「ポー君の旅日記」 ☆ カルモ教会の人骨堂とコウノトリの町のファーロ3 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2018紀行文・5≫
=== 第2章●ファーロ起点の旅 ===
アルコ・ダ・ヴィラの門をくぐるとイスラム支配時代を彷彿させる旧市街地であった
《妙薬》
ポルトガルに来て5日目、5月21日(月)の朝は曇り空。
8時のモーニングタイムをすませ、すぐ近くの〔カルモ教会〕に行く。
18世紀に建設された外観の美しい教会は〔ファーロ〕の中心地から北に700mほど離れている。
朝の教会前の広場は、今朝は朝市がないため広く見える。
半円状の石段を上がった所にあるファサード(正面入り口)は、9時前で閉まっていた。
そのファサードから青紫色の花を咲かせた〔ジャカランダ〕の枝越しに広場を眺め、『発見??』と写真家は一言吐き、階段を軽快に足早(あしばや)に下って行く。
階段を登った時、今日1回目の激痛が〔尻ともも〕の付け根に走り、〔一回休みの60秒〕に耐え忍んでいた野老は、目で写真家を追う。
広場を囲んでレストランなどがある一角の建物に入る姿を確認。す〜ウと、60秒が過ぎると不思議に激痛が消えた。
日本を発つ前、かかりつけの知多半島の新舞子海岸通りにあるクリニックの〔マイドクター〕は言った。
痛みが起こらない飲み薬はない、痛みを即刻(そっこく)消す塗り薬もない。
耐え忍ぶこと、それが薬だと。なんとも切(せつ)ないお言葉だった。
ま、気休めの痛み止めの飲み薬は出しておく、と。
なんと顔は怖いが心根の優しい先生だろう、か。
もらって来たが、未だにその薬は飲んではいない。
自分で編み出した〔双六みたいな一回休み〕の「妙薬60秒間」に頼(たよ)っている。
「けいの豆日記ノート」
昨日のアントニオの帰りに寄るはずだったタヴィラが大雨になった。
カフェで1時間程過ごしたが、やみそうになく、翌日でなおすことにして、ファーロに戻ってきた。
カルモ教会の人骨堂をぜひ見たかったので、タヴィラに行く前に見ることにした。
9時オープンと記載があっても、9時に開くことはなさそうであったので、ただ待つのはもったいないので、周りを見ることにした。
果物の広告が壁になっている建物があったので、スーパーマーケットだと思った。
入り口が狭いので、目立たないが、スーパーであった。
時間つぶしには、ちょうどいいので、のぞいてみた。
買わないけど見るのは好きである。
《ウヰスキーとワインと日本語》
写真家が入った店は、小さなスーパーマーケットだったが早朝から賑わっていた。
食品関係が中心で、魚も肉もワインも豊富。野老が愛飲している黄色のラベルに、白い帆の数20帆に海風を目一杯ふくらませ、15世紀からの〔ポルトガル大航海時代〕の躍進の夢を乗せ、世界の大海を走破させた〔カラベル帆船〕のような絵柄のウヰスキー〔CUTTYSARK・SCOTLAND〕は、日本の〔イオン〕で買う方が安かった。
ワイン産地の国でもあるポルトガル産が棚を飾り、豊富でしかも安い。
水より安いワインは、種類が多いから飲み比べが楽しめる。
ちなみに、野老が好きなポルトガルワインは〔ポルト産〕の〔RAMOS PINTO/LAGRIMA〕だが、ここのスーパーマーケットには、置いてなかった。
日本ではなかなか手に入らないワインだ。
10回目の今回の〔撮影取材旅〕は、行く先々の町々のワイン店に飛び込み、一本でも探し求め帰国したいものだ。
ワイン(vinhoヴィーニョ)には、赤ワイン(vinho tintoヴィーニョ デイント)と白ワイン(vinho brancoヴィーニョ ブランコ)があるが、
野老はどちらかと言うと〔白〕が好き。
ここはトーンを落として報告したい。でないと、クビに。
スーパーマーケットは楽しい。地元のポルトガルの人々に間近で会えるし、拙(つたな)いポルトガル語会話が楽しめる。
