「ポー君の旅日記」 ☆ サンセットツアーが楽しいアルガルヴェ地方の首都ファーロ2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2018紀行文・3≫
=== 第2章●ファーロ起点の旅 === リスボンから急行列車に乗って3時間半のファーロは南国だった
《万事休すだ、お立ち会い》
5月19日(土)、3日目の朝も晴れ渡ったポルトガルブルーの空だった。
昨日のモーニングと寸分変わらぬ質素さを味わい、9時10分に宿を出た。
ガラゴロと石畳の石魂と大型旅行バックのコアが噛み合わぬ音を出し、相棒の写真家と野老は街路樹の栴檀(せんだん)の白紫の落下花弁を余儀なく踏みつけ、
昨朝下見しておいた国鉄の無人〔モスカヴィデ〕駅までの石畳坂道を登る。
1人4個の荷物には、意外と手こずる。その重さが、両肩と両手にくいこむ。
野老は、〔尻ともも〕の付け根に100mほどの坂道を歩くと激痛が走る老体だった。
その度(たび)ごと〔1回休み〕の60秒が必要である。
その〔1回休み〕の60秒は何よりの妙薬。
ピタリ、痛みが引き去るから不思議であった。
無人駅のプラットホームのベンチに座り、他のホームを通過する派手で賑やかな車体全体に描き浮き上がる広告塔列車を眺めていても、少しの驚きも起きない。
リスボン名物の路面電車が広告を車体いっぱいに背負い、恥じらう素振りもなく堂々として狭い路地を走り回る姿を知っている。
そりゃあ、最初に出会った時は、いささかこっちが顔を赤らめるほど驚いたものだ。
『あら、予定通り!』と写真家は嬉しそうに腰をあげる。
下見の効果は正直だ。土・日曜日の運行時刻は平日とは本数も違う。
素早く連携よく8つの荷物を車中にのせた。ひと駅だった。
南端の〔ファーロ〕に向かう〔オリエンテ〕駅で、忙(せわ)しく降りる。
そして、下車した5番線ホームから階段を使わず狭いエレベーターで地下道に降り、荷物共々小走り。
その時〔尻ともも〕に激痛が走る。
7番線ホームにのぼるエレベーターの扉を相棒が押さえて待つ。
最後の一踏ん張りで、激痛が止(や)まぬ身と荷を押し込む。
エレベーターが上り、止まる。
7番線プラットホームには〔ファーロ〕行き急行列車が待っていた。
荷物を転がして写真家が走る。
昨日買った〔ファーロ〕行き切符は全席指定だ。
その車両までが遠かった。
実際は1車輌先だったが、激痛に〔一回休み〕の60秒妙薬が使えぬ緊迫感である。
野老はもう「万事休す」だった。
もうなんとも尽くすべき方法がないのなら、せめてもの10秒間の〔一回休み〕を試(こころ)みた。
声を出して数える。
7まで数えた時、フワッと激痛が消えた。
大袈裟(おおげさ)に言えば奇跡だ。「走れメロス」の心境だった。
乗る車輌の前で『早く来て〜』と手招く相棒の姿に向かって、旅行バックを軽快に転がす野老がいた。
乗車に間に合う。車中は8割がたの乗客。
野老は若草色のカーテンに青いシートの窓辺席に座り息を整えた。
相棒がひとこと言った。
『下見効果抜群〜 宿からオリエンテ駅までのタクシーが助かった』と、嬉しそう。
10分遅れの、10時10分に出発。間もなくして、列車は1966年に開通した全長2277mの〔4月25日橋〕を渡る。
右手車窓に広いテージョ川が開け、眼下に〔ベレンの塔〕と〔発見のモニュメント〕がテージョ川に張り出し、その先の大西洋まで一望だ。
そして左手に高さ110mの巨大なキリスト像〔クリスト・レイ〕が車窓いっぱいに走り去った。
「けいの豆日記ノート」
ファーロまで列車にしようか、バスにしようか迷ったが、列車にすることにした。
