「ポー君の旅日記」 ☆ 万博の国際公園とオリエンテ駅のリスボン19 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2018紀行文・1≫
=== 第1章●リスボン起点の旅 === 今も賑わう1998年開催の万博公園
《 旅はこれだからやめられない 》
この度、そう、この旅の2日目(5月18日)。
首都リスボンの地下鉄の駅[カンポ・グランデ]で下車し、地上に出ると広い石畳の広場が開ける。
そこが[カンポ・グランデ バスターミナル]だ。
ここから【オビドス】や【マフラ】行きなどリスボン近郊行きの発着停になっている。
バスターミナルが余りにも広いため、目的地発着停探しに手こずる。そのバス停探しがしんどかった。
最近頓(とみ)にだが、坂道を100mも歩けば、〔尻ともも〕の付け根の筋肉に激痛が走る。
1歩も歩けない。立ち止まって、60秒ほど待つ。す〜と、痛さが消えていく。
自然に足が動き出す。
今回の[撮影取材旅]は、この連続の旅でもあった。
その【オビドス】に向かう高速バスが、われらに夢心地を惜しみなく与えてくれた。
目的地に着くまで爆睡(ばくすい)させてくれたのだ。
やっと目的地の発着停を見つけバスに乗り込み、指定の座席に身を沈めるや相棒の写真家は、瞬時にがくり睡魔(すいま)の世界に落ちていった。
18年来、ポルトガル旅のボディガードマンと自負していたが、そういう我身も体力ガタ落ち野老(やろう)になっている。
ポルトガル共和国の[撮影取材旅]に今回も写真家からのご指名があり、感涙をそっと密かに押さえ、出向いて来た10回目のポルトガル紀行であった。
野老・すぎさんが相棒?写真家と、ポルトガル共和国を初めて訪問したのは、今も脳裏から未だ離れない、
あの2001年9月11日の思い出したくもない『9・11ニューヨーク同時多発テロ事件』。
その11日後の22日が、野老(当時62歳)のポルトガル共和国初紀行の第一歩である。
『初々(ういうい)しい記念日』から、17年が過ぎていた。
野老も本年5月現在、78歳になっている。
相棒の写真家は若い。歳を公言すれば、即刻クビだ。ご子息夫婦にふたりの孫娘が誕生していることは、そっとお知らせしておくのも粋(いき)かも。
この間に、相棒の母君も85歳で、野老の母殿も102歳の福寿で、仲良く長寿天命をまっとうしてくれた。
帰国6日後の2018年6月12日は、米国大統領?トランプと北朝鮮労働党委員長・キムとの歴史的首脳会談が行われ、
これからの歴史がどう動くか転がるか、世界が注目した日であった。
我らの旅には、世界的ニュースが絡(から)んでくる。
しかし、我らの旅は飄々(ひょうひょう)と地味で、1日2万歩のコツコツ撮影日々こそが、目標とする旅である。
その一歩一歩が、やめられない10回目の[ポルトガル撮影取材紀行旅]につながった。
「けいの豆日記ノート」
ポルトガル撮影取材も今回で10回目となった。
いつも、今回で最後かもしれないという気持ちで旅をしている。
でも、終わると同時に次に行きたい町や場所がどんどんわいてくる。
1年後、2年後に行く機会ができると、できなくても無理やり作ると、また行ってしまうのである。
《 名古屋・ドイツ・ポルトガル 》
我らの旅はいつも素直にコツコツと進む旅ではなかった。
紆余屈折(うよくっせつ)色々とあったが、試行錯誤(しこうさくご)のそのひとつひとつに心が揺れ動いていては、先に展開する旅がやってこない。
一つの句読点の位置に心を奪われていては、文章は先には進めないと同じである。
では、なぜ高速バス車中で我らに爆睡が襲ったのか。
その理由(わけ)を分かっていただく必要がある。
この旅の初日である昨日(5月17日)の、愛知県の知多半島にある古来より「常滑焼・とこなめやき」で