経験的〔野老論〕になるが、臆(おく)する事なくジャンジャン日本語で語りかけた方が、話しかけた方が、喜ばれたのだった。
日本人のサッカー選手の名前だってガンガン〔自慢気〕に飛び出す。
『ありがとう』『おはよう』『折り紙』『焼酎』『海苔巻き』『大工』『包丁』なんていう言葉だって茶飯事(さはんじ)に飛んでくる。
〔日本語〕を日本人にしゃべりたいという庶民行為は世界共通なのだ。
野老だって、知ってるポルトガル語は声に出したい。
通じた時の嬉しさは、一入(ひとしお)だ。
現在78歳の野老は、嬉々と日本語をルンルン調子で臆(おく)することなく、少しばかりのユーモアを添えながら旅を楽しんでいる。
しかし、勝手ではあるが先の長い若人(わこうど)は、しっかりとポルトガル語を身につけ仕事人として来て欲しい、と老婆心(老爺心)的には思う野老であった。
腕時計を見た。
9時30分。慌(あわ)てて、カルモ教会に戻った。
入り口で2ユーロを払い、教会に入る。
さほど大きくはない〔カルモ教会〕の礼拝堂は見事だった。
祭壇の手前右に王冠を頭に乗せた白いマリアの大きい像が浮かび上がって立ち、その左手奥の中央に十字架を背負ったキリスト像がある。
見事なのはその背景や天井模様の細工されたバロック様式絵模様が浮んで神秘的だった。
そして祭壇横の通路から狭い中庭に出て「人骨堂」に入る。
壁から天井までギッシリ整然と埋め込まれた修道士たちの人骨や髑髏(ドクロ)。
1500体以上が余りにもデザイン的な配置なので、ありがたいことに恐怖感は起きない。
そう言えば、城壁に囲まれたアレンテージョ地方の古都〔エヴォラ〕にある16世紀に建てられた〔サン・フランシスコ教会〕には、
生々しい5000体の「人骨堂」があった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガルで最初に見た人骨堂は、ファーロのカルモ教会であった。
本物の骨が使われているとは思っていなかった。
こういうデザインなのかとも考えたが、本物であった。
エヴォラの人骨堂も2回みたが、ファーロよりかなり規模が大きい。
気持ち悪さはないが、夜になると修道士たちの霊がさまよっているかもしれない。
日本だと心霊スポットになってかも。
《コウノトリとオレンジの実》
ポルトガル南部大西洋沿岸〔アルガルヴェ〕地方の中心地〔ファーロ〕には歴史地区がある。
ヨットや小型クルーザーが停泊するマリーナ前に、旧市街地の歴史地区に入る狭い門がある。
日本的には、軽自動車がスレスレに通過出来るほどの狭きその門の上には、小枝を集めて幅2mほどもある巣造りをし、子育て中のコウノトリがいる。
ポルトガルでは日常茶飯事的光景である。
2年前の2016年に隣国スペインとの東側国境線に近いポルトガルの「歴史的な村」巡りをしていた時、ほんの3mもない至近距離目前で半日も座って
コウノトリの子育てや巣から2mもの白地に黒地のエッジの羽を広げ大空に飛び立つ姿に感動し、
赤い長い嘴(くちばし)を上下で合わせ打ち鳴らすカタカタ〔音〕での伝達。
コウノトリは成長すると声帯が退化し声が出なくなる。
打ち鳴らす強弱と間(ま)が、〔声〕なのだ。
そんなコウノトリがいる〔アルコ・ダ・ヴィラ〕の城門をくぐった。
周囲は城壁で囲まれ、旧市街地はイスラム支配時代を彷彿させる細い石畳の通路が入り組んでいる。
そして、中世に造られた石組みの建物がひっそり寂しげに並び、一面に茶色の花模様のタイル張り外壁が細い石畳の道と共存して、かつての生活空間を連想させてくれる。
また、狭い木製の扉のデザイン細工が日本の三重県鈴鹿市に伝わる伝統工芸〔伊勢型紙〕模様のようだった。
そんな雰囲気を楽しみながらピカピカに磨(す)り減った石畳の坂道を登って行くと、ファーロの空港から飛び立った飛行機が旧市街地の上を低空で飛んで行った。
