「ポー君の旅日記」 ☆ 農園に囲まれたホテルのアザルージャ2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2016紀行文・21≫
=== 第7章●アテンレージョ地方起点の旅 === 片田舎に住むドン・ガバチョ画伯夫妻に会いに行った
《土砂降りの朝》
その日の行動予定はモーニング時にカメラマンから語られる。
我らの旅は〔撮影取材旅〕である。
スタッフは野老とポルトガル旅のお守り的ワンコのポー君。
だから我らはカメラマン(相棒)の流儀に素直に従う。
この編成でポルトガル共和国の80か所以上の市町村を2001年から訪ね歩いて来た。
相棒のお気に入りの場所には何度も行き歩き撮影した。
フィルム時代に撮った場所ヘ再度デジタル撮影にも行った。
日本からポルトガルに入る直行便がないためドイツやフランスの空港で乗り替えなければならない。
乗り替えには便によって3時間から6時間の待ちタイムが起こる。
そのためセントレア(中部国際空港)から首都〈リスボン〉空港まで20時間近くになる。
でも我らは、一度も苦痛感を味わったことがない。
相棒は座席にあるテレビ画面で映画鑑賞三昧だ。
カメラマンは焼き立てパンにバターを塗り込みハムとチーズをサンドして2個目を食べ、ガラオン(ミルクコーヒー)を飲むと席を立ちオレンジジュースを取りに行く。
食堂の窓ガラスに狂ったような雨粒が跳ねる。
カメラマンも土砂降りを見詰めている。
席に戻ると『今日は5月28日の土曜日。
〔ボリャオン市場〕は〈ポルト〉の私たちの〔撮影取材旅〕の原点みたいな場所だから、また何時(いつ)ここに来られるか判らない。
と想っていましたが、この雨では話にならない。
本当はこれから10時30分発の高速バスに乗って、〈リスボン〉で乗り換え、アレンテージョの古都〈エヴォラ〉のバスターミナルに
ドン・ガバチョ画伯夫妻が自家用車で迎えに来てくれ、郊外の〈アザルージャ〉に連れて行ってくれることになっていますが、
1本バスを速めて9時30分発で出かけることに決めました』と、結んでフロントに行った。
〈アザルージャ〉の自宅に到着時間変更を告げ、バスターミナルまでのタクシー依頼をして来ることだろう。
カメラマンの相棒は、段取りから乗り物の切符の手配と常に忙しかった。
『ターミナルまでのタクシーは8時30分に来るよ。それにさ、さっきの続きだけれど、聞いてくれる。
〔撮影取材旅〕のことだけれど、すぎさん次第。もう歳が歳だから。
行けなくなったら、それでポルトガルの〔撮影取材旅〕は完了であり、完成。
今回の旅が9回目。私としては、区切り良い10回目のポルトガル〔撮影取材旅〕がしたいと思っています』と結んだ。
初めて語った相棒の心だった。
「けいの豆日記ノート」
はじめの計画では、10時半のバスの時間までの間に、ボニャオン市場に行こうと思っていた。
先日、祭日であったために市場が閉まっていたからである。
2時間くらいは、散策できると考えていた。
だが、小雨ならともかく、この土砂降りの雨では、歩くことすら無理だと思った。
なので、市場に行くのをやめて、1本早いバスに乗ろうと思った。
エヴォラのバスターミナルまで車で迎えに来てくれることになっていたので、フロントから電話をかけて、1時間早いバスに乗ることを伝えた。
《てんてこ舞のバスターミナル》
〔RE,RENEX〕は〈ポルト〉最大のバスターミナル。
誰しも土砂降りの地に旅行者は長居はしない。
相棒はタクシーを降りると切符売り場に走る。
野老はタクシーから6個の荷物を下ろしすべての荷物に旅の必需品の赤い紐(ひも)を通し相棒を待つ。
