「ポー君の旅日記」 ☆ 大西洋の海岸&岸壁&洞窟ボートツアーのラーゴス2 ☆ 〔 文・杉澤理史 〕
≪2018紀行文・8≫
=== 第2章●ファーロ起点の旅 === 明るく賑やか楽しく美味い夢の楽園であった
《リゾート地帯アルガルヴェ地方》
ポルトガル共和国の南端〔アルガルヴェ〕地方は、現在人口30万人を越した大西洋に面したリゾート地帯。
そのリゾート地帯のそれぞれの港町は、各々の華々しい歴史を背負って生きて来ていた。この地に来て5日目になるが、
昨日まで巡って来た港町のリゾート地をざっと紹介しよう。
○ 1249年にアフォンソ3世によって再征服した〔ファーロ〕は、ポルトガルのイスラム勢力終焉の地となった港町。
〔アルガルヴェ〕地方の中心都市であり、〔リゾート地帯アルガルヴェ〕の空の玄関口の空港もある。
○ ポルトガル南端の西の端にある〔ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ〕は、隣国スペインとの国境の港町として賑わうリゾート地。
15年ぶりに再訪。街がそっくり新品になって隣国からの客も多い。素敵なマリーナも出来ていた。
○ その西の港町〔タヴィラ〕は、紀元前4世紀にギリシャ人に築かれ、ローマ人やムーア人が移住し、
15世紀にはポルトガルの重要な港町の役目を果たすリゾート地。
○ ユーラシア大陸最西南端の港町〔サグレス〕。
ヨーロッパ最西端の小国に過ぎなかったポルトガルが大西洋の大海原に乗り出し、インドやブラジル、はたまた黄金の国ジパング日本まで到達する大航海時代発端の場所でもある。
また、大波乗りサーファー達に人気のリゾート地。
中世ヨーロッパ人の常識を打ち破った15世紀の幕開け〔ポルトガル大航海時代〕を築き上げたのは、エンリケ航海王子。
その後、彼は第一線を退くと、大西洋と地中海がぶつかる〔サグレス岬〕に航海学校を作る。
数学者、天文学者、地理学者などを集め船長達の航海日誌を研究させ、操船が容易で、船足が早く、
逆風でも航海できる〔カラベル船〕を開発したのも〔エンリケ航海王子〕だった。
「1960年、エンリケ航海王子の500回忌を記念に造られた、首都リスボンのテージョ川にせり出した〔発見のモニュメント〕。
その帆船の先頭に立ち、〔カラベル船〕を手にしているのが、エンリケ航海王子だ。」
15世紀から始まった〔ポルトガル大航海時代〕に躍動した歴史的な港町が南端〔アルガルヴェ〕地方のリゾート地帯。その中心地〔ファーロ〕に滞在し、
南端地帯のリゾート地を巡(めぐ)って来たが、いよいよ明日はこの地から首都〔リスボン〕を通り越し、更に北にある第2都市〔ポルト〕まで乗車時間6時間ほどの、
鉄道大移動の旅が待っていた。
そんな、5月23日(水)の朝は晴れ渡っていた。
この〔ファーロ〕最後の1日を、どう有効な取材旅にするかモーニングタイムの7時50分、パンにハムとチーズを挟み込みガラケイ携帯愛好者の相棒は、
二人の孫娘の写真をタブレットで見ながら策を練る。
練ると言っても賢い写真家の脳裏には、綿密な計画プランが凝固しているはずだ。
18年も続けて来た〔ポルトガル撮影取材旅〕の立案者は、相棒の写真家。俺等(おいら)は、当時61歳のボディーガードマン役、否、荷物番同行者。
第1回目の〔ポルトガル撮影取材旅〕は2001年の9月であった。
ここでひと声張り上げて扇子をパラっと開き「あれから、18年??」と笑いを誘うのは綾小路さんだが、野老にはそんな芸はない。
でも一声せよ、と言うなら『あれから、18年?? 今じゃ?あ、かわゆい、79歳の野老(ヤロー)でござんす』。
「けいの豆日記ノート」