街路樹が何故か目を引く広場に出る。
若い男が野老の目の前で若い娘を正面から抱え込み、持ち上げる。
娘は長いしなやかな腕を伸ばしオレンジの実をむしり取る。
どのオレンジの街路樹も食べ頃の実が鈴なりだった。
「けいの豆日記ノート」
コウノトリと初めて出会った町がファーロであった。
それまで、ポルトガルにコウノトリがいることすら知らなかった。
ガイド本に、ひとことも記載がなく、コウノトリのポルトガル語も載っていなかった。
どの町にいるのかもわからず、偶然、見つけるしかないのである。
田舎に行けば、どこでもいるわけでもなく、今まで5か所の町や村でしか見たことがない。
《大聖堂の屋上》
オレンジの街路樹に囲まれた広場には、2階建の白い壁の市庁舎と茶色の石組のカテドラル(大聖堂)がある。
3.5ユーロ支払って狭く長い石段を登る。
〔大聖堂〕の屋上からの景観は一級品だった。
景観を楽しむ前に静止の〔60秒間〕が必要になっていた。
何十段もある急勾配の石段は当然なるべきして〔尻ともも〕の付根を刺激。
激痛で〔1回休み〕の〔60秒間の妙薬〕の効き目があるまで耐え忍ぶ。
今日2回目の儀式も、3秒前、2秒前、1秒前、ス〜と消えた。
眼下景観。
オレンジの街路樹がさほど広くない広場を囲み、白壁に統一された小窓が横一列に並んだ細長い市庁舎の後方には、
〔ラグーン〕と呼ばれている浅瀬の海にはヨットやモーターボートや小型漁船の群れが見え、更に砂浜と水面が折り重なるように果てし無い。
大西洋までどれほどあろうか。その宏大な浅瀬地帯ラグーンは、水鳥の生息地でもある。
右手の〔マリーナ〕には100艘以上の船舶。
マリーナに接してファーロ最大規模の4つ星高級ホテル〔エヴァ〕。
86ユーロ〜220ユーロ(一部屋一泊28600円)。
野老たちの宿泊先はここから1キロほど北の〔カルモ教会〕の広場脇。
週末には露天朝市が楽しめる安宿だった。
急勾配の石段を登り屋上に出る、出入り口の真上に3つの鐘楼とニワトリの風見鶏。
どんな音がするか聞きたいと写真家は真顔で言った。
補聴器なしでも聞こえるよ、と追加のお言葉もあり。
それも、真顔で言うから恐ろしい。
「けいの豆日記ノート」
旧市街地を歩いていると、カテドラルの屋上に人がいるのが見えた。
屋上にあがれると知らなかったので、カテドラルに行って見た。
じつは、2日前のリスボンからファーロに着いた日の午後にもカテドラルに来ていた。
礼拝堂は開いていたので、見たつもりでいた。
カテドラルの横に入口があり、拝観料が必要であった。
中庭と屋上と礼拝堂2階にある宝物殿が見れるのであった。
初めに来た土曜日午後は休館であったのである。
曇り空であったので、少し残念であったが、ラグーンの海がよく見えた。
《細工模様》
相棒は高い所へは平気で登る。
写真家にとって、情報採取は高みの見物が欠かせない。
しかし、相棒には難点がある。行きはヨイヨイ、帰りが怖い。
屋上に登って来た急勾配には手摺が付いていたが、降りる時は両手で手摺を握り締め一段一段、まるで蟹の横ばい歩き。
他の観光客に、お先にどうぞとゆずるが、なにせ狭い急勾配。
相棒は手摺にぺったり貼りつきゆずるが、通れない関取みたいな観光客が多い。
北欧の観光客は、立派な体格の方々が多いことがわかった。
2000人は収容できる大聖堂だった。いくつかある祭壇を飾る彫刻やアズレージョ(装飾タイル画)は見ていて飽きない。
それに、日本でいう〔欄間〕細工模様は八角形だが、その空間を埋め尽くす龍か鳥類かが折り重なった欄間細工が見事で唸った。
見上げた〔パイプオルガン〕の細工模様も間近で見たかった。
「けいの豆日記ノート」
城壁や城跡などの石の階段は、手すりがないことがほとんどである。
登るときは、目の前に階段があり近いので、どんどん登れる。
