「ポー君の旅日記」 ☆ ローマ中世時代祭り開催中のブラガ3 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・18≫
=== 第6章●ポルト起点の旅 === 子供たちに歴史を託(たく)す宗教の町であった。
《50年間の晴れ男、信じます?》
1969年(昭和44年)に発売された内山田洋とクールファイブのデビュー曲〔♪長崎は今日も雨だった♪〕が大ヒット。
〔歌手・前川 清さん〕が喉の奥底から絞り出す哀愁を帯びた声に、艶と伸びを惜しみなく歌声にのせて迫って来る直立不動の姿に痺(しび)れたものだった。
その時、野老は30歳。N局の教育テレビで、理科や英語や社会科番組の構成台本を書いて4年が過ぎていた。
そして、東京や名古屋の各テレビ局でドキュメント番組やロケーション番組の構成・演出・編集・ナレーションをさせてもらい楽しんだ。
色々な地にロケーションに出かけ、様々な職業で生きる人びとに出会えた。
その〔ロケ〕で大切なのは、晴れた空が命だった。
〔晴れ男〕としては、ちった〜ぁ名の知れた神通力に長(た)けた〔野老〕だと自負していた。
以来30年以上もテレビ業界でお世話になり、日本各地での取材・撮影に出かけロケ番組づくりで過ごして来た。
〔晴れ男〕の異名は微々(びび)として崩(くず)れることはなかった。
これも〔野老〕の守り神〔前川 清さん〕に教えられた「男のさだめごと」だったかもしれない。
〔晴れ男〕が、今までロケ地に選んだことがない場所が一つだけある。それは、〔長崎〕だった。
2001年9月22日(ニューヨーク同時テロ事件の11日後)、〔晴れ男〕は初めてポルトガルの首都リスボンの地を踏む。
その時、野老は62歳。
それ以来、写真家の相棒と組みポルトガル各地の人びとの日常生活やその環境を追いかけ、
毎年暮れ《名古屋市民ギャラリー栄》で【山之内けい子 愛しのポルトガル写真展】を開催・発表してきた。
その写真展も今年(2016年)の暮で、part25になる。
2016年5月27日(金)の今日は、〔ポルトガル9回目の撮影取材旅〕に来て11日目の朝を迎えていた。
少しばかり寒くいつ雨が降り出してもおかしくない雨雲の早朝、相棒のカメラマンと野老(76歳)はポルトガル第二都市の港町〈ポルト〉にある
〔ホテルジラソル〕から〈ブラガ〉に行くため、〈ポルト〉の鉄道の玄関と呼ばれる【サン・ベント駅】に向かって石畳の坂道を下っていた。
どうしても中世から近世にかけてポルトガル第一の宗教都市として栄えた〈プラガ〉に住む〔雨野郎〕に、〔晴野老〕は今まで歯がたたなかった。
「けいの豆日記ノート」
撮影に青空は強力な助っ人となる。
まあ、青空がなくても雨が降っていなければ、まあまあの撮影はできる。
でも、白壁にオレンジの屋根の家には、白っぽい曇り空より、抜けるような青空のほうがすばらしくきれいである。
同じ場所なのにこんなに違うものかと思うほどである。
人物だって、光によってすごく表情が違ってくる。
よく、写真展などで、天気を聞かれることがあるが、天気だけは、その時の運しだいだとしか言えない。
同じ時期に行ったとしても、1週間雨のこともあれば、晴れのこともある。
毎年、違うのだから、去年のデータなどあてにはならない。
雨が降りませんようにと願うばかりである。
《土砂降りとおばさんたち》
今まで3回も、我らは〈ブラガ〉を訪ねていた。1回目は、2002年2月2日。