名高い常滑市沖のセントレア(中部国際空港)出発時からの行程模様をお知らせしたい。
中部国際空港・セントレアでの、チェックイン(搭乗手続)は朝7時50分。
出国手続も順調にすむ。ルフトハンザドイツ航空の400人乗り飛行機は満席。
15分遅れの9時45分無事離陸した。
飛行時間12時間余りで、時差8時間のドイツのフランクフルト空港に15時着陸。
ここでの、入国出国検査と税関は手厳しい。
そんな訳はないが、そんな風に野老の目には写った。
不安げな顔が並ぶ長蛇の列。順番が近づくとなぜかドキドキする野老の場合。
1つ目のトレイ〔頭から順に、帽子・メガネ・黒の長袖下着の上に着たポケットいっぱいのハンターチョッキ・首に下げたパスポート入れ袋・愛用サスペンダー・腰の2008年相棒から貰った万歩計・腕の2016年に大須で買った使い込んだ1500円の腕時計に、パスポートと搭乗券〕。
2つ目のトレイ〔リュックサック・中にポルトガル資料や2001年来の旅の友 地球の歩き方・使い込んだ2004年版の 旅の指さし会話帳・ipad1機・初心者必携帯 ipadの使いこなしガイドブック・折りたたみ傘・ビニール雨具・新品手拭い5枚・愛用の オイシイのが好き ロゴ入り防寒ジャンパーなど〕。
3つ目のトレイ〔ショルダーバック・中に紀行文のためのメモ用小型カメラ・充電電池・財布・筆記具・2倍老眼鏡・丸い虫眼鏡・名古屋駅のコンコースで配布された広告入り小型テイシュ20袋・大好きな二層飴玉2袋と胡麻入り醤油焼き堅焼煎餅20枚・逸品の鱈のチーズ重ねなど〕。
それらが、ピカピカに磨かれ並べられた回転棒のラインに乗って、コトコトゆっくり放射線探知機に向かって流されていく。
野老本人は探知機ゲートに入り、肩幅より広く印された左右の足跡に我が短い脚を目一杯広げ、のせた。
脚の短さをナメられたようでムカツク。
ガニ股のまま両手を左右水平に広げ、手首を折って下に向ける。
まるで、知多半島の先端の太平洋に浮かぶ日間賀島(ひまかじま)名物の干し蛸(たこ)の姿だった。
この姿に老若男女は有無なく容赦なくさせられる。
女性にはちょっとばかり可愛そうだ。
野老は身体の検査も、トレイの荷物の方も無事通過した。
身支度しているところに相棒が寄ってきた。裸足だった。
女性の靴は、底が厚い。隠し入れ可能な厚さの靴は、トレイの上。
徹底した検査に納得だが、なかなかやってくれる。
検査の長蛇の列は遅々(ちち)と進まず、時間がかかる。
通過するのに1時間以上は充分かかった。
「けいの豆日記ノート」
フランクフルトの検査で、ドームを通ると金属類を持っているとランプがつく機械で、ランプなどついたことはなかった。
これが、2016年の前回の旅から、機械が新しくなった。
レントゲンのように全身が表示されるのである。
ベルギーのテロ事件があってから、入国検査が厳しくなったのである。
それから、毎回、靴を脱がされるようになったのである。
1人当たりにかかる時間が増えたため、時間もかかり、長蛇の列ができるのである。
《恐れ入谷の鬼子母神》
広い通路に出ると両サイドには土産物屋のオンパレード。
さすが、ビール王国ドイツ。
長いカウンターに大型ジョッキの野郎どもが鈴なり。美味そうに飲んでいる。
旅人は検査の緊張感から解(と)かれ、のどが渇き、鳴る。
長蛇の緊張の1時間の後だ。
通路の自動販売機から、コカコーラゼロをひと缶ガチャリと相棒は落とす。
グイと飲む。そして言った。
『高いね〜エ、3ユーロ(当時1ユーロ130円)だもんな〜。
あツ、悪り〜、のむ〜〜』と、缶を差し出されたが、野老は『いいから、みんなお呑み、1時間は長かったな〜』と微笑む。
乗り換えの待ち時間は長い。