チケットは前日に買ってある。
荷物を持っての乗り降りは、列車はけっこう大変である。
ホームから列車に乗る3段くらいの階段を大きな荷物を持ち上げなければならない。
下ろすにしてもたいへんである。
列車は長いので、指定された車両を探すのが一苦労である。
ホームで探せればいいのだが、列車がくるまで、どこにどの車両がくるのかわからないのである。
とても不親切だと思う。
停車時間が限られているので、ホームをゆっくり移動するわけにいかず、とりあえず、近場の車両に乗って、中で探しながら移動することになる。
狭い通路をガラガラひきながら、2両くらい移動した。
やっと指定された席を探したら、他の人が座っていて、チケットを見せると、もう1両先の車両であった。
車両の端にある荷物置き場にスーツケースを積んでやっと座れた。この移動がなければ、列車の旅は快適なのに・・・
《目覚めれば、ファーロ》
13時40分、〔ファーロ〕駅に太陽が燦々(さんさん)と降り注ぐプラットホームに我らは一人4個の荷物を確認しながら立ち尽くしていた。
リスボンから3時間30分。途中の駅や車窓風景は断片的に残っているが野老はほとんど記憶がなかった。
車内アナウンスで〔ファーロ〕着を知った。殆(ほとん)ど眠っていたことになる。
ポルトガルでは、改札口で切符を渡す習慣がない。
『ちょっとだけ、待ってて』と2つの荷物を置いてプラットホームの端にある白い建物casa de banho(カーザ ドウ バーニョ)に走った。
15年目の〔ファーロ〕だった。
2003年2月、まだフィルム時代の撮影取材旅だった。
その時は高速バスでリスボンの〔セッテ・リオス・バスターミナル〕から4時間ほどかかり、ターミナル近くの宿に泊まった記憶があり、
初めてコウノトリの巣と長い脚と長い嘴(くちばし)が赤く、広げた羽は真っ白でエッジが黒。
まるで鶴のようだと驚き感動した思い出しか浮かばない。
その時、野老63歳、若かった。
その前年、3000mほどの薬師岳に登る4人家族を3日間かけたドキュメントを撮った。
カメラマン、録音、照明に野老。下見もないぶつけ本番の3000m。
その場その場の状況判断で演出指示を出し、作品を構築していく。撮り残しは許されない。
撮りながら頭の中でナレーションを語り、何処で適切な声(インタビュー)を押さえるか。
父か、母か、中2の娘か、小5の娘か。現場判断で作品の品質が決まる。
雷鳥を発見すれば即、撮る。Upで撮るか娘越しに見るか。
現場は常に動き、生きている。そんなテレビ番組もやっていた。
15年の歳月の流れは相棒の写真家にとっては昨日のよう。
まるで警察犬、いやそれ以上の聡明な記憶力の持ち主だった。
頭の良し悪しの問題ではない。計算力と地図力と記憶力には、一目(いちもく)置いても勝てない。
当然、写真家に必要な先を読む洞察力、判断力も持ち合わせている。
その写真家は、用を済ませ駅前のタクシーを抑え、荷物番をしている野老のもとにごま塩頭の運転手をこさせた。
照りつける太陽光線は南国風だ。でも車窓から飛び込んでくる風はサラサラ、気持ちがいい。
街並みが車窓を飾るが何処を見ても野老には新鮮である。
ほとんど15年前の記憶が残っていない南国風「ファーロ」であった。
「けいの豆日記ノート」
ファーロは、コウノトリを初めて見た町である。
ポルトガルを訪れて3回目にして、はじめてコウノトリを見た。
ガイド本に、ひとことも書いてないコウノトリである。
それまで、ポルトガルにコウノトリがいることも知らなかったのである。
日本では、絶滅危惧種になっているコウノトリである。