これが野老の仕事だった。15分後、余り感情を顔に表わさない相棒がしょげて近寄って来た。
9時30分発のバスは満席。10時30分発はぎりぎり取れたよ。でも最悪。
ターミナル内には公衆電話がないので、街中で探し画伯に到着変更の電話をして来ると、土砂降りの町に飛び出した。
その小さな後ろ姿の肩先に声を掛けた。無理はするな、次のトイレタイムで停まった所から掛ければ充分間に合うからね。
10時30分まで1時間以上もあった。20分が経過したが、戻って来る気配がない。
目の前をびしょびしょに濡れたバスがターミナルに入って来た。隣国スペインからの長距離バスだった。
5月の末とはいえ土砂降りの大型バスターミナルはヒシヒシと小寒さが押し寄せて来た。
荷物番は相棒が心配になっていた。
「けいの豆日記ノート」
1時間前のバスはチケットを取ることができなかった。
そんなに混んでいるのか・・・
しかたがないので、もともと乗る予定であった10時半のバスのチケットを取った。
エヴォラに迎えに来る時間がまた違ってくる。
変更の連絡を入れないと1時間エヴォラのバスターミナルで待たせることになってしまう。
それに心配もさせることになってしまうだろう。
そんなことになったら申し訳ないと思い、なんとか連絡しようと思った。
昨今、電話ボックスは見当たらず、あったとしても壊れていたりするので、朝にチックアウトしたホテルに行こうと思った。
けっこう遠かったがなければしかたがないと歩いていると、
その途中に三ツ星ホテルがあり、そのフロントに行ってみると公衆電話がおいてあった。
無事、そこからアザルージャまで電話して連絡することができた。
《ファテマの奇跡》
車中には暖房が入っていた。
相棒も無事戻って来た。〈リスボン〉行き高速バスは予定通り10時30分に出発した。
30人程の乗客の中には日本人がいなかった。北欧の団体客は身体がでかい。
座席が小さく見える。出発間もなくはざわついていたが、暖房の温かさと心地よいバスの揺れが睡魔を呼び静かになる。
雨に濡れた相棒も電話探し談をしてくれていたが暖房のお陰で眠りに落ちていった。
車窓はしばらく雨滴に打たれていたが12時を過ぎると雨雲が割れ青空が見え隠れし、オリーブ畑や牧草地帯が車窓を飛んで行った。
〈ファティマ〉の町に入る。メインストリートのドン・ジョゼ・アルヴェス・コレィア・ダ・シルヴァ通りを走ると
右手に木々に囲まれた広大な広場の先の先に高さ65mの塔を持つ〔バジリカ〕がそびえ立つ。
大広場の収容人数は30万人。
毎月13日、特に5月と10月の大祭には10万人もの巡礼者で埋め尽くされると、メインストリート近くのホテル〔アレルイア〕の女将に聞いた。
2004年4月29日に泊った宿の女将もカメラマンだった。
その時は大きなクレーンが10機ほど作動し広場造りで砂ほこりが舞っていた。
〔ファティマの奇跡〕とは、1917年・第1次世界大戦中に聖母マリアが出現するという奇跡が起こったのだ。
【詳しくは、2004年版・つうさん紀行文・bS2をご覧ください】12時25分、〈ファティマ〉のバスターミナルに着く。
トイレ休憩15分。野老は1ユーロサグレス生ビールを飲む。暖房で喉が渇いていたので五臓六腑(ごぞうろっぷ)に沁み込んだ。
12時40分〈リスボン〉に向かった。
ここでポルトガルの高速バス料金について伝えたい。
2001年ごろと比べたら列車もバスも地下鉄も車体が綺麗になり、観光客にも人気が高まる。
リスボンやポルトの路面電車も観光客で溢れている。リスボンの路面電車は広告塔みたいだが、狭い道は遊園地のようにスリル満点。