後でゆっくり、水より安い生ビールを楽しもうと決めた。
我らが乗り替えるポルトガルのリスボン空港行き搭乗ゲートは、搭乗券を見ると[Gate z69]とある。
69番ゲートは一番隅っこだ。税関手続が済み通路に出るとこの建物の中を嫌になる程歩かされる。
何しろ遠い、一番端っこのゲートである。
電光掲示板には、Lisboa(リスボン)のLすら出てこない。
出発予定時間は、19時05分。まだ3時間ほどある。
でも、安心していてはならぬ。ころころ搭乗時間が変わるし、搭乗ゲートが変わる。
目と耳には、ありったけの神経を張っていなければならない。
聞き逃したら、見落とししたら〔我らには、明日は無い〕のだ。
1日、日程がかわれば旅の予定は崩壊する。
今回も、旅の企画構成をし、飛行機の往復券手配、宿泊先手配、撮影行程日程表作成、日々の交通手段および切符購入など全て、相棒の写真家が手配実行してくれた。
終始一貫していたのだ。
これこそ、〔恐れ入谷の鬼子母神・おそれいりやのきしもじん〕だ。
「おそれ参りました」と、脱帽である。
「けいの豆日記ノート」
フランクフルト空港は、とても広い。
その広い空港の端から端までの移動をしなくてはならない。
アジアからの飛行機からヨーロッパ内の飛行機の乗り換えは、AゲートからZゲートまでの移動となる。
売店もない端までの移動は時間がかかる。
でも、待ち時間が4時間もあるので、ゆっくりと移動しても時間がたっぷりとある。
以前、6時間も待ち時間があった時に、出発ゲートから外に出たことがある。
空港の外の建物やいつもと違う店など、たくさん見ることができた。
ちょうど、ルフトハンザのストの集会をやっていた。
大きな旗を振りながら大勢の人たちが集まっていた。
ストをやっていても飛行機が飛んでいてよかったと思う。
《オートウオーク》
ルフトハンザ空港の敷地はとてつもなくでかく広い。
その中に建つ建物も半端ではない。
税関検査施設から出て、広い通路をあっちに折れ、こっちに下り、そっちに曲がり、野老の方向音痴はてんてこ舞い。
何度来た所であれ、音痴者でない者には、この不安と恍惚は判るまい。
ここの通路は遠く長い。100m歩かなくても、〔尻ともも〕の付け根の筋肉に激痛が走り、60秒間の完全停止一休みが必要だ。
その休息はどんな薬より効く良薬である。
広い通路には100m近くもある〔オートウオーク〕が何ケ所もある。みんなは当然のごとく、自動で動く平面エスカレーターを走るように歩く。
野老は手すりに両手を置き、じっと忍び乗っている。60秒間で痛さが消えてくれるのを待つ。
ありがたいと心底、思う。神さまのご慈悲のようだった。
もしかしたら、〔鶴〕の恩返しかもしれない。
写真家は撮影のお礼のためにと、旅には必ず日本的な古来絵模様の千代紙を持参。
暇を見つけては何処でも〔折鶴〕を折り、何十羽も常に溜(た)め持つ。
その「折鶴」はお礼の度に、相手の掌(てのひら)に舞っていく。
撮影させてもらった老若男女や教会、修道院の祭壇などにも舞い降りる。
ポルトガルに来る度に1日20羽は飛んで行ったと思う。
単純にみても今回の旅の間に、400羽の「折鶴」が舞い上がって行くだろう。
10回目の今年は何処かで、4千羽目の折鶴が飛び立つかも知れない。
広い通路の両サイドの大きなガラス窓の向こうには、ルフトハンザドイツ航空の飛行機の姿が何機も見える。
機体の後方の羽根に、飛ぶ鳥のマークのロゴがある。それは〔鶴〕。
この偶然は、放って置けない。これこそ〔鶴の恩返し〕ではなかろうか。
〔オートウオーク〕のベルトに両手をかけた野老の脚の痛みが、気持ち良く引いて消えていった。
「けいの豆日記ノート」
ルフトハンザのロゴが鶴ということ、再度、認識した。