〈ポルト〉の【サン・ベント駅】から徒歩1分の所に、手で開け閉めする旧式エレべータのホテル〔ぺニンスラール〕はあった。
その宿から緩(ゆる)い石畳の坂道を10分ほど登った市民の台所【ボリャオン市場】の手前に、〈ブラガ〉方面に行く【高速バスターミナル】がある。
ちなみに〈ポルト〉には〔高速バスターミナル〕が6か所あり、それぞれのターミナルは行き先が別々になっているのでご注意あれ。
そんな按配(あんばい)で、カメラマンの相棒と始発バスに乗り込む。高速バスの車窓に走る雨雲が、〈ブラガ〉に着く頃にはフロントガラスに雨粒が跳(とびは)ねていた。
〈ポルト〉から1時間ほどかかったが、未知の地を歩くのは旅人の役得である。心が自然と踊り騒ぐものだ。
しかし、余りの激雨でバスターミナルの建物から外に出る勇気も萎(な)えた。雨合羽(あまがっぱ)や折りたたみ傘は持参しているが、長靴までの用意はない。
この時は、〔ポルトガル撮影取材旅〕の2回目。旅人としては、初心(うぶ)だった。ガイド本(地球の歩き方)を相棒が見ていた。
〈ブラガ〉のバスターミナルは町の北側にポツリとあり、町の中心地まで坂道を登り、10分以上かかるとあった。
『このまま引き返すのは口惜しい。市場だけでも行くよ!』相棒の指揮命令だった。地図には2分もかからない所に【常設市場】があった。
小降りを見計らって、大きな建物に向かって走る。
当時はフィルムの撮影時代だった。
36枚撮りカラーフィルムを160本(5760枚分)用意して来ていたが、これが意外と嵩張(かさば)った。
フラッシュ撮影禁止の場所も多く、博物館などは端(はな)から諦(あきら)めた。
一枚一枚(ワンカット)を大切に撮った。帰国後フィルムを現像し、作品としての仕上がり具合いは紙焼きをして初めてピントやキズの有無を知る。
それに比べ、デジタル撮影は雲泥の差。
撮った映像は即確認でき、失敗すればすぐ消せる。
あの160本もの映像の嵩は、たった1円玉の1.5倍ほどの〔SDカード〕と言う魔法みたいな一枚のチップ(chip)に収められたのだ。
そのため、大きな荷物が一つ減り〔撮影取材旅〕が楽になり行動範囲も広がった。
〔常設市場〕は客もまばらだし照明も暗く、撮影する雰囲気ではなかった。
激雨は激しく地面を打ち鳴らし、やみそうもなかった。
閑(ひま)そうな八百屋と魚屋と肉屋のおばさん達に、持参の千代紙で折った〔折鶴〕を、一人ひとりにあげると「オブリガーダ!」と喜んでくれた。
そればかりか、おばさん達5人に囲まれた相棒は要望に応え〔オリガミ教室〕を始めた。
カメラを持つ手が千代紙に変わる。
5人に1枚1枚の千代紙を配り、5人の目の前で堂々と日本語で、自分に納得させるように『ま〜ず、私が、1羽オリガミするから、よ〜く見ててね!』と始まる。
千代紙をひらひら振り『さ〜あ、正方形、まッ四角な千代紙、この美しい模様の方が、オ・モ・テ。(ひっくり返し)この、白い方が、ウ・ラ。
分かった〜ぁ。この裏を、上にして、私が、ひと折りしたら、みなさんも、ひと折りしてね〜え、わかる〜ゥ!』5人の太っちょなおばさん達は、何故か全員素直。
首を縦に振ったのだった。野老は紀行文を書くためのメモ用の小型カメラで、真剣なおばさん達の様子を1枚撮った。
10分足らずで、おばさん達は歓声をあげた。親指と人差し指で5人が、1羽ずつ〔折鶴〕を摘まみ上げての歓喜であった。
「けいの豆日記ノート」
はじめてのブラガ訪問は、ブラガに行くつもりでなく、ギマランイスに行く予定であった。