何より観光客は運賃の安さに感謝している。例えば今回の高速バス運賃だが、〈ポルト〉〜〈ファティマ〉〜〈リスボン〉〜(エヴォラ)間は凡(およそ)400km。
料金は24ユーロ(1ユーロ135円)3240円。《東京〜大阪の距離)は大凡400q。高速バス料金は6000円程。
ポルトガルの交通運賃は安いのだ。日本は高過ぎると想う。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルの移動手段として、バスはかかせない存在である。
列車は、西側の海岸線では、アルファ号とかの特急列車があり、早くて便利である。
でも、内陸のスペイン国境近くでは、線路はあっても列車は数えるほどしか走ってなく、それに駅から町までの距離が遠く不便である。
高速バスは、ポルトガルの全土の各地域を網羅しているので、とても便利だと思う。
今回、ポルトからエヴォラまでの移動手段を考えるとき、リスボンまでなら、列車でもバスでもそれほどかわらないと思うが、
エヴォラまでであると、列車では本数が少なすぎるのである。
リスボン、エヴォラ間の列車は数年前に復活したので、エヴォラから1度乗ったことがある。
1日に2本ずつしかなく、これでは、使えないと感じた。
《そして、アザルージャ》
2003年・2008年・2012年と、3度も惚れこんで歩き廻った城壁に囲まれたアレンテージョ地方の古都〈エヴォラ〉。
その城壁の左側外に〈エヴォラ〉バスターミナルはある。
〈リスボン〉で乗り換えに45分ほどかかり15時丁度に出たバスは、16時45分に〈エヴォラ〉に着く。
車窓から笑みが綺麗なふたりの顔が迎えてくれた。
頭髪もお髭も真っ白な長身のドン・ガバチョ画伯は、目元が何時も優しい。
その優しい瞳で描くポルトガルの水彩画の世界が、野老は好きだった。
夫人のカトリーヌ・ユミさんはもうポルトガルの人のよう。美しく輝いていた。
画伯が運転する中古車の車窓から〔水道橋〕が城壁の中から飛び出し〔サント・アントニオ要塞〕を通り抜け郊外に伸びている景観をとらえる。
その〔水道橋〕の下を潜り抜け、北東52km先にある〈エストレモス〉方面に向かう。
車窓から振り向けば、城壁が旧市街地を抱き守って来たように見えた。
コルク樫(かし)の大木が目立ってきた大草原を走り抜けていた。
広い青空に大きな白い雲が幾つも浮かぶ姿は一服の絵画だった。
20分ほど草原の一本道を対向車もなく走り続け〈アザルージャ〉の集落に入る。
4年前にご夫妻が住んでいた家に〈エヴォラ〉のホテルからタクシーで日帰りしたことがある。
住まいのすぐ近くにパステラりーア〈カフェ)が2件もあり、サグレス生ビールのはしご酒をした懐かしの場であった。
画伯夫妻は完全に住民の中に溶け込み、その姿に日々の日常生活感が伝わって来た。
『おふたりさ〜ん!今夜のお宿で〜す♪』と唄ってくれたのが、何時も明るい笑顔が魅力的なドン・ガバチョ夫人。
自家用車は〈アザルージャ〉の集落から5分ほど離れた農園地帯の狭い一本道で停まった。
周りには人家もなく大きな木製の門扉があり、その中に平屋の細長い白い建物が覗き見える。
タイミング良く木製門扉が内側にスーとではなくガタピシャと開く。ジーンズ姿の笑顔の中年男性が明けてくれた。
車を敷地内に滑り込ませた画伯は[ルイスホテル〕の管理人さんで、画伯の友人マニュエルさんだと紹介してくれた。
ホテルとは名ばかりの民宿風。
3軒長屋の管理人事務所の隣の部屋が今夜のお宿である。
部屋は広く自炊できるキッチンも広く冷蔵庫も風呂場もトイレもあり、寝室2部屋も広く当然ベッドもある。
部屋の壁が真っ白に塗られ全体的に明るくて綺麗。初見の掴(つか)み印象は〔素朴な田舎暮らし体験〕には、ぴったりかも知れないと想う。