以前、ポルトガルの人たち(子供たち)は鶴を知らないという話を聞いたことがあるが、間違いであることを確信した。
「折鶴をあげても鶴を知らないので、わからない。鶴というポルトガル語はない。」という話である。
ポルトガルに鶴はいないかもしれないが、見たことないのと知らないのとでは話が違う。
図鑑でも見れるし、ネットでも見れる。
ルフトハンザの飛行機のロゴが鶴であれば、目にしているはずである。
仮に、飛行機を見たことなくても、テレビのコマーシャルで放映されている。
折鶴をツルでなく、コウノトリにしなくても通じていると思うのである。
ちゃんとポルトガル語でツルの単語はある。
《真夜中のタクシー》
フランクフルト空港を飛び立ったのは、およそ2時間遅れの21時ごろ。
飛行機が雲を割って上空に出ると、雲の海原(うなばら)は夕焼けだった。
雲の厚みの下から夕焼け雲が湧き上がってきた。
機体の小窓から、夕焼けの海原に飛行機が浮かんで見えた。
落日は、21時だった。
リスボン空港には24時前に着き、飛行機から下ろされた荷物がターンテーブルに出てくるのを待つ。
30分もかかり、タクシー乗り場に急げばこれまた長蛇の列が三重四重とトグロのよう。
やっと60代の物腰の柔らかな運転手のタクシーに乗れた。腕時計は、25時を過ぎていた。
相棒が宿の名前・住所・電話番号を記載したノートを見せる。
ごま塩頭が頷き、宿の名前をスマホにインプット。
空港を出た。真夜中のリスボン市街は暗かった。
運転席の半開き窓から肌寒い夜風が吹き込む。
この辺りはリスボンの北部新興地。
南部は眩(まば)ゆい光あふれる大都会だ。
ホテルは10分以内で着く距離だ、と相棒。
しかし、運転手は3度降りて探す。20分も過ぎていた。
同じところをグルグル回っている気配。
相棒が切れた。『電話を掛けてみてください。』親父は渋々コールした。
2分後、ガードマン姿が宿の前で待っていた。
25時半(真夜中1時30分)だった。
宿の前の通りは広かったが薄暗く、どんな場所か判断がつかなかった。
宿は、〔ホテルパーキュダナコス〕。
ガードマン姿の背の高い男は夜番フロント。
男女別々の共同シャワー室や共同トイレ室を案内し、モーニングは8時半だと食堂を指差した。
トイレ室は10ヶ所、シャワー室も10ヶ所並んでいた。変わったホテルだった。
「けいの豆日記ノート」
数年ほど前からタクシーはスマホに住所の通りの名前など入力すると、候補のホテルがいくつか出てきて、ホテルまでの道順がでるように便利になっている。
リスボンの道は複雑であり、通行規制も多いので、とても助かる機能である。
今回も運転手が住所を入れたのだが、ホテルの名前がでなかった。
結局、そのあたりをホテルを探しながら、グルグルと回ることになった。
あまり、時間がかかるので、タクシーメーターを16ユーロのところで止めてくれた。
順調にいけば、エアポートから地下鉄3つ分の距離なので、基本料金ほどの場所であったのに。
真夜中で、道路には、人影も車もなかった。
やっと見つけた公園にいた男性に聞いたら、フンフンと運転手もわかったようだったのに、たどり着けなかった。
運転手があきらめかけて、降ろされそうになったので、最後の手段でホテルに電話をしてくれるように頼んだ。
電話が通じ、ホテルの前に来た時、みんなが安堵の顔になった。
たどり着けてよかった〜〜〜
(荷物乗せの料金もいれて21ユーロ払うことになったが・・・)
《下見》
5月18日の朝、6時30分。モーニングタイム前に、昨夜探し回ったホテル周辺散策に出た。
昨夜というより今朝(けさ)方、野老はシャワーを浴びて2時半に即眠。
写真家は、波乱の1日分の疲れをシャワーで流し、寝たのは3時半だったと眠そう。
3時間も眠っていなかった。
ホテルは思っていた以上に大きな建物の中にあった。