ヨーロッパのコウノトリは、シュバシコウといい、純粋のコウノトリとは、少し違っている。
シュバシコウは、クチバシが赤いのが見た目の大きな特徴である。
ファーロでの、コウノトリの出会いは、建物の屋根の上に大きな鳥がとまっており動かないので、作り物かオブジェだと思っていた。
しばらく、見ていると少し動いた。それでも電動の機械仕立てだと思っていた。
そしたら、空を飛んだのである。
ここで、はじめて本物の鳥であることがわかった。
コウノトリであることを知り、ポルトガルに訪れる楽しみがひとつ増えたのである。
コウノトリは、幸福を運ぶ鳥といわれ、古くから大事にされてきたので、人間を恐れることがなく、町中に巣を作るのだと知った。
《ペンサオン アデライデ》
路地に入り真白い建物の前で停る。建物からの反射が眩(まばゆ)い。
相棒は6ユーロのタクシー代に〔折鶴〕を添える。
運転手の微笑みも南国風で明るい。
『荷物代も含め、10分も走って、6ユーロ。良心的で明るくて元気、イイね〜』とご機嫌。
ケチケチ精神全開である。
狭くて小さな、日本の4分に1の領土の〔ポルトガル〕。
四角く細長い上と右の2面が隣国スペインとの国境線、左と下が大西洋に抱かれた人口およそ1037万人の共和国だ。
〔ファーロ〕はその〔下〕の大西洋に接する南岸線地帯で、歴史の古い〔アルガルヴェ〕地方の5万人首都だ。
〔ファーロ空港〕は南ポルトガルの空の玄関口になっている。
〔ペンサオン アデライデ〕の玄関は、石畳の路地に面した小さな扉だ。
その扉の横にあるインターフォンを相棒が押す。
隠しカメラが我らを映し出す。一拍あってカチャと鍵がはずれる音がする。
厳重な三つ星ペンサオンだった。
入った広間に8つの荷を置き相棒が右手奥の部屋に入る。
社長室兼フロントだった。
2階の中庭に面した洗濯物が干せる部屋だった。
ここに5泊して〔ファーロ〕を中心に南端の大西洋沿いの街を訪ねる、写真家が計画した撮影取材旅が待っている。
「けいの豆日記ノート」
ファーロは、リゾート地の色が濃く、ホテルが多いが、値段も高い。
北ヨーロッパの人たちが、日光を求めて、ファーロを中心とするアルガルヴェ地方にやってくる。
ファーロには、飛行場もあり、ヨーロッパからは直通で来れるのである。
高いホテルが多い中、ネットで探し、ホテルよりランクが下のペンサオンにした。
モーニングがついてシャワーがついての45ユーロはファーロでは、格安の場所であると思う。
駅から、10分ほど歩くが、途中の町並みが見れるのでいいと思った。
部屋は建物の裏側なので、隣近所の屋根しか見えないが、小さなテラスがあり、洗濯物が乾きそうであった。
連泊するのは、洗濯をしたいからなので、干す場所があるのは、重要なことである。
《コカコーラの氷の音》
宿を出て右に歩くとジャカランダが咲く木がある広場。
周りには教会やレストラン、スーパーマーケットもある。
取り敢えず、ファーロ駅で明日からの取材先交通時刻を調べ、そのあと昼めしを食べないと腹ペコだ。
写真家は地図もないのにためらうことなくスタスタと歩く。
街中に建つ建物は〔リスボン〕や〔ポルト〕では見られない立ち住まいや色合が違う。
落ち着きがあるとかないとかではない。伝わってくる感性なのかも知れない。
白と黒の石塊で造形する石畳模様も幾何学模様ではない。
白地に黒い数字がまるで暗号文のような石畳になって街中を走る。
野老には癖になる、住んでみたくなる、と言った塩梅かも知れぬ。
マリーナが見え、右に折れるとファーロ1番の〔ホテル エヴァ〕。
その横を通り過ぎると〔バス ターミナル〕、更に歩くとさっき着いた国鉄〔ファーロ〕駅。