何はともあれ、我らが大好きなドン・ガバチョ画伯夫妻がケチケチ野郎どもにお与えくださったお宿である。
更に、何と言っても2泊で40ユーロ。1泊日本円で、ふたりで3000円。当然モーニングはない。
「けいの豆日記ノート」
ルイスホテルは、ホテルというより、普通に生活できる住居のようであった。
台所もあるので、炊事をしようと思えばできる平屋のアパートのようだった。
長期間、滞在するなら、のんびりできていいところだと思う。
でも、周りに何にもないし、テレビもネットもなく、暇を持て余すかもしれない。
忙しすぎる生活に慣れてしまったのも考え物である。
《一本道にコウノトリ》
17時に〔ルイスホテル〕に着き、部屋の戸締り具合や透明窓ガラスのシャッターチェック。
シャッターは木製の開閉困難な開き戸。隙間が多い。
しかし、ケチケチ撮影取材旅をする我らは感謝一杯であった。なにせ、格安だから気にしないことにする。
昨年この部屋で1カ月自炊しながら絵を描きに来た知多半島のご夫婦がいる。
そのご夫婦も我らは知っている。ドン・ガバチョ画伯を慕うお弟子さんは日本各地に多い。
忙しい画伯と夫人は嫌な顔一つせず笑顔で迎えてくださる。そのおふたりに今夜の夕餉(ゆうげ・夕食)のお誘いを受けている。
18時30分、部屋の鍵を掛け、木製門扉の右下にある潜(くぐ)り戸をあけ一本道に出た。
目の前に広がる大空はまだまだ明るい。今日の落日は21時前だ。夕焼けになるだろうか。
日本とポルトガルの時差は9時間。
野老と相棒は鈍感なのか〔時差ボケ〕を知らない。
時差の関係かセントレア(中部国際空港)を午前中に出発しても首都リスボン空港に着き、タクシーを飛ばしても、
予約しておいたホテルに着くのは夜中に近い23時頃。
翌朝6時には起き7時からのモーニングを楽しみ、ポルトガルの石畳大地を一日二万歩撮影取材旅に出る。
76歳野老の脚も坂道だらけには、休み休みが必要になって来た。
一本道の両側は、草原と農園。この一本道に夕日が落ちれば昔の信州茅野のあぜ道を思い出す景観だ。
道端のすぐ傍の小さな林にコウノトリの巣があった。
カタカタと長い赤い嘴(くちばし)を空に向け打ち鳴らコウノトリの姿が見える。
子育て中のようだ。赤い長い足元に白いヒナがいた。
日本的には黒いカラスがカ〜カ〜と鳴き、夕焼けの山に飛んで行くが、ここは大草原と大農園に挟まれた一本道だ。
見渡せど山影はない。声帯が消滅した親鳥は声を出して鳴けない。
コミュニケーションは嘴を打ち鳴らす〔強弱と間隔〕のリズム。
タンチョウ鶴にそっくりな白い羽根にエッジが黒い2mもある両羽を広げたコウノトリの番(つがい)が、ねぐらの巣に羽ばたいて大空から戻って来た。
「けいの豆日記ノート」
今回の旅で、コウノトリをたくさん見ることができた。
カステロ・ブランコの鉄道駅前の廃墟ビルや廃墟工場跡の煙突にコウノトリが巣を作っていた。
けっこう人通りはあると思うのに、高い場所は安全なのだろう。
ちょうど子育て真っ最中であった。
モンサントの近くの小さな村ヴェルニョでも、コウノトリを見ることができた。
村の教会の鐘堂の上に巣を作っていた。
村の教会は、他の町と比べて小さかったので、屋根の上でも大きく見ることができた。
青空に飛ぶコウノトリも撮ることができ、とてもうれしかった。
アレンテージョ地方のエヴォラ周辺にもコウノトリが多いと聞いていた。
アザルージャでもコウノトリがいると聞いて、ぜひ見たいと思った。
アザルージャのコウノトリは畑の真ん中の高い木の上に巣を作っていた。
高い建物がないからかもしれない。
コウノトリが、遠くの草原を歩く姿を初めて見た。