なぜ地元ベテランタクシードライバーが知らなかったのか、不思議でならない。
大きな通りから緩やかな坂道(Rua de Moscavide)に曲がる角地にホテルはあった。
入り口は坂道面にこじんまりとある。
薄暗い深夜ではわかり難い。そのホテル前の坂道には、10mもある〔栴檀・せんだん〕の街路樹が坂上に連なっていた。
尖った白紫の花びらが駐車する車体の屋根やフロントガラスに張り付いている。
緑葉のなかに白茶色のシワだらけの実が鈴なりだ。
日本でも5月〜9月の漢方薬の木として知られていたが、最近は余り目にしない。
この一帯は新興居住地のようで、広い土地は大掛かりな建設が進行中であった。
ホテルの隣の広大な建設中の土地は、工事看板に描かれた真っ白な外壁の荘厳な教会の絵が目を引く。
野老は坂道の石畳を10分ほどかけて登る。
途中1回休み。まるで双六(すごろく)みたいだと思う。
坂の頂上に国鉄の大きな無人駅〔モスカヴィデ〕があった。5分で着いたと言う写真家。
『明日は、次の〔オリエンテ〕駅で乗り換え、南端の〔アルガルヴェ〕地方の中心地【ファーロ】まで行くから、その下見だよ』と、
諭(さと)すように写真家は言う。
そして、普通列車はどこのホームで何時に停まり、そのホームに渡る通路とエレベーターの可否を40分ほどかけ、確認すると、
『あ〜、良かった〜。タクシー使わないで済みそう』と嬉々。
その嬉しそうな顔を見て、明朝の情景がありありと浮かんだ。
今、登って来た凹凸いっぱいの石畳。大型旅行バック2個の転がる滑車の音。
それぞれが背負うリュックや肩掛けバック計8個の荷物の大移動。
神々しく、脳裏に焼きついた。
「けいの豆日記ノート」
リスボンのホテルは、毎回なるべく違うホテルを選ぶようにしている。
場所が違うと、そこの周りの景色がついでに見れるからである。
ホテルの周りは、わざわざ行く用もない場所であるが、駅までの行き帰りとか、新しい発見も多い。
ネットのホテルのサイトで探すのだが、リスボンの場合、ホテルの数が多いので同じような条件も多く探しやすい。
今回は、次に行く場所を考えて、オリエンテ駅周辺を探した。
このあたりは、新しいホテルが多く、値段も高かった。
始めのホテルは、真夜中に飛行機で着いて寝るだけなので、トイレやシャワールームが共同の安い所にした。
このホテルというか、ホステルはオリエンテ駅の隣駅のモスカヴィデ駅から近かった。
荷物なしで歩くだけなら5分でいける距離である。
エレベーターもあり、ホームも3つもあるのに、無人駅であった。
普通列車しか止まらないが、どの列車に乗ってもオリエンテ駅には止まるので、間違いがないと思った。
《高値の花》
リスボンといえばポルトガルの首都である。
日本の4分の1しかない領地面積の共和国は、15世紀にテージョ川岸からポルトガル大航海時代を築き上げ、莫大な富をもたらした400年の歴史がある。
その富で教会や修道院、大聖堂などこんにち世界的に注目される[世界遺産]を多々残している。
今回の旅も追い追いご報告していきたい。
さて、いつも期待していないモーニングタイム。
どんな安いホテルに泊まってもモーニングはほとんど只(タダ・ロハ)で付く。
2?3種類の焼きたてパンに、オレンジジュース・ホット コーヒー・水・薄切りハムにチーズ・パックのバターにジャムは、最小限長いテーブルに並べられている。
おかわりは自由。値段の高いホテルに泊まれば、果物やケーキも付いていると聞く。
ご存知だと思うが一言。
たとえば、1泊60ユーロ(7800円)だとしても、こちらは1部屋60ユーロ。
二人で泊まれば1泊1人30ユーロ(3900円)だ。
旅は2人以上がお徳。日本の旅は、野老には残念無理、手が届かない旅である。
お一人様のお値段が高嶺の花だ。