宿から駅まで来る間に〔一回休み〕の60秒タイムを5回以上したかも知れぬ。
30分を休み休みできたが辛いと思ったことはない。
初体験的風情が楽しく、100mごとに1回の激痛に見舞われたこともない。
坂道だとか、重い荷物を持って急ぐ時は激痛に襲われる。
駅舎に入って20分。
情報をいっぱい仕入れて、出て来て言った。『お腹、空(す)いたな〜〜』先に立ち、入って行った建物は四つ星〔ホテル エヴァ〕。
エレベーターで、5階のバルコニーだった。食事は高く食えないが、ここからの展望の写真が目的であった。
サグレス生ビールジョッキ3ユーロ、コカコーラ2.5ユーロだった。
生ビールが空(す)きっ腹に沁み渡る。さすがホテル、コーラに氷が浮いていた。
カラコロ氷の音を久し振りで聞いた。
「けいの豆日記ノート」
4つ星ホテルには、高くて泊まれないが、カフェくらいは、入りたいと思う。
宿泊料は、泊まるペンサオンの3〜4倍はする。
カフェに入り、少しリッチな気分を味わい、きれいなトイレも借りれるのがひと時の贅沢である。
カフェの料金も多少高いが、コーラに氷とレモンが入っているのがうれしい。
《ラグーン地帯》
バルコニーからの景観は1級品だった。
眼下のマリーナには整然と高級ヨットやモーターボートが100艘以上が並ぶ。
マリーナ左手広場は、町の中心地〔ドン・フランシスコ・ゴメス広場〕。
広場の真ん中に高さ15mのオベリクスが立つ。マリーナに面してヤシの木。南国ムードの散歩道。
マリーナ越に城壁に囲まれた旧市街地の入り口〔アルコ・ダ・ヴィラ〕の正面が見える。
この門に住むコウノトリにかつて出会う。そして右手一帯に見えるのは大西洋ではない。
〔ラグーン〕と呼ばれる浅瀬・砂浜・浅瀬・砂浜が幾重にも織り成し、やがて大西洋になり、その先はアフリカ大陸だ。
このラグーン地帯は鳥の楽園地帯でもあるのだ。
実は〔アルコ・ダ・ヴィラ〕から城壁に囲まれた旧市街地に入り、〔カテドラル〕も見た後、ラグーンを近場から見ようと
城門の1つ〔アルコ・ダ・ポルタ・ノヴァ〕から出たところで可愛いお嬢さんの勧誘を受け、
19時30分からのボートに乗っての[サンセットツアー]に参加(一人15ユーロ)を決めた。
相棒は決してケチではない。写真取材には、太っ腹であった。
「けいの豆日記ノート」
普通のホテルの場合、レストランやカフェはフロントの前にあることが多いが、このホテルは5階にあった。
5階ということは、実質6階ということである。
テラスのバルコニー半分だけがガラス張りになっていて、目の前のアリーナがよく見えた。
絶好のロケーションである。
マリーナ越しに旧市街地が見えて、大西洋の手前のラグーンも見えて、ここの1枚でファーロの代表作になると思う。
ホテルの外観をアリーナの向かい側からみると、客室には、テラスがあり、テーブルやチェアーが備え付けられている。
でも、テラスから外をみている人はいなかった。
《昼食兼夕食》
〔ファーロ〕の見どころは海沿いの城壁に囲まれた〔シダーデ・ヴェリャ〕と呼ばれる旧市街地だ。
北・東・西の3ヶ所に城門がある。
北の〔アルコ・ダ・ヴィラ〕「市の門」は、18世紀にドン・フランシスコ・ゴメス司教によって造られたイタリア様式。
この城門にコウノトリの巣があり、長い赤い嘴をカタカタ打ち鳴らす。
コウノトリは成長すると声帯が退化し声が出なくなるため、伝達は嘴で落ち鳴らす強弱や速さで会話しているようだ。
そのコウノトリの背後を低空で空港に着陸する飛行機が重なって見えた。
〔カテドラル〕は、13世紀の教会を1755年のリスボン大地震の後、18世紀に建て替えた「大聖堂」。