ポルトからギマランイスまでは、バスが便利だと思い、バスターミナルに行ったが、バスは出たばかりであった。
次のバスまで2時間近くもあり、どうしようか考えていたら、ブラガ行きのバスがきたので、乗ってしまったのである。
ブラガは、雨だった。
雨が降ると、テンションが下がる。
ギマランイス行きのバスの時間を確認してから、待ち時間で常設市場を見ることにした。
市場のおばさんたちを撮影して、お礼に折鶴をあげてまわっていた。
暇だったこともあり、おばさんたちが集まってきた。
ポルトガルの旅の2回目であり、折鶴はできたものを渡すだけのつもりで千代紙を持ってきた。
人が集まってきたので、はじめて、折り方を教えることになったのである。
この記念すべき折り紙教室1回目の感動が忘れられず、この先、各地で開くことになったとは、だれも想像していなかった。
《♪〈ブラガ〉は、今日も雨だった♪》
2年後の2004年4月21日(水)、2回目の〈ブラガ〉行きの朝も、雨模様であった。
旅の羅針盤みたいな〔ガイド本〕を2日前に、野老が移動中の高速バスの中に置き忘れ、難儀していた。
高速バスが急にバスターミナルに入り運転手に乗り替えを告げられ、バスの座席のネット袋に入れて置いたガイド本を持ち出すのを忘れた。
ターミナル事務所に忘れ物届を出しておいたが戻らなかった。その時『忘れた方が悪い。
地図がなくても、トゥリズモ(観光案内所)がある』と相棒は平然。肝っ玉があった。
9時発の高速バスに乗って1時間。やっぱり、2回目も〈ブラガ〉は雨だった。
まずバスターミナルから2分ほどの市場に向かう。2年前の午前10時過ぎ、どしゃぶりで雨宿りに飛び込んだ【常設市場】だった。
そこで「オリガミ教室」をした時の、あの逞(たくま)しい腕っ節のおばさんたちに会いたかった。
おばさんたち、覚えていてくれるだろうか。素っ気なかったら、どうしようかと少し心配だった。
写真家のガッカリした顔は見たくない。
写真を撮らせてくれたおばさんたちが・・・いたッ。八百屋に2人、魚屋に2人、肉屋に1人、元気そうな顔だった。
『ボア?元気?』と相棒は顔中笑顔で近寄った。
あら〜っ!と太っちょの肉屋のおばさん、太い腕で相棒を抱きしめ頬にキスをした。覚えていてくれたのだ。
持参してきたおばさんたちの〔2L写真〕を、一人一人に相棒は『ボア?ボア!オブリガーダ!』と渡した。
雨模様で薄暗い市場の一角が歓喜のやかましい声であふれた。
いっぱい、いっぱい言葉をくれるけれど?? でも、相棒は笑みを絶やさない。
『オブリガーダ!ありがと〜う!』の連発だ。言葉が分からなくても心は通じる。だから、旅はやめられないのだった。
「けいの豆日記ノート」
2回目は、ブラガを目的にしていた。
雨模様であったが、小雨だったので、ブラガの町をしっかりと見ようと思った。
キリストの巡礼地のボン・ジェズスも行きたかった。
行き方を聞くと、トリズモ(案内所)の女性は、天候が悪いので申し訳なさそうな残念そうな顔をした。
雨の日に丘の上のボン・ジェズスに登っても風景など見えないであろう。
ボン・ジェズスはあきらめて、カテドラルや教会の内部を見ることにした。
ランチを食べて、教会を見てまわり、帰ろうと思ったとき、陽が差してきたのである。
急いで、トリズモに行き、バス停を教えてもらった。
トリズモの女性の「晴れてよかったわね。」の笑顔が忘れられない。
《背に腹はかえられぬ》