食堂は広く泊り客は学生風の若い子(娘)が多い。この建物にはホテルの他、会議膣や研修室、ホールなどの施設が整っていた。
フロントは女性に代わっている。相棒が呼び止められ、2泊分の宿泊費を請求された。
当然、支払い後フロントの彼女に、〔折鶴〕が舞った。
「けいの豆日記ノート」
ホテルでなく、ホステルに泊まってみて、タクシーのスマホに情報がでないことが、わかったような気がした。
ホステルというのは、ユースホステルにのように、学生やバックパッカーなどが、割安で泊まれる簡易ホテルである。
トイレやシャワールームが共同であり、部屋も共同のことも多い。
個室もあるが少ないと思う。
広いリビングルームがあったり、キッチンも使えたりする。
いつもは、泊まらないのだが、今回は試しに、泊まってみようと思った。
周りのホテルが高すぎたためもある。
ホステルが「HI Hostel Parque das Nacoes - Pousada de Juventude」という長い名前で会議室やイベントなどができる施設らしい。
その施設を利用する人用の宿泊施設で、一般の人も泊まれるらしい。
なので、ホテルとしての名前の登録がスマホになかったのかもしれない。
タクシーに乗れば、どこでも行けると思い、地図を用意してなかったのが、反省点でもある。
《Wi-Fi》
ホテルから東に1kmほど歩く。
歩道は幅があり、白と黒の石塊でデザインされた石畳が商店街を飾る。
ショウウインドウも楽しめる。
パン屋、本屋、自転車店、Wi-Fiの文字が舞うipadの店、化粧品店、電化製品店、花屋、レストラン、カフェ、ファッション店など多彩な洒落た店ばかり。
見慣れた白い柱に白い波模様の屋根。国鉄の〔オリエンテ駅〕だ。
いつも駅舎として利用しているプラットホームからの視界の映像しか頭にない。
駅舎を出た北口広場からは、初めての眺めだった。
北口広場の周りは近代的高層ビルだらけ。野老は拍子抜けしていた。
ポルトガルに来て首都リスボンの近代化の姿を目(ま)の当たりにし、まじまじと見つめた。
リスボンには当然ながら〔二つの顔〕が同居していた。
駅舎に相棒が吸い込まれる。後を追う。迷子になったら、携帯をお互い持参していない。
無駄なお金は極力放出しないのが,何時もの旅の鉄則。持っていれば、便利だから使う。
ここは、日本ではない。後で請求書が届き、35万円も支払った仲間もいるらしい。
「桑原くわばら」である。
駅舎に入ると広い吹き抜け3階建てコンコース。
階下の広いスペースで、古本市が開催されている。
『どうする? 20分ほどで戻るけれど。明日の【ファーロ】行きの列車の切符を買って来る…脚を休めなよ。』と、優しい。
野老は甘えてコンコースの椅子で待つ。
Ipadを開けると、Wi-Fiを即キャッチ。
日本よりポルトガルの方が敏感で感度良好だった。
後で知ったが、リスボンの下町を走るあの路面電車の車中に[Wi-Fi]の大きな文字があった。
「けいの豆日記ノート」
オリエンテ駅やその前にあるショッピングセンターは、ポルトガルに行きだした頃に、行ったことがある。
新しい地域なので、その後は行かなくなった。
駅のホームは乗り換えなどで利用したが、国際公園まで足を伸ばす余裕がなかった。
今回、オリエンテ駅の近くに泊まったこともあり、国際公園を歩くことにした。
欧州最大級の海洋水族館も見てみたかった。
天気がいまいちだったが、ゴンドラに乗り、街並みを見ることができた。
《オリエンテ駅》
オリエンテ駅は、ポルトガルを旅する人にとっては大切な駅。
リスボンには覚えておきたい駅が4ヶ所ある。
その1・ 〔サンタ・アポローニア〕駅。
テージョ川沿いの【スペインからの国際列車】や【北の第二都市・ポルト】【学園都市・コインブラ】など北部からの長距離列車が発着。