でも降りるときは、目に見える階段までが遠く、空中に足を出している感じですごく怖いのである。
子供の時から近視であったので、足元がよく見えず、転びそうになったことがよくある。
実際、転んだことも多い。
今の年齢で転ぶと、骨折になる可能性が高いため、転ばないように細心の注意を払っているのである。
《看板の、鮨magoya 》
店舗の大きな一枚ガラスに書かれた文字〔鮨〕と〔magoya〕。
その下に4枚の写真。左から、何を巻いたか分からない海苔巻き寿司とサーモンのにぎり。
その右、箸で掴み上げた海苔巻き寿司。
その右、海苔でなくぶつぶつの小さなつぶ卵で巻いた巻き寿司を醤油につける瞬間。
その右、シャケで巻いた巻き寿司。どう見ても美味そうではない。でも、写真家は『気になるのよ、ね』と店に入る。
「おい、おい、こんな鮨、食べたくないよ」と、野老。
メニューを見て注文したのは、焼きそばチキン(6.9ユーロ)とサラダ(1.8ユーロ)一人前。
サグレス生ビール(1.2ユーロ)、7ナップ(1.6ユーロ)で計11.5ユーロ(1495円)。
二人分の昼食代である。サラダはキャベツの太めの千切り。
生ビールより7ナップの方が高い。水はもっと高いし、氷も入っていない。
日本は惜しみなく透明な氷に美味しい透明な水が只(ただ・ロハ)。
こんな有難いお国に住む我らは幸せ者だ、とつくづく思う。
写真家は料金を支払って『やっぱりね』と微笑んだ。
レシートには「magoya」ではなく「nagoya」と記されていた。
店ができ、オープンした時は間違っているのに気付いていたが、直す金が勿体なかったに違いない。
寛容なのだ。昼時間なのに客は我らだけ。納得して店を出た。
寿司ブーム、日本食ブームの便乗組店か系列店か〔鮨osaka〕もあった。
首都リスボンでの〔鮨Yakuza〕には、思わず声を上げて笑ってしまった。
「けいの豆日記ノート」
世界中で、日本がブームだという。
特に日本食がブームらしい。
ポルトガルに行きだした18年前から日本料理店はリスボンに数軒存在した。
正当な日本料理であり、値段も高いが味もよかった。
10年ほど前から、日本料理という名前の中華料理店が出てきた。
ビュッフェ方式が多く、中華料理の中に巻き寿司らしき料理が入っていた。
リスボンで食べたことがあるが、1人12ユーロくらいであった。
今回の旅で、店名が日本の地名を使っている日本料理店風の中華料理の店をたくさん見た。
よく見た地名は、「東京」「大阪」「名古屋」などである。
チェーン店なのかはわからないが、看板のメニューの内容はよく似ている。
ナゴヤnagoyaでもマゴヤmagoyaでも日本の地名を知らないポルトガルやヨーロッパの人にとってはどちらでもよく、マゴヤmagoyaのままなのだと思う。
店の人に「ナゴヤ?マゴヤ?」と聞いたときの苦笑いが、間違っているのを知っていて、そのままなのだなと思った。
このへんが、よく言えばポルトガルのおおらかさ、悪く言えばいいかげんなのである。
《数珠つなぎ》
ヨーロッパの人々に人気があるというか、知名度が高いのに、日本ではあまり知られていないのが、ポルトガル最南端の〔アルガルヴェ〕地方だ。
大西洋にあるのに気候は地中海沿岸のよう。
夏は22度、冬でも16度以下にはならないというリゾート地帯である。
その中心都市が〔ファーロ〕。ここには、イギリスやドイツからの便利な直行便の空港がある。
冬でも太陽を求め北欧四国の〔ノルウエー〕〔スエーデン〕〔フィンランド〕〔デンマーク〕の人々やイギリス、アイスランド、
ドイツの人がやって来る、知る人ぞ知る人気のリゾート地が数珠(じゅず)つなぎの南端地帯である。
そのリゾート地を追い追い〔撮影取材旅〕でお知らせしたいと思う。
さて、野老の知人に知多半島の伊勢湾側の〔内海・うつみ〕海岸で代々、鰻屋「三晴楼」を開業する日焼けしたサーファーがいる。