更に、4年後の2008年6月23日、3回目の〈ブラガ〉訪問へと8時25分発の黄色い車体の列車は〈ポルト〉の【サン・ベント駅】から出発した。
座席は観光客で8割方、埋まっていた。【サン・ジョアン祭】を楽しむために世界各地からやって来た人々である。
それぞれの集団の会話に笑顔が絶えない。日本人の顔を探してみたが、周辺にはいなかった。相棒がバックからそっと出したものがある。
日本から持参の商品名は「ケチケチ旅の友」と我らが呼ぶ〔硬焼き醤油味胡麻煎餅〕であった。
もち米で作られたその煎餅は、小腹の空(す)いた時の救世主なのだ。
ただし、人が多い所とか、閉鎖した空間では、注意点が一つある。
〔香り〕だった。カリカリ、もしくはバリバリと喰う時の音は何とかなるが、周囲に飛び散る〔醤油の香り〕と〔胡麻の香り〕だけは防げない。
道を歩きながら食べても、発する香りで人びとは必ずキョロキョロし、振り返る。
だから、日本では気にしないで食べられるのに、異国のこの地では気が引けるし、〔要注意人物〕になりかねない。
今朝は出発が早かった。モーニングも食べず仕舞い。
この車中の混雑さの中で、まるで殿中(でんちゅう)でござるの真っただ中で〔腹の虫を鳴かさば武士の恥〕状態のさ中、写真家は〔背に腹はかえられぬ〕事態に終止符を打った。
目が回るほど腹が減っていた。一枚一枚湿気防止で封印されている煎餅を肩掛けバックから取り出した。
封印のまま両手で二つに割り、封を切る。その瞬間、自分でも判るほどの2種類の香りが車内に舞い散った。
〔醤油だ〜、胡麻だ〜!〕と。我ら日本人にとっては、祖国の誇りある香りであり、気絶した腹の虫が歓喜で再生するほどの魔力があった。
しかし、異国の乗客は騒(ざわ)めいた。未知の異臭でしかなかったようだ。
「けいの豆日記ノート」
2008年の旅は、リスボンのサン・アントニオ祭(6月13日)とポルトのサン・ジョアン祭(6月24日)を撮影するのが目的であった。
ポルトからの近郊列車のほうが便利かもしれないと思い、バスはやめて列車にした。
6月という季節がよかったので、晴れていた。
3回目のブラガは、サン・ジョアン祭の前日であった。
町の中はお祭りムードいっぱいで、パレードや、市庁舎前のイベントなど、盛りだくさんであった。
でも、午後3時を過ぎるころになると、雨模様になってきた。
さっきまでの青空はどこにいってしまったのか。
早めにポルトに帰ることになったのである。
《車中の出来事・餞別の流儀》
車窓を陽射しが走る。雨雲が割れたのだ。車内に流れた煎餅の香りは、乗客の好奇心を著(いちじる)しく擽(くすぐ)った。
やがて怪訝(けげん)な周囲の乗客の顔に笑みが広がる。
そのわけは、老婦夫と我らの対面4人がけ座席での〔無声映画的効果音香りつき劇場〕を観ていた観衆に拍手が起こり、
車中にスタンディングオべーションが起こったのだ。
〜暗転・(タイトルが浮かぶ)硬焼き醤油味胡麻煎餅〜
我らの前にいた老夫婦がにこやかに語りかけて来た。相棒が野老を見た。
麻の帽子をかぶり銀縁眼鏡をかけた白い口髭が似合う夫が言った。
気品ある老夫人は、あなた、何を言い出すの、と眉根に皺(しわ)をつくって、夫の言葉を窘(たしな)めたように見えた。
野老は目配(めくば)せを、相棒に送る。
『日本のセンベイです。失礼ですが、いかがですか』〈注・外国人には日本語を解せないからクチパクに見える〉
日本語で堂々と相棒は〔硬焼き醤油味胡麻煎餅〕を1枚、封に入ったまま渡す。