昨日は、ファーロから列車に乗り、サグレスとラーゴスに行った。
サグレスとラーゴスは方向が同じであり、1日で両方をまわれるかと思ったが、やはり無理があった。
サグレス行きのバスの本数が少なく、時間もかかった。
列車の乗り継ぎの待ち時間だけでは、ラーゴスの町をちゃんと見ることができない。
次に、この地に来るのは、いつになるかわからないし、これが最後かもしれない。
そう思うと、ラーゴスの町もしっかりと見ておきたかった。
なので、今日も、同じ列車に乗り、ラーゴスまで行くことにした。
《分岐点の駅》
〔アルガルヴェ〕地方最大のリゾート地〔ラーゴス〕に向かう。
モーニングタイムが終わったら、トイレタイム。必需品みたいなもの。できる時は、必ず済ませておきたい旅の鉄則。手を洗い、持ち物チェック。
9時02分発なら、8時20分には宿を出たい。が、相棒の姿なし。鍵を持ってフロントに下りると、食堂から何かを持って出てきた。
『明日の朝、6時30分出発のタクシー予約、頼んでおいて?!』と鍵を引ったくり、嬉々として階段を駆け上がっていく。
今朝のフロント嬢は、目元が可愛かった。頼まれた明朝のタクシー予約をする。〔ファーロ〕駅7時00分発〔ポルト〕行き特急列車。
切符は昨夕、買った。当日買いは怖い。もし満員だったら万事休す??
早め早めの手配が大切。それを、全てやってのけているのが、写真家だった。
常時の荷物番も、たまには偉そうに言ってみたい野老である。
9時02分の〔ラーゴス〕行きのローカル列車に乗る。二人席が両サイドに30列。空いてる二人席はない。そこそこの混みようである。
車中の掃除は行き届いているが、窓カラスはいつ掃除したのか疑うほどの汚れ。その汚れがこびりつき、車窓の景色が見えないほどだった。
1時間50分ほどの乗車時間、写真家は乗車まもなく、睡魔に溶け落ちる。
顔も落ち、ブルーの帽子だけが大きく見える。
特急列車が〔リスボン〕から来ると分岐点〔トウネス〕駅で降りる人は〔ラーゴス〕駅やバスに乗り換え〔サグレス〕方面へ行く人。
下車しない人は〔ファーロ〕方面に行く人。我らがさっき〔ファーロ〕駅で乗ったローカル列車は〔ラーゴス〕駅行きだ。
乗り換えずに済む。〔リスボン〕行きに乗った人は乗り換えないと〔ラーゴス〕駅へ行けない。
「けいの豆日記ノート」
長距離の列車やバスのチケットは、少なくとも、前日には買うことにしている。
シーズンではないので、満員で乗れないということは、ないとは思うが、乗る時間の確認の為にも必要である。
平日と休日や曜日によって時間が違うことがある。
1日に何本もあればいいのだが、数本、1本とかの場合、困ったことになる。
以前にこれを間違えて、当日乗れず、翌日になった苦い思い出がある。
せっかく、モーニングがついているのに、明日の出発が早いので、食べることができない。
もったいないが、列車がこの時間しかないので、仕方がない。
「明日の朝食が食べれないので、オレンジジュースをくれませんか?」
という文をグーグル翻訳をしたタブレットを見せた。
手持ちのボトルにジュースをもらうことができた。
部屋の冷蔵庫に入れておくことができるので、明日の列車の中の飲み物が確保できよかったと思う。
《青いライフジャケット》
10時50分、赤い肩掛け一眼レジタルカメラバックに青い縁長帽子が、新品〔ラーゴス〕駅舎から新しく敷き詰められた石畳に出て来る。
目の前に柳の木みたいにしな垂れた栴檀(せんだん)の枝は、多すぎるほどの白紫色の花を付け折れ曲がっていた。
青空に白い綿雲がいくつも浮いている。