名古屋の鰻は関東風のように〔蒸す〕という工程が無くガンガン焼く。
固め焼きだから細かく切ってたべる名高い名古屋名物〔ひつまぶし〕がいただける。
しかし、細身の日焼けしたサーファーご主人の焼く鰻は名古屋風だが、焦げ目も繊細な〔うなぎにやさしい〕ふっくら仕上げ。
(あ〜、書いていて食いたくなった)
その彼が、『ポルトガルの海は、波は最高』だという。
1954年のフランス映画『過去をもつ愛情』で、主題歌〔暗いはしけ〕をアマリア・ロドリゲスが歌ったシーンの港町〔ナザレ〕。
この海岸に打ち寄せる高波は、世界中のサーファー泣かせの、一生で一度は挑戦したい波が来る海岸だと、しっとり美味い蒲焼を焼く彼は言う。
そして、更に、ぜひ行きたいのは〔アルガルヴェ〕地方の〔ユーラシア大陸〕最西南端の町〔サグレス〕だという。
岬の突端には、15世紀〔ポルトガルの大航海時代〕の幕開けの基盤を作ったエンリケ航海王子設立の航海学校の要塞があることで知られ、
ポルトガルのビールで知られる「サグレス」は、この地の名前だった。
高さ75mの断崖に折り重なって押し寄せる大波。
この大波に一度は身を委(ゆだ)ねたいとオヤジは夢心地で言った。
(やがて、今回の撮影取材旅で行きますのでおたのしみ)に。
「けいの豆日記ノート」
以前、名古屋にのラシックにあったポルトガル料理店が「ヴィラ・モウラ」という名前であった。
ポルトガル南のアルガルヴェ地方のファーロとアルガルヴェの中間にあるリゾート地から取った名前である。
女子サッカーのなでしこジャパンが「アルガルヴェ杯」でポルトガルの南部で試合があった。
アリーナにあるヨットもほとんどが外国人の所有である。
ゴルフ場なども広くて快適で安いらしい。
リッチな人たちがバカンスを過ごすには最高の場所である。
ポルトガルの経済低迷を救う観光客はありがたい存在である。
《ファーロ散策》
この小さな〔ファーロ〕も、強烈な歴史が刻まれた地であった。
今しがた我らが急勾配の石段を登った建物〔大聖堂〕だが、この場所はかつては〔ローマの神殿〕が建っていた。
その跡に西ゴート族が〔キリスト教会〕を築き、その跡にイスラム教の〔モスク〕が建てられ、1249年にイスラム教徒から奪回し、
2年後にはモスクを取り壊し〔大聖堂〕を建てたアフォンソ3世の銅像が建物の脇に立っている現在の光景がある。
この場所は、ローマ時代から〔ファーロの中心〕だったことになる。
ラグーン沿いにある城壁に囲まれた旧市街地のど真ん中に〔大聖堂〕はあったのだ。
ファーロの町中の散策も楽しめた。13世紀にイスラム教徒が追放されたのに裏通りには、その時代の雰囲気を保つ建物も多い。
人が住んでいる気配はないが、落書きされた記念品だと思えば写真の対象になる建物が残っている。
数字の文字の石畳模様はなぜか暗号っぽく、線路模様の石畳は何故かその上を走りたくなる。
フェネイラ・ナト通りは、素敵な王家の紋章模様の石畳。端(はし)っこを歩いて宿に帰る。
宿泊する宿の横のレストラン〔TASKA〕。ここの〔干し鱈料理〕は、極ウマだった。
もし、お店に入って何を頼んだらいいかわからぬ時は『バカヤロ!!』と叫べば、必ず〔鱈料理〕が出て来ると教えてくれたのは、
今、ポルトガルに住む〔ドン・ガバチョ画伯〕だ。
〔干し鱈〕はポルトガル語で『バカリュ!!』と言うからだった。
今まで野老は、やったことがない。
どなたか一度お試しくださって、その結果をお教えくださいませ。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガル語のアルファベットは26文字でなく、22文字だという。
YやKがないので、私の名前はめずらしいと思う。
泊まったホテル横に「TASKA」という店があった。
ポルトガル標記だと「TASCA」なのにと気になっていた。
ガイド本を見るとレストランの紹介のページに載っていた。