夫は口元に笑みを浮かべ、嬉し気に受け取った。
一瞬の間があって、封のまま両手に力を込めて、まッ二つに割った。
〜〈固唾(かたず)を飲んで見守る観衆は、煎餅が割れた微(かす)かな音にオオッと反応し興奮する〉〜
座席の目の前で、異臭を放つ摩訶不思議な物体を美味そうに食べる我ら異邦人の動作を、ご主人は眼を皿にして学習していたのだろう。
夫は、力を込めて見事に1発で割った。そして、封を切った瞬時、ふたつの香りが顔面を襲って散った。
ホ〜と、一つ息を吐いた夫は、割った大きめな半分を妻に渡す。
あらっ、私にもくださるの、という表情の嬉しそうな顔が可愛い。おふたりは顔を見合わせ、煎餅を口にした。
バリっと、噛んだ音は、ひとつ。夫は両手で割った時の硬さを知り、強く煎餅を噛んだに違いない。
老夫人は初めて口にした食べ物の硬さを知らない。どれほどの強さで噛めばいいのか老夫人には察知できなかったのだ。
夫の顔を見詰め老夫人は二度目に挑戦。強く噛む。「パリッ」と煎餅が鳴り「カリカリカリ」と軽快に煎餅が噛まれる音が続いた。
と同時に驚きの声が洩(も)れる。〔多聞、あらッ!と〕声を出し、鼻で香りを、唇で感触を、舌で初体験の未知なる味を知ったようだ。
見つめ合う老夫婦の顔が、笑顔に弾(はじ)けたかに見えた。顔が初めての珍味で、歪(ゆが)んだのかもしれない。
ともあれ、〔硬焼き醤油味胡麻煎餅〕の香りが心地よく我らにも強く伝わって来た。
そして、煎餅は噛むと香りが倍増することを初めて野老は知る。
下車する時、餞別(せんべつ)を込めて老夫人にそっと煎餅を封のまま2枚差し出す粋な相棒の計(はか)らいを、野老は眼の端で捕らえていた。
《8年振りの〈ブラガ〉参り》
そして更に、8年の歳月が流れた今年、2016年5月27日(金)。〔ポルトガル撮影取材旅9回目〕の11日目の朝を迎えていた。
初めて〈ブラガ〉を訪ねた2002年2月2日から数えると、14年間に4回目の〈ブラガ〉参りの日である。
なにせ今まで、いつ来ても〈ブラガ〉の〔雨野郎〕には、〔晴野老〕は分が悪かった。
野老にとっては〔ブラガ〕は、行ったことがない〔長崎〕だったのだ。今日も、何時雨が降り出してもおかしくない肌寒い朝であった。
〈ポルト〉から列車に乗っての〈プラガ〉入りは2度目。高速バス入りは鬼門だった。
〈ブラガ〉の〔雨野郎〕に2回ストレートパンチでマットに〔晴野老〕は打ちのめされていた。
車中では前回お会いした粋な老夫婦のことを相棒の写真家と懐かしく思い出し,もう一度会いたい思う。
〔硬焼き醤油味胡麻煎餅〕はわれらの常備食。「ケチケチ旅の友」を4人で香りを撒き散らし笑って食べたいものだ。
あれから、8年が経(た)つ。お二人も野老と同年輩か2つ3つ先輩か。
お元気であれ、と祈る。野老も後3カ月の8月で、77歳。
毎度〔遥か遠くに来たもんだ〕と、その度に思うが、ポルトガルが好きだから一寸も辛くない。
地元、知多半島のセントレア(中部国際空港)から、片道10000km以上、20時間ほどのドイツの空港乗り換え、ポルトガル首都リスボン空港着の空の長旅だ。
今回が最後の旅か、なんて何時も思いもしない〔能天気野老〕(物事を深く考えない老人、と広辞苑)、だった。
「けいの豆日記ノート」
久しぶりにブラガに行き、ボン・ジェズスにも上ってみたかった。
列車の駅から、東方面に歩いていくと、町のメインゲートであるアルコ・ダ・ポルタ・ノヴァが見えてくる。
垂れ幕がかかっていて、なにかイベントをやっているのか・・・と思いながらとりあえず、常設市場に行ってみた。