《画伯夫妻の住まいとコルク作品》
画伯夫妻は4年前訪ねた家を引っ越し〈アザルージャ〉の町から離れた田園地帯の平屋一軒家の住まいに移り住んでいた。
民宿ホテルから歩いて10分。広いテラス付きの小奇麗なアットホームであった。
画伯の強みはポルトガル語が堪能。カフェで知り合った地元の友達からの情報で、安くて広い家探しは容易(たやす)い日常茶飯事だ。
語学力は身を助ける宝だった。キッチンには大きな丸テーブルを囲む椅子が6脚ほどある。
管理人のマニュエルさんもお呼ばれされ椅子に座っていた。
ポルトガル産の赤ワインがあり、白ワインが並ぶ。コルクの鉢皿には大きな西洋クルミが山盛り。
個々が使う大きな皿の下には、コルクの敷きもの。コルク作品は画伯の趣味だった。
この地方はかつてコルク樫の木が豊富で、その表皮を9年に一度、厚く帯状に剥ぎとり乾燥させ、ワインのコルク栓(せん)造りで生計を立てていた。
しかし〔ポートワイン〕で世界的に名高いポルトガルワインのそのコルク栓の需要が減り、コルク樫の大木も老齢化。
ポルトガル各地を歩き回り、老衰化した大樹のコルク樫群を我らはあちこちの地で見た。
ポルトガルのコルク産業は世界の90パーセントを占めていたが、今は世界の55%に落ち込んでいると聞く。
でも、コルク生産量は今も世界一を誇っている。
そんなポルトガルのコルク産業を反映して、現在〈アザルージャ〉のコルク製造工場は一っケ所しかないと画伯が教えてくれた。
手先が器用なドン・ガバチョ画伯の家には、コルク製品造りの部屋もある。
本業仕事の余暇にコルクアイディア製品造りを堪能している。
部屋の隅の電気スタンドのコルク傘から四方に神秘的な明かりが漏れている。
コルクの切れっぱしは飲み仲間のみんなが持って来てくれるそうだ。
画伯のコルク作品は〈アザルージャ〉市民の人気者になっていた。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルの産業ってなんですか?と写真展などでよく聞かれる。
産業らしい産業はないのだが、コルクの生産量は世界で1番である。
最近はワインにコルク栓がつきものでなくなってきた。
開けにくいし、割高であるし、保存がむずかしいからだと思う。
コルク栓がついているものは、いいワインである。
その中でもポルトガル産の焼き印が入っているものは、高級ワインである。
《予期せぬ出来事》
『ドン・ガバチョさん、楽しみにお待ちだったと思います、(息を飲む)不覚をやらかしました。
リスボン空港に着いた、その深夜のタクシーに置き忘れ、〔煙〕のごとく消え去りましたツ―カートンの高級煙草(悔し涙が・・)ご免なさい!』と、
夕餉の宴が始まる初っ端(しょっぱな)相棒のカメラマンが口惜し気に、吐いた。
普段、余計なことは喋(しゃべ)らない相棒の短い熱弁に、画伯夫妻は驚く。
それ以上に驚いたのは野老だった。
〔煙草紛失事件は夫人にそっと言っておいて、と〕突然の〔穴があったら入りたい〕気持ちの相棒の懺悔(ざんけ)に
吃驚(びっくり)シャックリしたご夫妻と野老だった。
相棒はカトリーヌ夫人から出国前日、メールで頼まれたものがある。
それは〔画伯好みのピース(煙草)ツ―カートン〕だった。
セントレア(中部国際空港)の免税店で買い、大切に常に飛行機の中でも身近に置き、袋のまま持ち歩き、深夜リスボンのホテルまで乗って来たタクシーの中に置き忘れ、
無情にも走り去った深夜タクシーの会社名も判らず、後はそのタクシーに乗った客か運転手が気づき、ホテルに届けてくれる一途の運に任せた。