その下の広大な〔マリーナ〕は、大西洋から流れこむ運河につながり、2m幅のカタカナの〔コの字〕型の木製桟橋が浮かび、
その中に3000艇ほどの大型帆船ヨットやクルザー、モーターボートなどがぎっしり碇泊している。
壮観なマリーナを囲む石畳の道は10m以上のヤシの木が均等に植えられ、正面はマリーナ関係者が使う店が長屋風に遙か先まで伸びている。
コ型桟橋の中は、いく筋もの小道のごとく直線に伸びた木製桟橋が走る。
その桟橋にそれぞれの船舶がつながる。理路整然だ。
マリーナを囲むヤシの木の下に、いくつもの赤い小屋が並ぶ。
船や藍色の海などの写真が貼られ、おばさんや若い女性達が呼び込み中だ。
『もう二度と来れないと思う、乗ってみようか』と、写真家。野老は船が好きだった。当然、大きく頷く。
1時間乗って、一人20ユーロ。タクシーより安かった。
時間待ちの出航かと思ったら、「アゴーラ?(今、でもいいか)」とおばさんに聞かれる。
『ジャ!(すぐ、でいい)』と応える。連れられ白い長屋風のおばさんの店に行く。
背の高い白い半ズボンに青い半袖、短髪に真っ黒に日焼けした凛々しい顔にサングラス、白いズック靴。
洒落た50代のナイスガイのご主人と娘達が迎えてくれた。
我らは即刻、青いライフジャケットを着せられた。普通はオレンジ色が多い。青色は洒落ていた。
ご主人のモーターボートで、しかも貸切で断崖絶壁を案内してくれるらしい。
きっと、さっき、娘さん達にあげた相棒が千代紙で折った〔折鶴〕が決め手だったようだ。
弾けて喜んでくれた娘さん達の笑顔は最高だった。
「けいの豆日記ノート」
マリーナの横の道は昨日も通った。
途中、ボートツアーの勧誘の声があちこちで聞こえたが、サグレス行きのバスターミナルに行かなければならないので素通りした。
14年前に来た時には、なかった光景である。
季節が冬であったので、ボートツアーの時期でなかったのかもしれない。
ツアー勧誘おばさんから、案内所のチケット売り場は、青い看板の店であると教えてもらう。
指さした方向にしばらく歩いてうろうろしていると、後ろからさっきの勧誘おばさんが追いかけてきた。
同じようなボートツアーの店が並んでいたので、目的の店を通り過ぎてしまったらしい。
《快適爽快5月晴れ》
500円腕時計は11時丁度。6人乗りモーターボートの前席に座った。
ナイスガイの声で振り向くと、右手でエンジンレバーを握り、左手の親指を突き上げた。
写真家も野老も左手はカメラ、右の掌(てのひら)を振る。
出発の合図だ。心が期待感で少年のように震える。ゴボゴボツと海水が鳴り、モーターボートがマリーナの通路をゆっくり滑る。
運河通路に出ると、写真家のカメラシャッターが鳴り出す。
昨日、運河に架かる橋を渡って〔サグレス〕行きバスターミナルに向かうその鼻っぱなを、橋の真ん中が盛り上がり通行を阻止された〔跳ね橋〕が眼前に迫っていた。
マリーナに出入りするポールの高い帆船(ヨット)通過時は、その度に跳ね上がる。
それが、観光客のお楽しみタイムだ。我らのモーターボートはすんなり〔跳ね橋〕の下を通過。
運河の吊り橋を渡った左手が〔ラーゴス〕の歴史的港町だ。運河の幅は40mほどか。正面から大西洋の海風が吹き寄せる。心地よかった。
右手運河沿いに白いテントが50m先まで伸びている。衣類を中心に生活小物の露天市場だ。
どのテントも観光客で溢れる。運河の流れも忙しい。
帰路して来るオレンジのライフジャケット中年6人衆のボートがすれ違いざま「ニッポン、チャチャチャ??」と手を振った。
バレーボールが好きな連中だと野老は決め『ありがとう??』と笑顔で叫んだ。
爺いでも、照れることはない。相手も爺いや婆アたち、一瞬が楽しさの勝負である。