ゴシック、ルネッサンス、バロックなど様々な建築様式が楽しめ、17世紀のアズレージョ(装飾タイル画)が見ものだ。
マリーナ周りはレストランのステージだらけ。
その1つのレストランで昼食兼夕食にした。倒れそうなくらい腹が悲鳴をあげていた。
大きなチキン一人前(11ユーロ)、生ビール大ジョッキ(4.95ユーロ)、水(1.6ユーロ)、アイス(2ユーロ)、計19.55ユーロ。
ポテトフライもドッサリ。ここでのサンセットツアーまでの1時間半は、素敵なお食事タイムになった。
「けいの豆日記ノート」
サンセットツアーまでの待ち時間があったので、食事にすることにした。
マリーナ周りのオープンレストランは高そうであったが時間つぶしの為と、トイレのある場所にいたかったので、食べることにした。
パラソルがあって日陰になってはいるが、日に当たりたい人もいるようだ。
日射病になりそうだか、太陽の下にわざと座る人もいる。
オープンレストランなので、席の隣りギリギリを人が通る。
それを見ているだけでも、人間ウォッチングができていいと思う。
《サンセットツアー》
集合タイムの19時30分。まだまだ太陽は沈まない。
日没が遅いのでレストランは、日本的に言うと夜の9時でないとオープンしない。
もう、くたびれ果てた我らは眠る時間だった。いくつものツアー客はそれぞれの船に乗せられた。
我らを勧誘したお嬢さんは、ツワー客16人に20人乗りのモーターボートを用意してくれた。
それに案内人の若い男性がウイット豊富な演出を我らグループに提供してくれた。
20時30分、浅瀬の向こうの砂浜の向こうに丸い太陽が沈み始める。
ボートはスピードをあげ浅瀬を先の浅瀬に移動させた。
ツワー客は砂浜に降ろされ20mほど落日の太陽に向かって砂浜を進む。
大西洋に張り出した雲に、大きな太陽が落ちていく。
こんなに美しい光景は、野老が住む愛知県知多半島の新舞子海岸通りからの夕陽にはなかった。
雲間に沈んだ太陽がその雲間からまた顔を出し、丸く輝き出した。
そして、大西洋に沈んで行った。美しい夕焼けはその落日の後だった。
我らが乗るボートはもの凄いスピードで夕焼けの海を走り、いく筋もの波模様を描いてくれた。
その波の筋に夕焼けが幾重にも色変幻した。こんない美しい模様は人生初めての贈り物に思えた。
「けいの豆日記ノート」
サンセットツアーに参加することにした。
普通の遊覧船のようなボートツアーであったら乗らなかったと思うが、サンセットということで、夕日が見えるなら乗ろうと思った。
夕日は、見れそうで、なかなか見れない。
町中だと、丘や建物がじゃまになって夕日が見れない。
海のある町に行っても毎日、晴れて夕日になるわけなく、夕日沈む場所も変わる。
このサンセットツアーなら夕日のポイントに行けるので、しっかりと見れると思った。
ラグーンの向う側の大西洋にも行ってみたかった。
《宿に帰る道すがら》
狭い石畳の路地を街路灯が黄金色に染めていた。
21時にボートを降り帰路に着く。21時30分、ホテルに着いてインターホーンを押した。
カチャリと鍵が開く音がした。長い今日1日が無事過ごせた。
心に残る一日であった。天空の月は、日本的には、八日月の形に見えた。
●漢字に(・・・)と読みを容れていますが、読者の中に小・中学性の孫娘達がいますので了承ください。(野老)●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2018年10月に掲載いたしました。・・・・・・・
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