼む。サグレス生ビールは120円、安い。
喉越し抜群、うまい!飲んでいるテーブルに同じものが二つ来た。「そんな〜!」と相棒は唸る。
「一つって言ったじゃ〜ン!」言った言わないの話は、切りがない。
惨めになるだけだから、しないことだ。でも、雑炊もてんぷら(ポルトガル語)も、美味しかった。
「けいの豆日記ノート」
いつものように、ランチセットは1人分だけ頼んだつもりであった。
あっさりと、納得してくれたので、不安ではあったが、出来上がりを見て不安が的中した。
もう少し、説明を粘ればよかったと思っても、できてしまったランチはしかたがない。
ホテルが近くであれば、残った天ぷらを持って帰れるのだが、これからまだ撮影がたくさん待っているのであきらめた。
もったいなかったなあ。
@3.1ユーロの列車に乗ってポルトのサン・ベント駅に18時30分に着いた。万歩計は21552歩。
相棒は2頭立て馬車の追っかけがあるから、26000歩は越しているかも知れない。
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
次回をお楽しみに・・・・・・・今回分は2014年4月に掲載いたしました。
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