〔跳ね橋〕から100mほどで運河を出ると、大西洋だ。
空はポルトガルブルー、波も静か。絶好の船旅日和だ。ナイスガイの腕も確か。運河を出ると右手の〔ラーゴス〕の街並みが見えなくなる。
海からそそり立つ露出した岩肌の色が昨日行った〔サグレス〕の断崖で見た岩肌と同じ色合いだ。
オレンジと黄金色の岩肌が照りつける太陽の日差しを受けて美しい。
海の色は碧、透明度は抜群。ナイスガイは、操縦も撮るポイントもプロだった。
写真家が撮りたいポイントを熟知し、美しい岩肌の50m以上もある断崖が何世紀にも渡って大西洋の荒波に浸食(しんしょく)され、くり抜かれた洞窟の中にボートを進める。
引き潮時を知ってのプロの行動だ。
夢のような世界だった。息を飲み呼吸を止めるほどの、美しさ。コバルトブルーの桃源郷であった。
大袈裟に言えば、宮崎駿監督の作品『紅の豚』の飛行士ポルコの秘密基地の、心踊るくり抜かれた断崖の中の桃源郷であった。
ナイスガイはサービス満点であった。
素潜りする漁師のもとにボートを操り近づき「友達だ。素潜り名人さ。」と、海中から顔を出した漁師を紹介した。針金に通した得物を見せてくれた。
大きな水蛸が4匹もいた。『オブリガーダ??』とカメラのファインダーから顔を上げ、漁師に大きな声で礼を言う。
漁師は海中から右手を出して振り、笑った。歯が1本もない、可愛い気な老人であった。
帰路、ナイスガイは好きな場所があるとエンジン全開で太陽で眩(まばゆ)い海面を滑らした。そして、ピタリ止まった場所は、一幅の絵だった。
ポルトガルブルーの空と高さ70mはあろうか黄金色の断崖の岩肌にしがみ付いた様に緑の木が生え、その3色が波静かな海面に映り込む。
その海面の色鮮(あざ)やかさは一級品の色合いであった。
そして、断崖の下の狭い砂浜に若草色や青いパラソルが散らばり海水着姿の人々が日光浴を楽しんでいた。
海辺で泳ぐ人もいる。
更に目を見開いた光景は、狭い砂浜から〔く〕の字型に曲がり頂上の先まで伸びている木造の階段だった。
300段は充分あろう。
頂上の奥にあるホテルの専用ビーチであり、専用階段だった。
リゾート地〔ラーゴス〕には他にも10カ所のマイビーチを持ったホテルがあると、ナイスガイは自慢たっぷり。
野老も一度は体験してリポートを書きたいと思う。ナイスガイの優しさプロの腕の確かさに感謝。
20ユーロ1時間の船旅は格安であった。
「けいの豆日記ノート」
ボートツアーは、貸切状態でラッキーであった。
前に人が座らないので、障害物なしで、写真が撮れるからである。
ボートの1番前なので、濡れないようにと、カメラを入れるためのビニールのバックを用意しておいた。
でも、波とか飛沫とか、かかるのかと思っていたら、ぜんぜんかからなかった。
日本の川下りのイメージがあったので、濡れないことが意外であった。
《アデガ・ダ・マリーナ》
〔マリーナ〕を出て、〔跳ね橋〕を渡った先に〔バスターミナル〕がある。
〔アルガルヴェ〕地方の西南端〔サグレス〕に行くには、バスターミナルから1時間ほどの、この地方で一番活気のないリゾート地の港町。
最近、大波が押し寄せることでサーファー好きに人気が出る。
〔跳ね橋〕からバスターミナル行く手前左側が、この地方一番の港町〔ラーゴス〕だ。
その入り口みたいな運河沿いに町一番大きく賑わうレストラン〔アデガ・ダ・マリーナ〕がある。
腕時計は、12時20分。
広い店内は向き合う長いテーブルが10列。その内の2列は観光客80人ほどで満席。満杯だと一度に400人は食事ができる。
息もつけない壮観だ。何時も圧倒されない相棒は二人席に案内され、即注文した。