売り場が少なく、人影もなく、閑散としていた。
やはり、郊外に大型スーパーができているのが、影響しているのだろうか。
8年前のおばさんたちを見つけることはできなかった。
旧市街地方面に進むと音楽が聞こえてきた。
なにかやっていると思い、急いで広場に走っていく。
以前、ペネラという町でみた中世祭りが開催されていた。
ローマ時代の服装をしてのイベントである。
開催していることを知らなかったのに、祭りに出会うなんて、なんてラッキーなんでしょう。
《ローマ時代まつり》
終着駅【ブラガ駅】に9時55分に着く。宗教の町という古典的イメージが強かった〈ブラガ〉だが、近代的なデザインが似合う駅舎で迎えてくれる。
今日は〔ローマ時代まつり〕を楽しむ人びとがどっと駅舎を飛び出す。
赤い垂れ幕が旧市街地への入り口【アルコ・ダ・ポルタ・ノヴァ】を潜った先まで500mほどつながる。
〔BRAGA ROMANA〕の文字が幾つも揺れる赤い垂れ幕が、18世紀に造られた町のメインゲートをくぐると、
祭りの雰囲気が急に盛り上がり、真っ赤な衣装を着た演奏者軍団が行進していた。
パレード行進の小太鼓や笛、イングランド楽器グレートハイランド・バブパイプが軽快に心地良く伝わって来る。
〈ブラガ〉の町の起源はローマ時代にさかのぼる。その頃、〔ブラカラ・アウグスタ〕と呼ばれ、交易の要所として栄えていた。
スエヴィッ族、西ゴート族、ムーア人に次つぎに占領され廃墟となってしまう。
やがて、〈プラガ〉が盛り上がって来たのは11世紀。その時の町の大司教は、イベリア半島全土に宗教上の支配権を得る時代が来る。
その後16世紀には〔大司教の座〕が〈ブラガ〉に置かれ、ポルトガル第1の宗教都市であり、経済の中心都市となる。
大司教の座のソウザが、王にも勝る権力の〔座〕を得る。
熱をあげた大司教はバロック様式のペリカン噴水や旧大司教館前の宮殿広場の噴水など、〈ブラガ〉中に幾つもの噴水を作る。
そして、ルネサンス様式の広場・邸宅、多数の教会を作り、近郊にはみごとな巡礼の聖地まで完成させた。
〈ブラガ〉はポルトガル第1の宗教都市であり、経済の中心となったと、トゥリズモ(観光案内所)の美女3人が教えてくれた。
〈ブラガ〉の祭りを〔撮影取材旅〕した相棒が一言吐いた。
〔祭り〕を盛り上げていたのは、子供や母さん、父さんの家族一丸だった。凄いよ!凄い。
祭りって、日本的に言うと〔親父集団の祭り〕が中心だけれど、〈ブラガ〉は家族の〔大集合祭り〕だね。
〈ブラガ〉は紀元前200年頃にはローマ軍が進駐し、ローマは首都をブラカラ・アウグスタ、現在の〈ブラガ〉に置いたって、
トゥリズモの美女たちが自慢気に言っていたけれど、嘘ではないかもよ。
1716年大司教の座がリスボンに移され、〈ブラガ〉は宗教上の権力を失う。
毎年行われている〔ローマ時代まつり〕は〈ブラガの時代まつり〉なのかも知れない。
幼稚園児がローマ衣装で<ブラガ>祭りに参加し、それに同行する父兄もローマ時代を彷彿(ほうふつ)させる衣装姿で参加。
〈ブラガ〉市民が子供たちに、みんなで郷土の歴史を子供たちに学習させる祭りにも思えた。
●漢字に(・・・)と読みをいれていますが、読者の中に小・中学生の孫娘達がいますので、ご了承ください。野老●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2018年1月に掲載いたしました。
|