都心の有名広場にも近い。
その2・ 〔オリエンテ〕駅。 国際公園の入り口にあり、メトロ(地下鉄)の同名駅と接続し、市内に入るのに便利。
南端のアフリカ大陸が目の前の中心地【ファーロ】や城壁に囲まれた【エヴォラ】などの発着駅。
その3・ 〔ロシオ〕駅。 王室の別荘【ケルース】やペーナ宮殿の【シントラ】。
その4・ 〔カイス・ド・ソドレ〕駅。 海水浴場【エストリル】や王室の避暑地【カスカイス】に発着。
「けいの豆日記ノート」
リスボンの地下鉄、バス、市電、ケーブルカー、エレベーターなどの交通機関に乗るためには、
まず、ヴィヴァ・ヴィアジン(VivaViagem)というチケットを0.5ユーロで購入する必要がある。
このチケットカードに券売機でチャージをして使うのである。
旅では、ほとんど24時間有効の乗り放題として使うことが多い。
1日でなく24時間ということが、ミソである。
夕方6時に使い始めたら、翌日の夕方6時まで使えるのである。
交通機関が乗り放題と観光施設が無料になるリスボンカードというのもあるが、料金が3倍ほど高くなるので、
計画的に使わないと損になるかもしれない。
初めてリスボン市民の憩いの場として呼ばれる〔国際公園〕に行ってみた。
1998年に「大洋、未来への遺産」をテーマに【リスボン万国博覧会】が開催。
テージョ川に面した広大な敷地内に水族館やパビリオンが残され、休日は散策やショッピングの家族が今も絶えないという。
20年前の〔万博〕跡地なんて行く気が知れぬと思ったが、今もなお大切に維持管理され、市民に愛されている公園だと、人々の多さが物語っていた。
野老はゴンドラに乗って、対岸まで伸びるヴァスコ・ダ・ガマ橋、全長18kmというその雄姿に感動していた。
・・・・・「調べてみた」・・・・・
◯ ロンドン [1851・5・1〜11・11] 国際博覧会の始まり。
◯ ニューヨーク [1853・7・14〜11・1] 米国初。
◯ パリ [1855・5・15〜11・15] 仏初。
◯ 大阪 [1970・5・15〜9・13] 人類の進歩。
◯ 沖縄 [1975・7・17〜1976・1・18] 海―その望ましい未来。
◯ 筑波 [1985・3・17〜9・16] 人間、居住、環境と科学技術。
◯ 大阪 [1990・4・1〜9・30] 花と緑と生活の係りを携え21世紀へ向けて潤いのある社会の創造を目指す。
◯ リスボン [1998・5・22〜9・30] 海洋―自然―技術。
◯ 愛知 [2005・3・25〜9・25] 自然の叡智。
日本がこれ程に「万博」に係り、報道の仕事で取材に行ったかを思い出す。
ただ一つ、愛知だけは取材に行っていない。
2001年9月から2004年まで毎年『ポルトガル撮影取材旅』を続け、なぜか愛知博は取材依頼があったが行けなかった。
でも、野老は首都リスボンでは、路面電車が1755年のリスボン大地震で生き残った古い家並みや歩行者すれすれに
ノロノロ走り抜けて行く風情や旅情が好きだった。
相棒の写真家はなぜ10回もポルトガルに通い詰めて来たか。
ポルトガルで出会う、ポルトガルの老若男女の日々の生活や仕事の仕草や顔が好きだった。
その姿を追い求め17年が過ぎていた。
●漢字に(・・・)と読みを容れていますが、読者の中に小・中学性の孫娘達がいますので了承ください。(野老)●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
今回から、2018年の旅の紀行文が始まりました。・・・・・・・今回分は2018年8月に掲載いたしました。
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