『牛肉ランチ一皿(5.6ユーロ)に、サグレス生ビール1杯(2.5ユーロ)と水1本(1.1ユーロ)』計9.2ユーロ(1196円)が、二人の昼飯代だった。
我らの旅は一見するとケチケチ旅風であるが、さっきみたいに一人20ユーロの船旅はケチらない。
撮影経費はケチってはならない。それが心情だった。総じて帰国して清算するとツアー旅に比べれば、信じられないほどの額で収支している。
ところで、〔牛肉ランチ〕だが、牛肉の煮込みの分厚い切り身が8個に、豆入りライスが茶碗に1杯半分。
ポテトフライがマクドナルドでいえば大パックで3個分。よって一人前で充分なのである。
「けいの豆日記ノート」
運河沿いのレストランは、外から見るより、入ったほうがずっと広かった。
ツアー客も食事できるような施設なのだろう。
表の看板に書いてあったバカリュウ(干しタラ)ランチにしようと思い、ウェイターに伝えた。
すると、ウェイターは奥から料理前の魚を皿にのせて持ってきた。
「これでいいのか?」と確認してくれたのだ。
干しタラでないようだったので、他のを選んだ方がいいかなと思い、もうひとつのランチであった牛肉にした。
そうしたら、ウェイターはニッコリと笑ってOKサインを出したのである。
ポルトガルの味に慣れていない観光客には、牛肉のほうがお勧めであると思ったのかもしれない。
出てきた料理は、牛肉にフライドポテトがいっぱいで正解であった。
親切なウェイターだと思った。
《常設市場》
レストランからすぐに市場がある。魚介類売り場が賑やか。
目が真っ黒な生きのいい鰯。赤い口グロ。黒いタチウオに銀色のタチウオ。エイ。鱈の切身。墨で黒いイカ。力強いタコの吸盤。
シャケの太切り身。甘エビの山。丸々太った名も知らぬ海老。縞海老の山。鯛。どれも、新鮮で安い。
何個も食えそうな蟹の爪。マグロの分厚い切り身。色鮮やかな鯖。こっちで喰われると可哀想なぶっといウナギ。
輪切りしてオリーブでフライパンの上で焼かれる姿が忍びない。円形の中に売り手が2人。魚たちは円形の売場の仕切りの中で売られていく。
買い手は地元住民はもとより、長期滞在の観光客が多いらしい。
第二次大戦に参加しなかったポルトガル。
物価も安く、治安も良く、食材も豊富で、冬でも日差しがいっぱいで暖かいアルガルヴェは、リゾート地に最適であった。
北欧やヨーロッパの国々は、このポルトガル南端の〔アルガルヴェ〕地方の港町を大切な彼らのリゾート地として育ててきた節がある。
戦後70年、今やこの地帯は国際リゾート地として根付いた模様だ。
根底には、ポルトガルの人々の素朴で優しい人柄が決め手かもしれない、と野老は信じている。
「けいの豆日記ノート」
市場がだんだんなくなっていく中、このラーゴスの市場は健在であった。
1階の魚売り場は、活気があった。
山になったイワシをビニールの袋いっぱいに入れて、さらに数匹オマケしてくれる。
たくさんの店があっても、人気の店はあるもので、威勢のいい女性が客を引き付けていた。
2階の野菜、肉、雑貨売り場などは、閑散としていた。
やはり、郊外にある大型スーパーマーケットの影響が大きいのだろう。
《ザ・ストップ芸》
〔ラーゴス〕で一番賑やかな〔4月25日通り〕周辺は、毎日が休日だった。
お店も多いし、レストランもいっぱい、当然ながら芸人も多い。
狭い路地は半分が路上レストランで占領され、この日は5月23日の水曜日なのに、日曜日のような人出だ。
〔アルガルヴェ〕地方随一のリゾート地だと認識させられる。
「あっち」の路地からギターの弾き語り、「こっち」の隅からバイオリンの調べが流れ、「そっち」の角では〔ザ・ストップ〕芸人の忍耐芸だ。