なかなか、紹介されている店に行くことができないので、入ってみようと思った。
店の前のおすすめの料理にバカリュウがあったので、それにすることにした。
「バカリュウ・ア・ゴメス・デ・サ」という干しタラと玉ねぎとジャガイモをオープンで焼いた料理である。
タラの切り身が大きくて、タラを食べています感があり、さすがガイド本に載るだけはあるなと思った。
《ファーロの思い出》
〔アルコ・ダ・ヴィラ〕の門の横にあるトウリズモ(観光案内所)で、地図や資料を只(ただ)で貰ったお礼に「折鶴」を係りの二人の女性に差し出す相棒。
『アラ!!』と『マ〜ア!!』の笑顔が、相棒はたまらないのだった。
ぶ厚い記帳簿があったので相棒は記帳する。
どこの町に行っても、記帳簿があれば、懇切丁寧に〔日本語〕で書き残す。
すると、たまにだが、この『愛しのポルトガル写真集』のHPに投稿が来る。
ドコドコで見ましたよ〜!!と。
「けいの豆日記ノート」
小さな町の博物館や美術館やホテルの入口などに、ノートが置いてあることがある。
都会のリスボンやポルトにはほとんどない。
訪れる人が多すぎて、ノートの管理もできないのかもしれない。
それに混んでいると書いている暇も時間もない。
ノートをめくって日本語を探すが、めったにお目にかかれない。
日本語でしか書けないので、だれも読めないだろいとは思うが、アルファベットでない文字が書かれているのは、珍しくていいかなと思う。
ホームページのアドレスも書いておくので、ひょっとして誰かが見てくれたらうれしいかもくらいの気持ちなので、期待はしていない。
マリーナの近くの裏通りで、15年前に泊まった宿の入り口を写真家は目敏(めざと)く発見。
通りの石畳から直(ちょく)に細く狭い急階段の入り口がある。
この階段を大きな旅行バックをどう持ち上げ運び上げたのだろう。15年前は、若かった。
と言っても野老63歳か。
この薄汚れた宿を起点に〔アルガルヴェ〕地方の海岸線の町々を連日歩き回り〔撮影取材旅〕を続けたその勇気に妙に感じ入る野老がいた。
「けいの豆日記ノート」
以前に泊まったホテル(レシデンシャル・オセアノ)は、健在であった。
今でも昔のこと、思い出す。
ファーロから次の予定地は、エヴォラの先のエストレモスであった。
バスしか行けないので、時刻表をバスターミナルで確認したつもりであった。
当日の朝、ホテルのみんなにサヨナラをして大きな荷物をガラガラひいて歩いて向かった。
バスターミナルに行くと乗るはずのバスがなかった。
ポルトガルの時刻表は、「土日休み、土日のみ運行、水曜休み、金曜のみ運行」など、毎日同じ時間に運行していない。
そのことを時刻表には記載があったのだろうが、見方がわからなかった。
結局、その日の運行はなく、翌日の朝のバスしかなかった。
しかたがないので、またガラガラ荷物をひいてホテルに戻り、もう1泊したのである。
失敗はつきものだが、それを教訓にして次につなげたいと思う。
サックスの音色が昼さがりの街角から流れる。
老いた路上演奏者の前の楽器ケースに相棒は銭を落す。
路上アコーディオン弾きの若者の前の小犬がくわえる小銭入れにも。
路上芸人が相棒は好きだった。
狭い石畳レストラン街。日差しをさえぎる白い三角形の帆型シートが海風(ラグーン風)で舞う。
レストランの夜の部は夕日が落ちる21時ころ。
ファーロの老舗レストランカフェ〔アルランカ〕の女将も忙しいが、写真家の要望で店内撮影を快(こころよ)く了承してくれた。
ラグーンの空が夕焼けで染まっていった。
●漢字に(・・・)と読みを容れていますが、読者の中に小・中学性の孫娘達がいますので了承ください。(野老)●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2018年12月に掲載いたしました。・・・・・・・
|