翌朝、首都〈リスボン〉の北東にある隣国スペイン国境20kmにあるベイラ・バイシャ地方の中心地〈カステロ・ブランコ〉に旅立つ時間になっても、なんの連絡もなかった。
「野老が帰国したら煙草と記念写真をセントレアの郵便局から贈っておくからね」
この心やさしい野老の慰めの一言が、帰国後の野老の気を揉(も)む日々を送る要因になるとは思いもしなかった。
「かえって辛い思いをさせたね。頼まなければ辛い思いをさせずにすんだのにね」画伯の優しい言葉があった。
その場をサラッと切り替えたのが、陽気なカトリーヌ夫人。機転が利く。
「冷めないうちに食べてよ〜ゥ!」管理人のマニュエルさんも目の前で何が起こったのか大きな瞳を見開いていたが、彼も夫人の言葉で救われようだった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルには、売っていない日本のたばこをお土産にしようと思い、はじめてセントレア空港の免税店でたばこ2カートンを買った。
大きな荷物はすでに預けていた後であったので、手持ちで持っていくことになる。
免税店の袋は、みんなが持っていて、間違えやすいと思い、持参のエコバックの中に入れて持つことにした。
フランクフルトで乗り換えて、リスボンの空港を出て、タクシーに乗るところまでは、確かに持っていた。
タクシーの座席の横に置いてホテルの住所メモとかと運転手に伝えて、倒されたメーターを見ながら、支払う料金を用意していた。
ホテル前に着き、荷物を降ろしたりしたり、料金を払ったりしているうちに座席の横に置いたタバコの入ったエコバックのこと、すっかり忘れてしまった。
気が付いたのは、ホテルの部屋に入って、あらためて荷物を見たときだった。
・・・ない・・・ すでに遅し・・・ 不覚であった。
《夕餉の宴》
野老もドン・ガバチョ画伯に土産を用意して来た。
鹿児島産と熊本産の芋焼酎。700mlビンと一升カートンと日本産胡瓜2本。
芋焼酎に胡瓜の輪切りを入れ飲むと、味がメロン味になる。
この飲み方は何を隠そう画伯から伝授された裏技である。
料理はポルトガル料理を日本風にアレンジされ絶妙な美味さだった。野老は赤ワインを飲む。
2時間が過ぎた。相棒の目元が半眼気味。眠いようだ。20時30分。
夕日が沈み夕焼け空を期待して画伯宅を後にした。帰り掛け夫人が「明日の朝ご飯は8時よ。待っているわよ」と声をかけてくれた。
≪余談:日本の煙草ツ―カートンと記念写真の小包+送料で3倍の料金。
心を痛めたのはお金じゃない。仕事振りであった。
ヤキモキしたのは自宅から電車で10分のセントレア空港の郵便局から空港便で送ったのに、
現地〈アザルージャ〉の画伯宅に着くのに4週間近くもかかるとは想像外であった。
10日も過ぎた頃メールで問うと「まだ・・・」。
即刻、名鉄に乗りセントレア空港の郵便局の局長に訪ねた。
15分ほど待たされた返答は、現地リスボンの税関事務所には確かに着いたチェックはあるとのこと。
この後は発送先の方に、最寄(もよ)りの郵便局に直接聞いて欲しいと。〔そんな〜あ!〕。
そんな、ものなのだ。
日本では信じられぬことが、当たり前のようにポルトガルでは、お国柄気質でもあろうか〔のんびり〕と時は流れているようだ。
画伯から丁寧なメールが届いた。送った煙草の写真も付加されて!
今回の旅の想い出として、深く野老の心の壺にずっしりと残った。
ドン・ガバチョ画伯ご夫妻さま、オブリガード!≫
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2018年4月に掲載いたしました。
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