銅像かと思ったら賽銭箱に小銭を落すと、「ニカツ」と笑ったり「お辞儀」をしたり「手招きして並んで」写真を撮ったりする。
北の第2都市〔ポルト〕の路上で、初めて〔ザ・ストップ〕像に出会い、なんでこんなところに像があるのか、いぶかって通り過ぎたことがある。
それが〔路上芸〕だと知るのに2日ほどかかる。同じ像が別の通りにあって気付く。
だから、その芸の本当の名を未だ知らない。〔ザ・ストップ〕は恥ずかしながら、野老が名付けた名前だ。
「けいの豆日記ノート」
人が集まる所には、必ずと言っていいほど、「なんちゃって銅像」がある。
はじめは、びっくりしたが、あちこちで出会うと慣れてくる。
服や顔のペイントの技術には、すごいものがある。
それにもまして、ずっと同じ格好でじっとしているのは、もっとすごいと思う。
立っているだけで、お金がもらえる簡単な仕事ではないのである。
写真を撮ったお礼に、財布の中の1ユーロ以下の小銭を集めてあげるようにしている。
そうすれば、動いてお礼のポーズに変わることができる。
「なんちゃて銅像」はどうどうと動けるのである。
《サンタ・マリア教会》
運河が大西洋に出るすぐそば当たりに〔サンタ・マリア教会〕がある。
エンリケ航海王子が埋葬されていた教会だ。
かつて、エンリケ航海王子は若くして〔ラーゴス〕に住み〔アルガルヴェ〕地方の知事として赴任し、
この地で〔ポルトガル大航海時代〕の基盤となる構想とその下準備の行動を起こしていたらしい。
現在、遺体は1983年に世界遺産になった〔バターリャの修道院〕に移されている。
〔ラーゴス〕は1573年から183年間、〔アルガルヴェ〕地方の首都だった。
ここにある〔エンリケ航海王子〕像は1960年に没後500周年を記念して作られたものという。
リスボンの世界遺産〔ジェロニモス修道院〕に並ぶ〔海洋博物館〕に置かれてある像と「ソックリ」と言われているが、
手元にある写真家が撮った2つを比べてみても、確かに「そっくり」であった。
〔ラーゴス〕は、かつてはフェニキア人やギリシャ人が造った港町で、ローマ人が支配し、イスラム人が支配した頃には城壁に囲まれていた。
現在でも旧市街の周辺に立派な城塞が残っていた。また運河に沿って幅広い石畳の遊歩道も残っている。
旧市街を出たところに〔バンデイラ岬要塞〕がある。
運河が切れ大西洋に出る当たりだ。17世紀に〔ラーゴス〕の港を守るために築いた要塞であった。
帰りがけカフェで一休み。サグレス生ビール(1.6ユーロ)、ガラオン(1.5ユーロ)、いちごアイス(2ユーロ)。
目の前の芸人広場みたいな〔ルイス・デ・カモンエス〕広場では、様々なパホーマンスで人々の心をわしづかみだ。
ソフトボールほどの魔法の透明ガラス玉を身体中を転がす繊細な技芸人、ギター流しの演歌歌手、アコーデオンと子犬の典型的なお涙頂戴芸などあって、
最後に登場したのがシャボン玉芸の中年女性。
一振りで子供たちの心を躍らせたドデカイ・シャボンが運河からの海風に乗って飛んでいく。
彼女が振り下ろす弓輪の円から大きなシャボン玉が空中にいくつも虹色に輝いてふわふわ飛んでいく。
その美しさはまさに、子供達の夢を乗せたシャボン玉ホリデイーであった。
●漢字に(・・・)と読みを容れていますが、読者の中に小・中学性の孫娘達がいますので了承ください。(野老)●
*「地球の歩き方」参照*
終わりまで、ポルトガル旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。
・・・・・・・今回分は2019年3月に掲載いたしました。・・・・・・・
|